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二千円札普及を邪魔しているのは一体誰?

 二千円札って、このまま無くなってしまうのでしょうか。……というか、もう無くなっちゃったのでしょうか?
 発行からはや3年。未だにつり銭で受け取ったこともなければもちろん使ったこともありません。
 紙幣って、好き嫌い関係なく使われるものなので、普及させるもさせないも、国のさじ加減ひとつだと思うのだけれど、なんで国はもっとじゃんじゃん二千円札を刷らないのだろう?
 いつの間にか新500円硬貨は普通に使われるようになったし、夏目漱石や福沢諭吉や新渡戸稲造だって結構短い期間で伊藤博文と聖徳太子を駆逐したように思う。
 二千円札普及を邪魔しているのは一体誰?
 国民の財布に、千円札並みにとまで言わないけれど、五千円札並みに普及すれば、自動販売機なども次第に対応していくだろうし、毎日使えば馴染みも出てくると思うのだけれど……。

 と書いていた矢先、お釣りで二千円札をもらってしまいました。
 ホームセンターで一万円を出したら、何のためらいもなくレジのおばちゃんは二千円札でお釣りをくれました。
 僕にとって、二千円札を受け取るのはちょっとしたイベントでした。恋人にふられたほどのイベントではないにせよ、「学級閉鎖」くらいのインパクトは間違いなくありました。それに僕の中では、二千円札って「出来の悪い末の弟」みたいなイメージがあったので、それが渡されるとき、「二千円札でいい?」という確認や、「二千円札でごめんね」というような断りがあるのかと勝手に思っていました。
 だからそのおばちゃんが、まるで当たり前のように(いや、当たり前のようにするのが当たり前なんだけれど)無表情に二千円札を差し出したのはちょっと期待はずれというか、この瞬間、もっと盛り上がりたかったなぁと、変な残念感がしばらく僕から離れませんでした。
 まじまじと見る二千円札は、伊藤博文の旧千円札をなんとなく髣髴とさせ、古臭い感じがしました。
 これ使うの、ちょっと恥ずかしいなぁ。
 実際に二千円札を手にして、僕の疑問はさらに大きなものになりました。
 結局二千円札って、手にした人の多くは違和感を感じ、早く財布からなくしたい、という心理になるのではないかと思うのです。財布に入っているだけで、「あぁ、この二千円札をどこで使おう」と考えちゃうかもしれない。千円札が財布に入っていてそんなことを考える人はいませんが、二千円札にはまだまだ、庶民を一瞬考えさせる力がある。
 アンケートの謝礼などで図書券をもらうことがありますが、図書券を財布に入れていると、「図書券あるけど、どんな本を買おう?」って考えてしまうし、なぜかはやく使ってしまわないと落ち着かない。二千円札もそれと似たような感覚だと思う。
 だから二千円札が財布に入っている期間って、千円札よりもずっと短いと思うのです。ガムひとつ買うのでも、僕なら二千円札を使って、一刻でも早くこのおもちゃみたいな紙幣を現金化しようとするでしょう。(いや、もちろん二千円札も現金なんですけどね)
 スーパーのレジの人も同じで、二千円札をストックするスペースってレジにはないんじゃないかな。おそらく、千円札の上かなんかにおいておいて、お釣りで二千円札を渡せるチャンスには積極的にそれを使っているのではないかと。
 つまり二千円札って、千円札よりもずっと少量にもかかわらず、お金の動きはずっと速いと思うのです。それにもかかわらず、発行から3年経っても未だに受け取ったことがない人がいるのって何故なんだろう?
 改めて思いました。
 二千円札普及を邪魔しているのは一体誰?
 もしかして、「七ならべ」で6と8をとめている人?

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