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選択肢のない幸せ

 「絹」とか「こし」というのは、人を悩ませますね。
 写真を現像しに行って、「光沢」と「絹目」という選択肢を提示されると、必要以上に悩んでしまいます。
 そんな選択肢がなければ、光沢で仕上がってきても、絹目で仕上がってきても何も感じないと思うのだけれど、選択肢を提示されるだけで、どちらが良いか考えなければいけないし、その選択に、必要のない責任感を覚え始めます。実際に写真が出来上がってきた後も、本当は光沢にするべきだったんじゃないか、などと考えてしまいます。
 和菓子を買いに行って、「つぶあん」と「こしあん」を選べるときにも、悩みます。誰かがお土産でお饅頭をくれて、それがつぶあんでもこしあんでもどっちでも良いのですが、いざ、自分で選択できるとなると、自分はどちらが好きなのか、行動で示さなければなりません。
 豆腐を買いに行って、「木綿」と「絹ごし」が並んでいるときも、やはり悩みます。料理に詳しければ、この場合は木綿、などと自動的に決められるのかもしれませんが、例えば子供の頃、親からおつかいを頼まれて、豆腐売り場で初めてそんな選択肢があることを知ったときには、どちらでも良いのか、間違った方を買ってしまうと怒られるのか、怒られないまでも「本当はあっちが良かったけれど、こっちでもいいわ」的な、感謝が取り消されるような結果になるのか、豆腐の前で途方に暮れてしまいました。
 もちろん、写真が趣味の人や、和菓子が好きな人や、料理が得意な人は、悩まないだろうし、そういった選択肢がないと困るのかもしれません。
 でも、そうでない人にとっては、こういった強制的な選択肢は、適当にすませられる人もいるでしょうが、苦痛な人も多いのではないかと思う。
 それこそ極端に言えば、全く何も知らないし、興味もないのに、今すぐ、テレビ中継で全世界に向けて、自分は「パナマ運河」が好きなのか、それとも「スエズ運河」が好きなのかを発表しなければならないような、そんな気持ちになるのです。

 選択する側も苦痛でしょうが、選択させる側も、同じ様に苦痛な場合もありますね。
 例えば、電気製品に詳しくない人に、「テレビを買いたい」と相談されて、液晶とプラズマの違いを説明するときなんかもそうです。「どっちがいいの?」って聞かれても、一長一短ですから、違いを説明して、どちらかを選んでもらう必要があります。そしてその重要な選択が、自分のつたない説明だけにかかっていると思うと、ヒヤヒヤします。「液晶は残像が気になる場合がある」とか、「プラズマは画面が焼けることがある」とか説明したところで、その意味を正確に相手が理解できるとは限りません。
 そして、自分がその選択に立ち会ったが故、その後も変な責任を背負わされる可能性があります。いや、もちろん、そんな必要はないのだけれど、自分の説明の結果、液晶テレビを買った人が、「やっぱりスポーツを見ると残像があるね」なんて、責めているわけでもなく、ボソッと言ったとしたら、やはり、責任を感じてしまう。
 選択肢がある、というのは、自由だし、幸せなことだと思いますが、もしかしたら、選択肢がない方がずっと自由だし、幸せなこともあるのかもしれないと思います。

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