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ひとりごと


(日記才人に参加しています)

<2003-2-28>
 「3つ数えると目が覚めます」
 今日、僕が言いたいことはそういうことです。
 3つ数えると何故目が覚めるのか? 果たしてこれは暗示なのか、それとも協力なのか?
 催眠誘導の際、「目がだんだん閉じていきますよ」という暗示を与えても、意地を張るようにずっと目を開けている方がいらっしゃいます。「目は全然勝手に閉じてこないし、勝手に閉じてこないのなら催眠に入っていないのだから目を閉じるべきではない」、と考えているのだと思う。
 そんな場合は、「じゃあゆっくり目を閉じて下さい」とお願いします。すると、目を閉じてくれます。これは暗示ではなく、協力ですね。
 でも、一通り誘導した後、「3つ数えると目が覚めます」という言葉には、100%の人がその通りになります。僕は決して、「3つ数えたら目を開けて下さい」とお願いしているわけではありません。言葉だけを見ると、これは「目がだんだん閉じていきますよ」と同じ、暗示なのです。「あなたの意思とは関係なくそうなってしまいますよ」という意味です。もし目が覚めないならば、そのまま閉じていてもいいわけです。でもそんな風に抵抗される方は一人もいらっしゃいません。目を閉じることには抵抗があっても、目を開けることには抵抗はないようです。
 暗示、というのは英語では [suggestion] と言います。直訳すると、「提案」というようなニュアンスです。催眠状態では、意識が通常とは違う「変性意識状態」になっていますので、覚醒時には抵抗のある「目が閉じていく」というような提案も、無意識が受け入れて目を閉じてしまうのです。
 暗示は何も、催眠状態でなければ反応しない、というものではありません。日常生活は暗示であふれていますし、言い方を変えれば、コミュニケーションというのは暗示のかけあいのことなのです。
 催眠状態に入れなかった、とおっしゃる方も、3つ数えれば目を覚まします。
 相手に受け入れて欲しい暗示を、心が受け入れやすいようにオブラートに包んでしまうことができれば、もう催眠誘導なんて面倒なプロセスは必要がなくなるのかもしれません。

<2003-2-27>
 今週、数人の方からほとんど同じ悩みについての相談を受けました。
 「恋人(友達)をひどく傷つけてしまい、自分との距離が開いてしまった。催眠で相手の心の中のその記憶を消し、元の関係に戻れないだろうか?」という感じの悩みです。
 その相手を僕のところに連れてきてくれて、相手が催眠に入ることを了承し、また、記憶の一部を思い出せなくすることにも了承してくれるなら、催眠でなんとかすることも不可能ではありません。しかし気まずい関係の相手からいきなりそんなことを言われて、了承する人はいないと思います。
 催眠というのは魔法ではないので、柱の影から力を送って催眠状態に入れることはできません。中には、瞬間催眠と呼ばれる手法を使って、相手に催眠を意識させずに深く入れてしまう人もいるらしいですが、それは相当な技術だと思いますし、それでも100%の人を催眠状態に入れられるわけではないのです。
 そんなつもりがなかったのに大切な人を深く傷つけてしまった、その気持ち、辛さはよく判ります。そうせずにはいられなかった事情もきっとあることでしょう。
 相手は未だに傷ついているし、自分も相手ともう一度以前のような関係に戻りたい。そのためだったらどんなことでもする……。
 相談された方は多かれ少なかれ、そのように思っていらっしゃいました。そしてみなさん、「時間がない」という焦りを感じていらっしゃいました。
 非常に残念ですが、過去を消す消しゴムってないんですよね。こちらにもっともな理由があろうがなかろうが、相手の心は現実的に傷つき、血が流れたのです。でもいずれその血は止まり、カサブタができるでしょう。そして長い時間を経て、そのカサブタがきれいに取れる日が、いつか来るかもしれません。
 僕たちにできることって、祈るような気持ちで、それを待つことだけだと思うのです。
 「相手の気持ちを少しでも癒したい」と中途半端に近づくことは、せっかく固まりかけていたカサブタを無理にはがしてしまうことにもなりかねません。そんなことをしたら、また血が流れ、いつまでたっても傷は癒えません。
 相手が離れて行ってしまった場合、求められているのは完全な沈黙だと思う。どんなに反省しようが、償おうという気になろうが、残念ながら、もう相手に対してできることは何もないんです。その現実を受け入れなくてはいけないと思うし、相手の望むとおりに距離をあけることが、結局は一番の近道なのだと思うのです。
 元の関係に戻れるならば何でもする!、と思っているのであれば、最低でも1年間、相手の方をそっとしてあげて下さい。その1年間がもしかしたら、二人の関係に完璧なとどめを刺してしまうかもしれない。でもそれは仕方のないことです。それだけのことをしてしまったのだから。
 相手から離れる……、これは最後に一つだけ残された「かけ」なのです。どうしようもなく相手を傷つけてしまったのと同じように、相手もどうしようもなく今は離れたい気持ちなのだから、それに従うしかないと思うのです。
 うまくいけば1年後、傷は癒え、二人の関係は新しくはじまるでしょう。
 「でも時間がないんです!」
 いえいえ、時間はいくらでもありますよ。そのタイムリミットを決めてしまったのは誰なのか、考えてみて下さい。
 傷が大きければ大きいほど、カサブタが取れるまで時間が必要です。こちらの事情でその時間を短くすることはできないのです。
 この相談にはふたつの側面があります。相手の傷を癒したい、ということと、相手との関係を戻したい、ということです。おそらく前者は理性が抱えている悩み、後者は無意識が抱えている悩みだと思う。でもこのふたつ、実はぴったりくっついているんです。
 もし傷つけてしまった相手と関係を戻したくなければ、「相手の傷を癒したい」とは思わないかもしれません。本人にとって問題なのは、相手の傷が癒えるかどうかではなく、ふたりの関係が戻るかどうか、なのだと思うのです。でも相手にとって重要なのは、明らかに関係が戻ることではなく、傷が癒えることなんですね。
 このギャップに気がつくことができれば、自ずとどうすればよいのかが解ると思います。もしかしたら、もう自分には何もできることはない、というのが答えだという可能性も十分にあります。
 僕たちは毎日の生活でたくさんの間違いを犯します。そして多分、その多くは、自分が意図していなかった間違いだろうし、良かれと思ってしてしまった間違いだと思う。
 しかし間違いは間違い。その種から育った実は、自分で刈り取らなくてはいけないのです。現実を受け止めなくてはいけないのです。
 間違いを犯さないように注意しながら生きていても、ちゃんとそれはどこかで待ち構えていて、誰かとの関係を切り裂いてしまうでしょう。でも「自分は確かにそのときの最善を尽くした」と思えるのと思えないのでは、やはり気持ちの上では全然違うんですよね。
 村上春樹の「ダンスダンスダンス」という小説に、このようなくだりがあります。
 ユキという中学生の女の子が出てくるのですが、彼女は母親(カメラマン)のアシスタントであるディックノースという詩人のことが好きではありません。「どうしようもない馬鹿だ」と思っているし、日頃から実際にひどく冷たく接しています。
 ある日、ディックノースは車に跳ねられてあっけなく死んでしまいます。ディックノースの死に直面し、ユキは「自分がひどいことをしたような気がする」という言葉を漏らします。それを聞いた主人公の「僕」は、溜息をつき、彼女の顔を見てこんな風に言います。

「そういう考え方は本当に下らないと僕は思う」と僕は言った。「後悔するくらいなら君ははじめからきちんと公平に彼に接しておくべきだったんだ。少なくとも公平になろうという努力くらいはするべきだったんだ。でも君はそうしなかった。だから君には後悔する資格はない。全然ない」
 ユキは目を細めて僕の顔を見た。
「僕の言い方はきつすぎるかもしれない。でも僕は他の人間にはともかく、君にだけはそういう下らない考え方をしてほしくないんだ。ねえ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ。身につかない。君はディック・ノースに対して後悔する。そして後悔していると言う。本当にしているんだろうと思う。でももし僕がディック・ノースだったら、僕は君にそんな風に簡単に後悔なんかしてほしくない。口に出して『酷いことをした』なんて他人に言ってほしくないと思う。それは礼儀の問題であり、節度の問題なんだ。君はそれを学ぶべきだ」
(中略)
「いったい私はどうすればいいのかしら?」と少しあとでユキは言った。
「何もしなくて言い」と僕は言った。「言葉にならないものを大事にすればいいんだ。それが死者に対する礼儀だ。時間が経てばいろんなことがわかるよ。残るべきものは残るし、残らないものは残らない。時間が多くの部分を解決してくれる。時間が解決できないことを君が解決するんだ。僕の言うことは難しすぎる?」

<2003-2-26>
 先日放送されたマイケルジャクソンの特番は面白かったです。
 「一番好きなのは木登りと水風船合戦」と言い切るマイケル。どこまでがピーターパンマイケルで、どこからがキラーマイケルなのか、上質なインチキを見せられているようで、食い入るような2時間でした。
 アメリカでは放映後、マイケルに対する非難の声があがり、それに対してマイケル側は反論番組を放送したそうです。
 この番組はマイケルの素顔を暴くことが目的だったと思います。その意図はよく判るのですが、「44歳の大人が子供とベッドに入るというのは傍から見るとおかしなことじゃないか?」といった攻撃的なインタビューは、見ていて気分のいいものではありませんでした。聞くならもっとストレートに「子供と寝るのは性行為が目的なのか?」と問いただせばいいと思う。こういった隠喩的な聞き方は、彼からも見ている側からも反論の余地をすべて奪ってしまうので、ちょっと卑怯じゃないかな。
 整形疑惑にしても、誰の目にも整形は明らかなんだから、もう放っておいてあげればいいのに。彼のプライベートを暴くことにどれだけ意味があるのか、インタビュアーの情熱が理解できませんでした。
 子供の心をずっと持っているのってとても大切なことだと思います。番組では何度も、44歳の大人がすることではない、奇妙だ、と言っていましたが、もしマイケルが本当に子供の心を維持しているのなら、それはそれですごいことです。
 でも画面の中ではしゃぐマイケルは、僕は子供には見えなかった。子供に戻れば幸せになれるんじゃないかって、44歳の大人が必死にそれを試しているだけに見えました。
 僕はマイケルジャクソンの音楽なんてほとんど聴いたことないし、好きでもないですが、アーティストに本物とニセモノがいるとしたら、明らかにこの人は本物だと思う。本物のクルクルです。

<2003-2-23>
 
昔友達が、「オレの夢は、いつかドミノピザを一人で注文して、一人で全部食べることだ」と真顔で言っていました。
 そういう夢は、どんどん実行に移して叶えるべきだと思います。

<2003-2-22>
 
昨日久しぶりに本屋へ行きました。
 最近Amazonで本を買うことが多かったので、平積みになった流行の本を見ると、とても新鮮な思いがしました。最近こんな本が売れているんだなぁって。

<2003-2-19>
 昨年の秋から読み始めた司馬遼太郎の「翔ぶが如く」(全10巻)を、昨日やっと読み終わりました。
 途中で何度も催眠関連の本に浮気したり、このまま読むのやめようかなと思いましたが、西南戦争がはじまってからは結構いいペースで読み進むことができました。
 でも、正直、あまり面白くなかったです。「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」を先に読んでいたので、同じような面白さを期待していたのですが、「司馬先生、どうしちゃったの?」っていうくらい筆に勢いがなく、話は一向に進まず、登場人物も「今後重要な役割になるんだろうな」と匂わせるだけでそのまま消えてしまったりして、読みにくかったです。
 「解説」を読むと、「竜馬がゆく」は大衆小説であるのに対し、「翔ぶが如く」は歴史小説であり……、みたいなことが書いてありましたが、その捕らえ方もひどくナンセンス。面白くないことの言い訳にしかきこえません。
 さて、次は何を読もうかな。

<2003-2-18>
 先日放送されたアリーに、フレンズのチャンドラーが出てきてビックリしました。
 しかし今シーズンのアリーは、ストーリーの迷走ぶりがすさまじいですね。大して活躍しないままふたりの新レギュラーは姿を消してしまったし(これは正解だと思います)、何故かレイモンドとクレアがレギュラーになっちゃったし。
 ジョンはこの前帰ってきたけれど、毎週出なくなったのも意味が判らない。一番必要なキャラなのに……。ビクターは絵に描いたようないい人でちょっと気持ち悪い。
 むしろ、レイモンドを雇うのではなくて、チャンドラーを新レギュラーにした方が面白いんじゃないかな。……って、これからそうなるのかもしれないけど。
 なんかアメリカのドラマって無鉄砲すぎますね。ハーシュレルムもダークエンジェルも話の途中で終わってしまったけど、こういうの、日本のドラマじゃ考えられません。Xファイルはがんばっていますが、結局モルダーは途中から出なくなってしまいました。アリーでジョンが出なくなったのも、ストーリー上不可欠だからというよりも、役者と監督の間の問題のような気がします。
 それがアメリカの自由?

<2003-2-16>
 出川哲郎、嫌いじゃないんですよね。

<2003-2-15>
 先日ここに書いた花粉症の話ですが、実際に花粉症の方を誘導する機会がありました。
 その結果、見事、鼻は止まり、目の痒さもなくなりました!
 ……が、その効力も数時間で切れてしまって、完全に解決までは行きませんでした。
 暗示が長続きしないのは承知済みですが、その人の被暗示性や催眠の深さによっては、催眠で花粉症の症状を(少なくとも1シーズンくらいは)抑えることもできるのではないかという気になっています。
 暗示の仕方を研究してみよっと。

<2003-2-14>
 今週末からプロレス・格闘技の興行が続きます。15日は田村のU-STYLE旗揚げ興行、16日は新日本プロレス両国大会、23日は全日本プロレス武道館大会、3月1日は長州力のWJプロレス旗揚げ興行と、ノア武道館大会、3月2日はZERO-ONE両国大会、3月16日はPRIDE25……。
 これだけ大きな大会が1ヶ月の間に集中するのも珍しい気がします。ノアと新日は地上波で放送されるのでリアルタイムでは観ませんが、残りの興行はどれもすてがたい。スカパーのPPVで全部観ちゃおうかな。

<2003-2-11>
 笑う犬に出ているベッキー、なんか苦手です。

<2003-2-9>
 昨年テレビ朝日で放映されていた「ダークエンジェル」。セカンドシーズンの途中で放送が終わってしまってものすごく後味が悪かったので、今日、思い切って残りのエピソードをすべてビデオ屋で借りてきました。
 早速いくつか観ましたが、やっぱり面白い。観終わった後、完全に観る前と同じ空間に戻ってこられるところがとても気持ちいいです。僕、映画やドラマって、基本的には大衆娯楽であるべきだと思っているんですよね。なんというか、芸術よりも、完成された商品であるべきだと思うんです。
 もちろん、感動したり、考えさせられたりする映画やドラマも好きですが、「ダークエンジェル」のように、ただ観ている時間を楽しめて、テレビのスイッチを切ると再び自分の日常に戻れる作品というのは偉大だと思います。いい意味で、頭に何も残らない。だけど観ることによってストレスが発散できる。
 もっと若い頃って、やたら感動できる映画を求めていたけれど、最近はそういうの苦手。何でわざわざお金出して悲しい話を観なくちゃいけないのかって思っちゃう。(^^;;
 8本も借りちゃったんだけれど、一週間で全部観られるかな。

<2003-2-8>
 久々にプロレスの話でも……。
 僕は三沢たちが全日をやめる前は、全日オンリーなプロレスファンでした。たまには新日も観たし、小川対橋本などはものすごく興奮したりもしましたが、それでも、全日の安定感はとても好きでした。
 全日から選手が大量離脱してノアができてから、何故かノアは好きになれませんでした。川田と渕に特別思い入れがあったわけでもなく、メンバーは一緒なのだからノアを好きになっても良かったのだけれど、ノアで行われる試合を面白いとは思えませんでした。
 理由をいろいろ考えると、例えば全日の外人(特にジョニースミス)がノアに来なかったこと、ワイルド2や小川良成が大嫌いなのにノアでは優遇されていること、などが考えられますが、もしかしたら、ネット上の「ノアオタ」と呼ばれる人たちの言動が気持ち悪いから、ついでにノアも嫌いになってしまった、というのが一番の理由かもしれません。
 で、今はゼロチューです。
 これほどプロレスに面白さを感じているのは、福澤アナが全日の中継をやっていて、三沢がテリーゴディを倒すか倒さないかくらいの時期以来だと思います。
 3月2日は両国大会。噂では、すごいことが起こるらしい……。今から楽しみです!
 なんでプロレスの話を書きたかったかというと、今でも惰性で(笑)ノアと新日はビデオにとって早送りで観ていますが、星野総裁の魔界倶楽部、あれ、皆さんのれますか? 僕は無理。新日もいよいよ終わりだなぁって思う。
 三銃士で蝶野だけが新日に残りましたが、蝶野じゃダメですね。三人の中で一番華がないし、第一ケンカキックとSTF以外技がないのも痛すぎる。
 そうそう、長州のWJプロレス、あれもダメだと思うなぁ。長州とか健介とか越中とか、今更見たくないもの。
 ZERO-ONEがつまらなくなったときが、僕がプロレスを卒業するときなのかもしれません。 

<2003-2-7>
 そろそろ花粉の季節ですね。
 僕は花粉症ではないのですが、周りには花粉症の人が結構多いです。
 NLPの本を読んでいたところ、「催眠は不随意的な体の反応には有効」みたいなことが書いてありました。……ってことは、花粉症も催眠暗示で抑えることができるのかな?
 花粉症の方、どなたか試してみませんか? (^^)

<2003-2-2>
 「特命リサーチ」、みなさんご覧になりましたか?
 ほぼ、僕が本で読んだのと同じ内容だったのですが、このような怪しげな番組構成だと、いよいよ催眠が誤解されてしまうのではないかなぁと、見ていてドキドキしてしまいました。なんか、身内の恥をさらされた気分というか。(^^;;
 このケースは番組でも言っていた通り、本当に特殊なケースだと思います。この事件をして、催眠で犯罪が犯せる、というのは早計に過ぎます。7年も催眠で暗示を与え続けられると、催眠というよりは、洗脳に近いものがあったのではないかと思います。
 何を持って暗示と呼ぶのかは、難しい問題ですね。何も番組でやっていたような、目を閉じた深い催眠下での暗示だけが暗示ではありません。コマーシャルだってある意味暗示ですし、ヒットラーの演説だって催眠的な要素が盛りだくさんです。人によっては、コミュニケーションというのは暗示の掛け合いのことだ、とまで言う人もいます。
 人は生きていく中で、いろいろな物事に影響されます。「人生を変えたひとこと」なんて、そのまま暗示なんですよね。口の上手い人に騙された、というような場合もそうですし、犯罪を犯した人が、「何故あんなことをしてしまったのか判らない」などと言うのもそうです。催眠という言葉は出てこなくても、すべては催眠下で行われたのと本質的には変わりないのではないか、と思います。人間って、想像以上に暗示にかかりやすい生き物なんですよ。
 この番組をみて、催眠を誤解して捕らえてしまう人はきっと多いでしょう。「催眠とは人を操る技術」というような印象を見ていた人は受けたと思います。
 だけど決してそうじゃない。催眠なんてただの道具です。しかも、直接心を引っ張る車のような道具ではなく、行き先を示すカーナビのような道具なのだと思います。
 犯罪にカーナビが使われたところで、「カーナビで犯罪を犯すことは可能か」を議論するのはナンセンスなのと同じように、「催眠で犯罪を犯すことは可能か」を議論するのはひどくナンセンスな気がします。
 この事件のように、催眠が犯罪に利用されることはあり得るでしょう。でもそれは、睡眠薬が犯罪に利用されることがあり得るのと全く同じなのだと思います。

催眠療法で癒しを体験してみる部屋