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ひとりごと


(日記才人に参加しています)

<2004-8-31>
 何か楽しい話でも、と思う瞬間って、大抵持ち合わせの楽しい話がなくて困ります。

<2004-8-30>
 頭が柔らかいとか頭が固いとか言う言葉があります。
 この二つの言葉が並んで出てくるとき、純粋に頭が柔らかいことが良いことだと信じられていますし、「頭が固い人」というのは褒め言葉ではありません。
 でも僕は、みんなが頭が柔らかい状態を目指す必要はないと思うし、逆にみんなが頭が柔らかかったら、この国はとっくの昔に滅んでいたと思います。頭が柔らかい人というのは、カレーライスの中の福神漬け程度にいればよろしい。残りの人たちが頭が固いからこそ、混乱も無く社会は動いていくのです。
 僕はこういった、根拠の無い価値観って大嫌いです。

<2004-8-29>
 下駄箱に指を挟んでしまいました。
 去年の今頃も、同じ下駄箱で指を挟み、爪の中が内出血して黒くなりました。
 しばらくは気をつけていたんだけれど、ここ最近は注意も忘れていました。
 もともとこの下駄箱は立て付けが悪く、力を入れないと開かないし、力を入れると一気に開いて指を挟む構造(?)になっています。
 誰に怒りをぶつけられるわけでもなく、自分のうっかり加減にただただ凹みました。

<2004-8-28>
 「日本を代表する脅威のメロディーメーカー」と言ったら、みなさんは誰を連想しますか?
 小室? 桑田? 奥田? ユーミン? 小田? 山下? 矢野? 久保田? 中島?
 いえいえ、つんく♂ でも スガシカオ でもありません。
 一度しか言いませんから、心して聞いてください。
 日本を代表する脅威のメロディーメーカーは、小林亜星です。
 初めて「パッ!とさいでりあ」のバラードバージョンを聴いたときには、うかつにも涙が出そうになりました。
 たかが十数秒のCMでそこまでできるのは、亜星以外、誰ひとりいません。
 僕は何年か前、横浜のランドマークタワーで亜星とすれ違いました。
 オフを楽しんでいる生亜星は、テレビで見るよりもずっと小さく見えました。

<2004-8-27>
 加藤いづみが昔、「Thursday」という曲で「木曜日が何故か好き」と歌っていました。
 僕は木曜日が好きだと思ったことは一度もなくて、恐らく火曜日と並んであまり好きではない曜日なのですが、どうして加藤いづみは木曜日が好きなんだろう、なんて思ってネットを巡っていたら、すっかり彼女の魅力にはまってしまいました。(^^;;
 加藤いづみ、美しすぎ。

<2004-8-26>
 「幸せ」って、結局は言ったもの勝ちなのかなぁ。
 うーん。。。

<2004-8-25>
 夜になると、虫の鳴き声が良く聴こえます。
 だんだん涼しくなってきて、もうじき秋なんですね。
 僕は夏はあまり好きではないけれど、晩夏は結構好きです。
 「晩夏」って言葉を聞くと、夕暮れに野球場の外野スタンドで、涼しい風を浴びながら昔を思い出しているような、そんな気分になります。

<2004-8-24>
 キンモクセイのライブの予習(?)のために、ポータブルオーディオを探していました。
 以前はウォークマンを使っていたのですが、何となく調子が悪くなり、その後は歩きながら音楽を聴かない生活がずっと続いていました。
 今更カセットテープは使いたくないので、ポータブルCDにしようか、ポータブルMDにしようか、それともMP3プレーヤーにしようか悩み、いろいろ調べて iRiver プリズム というシリコンプレーヤーを買いました。
 MP3プレーヤーは初めて買ったので、ちょっと不安だったのですが、小さいし、ビットレートを下げれば結構な量の音楽が入るし、音も悪くないし、サウンドレコーダーとしても使えるし、電池も長持ちだし、大満足な買い物でした。

<2004-8-23>
 NHK大河ドラマの新選組ですが、ついに山南さんが切腹してしまいました。
 僕は歴史に詳しくありませんので、どこまでこのドラマが史実に基づいているのか判りませんが、仮に歴史がこの通りだったとしたら、何故彼は脱走しようとしたのか理解できませんでした。
 いや、脱走までは理解できるのですが、何故沖田に見つかったとき逃げずに帰って来たのかが解らないし、永倉や原田が逃がそうとしたときに逃げなかったことも理解できません。
 本気で脱走したかったのならば、逃げずに帰ってくるでしょうか? 逆に潔く切腹するほどの人が、脱走するでしょうか?
 もうこのドラマで山南さんの、腹に力の入っていない喋りが聞かれないのかと思うと、かなり残念です。 

<2004-8-22>
 夏休みで遊びに来ている甥と一緒にいると、「なぞなぞ」責めにあいます。
 僕は「なぞなぞ」って大嫌いです。
 何で嫌いなのかなぁって考えてみたのですが、その一番の理由は、「答が正解かどうかは出題者のさじ加減ひとつだから」だと思う。
 「なぞなぞ」を出されると、知らない国で知らない法律のもと、横暴な裁判官の前で裁判を受けているような気になります。
 「象を冷蔵庫へ入れるための3つのステップは?」という「なぞなぞ」は、答を聞いて発狂しそうになりました。 

<2004-8-21>
 ラジオを聴いていたら、キンモクセイというグループの曲が流れてきました。
 とても懐かしい感じのサウンドで、勢いで9月のライブチケットをファミリーマートで買ってしまいました。
 ライブに行くなんて、3年前に浜田省吾のライブへ行った以来です。
 これからアルバム買って、曲を覚えなきゃ。

<2004-8-20>
 ネットでニュースを読んでいたら、「東芝キヤリア製品で発煙、発火の可能性」という記事。
 ぬぬぬ、うちのエアコンも東芝製です。
 まさかと思い、念のため我が家のエアコンを調べてみると、どんぴしゃり、該当機種でした。
 こんな所で当たりを引きたくはなかったなぁ。
 東芝製エアコンをご使用の皆様、念のため調べみてくださいね。

<2004-8-19>
 小沢健二の「愛し愛されて生きるのさ」という曲の中に、「10年前の僕らは胸を痛めて『いとしのエリー』なんて聴いてた」という歌詞があります。
 この曲を初めて聴いたとき、「あぁ、『いとしのエリー』ってもう10年も前なんだぁ」と、感慨深く思ったものです。そして、10年後の僕はこの曲を聴きながら、10年前の僕は胸を痛めながら「愛し愛されて生きるのさ」なんて聴いてたなぁ、って思うのかなぁ、なんて思ったりもしました。
 今年、あれからちょうど10年になります。
 久しぶりにCDを引っ張り出し、この曲を聴いてみました。
 10年前を思い出すと、確かに胸が痛みました。

<2004-8-18>
 電車に乗っていたら、隣の人と、隣の隣の人が、僕と全く同じ携帯電話を持っていて、二人とも必死でメールを打っていました。
 なんとなく嬉しくなる瞬間でした。

<2004-8-17>
 ごめんなさい、森山直太朗、僕は無理みたいです。

<2004-8-16>
 PRIDE GP 決勝戦を観ました。
 小川はこれで楽になれたんじゃないかな。
 もう一度リアルファイトでの勝利を目指すのか、それともきっぱりとリアルファイトからは足を洗い、プロレスラーとして生きていくのか、ここからが彼の正念場だと思います。
 負けちゃったのは残念ですが、ファンも本人も背負っていた幻想から解放されて、僕はかえって良かったのではないかと思います。
 今回はミルコの豪快な復活劇が見られましたが、決勝戦は後味が悪かったし、シウバを倒せそうな日本人はもういなくなってしまったし、個人的にはすっきりとしない興行でした。
 そうそう、小川のビデオのバックに流れていた音楽が、オフコースの「心はなれて」でびっくりしました。
 オフコースファンはすごく嬉しかったんじゃないかと思います。

<2004-8-15>
 オーストラリア対日本のソフトボールの試合をなんとなく観ていたら、1回の裏、オーストラリアの投手が大乱調。
 コースを狙ってストライクが入らないわけではなく、投げる球、投げる球、キャッチャーさえ取れないようなすっぽ抜けた球で、5連続フォアボールを与えていました。
 緊張していたのか、それとも腕や指に、見えないところで怪我でも負ったのか判りませんが、こんなに荒れているピッチャーは見たことがありません。
 日本チームは労せずに2点を先取しました。
 でも結局試合は4対2で日本が負けてしまいました。
 この5連続フォアボールで調子を崩したのはオーストラリアチームではなく、むしろ日本チームだったのではないかと思います。
 オーストラリアチームはこの失点で逆に緊張が解け、降板した投手以外全員が「これで負けても私のせいではない」と心のどこかでホッと安心し、のびのびとプレーができたのかもしれませんし、日本チームは2点の余裕をもらい、かえって勝ちを意識しすぎて緊張感が増したのかもしれません。
 オリンピックという大舞台の、更にまだエンジンもかかっていない1回の裏の出来事だっただけに、このフォアボールの与えたインパクトは絶大だったのではないかと思います。

<2004-8-14>
 最近、家の前に死んだ蝉やトカゲが置いてあります。
 ここによると、どうやら我が家の野良猫たちが、「いつもお世話になってます」という意を込めて、プレゼントしてくれているらしいのです。
 先日も半殺しにされた蝉が、一晩中ビービー鳴いていました。
 正直言うとありがた迷惑。
 ちゃんと餌はあげるから、もう殺さないでくれ、と祈るような気持ちです。

<2004-8-13>
 「心を開かないとエヴァは動かないわ」
 「新世紀エヴァンゲリオン」の中で、エヴァとのシンクロができなくなってしまったアスカに向かってレイが言った言葉です。
 催眠誘導をしていて、僕もときどき同じように思います。心を開かないと催眠には入れませんよ、って。
 こんなことを書くと、「それを開かせるのがあんたの仕事でしょ!」と怒られそうですが、まぁ、実際にその通りなのですが、あくまでその鍵を握っているのは、セッションにいらっしゃる皆様、おひとりおひとりなのです。

<2004-8-12>
 京王線の某駅を降りてびっくりしました。
 階段の手すりのところに張り紙があり、「この手すりはネジが外れてグラグラします。お気をつけ下さい」と書いてありました。
 これって、致命的なことじゃないかなぁ。
 「ペンキ塗りたて」とはわけが違い、手すりがグラグラしてたら、手すりの存在理由がなくなってしまうと思うのです。
 「この命綱は強度が弱くてときどき切れます」と書かれた命綱を使っちゃいけないのと同じで、グラグラの手すりにつかまってバランスを崩したり、手すりが外れたりしたらかなり危ないと思う。
 関係ないけど、存在理由って言葉、結構好きです。

<2004-8-11>
 ときどき、テレビで格闘技やプロレスを観ていると、信じられないような睡魔に襲われることがあります。
 僕は普段、テレビを観ていて眠くなることはほとんどありません。
 また睡眠時間はきっちりとるタイプですので、夜、疲れて起きていられないということもほとんどありません。
 ですが、格闘技だけは、面白い試合は興奮して観ていますが、つまらない試合は気がつくと目を開けていられないくらい眠くなり、ちょっと横になろうものならそのまま眠ってしまいます。
 この眠りというのがすごく深いのです。
 夜、布団の中で感じる眠りが穏やかな眠りだとしたら、このときに感じる眠りは激しい眠り。
 意識は浮かび上がったり沈んで行ったりを繰り返し、睡眠よりも、深い催眠状態に近いような気がします。すごく気持ちがいいです。
 格闘技観戦には、もしかしたら催眠作用があるのかもしれません。
 試合の流れって、1/f ゆらぎ なのかもしれないし、疲れていく選手を見ていると、自分もだんだんと心地よく疲れていくのかもしれません。

<2004-8-10>
 ゴリラが手話で歯の痛みを訴えたというニュースを読みました。
 動物とお話をするというのは、夢のような話ですが、ちゃんと教えれば話せるようになるのですね。
 以前スカパーの動物番組で、飼い主とお話をする鳥が出ていました。
 もちろん、「お話をしているように見える」だけなのですが、それでもちゃんと飼い主の言葉を区別しているからこそ、適切な言葉を返せるわけです。
 人間だけが高度な知能を発達させたように言われていますが、それは人間の脳がすごいのではなくて、もしかしたら人間だけが「言葉」を持っていたからではないかなぁと思います。
 言葉がなかったら、人間だって動物と同じだったのかもしれませんし、言葉があれば、ゴリラやイルカだって、文明を築いていたのかもしれません。
 このニュースの記者は最後に、「女性が名刺を差し出すと、むしゃむしゃ食べたという。」と結んでいます。
 ゴリラが手話で話したことよりも、名刺を差し出す女性医師、そしてそれをむしゃむしゃと食べてしまうゴリラに、心が和みました。

<2004-8-9>
 昨年のリベンジということで、献血へ行ってきました。
 体も冷えてないし、今日こそはと思って気合を入れましたが、やはり去年と同じく「血管が細いから無理」とのこと。
 ちなみに僕の前の人も、同じ理由で断られていました。
 検査で採血するときの注射針よりも、献血用の注射針はずっと太いそうで、細い人に無理にさすと、神経を痛めて手が痺れてしまうことがあるそうです。
 去年の看護士は「またいらっしゃい」的な雰囲気でしたが、今日の人は「あなたは献血のできない欠陥人間です」的な対応で、もうこれ以上来ても無駄です、と言わんばかりでした。
 その看護士は自分の腕を出し、僕の人差し指を盛り上がった血管に押し付け、「ほら、血管の位置がすぐ判るでしょ」と自慢気。確かに立派な血管で、触っただけで血管を感じることができました。
 「でもね、これでも細いのよ」
 彼女は今度は僕の腕に僕の人差し指を押し付け、「血管の場所、判る?」と非常に挑戦的に言いました。僕は仕方なく「判りません」と答えました。彼女は満足したみたいに僕の腕に巻きつけられたゴムチューブを外し、「献血だけがボランティアじゃないから……」と言いました。
 それが慰めの言葉なのかどうか、僕には良く判りませんでした。
 帰り際、献血もしていないのに「ありがとう 献血」と書かれたバンドエイドをもらい、複雑な気持ちで献血センターを後にしました。
 僕のように、献血できない人って結構多いんじゃないでしょうか。
 どうしてもっと細い注射針を使わないのでしょう? 僕は採血をされたことは何回もありますし、その際、結構な量を採られます。そのまま放っておけば、200ml くらい採れそうなものだけど、やっぱり途中で出なくなってしまうのかな。
 「血が足りない」とカリオストロの城のルパンみたいなことを、献血センターの前で叫んでいますが、僕のような門前払い組から採血する方法を考案すれば、もっともっと血は集まるんじゃないかなぁって思いました。 

<2004-8-7>
 学生のころ、夏になるとよく合宿へ行きました。
 夜になってもみんな寝ないで騒いでいるのですが、僕はこっそり輪から抜け出し、近くの川原やキャンプファイヤーをした空き地へ行って、ぼんやり空を眺めるのが好きでした。
 空気が澄んでいると、たくさんの星が見えます。
 ときどき流れ星なんかも流れます。でも誰もそばにいないから、その感動を誰とも分かち合えなくて、何とも切ない思いをします。
 辺りは信じられないくらい静か。
 空気の圧力が高いような、鼓膜が押し付けられるような静けさです。
 宿舎では今頃、思い出を刻み付けることを焦るかのように、みんな騒いでいることでしょう。
 僕はそんな雰囲気に乗れず、またどこか白けた気分で、ひとり自然に包まれます。
 そうやって空を見ていると、自分はこの奇妙な星の上で、一体なにをしているのだろうと思います。
 結局はそんな気分に浸りたいだけなのかな、なんて思ったりもします。
 でも本当は、同じようにこっそり輪を抜け出してきた女の子が、「そんなところで何してるの」なんて言いながら僕の方に歩いてきて、隣に座り、話を聞いてくれることを、心のどこかでずっと待っていたのかもしれません。
 「うん、わかるわ、そういうの。だって私も同じだもの……」って。
 そんなことは実際、一度も起こらなかったのですけどね。(^^;;

<2004-8-6>
 小学校3年生のとき、体育の授業で50m走の練習をしていました。
 僕は足が遅く、友達はほとんど9秒台でしたが、僕は10秒台。
 なんとか速く走れないものかと授業中に考えました。
 そして、「僕は歩幅が狭いのではないか」という結論に達しました。
 例えゆっくりでも、一歩の歩幅が広ければ、速く走れるのではないか……。
 そこで僕は早速、思いっきり一歩を大きくして走ってみました。それはまるで、大きくスキップをしているような走り方でした。
 すると速くなるどころか、ぶっち切りのビリでゴールイン。
 おかしいなぁと首を傾げていると、当時の担任、竹内先生(初老の女性教師でした)がやってきて、僕の頭をポカッと叩きました。
 なぜ自分が叩かれたか理解できないでいると、「ふざけるんじゃありません!」と竹内先生は言いました。
 僕は全くふざけてはいなくて、むしろ速く走ることに対する探究心から出た行動だったのですが、それは先生には伝わらなかったようです。
 新宿の地下道を歩いていたら、突然そのときのことを思い出して、なんだかとても悔しい思いがしました。
 自分のことながら、小学生の工夫しようとする心を踏みにじった先生は、教育者として間違っていたのではないかと思います。
 でもこういうことって、もしかしたら日常に溢れているのかもしれません。
 努力しているつもりが、相手にはふざけているように思われたり、ふざけるんじゃないよって思ったら、本人は結構まじめに考えていたり。
 「世の中に誤解というものは存在しない。考え方の違いがあるだけだ」って誰かの本にありましたが、その通りかもしれません。 

<2004-8-5>
 ブルーベリーの枯れ枝の剪定をしていたら、気がつかないうちに、手や顔をたくさん蚊に刺されてしまいました。
 血が欲しいならいくらでも吸わせてあげるから、頼むから痒い成分をお返しに注入するのはやめてくれって思いました。

<2004-8-4>
 果物で一番おいしいのは、良く冷えた桃だと思うのだけれど、いかがでしょうか。

<2004-8-3>
 今年は戦後最高の暑い夏になる可能性があるそうです。
 確かに7月には殺人的な暑さが続きました。
 でもそのせいか、「最高気温32度」とか書いてあっても、「暑そー!」というよりは、「はぁ、今日はちょっとは涼しいんだな」って思ってしまいます。
 夜になると、心地の良い風が吹いてきて、少し気がはやいですが、秋の気配を感じます。

<2004-8-2>
 「ハッピーターン」の塩辛い感じ、大好きです。

<2004-8-1>
 この「理科は実生活に役に立たない」という記事、もう、馬鹿かと。アホかと。
 小6と中3に聞いてどうするよ、という感じです。彼らの実生活って一体何?
 理科が役に立ちはじめるのは、おそらく、一人暮らしを始めてからです。
 僕は理系だからではありませんが、今までの人生、間違いなく理科が一番生活に役立っています。
 理科がもし役に立たないのであれば、それはその人がしっかり勉強していないからであり、応用の仕方を知らないだけです。
 僕は地震が起こると、初期微動の長さを数えてその地震の震源が近いか遠いかを考えますし、天気図を読みます。匂いをかぐときには習ったとおり、手であおいで嗅ぎますし、有効数字は目盛りのひとつ下の位までしっかり読みます。「トリハロメタン」という言葉を聞くと、「トリ、ハロ、ということは、ハロゲン(ハロ)が3つ(トリ)結合しているんだな。それがメタンのように並んでいるんだな」と思います。
 理科の知識を応用できる場面は、日常の中でいくらでもあるのです。
 それに、「実生活で役に立たない」を言い出したら、小6や中3が歴史を習って歴史から何かを学ぶでしょうか? 習った英語で外国人に道を訊ねるでしょうか? 古文の活用を日常会話で用いるでしょうか?
 「役に立たない」などという考え方は、結局はイメージにしか過ぎないのです。役に立つ場面に出会えば何でも役に立つし、出会わなければ何も役には立ちません。
 ……となんだか熱くなってしまいましたが、僕は教育というのは本来、実際に役に立つべきものだと考えています。そして現代の教育が、例え受験や学歴を目的とした詰め込み型の教育だったとしても、少なくとも僕の受けた教育は十分、実生活でも役に立っています。
 本当に役に立つことは学校では教えてくれない、などと言っている人もいますが、そう思うのならば学校以外で自分が勉強すればいいだけの話であって、学校のせいにするのは筋違いです。
 中学までは、誰もが無料で勉強させてもらえるというのは、江戸時代ではとても考えられなかったほどのすごいことです。現代においても、勉強をしたくてもできない子供は世界中にたくさんいるのです。
 どうも子供たちは、学校は行きたくないのに行ってやっている、将来のために我慢して行っている、というスタンスで学校や勉強をとらえているように思います。
 そういった教育のありがたみを解らない子供たちは、義務教育などと言わずにどんどん退学させればいいのです。そうすればクラスもすっきりして、学級崩壊などなくなります。
 行きたいから学校へ行く。勉強したいから勉強する。それが基本なのです。

催眠療法で癒しを体験してみる部屋