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ひとりごと

エッセイもお読みくださいね。

<2007-12-30>
 テレ朝でやっていた、ビートたけしの超常現象SPを観ました。
 スプーン曲げで有名な超能力者のユリ・ゲラーが出てきて、テレビの視聴者にテレパシーを送る実験をしていました。
 丸、四角、波、星、十字のイメージのうち、ひとつを送ったのですが、スタジオにいたゲストの半数が星を選び、見事にユリ・ゲラーが送ったイメージと一致していました。
 僕も、「あぁ、星かなぁ」と思って当たりはしましたが、驚いたような、当たり前のような、そんな気分でした。
 録画していたので、もう一度そのユリ・ゲラーがテレパシーを送っている(ふりをしている?)シーンを観たのですが、彼のすぐ隣に人形のようなものが置いてあり、その人形に、ヒトデのような、星のようなものがたくさん飾られていたのです。
 恐らく、一種のサブリミナル効果で星を選びやすかったのではないかと思いました。
 たけしは、「心理学のような気がするんだけどな。なんか星が一番描きそうなんじゃないかな」、と言っていましたが、それも考えられますね。それらの複合技で、多くの人が星を選んだのでしょう。
 人が何かを選択する、という行動の、どこまでが自由意志で、どこまでが何かに影響されたものなのか、線引きは難しいですが、自由意志だと思っている部分の多くのものが、実は条件反射的なものなのかも知れません。

<2007-12-19>
 受験を控えた中3のお正月、友達と青春18切符で、長野まで雪を見にでかけたことがあります。
 その頃、僕はまだまだ、雪が降ると単純にテンションのあがる子供でした。
 東京の雪しか知らなかったので、雪国に対する憧れは昔から強く、カマクラ作り放題、雪だるま作り放題、雪合戦し放題、といったイメージで雪国をとらえていました。
 大雪が降ると窓から出入りするとか、道の両脇に雪の壁が出来るとか、公衆電話に階段があるとか、そういったエピソードもたまらなく好きでした。
 それでその冬、本物の雪を体験したいと、友達が調べた「日本有数の豪雪地帯」(どこの駅かは忘れてしまいました)を目指しました。
 駅に着くと、普通に除雪してあり、除雪されていないところも、東京の大雪の何割り増し、といった感じ。
 「あれ? 二階から出入りは? 雪の壁は?」と一気に拍子抜け。
 レンタカーを借りるわけでもなく、タクシーでどこかを目指すわけでもなく、駅の周りをあてもなく歩き、気がつけば帰りの電車の時間になっていました。
 その日帰り旅行(正確に言うと、行きは午前0時1分の電車で出発したので一泊二日の旅行でした)、今となっては断片的にしか覚えていないのですが、今でも唯一はっきり覚えているのが、帰りの電車の中で、ウォークマンで聴いた大江千里の「JANUARY」という曲です。
 それまで、この曲は特に好きだったわけではないし、「ガムシュ」とか「チャイ」とか、知らない言葉がたくさん出てきて、共感と言うよりはむしろ、疎外感みたいなものを感じていたのですが、それでも、ヒヤッとした電車の中の空気を吸い込みながら、「あぁ、これが今年の空気なんだ」と感じたり、好きだった女の子に出した、平凡すぎる年賀状を思い出したり、世界中の幸せより、彼女が僕だけに笑いかけてくれたらどんなに素敵だろう、などと想像したりしながら窓の外のどんよりとした風景を眺めていると、強烈に切ない気持ちがして、その気持ちはしっかりと僕の胸に焼き付いてしまったのでした。
 今でもこの曲を聞くと、僕の心はすぐに、中3の、寒くて切ない電車の中に戻っていきます。
 あれから20年も経ちますが、雪が降ることが少しだけ面倒くさくなっただけで、僕はちっとも成長していないように思います。

<2007-12-15>
 もし洗濯機がパソコンだとしたら、「洗い」はCPUで、「すすぎ」はメモリで、「脱水」はHDDですね。
 となると、乾燥機はディスプレイかな。
 本当にどうでもいいことなんだけれど。

<2007-12-13>
 お金と時間がたっぷりあったら、何をしたいかなぁと考えました。
 きっと、この問いにすぐ答えられる人は、幸せなのだと思います。

<2007-12-10>
 ミシュランガイドのミシュランとタイヤメーカーのミシュランが同じだと言うのは知っていましたが、ギネスブックのギネスとギネスビールのギネスが一緒だと言うのは知りませんでした。
 ミシュランガイドは結果的にタイヤがもっと売れるため(車で旅行するとタイヤが減るから)、ギネスブックは結果的にもっとビールが売れるため(ビールを飲みながらの話題を提供するから)に発行されるようになったそうです。(松本人志の放送室情報)

<2007-12-7>
 サバンナ八木の考案したゲーム、「パナキ」。
 どんな単語を言われても、しりとりをして最後の言葉を「パナキ」にするというゲームです。
 例えば、「スイカ」だったら、スイカ → カニ → ニク → クジラ → ラッパ → パナキ。
 「パナキ」とは一体なんなのかは、謎です。

<2007-12-6>
 自由が増えることが幸せなのかなぁと、自転車に乗りながら考えました。
 全てを選べる状況と言うのは、逆に辛いのではないかと。
 夜中にコンビニに行って、「今、肉まん しかないんですよ」って言われたら、悩まず 肉まん 買って、美味しく食べて終わりですが、カレーまん やら ピザまん やら 角煮まん やらも売っていて、選び放題だったら、結構悩むし、食べながらも「あー、やっぱりあっちが良かった」なんて後悔してしまうかもしれない。
 好きな芸能人ランキングがあったとして、1位の人が突然目の前に現れて「つきあってください」って言ってきたら、夢のような気分でつきあうと思います。
 それが1位ではなく、好きな芸能人ランキングの10位の人だったらどうかというと、この場合もつきあっちゃいますね。そしてやっぱり夢のような幸せな気分だと思います。
 それでは、8位から10位の3人が、同時に目の前に現れて、同時に「つきあってください」って言ったとしたら、何のためらいもなく8位の人を選ぶのか? そしてそのまま幸せに生きていけるのか?
 そうなったらきっと、すんなり8位を選ばないだろうし、選んだとしても、「本当に8位で良かったのかな?」と悩むはず。そしてそんなことを考えながらつきあっても楽しくないと思います。10位の人が単独で現れてつきあうようになった方が、圧倒的に幸せだと思う。
 何だか中学生の妄想みたいなことを書いてしまいましたが、自転車をこぎながら、人間て不思議だなぁと思いました。

<2007-12-4>
 時々、猫の里親募集のページを見るのですが、猫の紹介文に「明るい子です」とか「陽気な子です」と書いてあることがあります。
 「やんちゃな子」とか「活発な子」とか「甘えん坊」なら理解できるのですが、「明るい子」って、どういう猫なんだろう??
 そもそも、猫の性格に明るさとか暗さってあるのだろうか?
 プラス思考の猫とか、悲観的な猫とか、右斜め上を見ながら想像してみたのですが、うまく想像できませんでした。
 同じく、ブルーベリーの品種紹介のページに、「風味良好」みたいなことが書いてあるのですが、この「風味」というのも、未だに何のことかわかりません。
 「甘さ」「酸味」「歯ごたえ」「香り」は理解できるのだけれど、風味って一体??

<2007-12-3>
 それにしても、ガソリン高すぎですね。
 「あと○年で石油はなくなります」みたいなことを言われても、昔は「そんなこと言っても新しい油田がどんどん見つかるんでしょ」と、真剣に心配はしませんでしたが、これだけ高くなると、石油に依存した現代社会というのは怖いなぁと思います。
 エネルギーは原子力なり太陽光なりでなんとかなっても、原料としての石油がなくなると、何も作れなくなりますね。
 結局、野菜だって石油から作った肥料で育てているわけだし、肉だって石油で作った肥料を使って育てた飼料(ややこしい)で太らせるわけですから。
 今の生活レベルを落とさず少しでも人々が長く生きるには、火力発電をやめて、原子力をばんばん使うしかないのかもしれません。

<2007-12-2>
 12月は、1年の中で一番好きな月です。
 何だか、毎日が金曜日みたいな気分がします。そして23日から大晦日が土曜日という感じ。
 いろいろあったけど、今年はおしまい。
 新しい年のことは、今は考えるのをやめて、のんびりテレビ見て、美味しいもの食べて、みかんで手を黄色にしたいと思います。

<2007-11-30>
 レーシックの1週間検診に行って来ました。両目とも2.0で、経過は良好ということです。
 1週間は、目に汗や水が入ってはいけないということで、顔を洗うのにもとても神経を使いましたし、寝るときは目をこすらないようにプラスチックの眼帯をつけて寝ていましたが、今日からはそれらがなくなり、かなり楽になります。
 まだ、ときどき「コンタクト外さなきゃ」と思ったり、無意識にメガネを探してしまいます。(^^;;
 久しぶりに新宿や東京駅の雑踏を歩き、「見えるぞ、私にも敵が見える!」と、ニュータイプ能力が覚醒したときのシャア・アズナブルのように興奮してしまいました。
 いや、もちろん敵なんていないんですけどね。

<2007-11-28>
 個人的な今年の流行語は、渡辺あつむ の「ホップ、ステップ、人間国宝!」です。

<2007-11-26>
 「幸せ」もいいですが、「いつでも幸せを感じられる心」はもっといいですね。

<2007-11-24>
 レーシックの話の続きです。
 21日に検査、22日に手術、23日に翌日検診でした。受けたのは品川近視クリニックです。
 実は9月に、角膜の厚さだけでも調べてもらおうと、他のクリニックの適応検査を受けたのですが、そのとき、角膜の厚さは問題なかったのですが、角膜の表面が歪んでいるため、イントラレーシックではなく、エピレーシックをお勧めする、という診断を受けました。イントラレーシックで受けるつもりでしたし、エピレーシックは手術後すぐに視力が出るわけではなく、数ヶ月かけて徐々に回復していく、という話を読んでいたので、エピレーシックならば手術はやめようと思いました。5月からメガネ生活で頑張ってきたので、軽く落ち込みました。
 ただ、このときすでに、11月の品川の予約を取っていたし、クリニックによって適応の基準が異なるようなので、品川の検査も受けてみて、それでもイントラレーシックが適応外と言われたら、そのときは諦めようと決めました。
 そして21日に検査を受けたわけですが、目には全く問題なく、イントラOKとのこと。角膜の歪を指摘されることもありませんでした。(9月の結果は何だったんだろう?) 今思えば、手術が終わって遠くが見えたときより、「手術できますよ」と言われた、このときの方が嬉しかったです。
 角膜をレーザーで削るという事は、取り返しがつかないことですので、この半年間は、いろいろなリスクを想定し、ネット上の体験談を読み漁りました。
 一番心配だったのは、手術後の過矯正です。
 実はオルソケラトロジーをしていたときも、過矯正気味になり、遠くは見えるのに近くがぼやけて見えないことがよくありました。しかし、角膜厚が十分あり、仮に遠視が出ても再手術で矯正ができるということで、過矯正の問題は回避可能と判断しました。
 また、よく言われる、ハロ、グレアですが、こちらもオルソケラトロジーをしていたときに経験済みでしたので、仮に一生残ったとしても、それよりも良く見えるメリットを取りたいと思いました。
 ドライアイだけは、経験がありませんでした。コンタクトを長時間して乾いた感じかなぁと思いましたが、時間が経てば軽減するらしいし、最悪、目薬を常用すれば良いのだからと思いました。
 手術自体も、痛みがないという人もいれば、すごく痛かったという人、麻酔が切れてから涙が止まらないほど痛くなったという人もいて、人それぞれ。眼球は痛くないけれど目を固定する器具が痛かったとか、白目が内出血してしばらく目が赤かったとか、レーザーで削っているときに焦げ臭かったとか、いろいろな書き込みを読みました。更に、手術後、すぐに良く見えた人、次の日によく見えた人、次の日の朝も良く見えなかった人、等々。
 それらの体験談を読み、最悪を想定し、それでも受ける価値あり、と判断して手術にのぞみました。
 手術は、フラップを作り、レーザーを照射するという2段階があるのですが、両方ともあっという間の出来事でした。
 眼球自体の痛みは全くなく、レーザー照射中は、「あぁ、何かされているんだなぁ」という感覚だけがありました。
 目を固定する器具の装着も、痛くはなかったですが、こちらは、目に異物が入ってくる感覚が不快でした。
 レーザー照射が終わってフラップを戻した瞬間、目の上の緑の光が、ピントが合ってくっきり見えました。
 手術台からおり、付き添ってくれた看護士さんの顔がはっきりみえて、名札の字も読めて、終わったのだとホッとしました。
 手術後、麻酔が切れると、1,2時間後が痛みのピークだと聞いていましたが、痛みと言うよりは、真っ暗の中から急に太陽の下に出て、目を開けてられないような、そんな感覚でした。痛みが我慢できないとき用の目薬も使わずに済みました。白目の内出血もありませんでした。
 手術後は、もやがかかったような感じでしたが、説明にあったとおり、4時間を過ぎた頃にはそれもなくなり、とてもよく見えるようになりました。
 一番心配していた遠視も今のところなく、近くもとてもよく見えます。
 手術前の視力は両目とも0.06でしたが、翌日検診では両目とも2.0でした。(実際は、2.0の段がすべてくっきり見えるというよりは、こっちかな?、という感じだったので、正確には1.2〜1.5くらいだと思います)
 昨日の夜、外に出てみましたが、ハロ、グレアも感じませんでした。メガネやコンタクトをしていたときもハロ、グレアがあったので、もう慣れてしまって意識できないだけかもしれませんが、メガネ、コンタクトよりも光のもわっとした感じがないので、良くなたくらいです。
 ドライアイも、一日中目薬をさしているせいか、今は感じません。
 機械で測った度数は、手術前が 左 -5.75D、右 -5.25D、乱視は両目とも -1.0D でした。
 翌日検診では、両目とも -0.25D、  乱視は両目とも -0.25D でした。
 まだ手術後2日ですし、今後、1週間後、1ヵ月後と、視力がどう変動するのか、また、夜間の見え方がどうなるのかは判りませんが、今のところは、手術は成功のようです。
 今回、何に対しても最悪を想定していたので、全てが問題なく終わり、若干の拍子抜けと言うか、こんなことだったら、悩んでないでもっとはやく受けておけば良かったと今は思っています。実にあっけなく、簡単に視力が回復したので、周りの目の悪い知人、全員にお勧めしたい気持ちです
 ただ、一緒に手術を受けた方の一人は手術後の休憩室で涙が止まらなかったみたいですし、もうひとりは「左目だけ痛いです」と看護士さんを呼んでいたので、痛みに関しては、やはり個人差があるのだと思います。
 レーシックを体験してみて、限りなく安全な手術で、成功率の高い手術に間違いはないと思います。もちろん、狙った視力が出ない、もしくは、遠視気味になる可能性、夜間の視力が出ない、ドライアイになる等のリスクがあるのも事実ですから、最低でも再手術するだけの角膜の厚さがない場合は、慎重に検討した方が良いと思います。

<2007-11-23>
 昨日、レーシックの手術を受けました。
 去年の春、オルソケラトロジーレンズという角膜矯正コンタクトレンズを購入し、昼間は裸眼で過ごしていましたが、レンズをつけたまま寝ると気を使うし、きれいに見える日と、遠視や乱視が出て近くが見えない日があり、今年の5月から装用を中止しました。
 そのときから、もうレーシックしかないと思って調べ始めたのですが、オルソをしていた場合、手術まで3ヶ月間、間をあけなければならないらしく(通常のハードコンタクトレンズの場合は2週間)、なんとなく、もう少しあけた方がいいような気がして、半年後の11月下旬に手術を受けようと決めていました。
 長くなりそうなので(まだ長時間PCをしてはいけないので)、続きは明日。

<2007-11-20>
 2011年にアナログ放送が終わってしまいますが、皆さんの家では、もう当たり前のようにデジタルテレビなのでしょうか?
 うちはまだまだ、ブラウン管のアナログテレビ(当然 4:3)です。
 いつ大型テレビを買ってもよいように、先日、テレビ台だけ買い換えました。(^^;;
 台が大きくなったのに、テレビは小さいままなので、ちょっと貧乏臭いです。

<2007-11-18>
 アメリカのドラマ「4400」を観た後で寝たせいか、スプーン曲げが出来るようになった夢を見ました。
 何故そんな能力??

<2007-11-15>
 もう一枚、応募してみました。

<2007-11-14>
 「モンティ・パイソン」を初めて観たのは、東京12チャンネルではなく、NHKのBSでした。
 そのときは字幕放送だったので、伝説の日本語吹替を聞くことはできませんでした。
 吹替で観たいなぁと思っていたら、なんと、『「空飛ぶモンティ・パイソン」“日本語吹替復活”DVD BOX』発売のニュースが! 
 よくモンティ・パイソンは、お笑い界のビートルズなどと言われますが、確かに日本のお笑いと違って、イギリス特有の高尚な感じ(?)があるように思います。
 本当にくだらないですが、まだ観たことのない方は是非! 

<2007-11-12>
 「にゃんこフォトコンテスト」に、我が家のマロンの写真を応募してみました。
 「まこむら」という名前で載せています。

<2007-11-11>
 コミュニケーションにおける催眠やNLPなどの心理誘導って、恋愛におけるファッションのようなものかなぁと思います。
 いくら内面が素晴らしくても、服装や髪型が的外れだったり、お風呂に長いこと入っていなかったりしたら、せっかくの恋愛のチャンスを逃してしまうかもしれないし、外見やファッションセンスが良ければ、内面を問われる前に好意を持ってもらえる可能性があります。
 それと同じで、コミュニケーションにおいても、最低限のコミュニケーションスキル(例えば、挨拶をちゃんとするとか、ありがとう、ごめんなさいを言えるとか)がないと、いくら内面が素晴らしくても相手にされなくなってしまうことがあるし、反対に相手のツボをおさえた効果的な心理誘導ができれば、それだけで話がスムーズに進むことがあります。
 ただ、やはり最終的に必要になるのは、コミュニケーションも恋愛も「中身」ではないかと思います。
 度を越したやり過ぎのファッションが、時に理解されずに全くの逆効果になるのと同じで、何を言われても言葉に裏がありそうで、計算しつくされていそうで、思わせぶりで、まるで手のひらの上を転がされているように相手が感じるような心理誘導は、やはり効果がないことがあるのではないかと思います。
 僕はブリーフセラピーを批判しないばかりか、それで改善されるのならば素晴らしいことだと思っていますが、テクニック一辺倒のセラピーは、セラピストの自己満足に陥ってしまう危険性もあるのではないでしょうか。
 ファッションも、心理誘導も、ブリーフセラピーも、それがテクニックではなくて、とても自然に、当り前のように存在しているからこそ、効果を発揮するのではないかと思います。

<2007-11-9>
 森本レオに読んで欲しい言葉。
 「念力集中、ピキピキドカン。たちまちオツムが、大噴火」

<2007-11-8>
 全くどうでもいいひとりごと。
 生まれ変わるならオダギリジョーになりたいと思っていましたが、やっぱり小栗旬にします。

<2007-11-7>
 今年の大晦日、なんと「ハッスル」がテレビ東京で放送されるそうです。
 PRIDEがなくなり、ハッスルが息を吹き返すとは、ハッスル1のグダグダ加減を観ていたものとしては、全く信じられない展開です。
 「年忘れ日本の歌」の流れで、力道山に熱狂したおじいちゃん、おばあちゃん達が少しでも観てくれたら、視聴率もとれるかな?
 大晦日のゴールデンにプロレス中継なんて、もしかしたら最初で最後かもしれないので、ワクワクしながら楽しみたいと思います。

<2007-11-4>
 防衛省が、ガンダムを開発しているらしい、というニュースがネットを駆け巡っています。
 ……と言っても、全長18メートルのモビルスーツではなく、個人装備としての、パワードスーツのようなものを「ガンダム」と呼び、実現を目指しているそうです。 
 これ、ガンダムで良かったですね。
 これが「防衛省でエヴァンゲリオンを開発中」というニュースだったら、例えパワードスーツのことだとしても、インパクトはこんなものではすまなかったと思います。

<2007-11-1>
 そろそろ、こういう季節です。

<2007-10-30>
 学生のころ、村上春樹の小説が大好きでした。
 それまで、音楽や美術が芸術というのは当たり前のように理解していましたが、文章が芸術になり得るということが、頭では理解できても、感覚的に理解できたことはありませんでした。
 村上春樹を読む前は、遠藤周作が好きだったのですが、遠藤周作の場合は芸術というよりは、むしろ精密機械のような印象があり、小説というのは決して身近なものではなく、ある種の職人が、膨大な資料を調査し、取材した結果、紡ぎだされるもの、と思っていました。
 初めて村上春樹の小説を読んだとき(デビュー作「風の歌を聴け」を読みました)、ストーリーではなく、文章で人を楽しませることができるのだと、大きな衝撃を受けました。
 事実、「風の歌を聴け」にはストーリーらしいストーリーはなく、何も起こらず、登場人物には名前さえありません。不要な物はすべてそぎ落とされ、純粋に文章だけを楽しむという経験は初めてでした。
 まるで音楽を聴くように、何度読み返しても楽しめるし、適当なページを開いて読み始めても楽しめました。
 初期の村上作品には、一度読んだだけでしっかり心に根を下ろしてしまうような一文が溢れていました。
 「カフカ的というよりはむしろカミュ的」、「私は貧弱な真実より華麗な虚偽を愛する」、「誰もが知っていることを小説に書いて、いったい何の意味がある?」、「髪が長くて下品な女の子なんて250人くらい知ってるわよ」等々。
 残念ながら、最近の村上春樹の小説からは、初期の作品のような面白さを感じられません。小説を書くのにワープロ使うようになったからではないか、などとファンの間で言われることもありますが、僕は、「羊をめぐる冒険」に登場した耳のモデルをしているガールフレンドに、「ダンス・ダンス・ダンス」で「キキ」という名前をつけてしまったことが、そもそもの間違いだった気がしてなりません。
 彼女は決して「キキ」なんかではないし、そこで緊張感が切れてしまったのか、今までの穴を埋めるかのように、登場人物に「ユミヨシさん」や「五反田君」等という名前が与えられ、ストーリーに事件が頻発するようになったのは、とても残念なことです。
 僕としては、羊男は「あり」だけど、カーネルサンダースは「なし」なのです。
 「ノルウェイの森」の「直子」や「キズキ」、「レイコさん」にも名前は与えられましたが、こちらはぎりぎり持ちこたえている感じがします。もともとの「」は「キキ以前」の短編ですし、「ノルウェイの森」はその正常進化版という感じがします。(逆に、「ねじまき鳥クロニクル」は「ねじまき鳥と火曜日の女たち」の正常進化版にはなれませんでした)
 何でこんなことを書いているかと言うと、秋になると、「ノルウェイの森」を読みたくなるからです。枯葉の舞っている道を、主人公と直子が歩いているシーンを、もう一度体感したくなるのです。
 ちなみに、夏になると読みたくなるのは、「風の歌を聴け」と「午後の最後の芝生」です。

<2007-10-29>
 「平和ボケ」と言う言葉を使うとき、大抵は平和ボケしている人を「それじゃいけないよ」と諭す意味で使うのではないかと思うのですが、僕は以前から、どうもこの言葉はピンと来ませんでした。
 平和にボケられるほど平和でいられるって、素晴らしいことなんじゃないかな?
 むしろ、当り前のように平和でいられないことこそ、おかしいとされなければいけないと思うのだけれど。

<2007-10-27>
 部屋の電球型蛍光灯を、60W タイプ(12W)から 100W タイプ(22W)に変えたところ、明るくなっただけなのに、部屋が別の部屋になったみたいに雰囲気が変わりました。
 人の気持ちって、結構単純なことで変わるものですね。

<2007-10-26>
 最近、ジョギングしているとやたらと猫に遭遇します。
 以前は、撫でようとすると逃げられていたのですが、何故かここ数週間、突然猫たちの態度が変わってきて、撫でさせてくれるようになりました。
 ついている日は、別々の場所で3匹くらい撫でられることもあり、もしかしたら、僕の中の何かが変化して、猫と心が通じ合う能力を身につけたのではないかと、半ば本気で思い始めています。
 更に仲良くなろうと、昨日はジョギングする際、ビニールに入れたキャットフードをポケットに入れて出発しました。
 いつも走っているジョギングコースには、猫と会えるポイントが4,5か所あるのですが、あいにく昨日はそのどこにも猫はいなくて、結局キャットフードはあげられずじまいでした。
 これが日課になると、周りからは「猫のおじさん」って呼ばれるんだろうなぁ、なんて思います。

<2007-10-25>
 NLP のアイアクセシングキューは、相手が何を考えているかを知るために使うのではなく、自分で過去の記憶(映像や音、感覚)を思い出すときや、新しいアイデアを考えるときに使うのが正しい使い方なのではないかと、RESOLVE という本を読みながら思いました。
 そのようなとき、勝手に目が動くのを待つのではなく、あえてそちらに目を動かすことで、記憶を引っ張り出しやすいということが、いくつかの実験で裏付けられているようです。

<2007-10-24>
 童謡「アルプス一万尺」では、「アルペン踊りをさあ踊りましょ」と気軽に誘っていますが、誰もがアルペン踊りを知っていると思ったら大間違いです。
 ……っていうか、アルペン踊りって、一体??

<2007-10-23>
 今更ですが、阿久悠は偉大でしたね。
 中学生くらいから、いわゆるアイドルの歌う歌謡曲を聴かなくなってしまいましたが、改めて昔聴いていた歌謡曲を振り返ると、大量消費してしまうにはもったいない、実に斬新で面白い曲がたくさんあったように思います。

♪ 信じられないことばかりあるの。
  もしかしたら、もしかしたら、そうなのかしら? ♪

 具体的なことは何ひとつ言わずにここまで共感させるのって、やはりすごいです。

<2007-10-22>
 HEROESの登場人物の中に、キアヌリーブスを少し太らせたような警官が出てくるのですが、彼は「人の心が読める」という能力を持っています。相手が心の中で思っていることが、心の耳で聞こえるのです。
 例えば、バーのマスターが彼に「調子はどう?」とニコニコしながら話しかけてくるので、自分のことを話し始めると、彼の心に「社交辞令だよ。はやく注文しろよ」という声が聞こえてきます。彼は自分の話をやめて、慌ててビールを注文し、ふぅ、と一息をつくシーンがありました。
 恐らく、本当に周りの人たちの心の思いが聞こえてしまって、それを自分でコントロールできなかったとしたら、とても社会生活なんておくれないと思います。
 でも、それとは別に、相手の本心を知ることができれば、先ほどのビールの話と同じように、相手の求めている行動を 100% とることができるので、相手との関係も良好になるのかもしれないなぁと思いました。
 結局のところ、自分にとっての感じのいい相手というのは、自分の思いをちゃんと理解してくれて、自分の求めている行動を説明しなくてもとってくれる人だと思うのです。
 ですから、相手の心を読む能力はなかったとしても、「今、この人は何を感じているのかな? 何を求めているのかな?」と、少しだけでも想像する癖をつけるだけで、対人関係は、飛躍的に良くなっていくのではないかと思います。
 もちろん、誰でも大切な人に対しては無意識的に気を使うだろうし、想像したって判らないものは判らない場合もあるのですが、それでも、普段から意識的に「相手の気持ちを感じる」ことを心がけることは、何よりも自分が生きやすくなるための近道ではないかと思います。

<2007-10-21>
 スカパーで始まった、アメリカのドラマ、HEROESの1〜3話を観ました。
 まだ話は始まったばかりなのですが、とりあえず、登場人物はみんな、何かしらの超能力を持っていて、その能力で地球を救う(のかな?)というストーリーみたいです。
 超能力を持っている登場人物のひとりが日本人の設定なのですが、ドラマの中に出てくる日本が、いい感じにずれていて、あぁ、アメリカ人の日本のイメージって、これなんだなぁと思いました。時計の数字が漢数字だったり、地下鉄がボックスシートだったり、会社の朝礼で変な体操(恐らく、ラジオ体操だと思われる)をしていたりと、間違った日本観がたまりません。(ついでに、その日本人の同僚のアンドウが話すめちゃくちゃな日本語も見所のひとつです)
 LOST しかり、4400 しかり、最近のアメリカドラマは、やたらと「不思議な力」で話を引っ張りますが、こういうのは、いよいよ超能力以外、欲しいものはなくなってしまった人たちの欲求から作り出されているのかもしれません。

<2007-10-20>
 4,5年前に自作したパソコンがあるのですが、安いマザーボードを使ったため、電解コンデンサが膨らんでしまいました。
 こちらのページにもあるように、一昔前のマザーボードで、台湾製の電解コンデンサが使用されている場合、当時の電解液の組成に問題があったらしく、長時間使用していると、ご覧の通り、コンデンサが膨らんだり、液漏れしたりします。
 そしてそのまま使用を続けると、パソコンが起動しなくなってしまいます。
 僕のパソコンはまだ正常に動いていますが、いくつかのコンデンサで液漏れも見つかったため、動かなくなるのも時間の問題。
 これを機に、パソコンを作り変えようとも思いましたが、ほとんどのパーツを流用できないし、今のマシンで全くストレスも感じていませんでしたので、電子工作には自信がありませんでしたが、腹を決めて、コンデンサだけ交換してみることにしました。
 通販で同容量の日本製コンデンサを購入し、近所のホームセンターで半田ごてと半田吸い取り線を購入。
 うまくコンデンサが外れなかったり、新しいコンデンサの半田づけが細かすぎて難しかったりと、予想以上に苦戦しましたが、どうにか16個のコンデンサの付け替えを完了しました。
 そして恐る恐るスイッチを入れると、無事にOSが起動しました。
 パソコンの突然死に備えて、みなさんも、一度パソコンの中をのぞいてみてください。
 意外に、膨らんでいるコンデンサって、多いみたいです。

<2007-10-19>
 顔にあったホクロが、年々大きくなっている気がして、思い切って皮膚科へ行き、レーザーで取ってもらいました。
 レーザーが発射された瞬間、バチッ、とかなり大きな音がして目をつぶっていても閃光を感じ、同時に皮膚のこげる匂い、そして痛みが走りました。
 小さいのもあわせて取ってもらったため、何発かこの、バチッ、を撃たれ、ようやく終了。
 今はホクロのあった部分がカサブタになっていますが、1ヶ月くらいで綺麗になるそうです。
 少しだけ、美容整形にはまる人の気持ちが解りました。

<2007-10-18>
 小島よしお がラジオで、「最近、そんなの関係ねぇ、に束縛されている」と言っていました。
 プライベートの会話で、「でもそれは関係ないんじゃない?」と言おうとすると、つい、ネタみたいになる気がして、相手が「茶化すな」と怒ってしまいそうで、このセリフを言えないそうです。
 当たり前ですが、あのキャラはすべて計算で、本当はすごく真面目な人なのだということが、ラジオからビシビシ伝わってきました。

<2007-10-17>
 僕は初めから亀田親子は好きではないし、今日の謝罪は謝罪になっていないし、きっとお父さんは反省する気などさらさらないと感じましたが、それにしても、メディアやボクシングファン(もしかしたら一般人も?)の亀田バッシングは異常に思います。
 きっと、誰しも生活の中に、そして過去の人生の中に、亀田親子のような存在がいて、亀田親子のようにビックマウスで、礼儀知らずで、いつもそんな存在から馬鹿にされて来たからこそ、今回の一件が人事ではなく、自分の人生とオーバーラップして怒りが倍増してしまうのでしょう。
 もっと国民が怒らなければいけないニュースって他にあると思うのだけれど、ある意味、すべてが暗示的に働いたのでしょうね。

<2007-10-16>
 「年中無休(年末年始を除く)」っていうの、形容矛盾ですね。
 「年末年始以外無休」って書くのが正解な気がします。
 まぁ、これはきっと、「いつ来てもやってますよ」というのをアピールしたいのでしょう。
 実家の近所のお寿司屋さんは、「年中無休(月曜定休)」という大胆な書き方をしていました。それって結構休みじゃん、と思うのですが、ここまで開き直られると、逆に許してあげたくなります。(^^;
 「年中無休(年末年始を除く)」や「年中無休(月曜定休)」の場合は、年中無休ということよりも、そのあとのカッコ書きの方が優先度が高いという暗黙の了解があるので、言いたい意味は伝わります。
 しかし、例えば公的な文書に父の名前を書かなければならなくて(もしくは、父の公的文書に僕が代理人として名前を書かなければならなくて)、隣に「続柄」や「本人との関係」とあった場合、「父」と書くべきなのか、「長男」と書くべきなのか、「親子」と書くべきなのか、一瞬迷います。誰目線で書けばいいのだろう、と。
 言葉って、矛盾していようが本来の意味から外れていようが、相手の意図が伝わることが一番大切だと思います。反対に、いくらその言葉が辞書的に正しくても、相手に正確に伝わらなければ意味がありませんね。
 僕はできるだけ正しい日本語を使いたいし、相手にも使って欲しいとは思いますが、言葉が心の思いを伝える道具である以上、やはり、伝わるか、伝わらないか以外の問題は、些細なことだと思っています。
 「役不足」とか「情けは人のためならず」は、本来の意味ではない使われ方をすることがありますが、文脈からどの意味で使われているのかはだいたい読み取れますから、その場はそれで良いのではないかと。
 年中無休の話に戻りますが、僕は形容矛盾マニア(笑)なので、「年中無休(月曜定休)」という書き方は、問題を感じません。むしろ、店主の人間味を感じます。
 困ってしまうのは、「年中無休」としか書いていないのに、月曜日に行ったら閉まっている場合です。
 言葉の正確さにはこだわらないけれど、内容の正確さにはこだわってしまうのです。

<2007-10-15>
 文字を見て、はじめて、あぁ、そこで切るのね、っていうことが時々あります。
 例えば僕は、「サイモンとガーファンクル」のことを「サイモント・ガーファンクル」だと思っていたし、「ホメイニ氏」のことを「ホメイニシ」だと思っていました。
 こういうのって、気がついた時には既にその語感が当たり前になっているので、変な違和感(二重形容)が一生残ってしまいます。

<2007-10-14>
 「ヨシアキは戦争で生まれ戦争で死んだ」という本を読みました。
 爆笑問題の太田がラジオで言った「まさかこの歳になって、二十歳の頃にしたような読書体験をもう一度できるとは思わなかった」という言葉に、純粋に、僕も二十歳の頃の読書体験をもう一度してみたいと思って購入しました。
 この本の主人公、スティーブ・ヨシアキ・フラハティは、終戦直後の1947年、アメリカ兵のレイプの結果、この世に生を受けました。母親の後田次恵は貧しさと差別からヨシアキを育てることが出来なくなり、三菱財閥の令嬢・澤田美喜が私財を投げ打って設立した“混血児のための孤児院”、エリザベスサンダースホームにヨシアキを預けました。
 その後、ヨシアキは11歳でアメリカへ養子に出され、ハイスクールではフットボールと野球の花形プレイヤーとして連日新聞を賑わし、メジャーリーグからスカウトされるまで才能が開花しました。しかしヨシアキの心には、絶えず「自分の居場所はどこなのか?」という思いがあったようです。そして21歳を迎えた時、彼は「アメリカ人になるため」にベトナム戦争へ出征し、戦死しました。
 僕はこの本を読みながら、ずっと胸がいっぱいで、ときどき目が潤みました。
 確かに、このような読書体験は、ここしばらくしていませんでした。
 もっとエリザベスサンダースホームのことが知りたくなり、図書館で数冊、関連書を借り、いま読んでいるところです。
 この本を読んで人生が変わったとか、生きる目的が定まったとか言う事はないのですが、忘れていたり、考えないようにしていたりした気持ちに、もう一度出会えた気がします。
 読書の好きな方は、是非、読んでみてください。
 帯に書かれた太田光氏の言葉を引用します。

「この本に出てくる人と、この本に関わる人の全てが太陽のように輝いている。奇跡みたいな幸福をもちいて綴られた悲劇。読んでいる時、ずっと光源のそばにいるようで楽しかった。不思議なのは、こんなに愛おしい人間が協力し行ったのが戦争であること」

<2007-10-13>
 今日はセラピスト仲間のカウンセリングルームで、勉強会をしてきました。
 お互いに普段しているセッションをしてみたのですが、誰かにゆっくり催眠誘導してもらうのは本当に久しぶりだったので、両手、両足の感覚が、痺れたような、重たいような、自分のものではないような感じに変化し、眠りに落ちる直前のふわふわした気持ちよさを、思う存分、味わうことが出来ました。
 寝る前に、自己催眠をすることはあるのですが、深いところまでいくと、自分でコントロールできずに意識がなくなってしまうことがあるので、やはり、他者に誘導してもらうと楽だし、とても気持ちが良いなぁと、改めて、催眠のリラクゼーション効果を実感した一日でした。

<2007-10-12>
 例え話をするとき、直喩にするか、暗喩にするか、という選択があります。
 直喩というのは、「○○は□□のようだ」と直接比較して例えることを言い、暗喩というのは、そのような対比形式で例えないで暗示的に訴える表現方法のことを言います。
 ミルトンエリクソンは「心理療法とは何ですか?」とうい質問に対し、迷い馬の例え話をしました。
 彼が子供のころ、一頭の馬が、鞍をつけたまま、道を歩いていたそうです。エリクソンはその馬が、誰の馬か、どこから来たのかを知りませんでしたが、馬にまたがり、その馬を持ち主のところまで送り届けました。持ち主は帰ってきた馬を見て非常に驚き、「どうしてうちの馬だとわかったのですか?」とエリクソンに質問しました。エリクソンはこう答えました。「もちろん、私はお宅を知りませんでした。でも、この馬は知っていました。私はただ、馬にまたがって、馬が道草を食べようと道から外れようとするたびに、馬を道に戻しただけです」 そしてエリクソンはこう続けました。「私は心理療法というのは、そのようなものだと思うよ」
 このエリクソンの例え話は、暗喩ではなく直喩です。もし彼が、「心理療法とは何ですか?」という質問を受けていない場面で、誰かに心理療法を解らせようとこの話をし、更には、「心理療法というのは、そのようなものだと思うよ」とは結ばずに、ただの雑談のように話したとしたら、それは暗喩になると思います。
 一般に、エリクソンの影響を受けた人々や心理療法家は、直喩よりも暗喩を使うべきだと考えているように思います。
 確かに、直喩の場合はメッセージを理性が受け取るので、暗喩よりも抵抗を受けやすいことがあるのかもしれません。一方、暗喩の場合は、無意識に語りかけるので、抵抗を受けずに、相手が気がつかない間に相手の行動や気持ちにアプローチすることができるのかもしれません。
 どちらを使うべきかはケースバイケースで、何が何でも暗喩を使うべきだとは思わないし、いつも直喩である必要もないと思いますが、僕はどちらかと言うと、直喩の方が好きです。何故かと言うと、暗喩というのは、相手に気づかれた場合、すべてが台無しになって、余計に相手が心を閉ざしてしまうことがあると思うからです。
 暗喩はそれと気がつかれた時、強烈な嫌味に聞こえる場合があります。(もちろん、上手な暗喩は気がつかれてもそうは受け取られないのかもしれませんが)
 また、日本人は、ただでさえ、言葉の裏を読む民族なので、せっかく無意識に投げかけた暗喩が、結局は理性で受け取られてしまうことが多いように思います。
 暗喩が本当に効果を発揮するのは、子供だと思います。物語に散りばめられたメッセージは、自然に子供の心に吸収されていきますね。一方、大人は子供のように、物語をそのままで吸収する力が衰えている場合があるので、この人はこの話で何を言いたいのだろう?、などと考えてしまうことがあります。
 相手が大人の場合、あえて直喩にすることで、逆にメッセージが受け取りやすくなるのではないかと僕は思っています。
 催眠も同じです。
 直接的な暗示をするか、間接的な暗示をするか。
 指示的な誘導をするか、間接的な誘導をするか。
 どちらも、後者の方が新しく、優れているとされている気がしますが、僕は意外に、前者の方が日本人には合っているのではないかと思っています。
 人間って、制限されたり指示されたりするのが心地良いときがあると思うんです。
 例えばワークショップなどでパートナーを決めるとき、僕は「自由に相手を決めて練習してください」と言われるよりも、「この列の人はこの列の人と組んでください」等、相手を強制的に決めてもらった方が、はるかに楽です。自由に相手を選べるということは、自分に合いそうな人、練習しやすそうな人を選べる可能性があるのですが、それを差し引いて考えても、決めてもらった方が楽です。
 「あなたの手は上るかもしれないし、下がるかもしれませんし、そのままそこに留まるかもしれません」という言い回しは、一見、抵抗を受けず、失敗が少ないように聞こえますが、「どうしろって言うのよ!」とその言い方自体に反発を覚える人も少なくないし、「手が上がります」と断言してもらった方が気持ちよく反応できる人も、案外多いのではないかと思います。

<2007-10-11>
 亀田大毅は切腹するなんて言っちゃって、どう言い訳するんでしょうか?
 ビックマウスも仕事のうちと言っても、この負けはかっこ悪いですねぇ。
 僕が思っていた以上に、アンチ亀田が多いのには驚きました。日本人にはまだ、謙遜を美徳とする文化があるのかもしれません。
 内藤選手は実力差があると言っても、一発いいのが入っちゃったら負けてしまうわけですから、相当なプレッシャーがあったと思います。本当に勝てて良かったですね。(^^)

<2007-10-10>
 良いマジックには3つの条件があるそうです。

1.これから何をするのか予告しない。
2.リクエストされても、その場でもう一度同じマジックをしない。
3.絶対に種明かしをしない。

 この3つの条件、マジックだけじゃなくて、いろいろな場面で使えそうですね。
 つまり、1.突然のサプライズ、2.同じことを繰り返さない、3.幻想を壊さない、ということだと思います。
 例えば誰かにプレゼントをあげるときもそうだし(1.プレゼントのことを全く匂わせないで、2.以前あげたものと同じようなプレゼントはせず、3.どこで買ったとか、何と迷ったとかいう現実的な話はしない)、人前でスピーチやプレゼンをするときもそうだし(1.タイトルからは想像もつかないような展開をして、2.相手がもっと聞きたいと思うくらいで話をやめ、3.許されるならば、揚げ足を取るような質問はユーモアを交えて受け流す)、ここぞという営業の現場でも使えそうです。(1.お客様がびっくりするようなオファーを提示して、2.二度と同じようなオファーはせず、3.この営業さんに任せておけば間違いない、という期待を裏切らない)
 先日、甥と姪の前でコインを消すマジックを披露したのですが、あまりにも純粋な目で(結構しつこく・笑)「教えてー」「教えてー」とせがまれたので、つい、種明かしをしてしまいました。
 小学生や幼稚園児相手に、「手品の種を聞くのはマナー違反なんだよ」ということをちゃんと説明できる自信もありませんでしたので。
 すると一番上のお兄ちゃんが、「手品の種を教えちゃうのは、いいマジシャンじゃないんだよ」とニコニコしながら教えてくれました。
 最近、ダブルバインド(治療的ダブルバインドではなく、否定的ダブルバインドです)のことをよく考えているからかもしれませんが、こんな子供でも、平気でダブルバインド的な状況を作るんだなぁと、ちょっと驚かされました。
 いや、子供だからこそ、平気でダブルバインドをするのかな。

<2007-10-9>
 日曜日に、夏の間に伸び放題になっていたブルーベリーをばっさりと剪定しました。
 剪定枝がもったいないので、時期じゃないのですが、挿し木をしてみました。
 4品種、各20本ずつの挿し木で、計80本!
 来年の今頃にはそれなりの苗になっているはずなので、フリマデビューをしようかと思っています。
 ちなみに挿し木をしたのは、ティフブルー、ブライトウェル、パウダーブルー、バルドウィンの4品種です。

<2007-10-8>
 相手の話を最後までちゃんと聞くって、難しいですね。
 それやっちゃうと、こっちの言いたいことが全く言えなかったり、相手の言い分がすべて通ってしまうのではないかという、不安を感じるからだと思います。
 実際、「よし、今日は聞こう」と決心すると、最後まで相槌以外、一言も話せないで会話が終わってしまうこともあります。
 でも、本当はそれでもいいはずです。相手がそれで気持ちがいいのなら、そして自分に実際的な被害がないのなら、自分は一言も話せなくても、相手の言い分が全部通っても、話したいだけ話させてあげるのが、大人の対応な気がする。それで本当に相手がこちらに話をさせなかったとしたら、それは相手がまだ、気を使う事を知らない子供だということです。そんな子供は、同じような子供とぶつかって、大人になるしかないと思う。
 もし、自分に何らかの価値があるとしたら、黙っていても、相手の方から話を求めてくるはずですから、「こっちの言いたいことを言えるのだろうか?」などと、心配する必要はないのです。
 おしゃべりが止まらない人、相手の話をちゃんと聞けない人は、自分の存在価値に絶えず不安を感じている人なのかもしれません。
 こんなことを毎日書いているのは、決して僕が、ちゃんと「話を聞ける」人間だからではなく、恐らく、そうなれない瞬間がときどきあるからだと思います。中途半端に相手の技を受けまくっているせいで、少しずつ心に、おりのようなものが溜まっているのかもしれません。

<2007-10-7>
 昨日の続きです。
 誰でも会話するとき、自分の中に大まかな起承転結(話の組み立て)があって、それをたどって話し始めると思うんです。だから、例え「起」のところで相手に隙があって、「それ違うよ!」と反論できたとしても、そこをぐっと我慢して、相手に続きの「承転結」を言わせてあげる。
 揚げ足をとったり、相手の言いたかった「結」を先読みでこちらが言ってしまったりするのは、非常にデリカシーの無い行為なのではないかと思います。
 例えその話を知っていても、知らないふりをして最後まで聞いてあげるのが優しさかなぁと思います。
 また、いくら相手が受けてくれているからと、一方的に攻撃する(話し続ける)のも、試合をしらけさせます。プロレスの基本は技の応酬ですから、ある程度自分が責めたら、今度は相手に思う存分技をださせてあげる(話させてあげる)ことで、試合は成立するのです。
 話すことって気持ちいいので、誰でも、聞くより、話したいんですよね。
 偉い人になればなるほど、自分は偉くて知識があるのだから、みんな自分の話を聞きたがっているという錯覚を言い訳に、人の話を聞かずに話し続けるように思います。しかし、試合時間も計算できずに、一方的にダラダラ技を出し続けて、結局時間切れ引き分けのような試合をするレスラーは、決して良いレスラーではありませんね。

<2007-10-6>
 これから書くことは、プロレスというエンターテインメントの仕組みを正確に理解し、それでいて楽しめる人ではないと、大きく誤解される可能性があります。また、比喩も、ある部分、出鱈目で、完全に対応してさえいないです。伝統的催眠(古典催眠、指示的アプローチ、whatever)をしている人からも、現代催眠(エリクソニアン催眠、間接的アプローチ)をしている人からも、更にはNLPやコールドリーディング、その他の心理テクニックを実践している人からも反感を買うかもしれない文章を書きますし、偏見もあるかもしれません。ただ、リアルファイトに対するプロレスの素晴らしさ、面白さをちゃんと理解している人にとっては、共感いただける部分が少なからずあるのではないかと思っています。
 プロレスをよくご存じない方のために、簡単に説明しますが、プロレスは、総合格闘技のようなスポーツ、リアルファイトではなく、あくまでショーです。筋書きがあり(無い場合もあるようですが、どちらにしても、真剣勝負ではありません)、不可解な約束事があり、平気で破られる、とりあえずのルールがあります。極論すれば、プロレスは、遊園地やデパートの屋上のウルトラマンショーが洗練され、手加減はあるにせよ、基本はフルコンタクトで行われる格闘ショーということになります。勝ち負けが問題なのではなく、あくまで、試合が盛り上がり、観客を興奮させ、感動させ、勇気を与えることが目的です。
 プロレスが成立する最大の要因は、よけようと思えばよけられる相手の技を、あえて「受ける」ことにあり、この、わざと相手の技を受ける行為をセルと呼びます。プロレス技が総合格闘技で滅多にお目にかかれないのは、相手が技を受けてくれないからです。つまり、相手の協力があってはじめて、プロレス技は決まるのです。
 ロープに振った選手が必ず返ってくるのも、場外にいる選手が、相手選手のトップロープからのダイブをよけないのも、プロレス的な約束事であり、素人目から見ても勝負の世界ではあり得ない、不自然な動きなのですが、それらの約束事があって初めて、プロレスはショーアップされるのです。
 プロレスは、格闘のスタイルをとっていますが、実は勝負事とは正反対に、信頼関係の上に成り立っています。相手が技を受けきってくれると信頼しているからこそ、トップロープから思い切り飛ぶことが出来るし、相手がちゃんと受身を取ってくれると信頼しているからこそ、思い切り蹴り、思い切り投げられるのです。
 一方、全ての格闘技は、基本的にリアルファイトです。興行ですから、試合が盛り上がるに越したことはありませんが、それでも、選手にとって大切なのは「勝つ」ということだけです。ですから、よけられる相手の技はよけますし、間違っても試合を盛り上げるために、わざと相手の技を受けたりはしません。仮に相手の技を受けるそぶりを見せたとしたら、それは技を受けるためではなく、返し技を狙うためのエサとしての行動です。
 このように、プロレスとリアルファイトは、同じように殴って、蹴って、関節をきめたところで、その思想は正反対なのです。
 さて、ここからが本題です。
 日常のコミュニケーションって、基本はリアルファイトだと思います。そしてそのリアルファイトで勝つために、NLPという名のグレーシー柔術があり、エリクソン催眠という名のコマンドサンボがあり、コールドリーディングというムエタイがあり、シュートボクセアカデミーやブラジリアントップチームのような多くのスクールやセミナーがあるわけです。(このあたりはただの例えです。全く深い意味はありません。不適切だったらごめんなさい) そして、古典催眠(面倒くさいので、伝統的な催眠や指示的アプローチ、現象を重視する催眠なんかを、便宜的にこう呼びます)は何かといったら、僕はプロレスだと思うのです。
 ですから、リアルファイト(日常生活)で勝ちたかったら(相手をコントロールしたかったら)、古典催眠よりも、NLPやエリクソン催眠、コールドリーディングやディベート術なんかを学んだ方が、ずっと役に立ちますが、注意して欲しいのは、例えば自分がNLPで黒帯だったとしても、それで大抵のリアルファイトに対応できるかと言ったら、全くそんなことはないということです。相手もNLPの黒帯かもしれないし、ディベートの達人かもしれないし、営業の天才かもしれません。また、初期のUFCで小柄なホイス・グレーシーが圧倒的な強さで優勝したにも関わらず、その後、グレーシー柔術対策が研究され、グレーシーがどんどん勝てなくなっていったのと同じで、NLPの各テクニックは、今やビジネス書でも紹介されており、無意識に働きかける多くのテクニックが、今では相手に意識化され、思ったような効果を発揮できないという現象も起こっているように思います。
 「ビジネスで役立つ」「信頼関係が短時間で築ける」「説得力が増す」という効果は、確かに「何も知らない相手」に対しては、ある程度あるかもしれません。しかし、相手には相手の人生経験があり、目的があるのですから、当然、100%有効な、完璧なテクニックなど無いわけです。不意打ち的に効果をあげることはあるかもしれませんが、それは時間とともに、有効ではなくなる可能性があります。「オレオレ詐欺」の手口を知らない人は、びっくりしてお金を振り込んでしまうこともあるかもしれませんが、これだけニュースで騒がれた今となっては、引っかかる人は以前ほど多くない、というのと同じことが、多くの心理誘導にも言えるのではないかと、僕は思います。
 また、ビジネスは別かもしれませんが、家族や友人、恋人との関係は、決してコントロールされるか、されないか(つまり、リアルファイトで言うところの勝つか、負けるか)ではないように僕は思うのです。試合の勝ち負けよりも、むしろ、試合が盛り上がるか、気持ちよく試合が出来るか、お互いの持ち味を十分出せるか、の方が、よっぽど重要な時があるような気がする。
 そこで僕は皆さんに、プロレス的コミュニケーションをお勧めしたいのです。
 こちらの言い分をいかに通すか、相手をいかにコントロールするか、自分がいかに優位に立つか、という、リアルファイトなコミュニケーションは卒業して、あえて相手の技を受け、相手の技を受けることで、相手のよさを引き出してあげる。ロープに振られたらちゃんと返ってきてあげて、相手がトップロープにのぼったら、信頼してトップロープからダイブできるよう、逃げずに受けとめてあげる。そうすることで、試合(コミュニケーション)を組み立て、盛り上げ、お客さん(お互いの気持ち)を興奮させ、感動させる……。プロレス的な信頼関係ができると、今度は相手も、こちらの技を受けてくれるようになります。最終的に、形式上の勝ち負けはつきますが、目的はそこにはなく、試合が盛り上がること、試合を楽しめることにあるので、お互いにその勝ち負けは何でもなくなります。
 良いプロレスラーと言うのは、決してシュート(リアルファイト)の強い選手ではなく、セル(受け)の上手い選手のことを言います。かつてアントニオ猪木は、「ほうきが相手でも名勝負をすることができる」と言われましたが、僕はコミュニケーションが上手な人も同じだと思っています。
 相手が全く知識のない人でも、無口な人でも、論理的な会話の出来ない人でも、矛盾だらけの人でも、明らかに間違った考え方をしている人でも、リアルファイトのようにいきなり相手を叩きのめすのではなく、相手の稚拙な技を華麗に受けることで相手を光らせ、相手の良さ、言い分を全て引き出し、試合を盛り上げた上で、相手が受けきれる技を繰り出す。相手が、普段は出来ないような技の応酬を楽しみ、コミュニケーションを楽しむ場を提供する。そして勝つ必要があれば、フィニッシュホールドなのですが、このフィニッシュホールドも、完全なノックアウトではなく、時にはスモールパッケージホールドやジャックナイフ式えび固めのような、相手が負けても傷つかないような、偶然を装えるような技にしてみる。
 もちろん、リアルファイトをするべき相手にプロレスをする必要はありませんが、自分の大切な人には、是非、プロレス的コミュニケーションをしてみてください。相手が大切な人の場合、自分が正しいからと言って、やみくもに真実を振り回せば、相手を傷つけてしまう可能性があるからです。
 先ほど、古典催眠はプロレスだと書きました。
 古典催眠は使えない、という人がいらっしゃいますが、それはリアルファイトの視点から見れば正しいかもしれませんが、お客さんの満足度という点から言えば、正しくはありません。
 古典催眠には、プロレス的様式美が多くあります。プロレスならではの大技と同じように、現代催眠ではお目にかかれない大技を楽しめます。リアルファイト的な心理誘導が、誘導側の一方的なテクニックの上手下手にかかっているのとは対照的に、古典催眠は文字通りの「セッション」であり、ふたりで催眠を組み立てます。
 もちろん、リアルファイトを否定しているわけではありません。
 リアルファイトの圧倒的迫力は、見るものを魅了します。
 しかし、力の拮抗した中途半端な選手同士の行うリアルファイトは、試合が噛み合わず、どちらも仕掛けず、また、仕掛けても膠着するばかりで、全く楽しめません。リアルファイトは、ある程度、力の差があるからこそ、名勝負が生まれるのです。そして、誤解を恐れずに言えば、本当の意味で相手の心をコントロールできるような心理テクニックを使える人間など、僕はほとんどいないのではないかと思っています。
 プロレスファンが一番盛り上がる試合って、どんな試合か知っていますか?
 それは、総合格闘技に挑戦したプロレスラーが、専門家の予想を覆して圧倒的強さで勝利する試合です。
 「八百長だと格闘技ファンから馬鹿にされていたプロレスラーが、本当は強かったんだ!」という衝撃こそ、プロレスファンにとっては最高の喜びです。
 初めにお断りした通り、めちゃくちゃな例えになってしまいましたが、少しでも、コミュニケーションにおいてプロレスをしてくれる人が増えることを、願っています。

<2007-10-5>
 総合格闘技PRIDEの運営会社が解散しました。
 フジテレビの契約を切られた時点で継続が難しいのは分っていたのですが、これで完全に消滅してしまったのかと思うと、やっぱり悲しいです。
 ちょうど10年前、高田がヒクソンと試合をする場として誕生したPRIDE。
 桜庭ホイスの名勝負、ボブチャンチンとキテレツな通訳、ボブサップ襲来、ミルコの衝撃……。
 何もかもが懐かしいです。
 HERO'Sは、どんなに豪華な選手が出ていても、何故か楽しめないんですよね。
 今年の大晦日は、何を観ようかな。

<2007-10-4>
 以前録音した、おぎやはぎ のラジオを聴いていたら、矢作が中学のときにプールで食べたチーズドッグが美味しかった、という話をしていました。番組では、実際にチーズドッグを試食して、「あぁ、これこれ!」と、なつかしの味を楽しんでいました。
 そんな様子を聴いていたら、何だか無性にチーズドッグを食べてみたくなって、仕事帰りに近所の生協で買ってきました。
 恐らく、チーズドッグを食べるのは生まれて初めてだったのですが、これ、美味しいですねぇ。
 ホットケーキの中にチーズを入れたような味で、この組み合わせで不味くなるわけがない、という感じでした。
 探して食べるほどのものではないかもしれないけれど、冷凍食品コーナーで見つけたら、みなさんも是非、試してみてください。
 甘さとチーズの味が絶妙で、後引く美味しさです。

<2007-10-3>
 今日は手抜きで、聖書の中に出てくる、パウロと言うキリストの弟子の書いた書簡の一部を掲載します。
 これは、「愛の賛歌」と呼ばれている箇所で、僕は常々、「こうありたいなぁ」と、結構本気で思っています。実践には程遠いけどね。(^^;
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 たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
 不正を喜ばずに真理を喜びます。
 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
 愛は決して絶えることがありません。

<2007-10-2>
 催眠の入門書に「自信を持って誘導しましょう」というようなことが書いてあります。
 例えば、相手の腕を暗示で固めたい場合、誘導する側が「固まるのかな?」と不安な表情で、自信なく誘導すると、その空気が伝わって、固まるものも固まらなくなってしまいます。
 まずは誘導する側が、「絶対固まるんだ!」と信じることが、成功させる重要なファクターなのです。
 また、「権威暗示」という言葉もあります。
 相手が自分の尊敬する人だったり、その道の達人だったり、有名人だったりすると、それだけで、その人の言っていることは何でも正しいのだ、と錯覚してしまい、言った通りになる、というような状態、また、その「権威」を利用してする誘導や暗示を「権威暗示」と呼ぶようです。
 見ず知らずで年下のパッとしない人に「腕が固まる」と言われても、「は?」という感じかもしれないけれど、自分より人生経験があって、テレビにもたくさん出ている有名な催眠術師が、しかと目を見つめて、「腕が固まる!」とやった方が、当然、圧倒的に成功するであろうことは、想像に難しくありません。
 でもね、僕はこの、「固まると信じて誘導しなさい」というのや、権威暗示を利用するために、躍起になって大風呂敷を広げたりするのは、何だか違うんじゃないかと最近思うんです。
 僕のページにも、もしかしたらそういう空気があるのかもしれないけれど、ネット上の数々の催眠関連のページを読むと、それこそ、催眠は魔法のように、何にでも効果があるように書かれているし、実際に相手の話も聞く前に「恐怖症はだいたい2−3回で改善します」と断言してしまうところもあります。
 そして困ったことに(?)、それを本気で信じて、期待すればするほど、実際にそういう風に良くなる可能性が高くなるわけですから、「あなたはここで良くなるのだ!」という空気を作って、その気持ちを煽ることは、もしかしたら、間違っていないのかもしれません。……が、それでも、できないかもしれないことをできると言い切っちゃうのはどうなんだろう?
 経験上、決して人間は誰でも、腕が固まるだけの被暗示性を持っているわけではなく、それこそミルトンエリクソンが誘導したところで、固まらない人は固まらないわけです。
 それが分かっていながら「絶対固まる!!!」と無根拠に信じるのって、自己矛盾というか、精神衛生上よくないというか、ちょっと恥ずかしい行為というか、……うーん、何て表現すればいいんだろう、とにかく居心地が悪い。
 もちろん、信じた方が成功率は格段に上がります。これは事実です。自信がないときは失敗するし、自信があるときは成功するんです。でもこれも、ニワトリと卵の関係と同じで、直感的に「この人は固まる」と感じたから信じられたのかもしれませんし、直感的に「この人はダメだろう」と思っているのに無理に「いや、大丈夫だ」と思いこんだところで、やっぱりそれは自信がない裏返しだから、失敗するのかもしれない。
 最近は年をとったせいか、セミナーなどで腕固めに失敗しても、「あぁ、この人の無意識は、腕なんて固めて欲しくないんだなぁ」と思ってしまうので、誘導するときも、「望んでいればうまくいくし、望んでいなければうまくいかないんだよねー」という気持ちになります。
 催眠誘導する際、「絶対に成功するんですよ」という空気を出すことはとても大切です。事前にお話しする際に「まぁ、これも半分の人は失敗するんですけどね」なんて話をすると失敗する確率は高くなりますし、「失敗なんてあり得ない」という感じの話をすると、成功する確率が高くなります。
 結局、誘導する側もされる側も、心からそれが成功することを信じることが大切で、そのための「自信過剰」だし、「空気作り」だし、「権威暗示」だし、「大風呂敷」なのだと思う。
 なんだか何度も話がループしていますが、それでも、そういう計らいって、最近はどこか不純な気がして、そういう誘導からは卒業して、もっとお互いに楽な誘導を探していこうと、そんなことを考えています。
 相手が催眠による解決を求めている場合、お互いに信じるとか信じないとか、そんなの関係なしに成功することが、一番自然だし、お互いに負担のないやり方であるのは、間違いないのですから。
 マギー司郎みたいな催眠使いになりたいですね。
 「あれ、これ山梨ではもっとうまく行ったんだけどね」とかボソボソ言いながら、最後は大団円で終わる、みたいな、そんな風になりたいです。

<2007-10-1>
 夜、ジョギングをしていたら、近所の空き地で3匹の猫が、猫会議をしていました。
 ゆっくり近づくと、2匹は警戒していつでも逃げられるように緊張していたのですが、1匹だけは小走りで近寄ってきて、僕の脚にスリスリ体をこすりつけ、撫でてあげるとゴローンと寝転がってグルグルと甘えてきました。
 走っていて猫に出逢うたび、立ち止まって声をかけてみるのですが、大抵は警戒して逃げてしまいます。このようにあからさまにフレンドリーな猫は珍しく、とてもかわいかったです。
 猫を撫でているときの幸せな感じって、冬の寒い日に、カマクラの中で温かい物を食べているような、そんな感じに似ている気がします。僕は今まで、カマクラで温かい物を食べたことはないのだけれど、なんとなく、イメージで。
 外は寒くても、吹雪いていても、その瞬間は守られていて、暖かくて、外の寒さを忘れさせてくれる……。
 上手くいえないけれど、猫はそんな気持ちにさせてくれます。

<2007-9-30>
 昨日の「催眠のかけ方セミナー・中級編」にご参加いただいた皆様のアンケート内容を掲載いたしました。
 こちらです。

<2007-9-29>
  「催眠のかけ方セミナー・中級編」にご参加いただいた皆様、本日は本当にお疲れ様でした。
 多くの方から、次回はいつですか?、と声をかけていただき、とってもとっても嬉しかったです。何よりものお言葉でした。(次回はいつですか? も、広義の意味でダブルバインドですね) 
 残念ながら、次回の日程はまだ決まっていませんが、決定次第、ご連絡いたします。
 参加者の皆様の中に、催眠に詳しい方が多くて、正直、僕が教えるまでもないのかな、と言う気持ちが今はあり、次回は違うタイプのセミナーをしようかとも思っています。よって、上級編は少し先になると思いますが、気長に待っていてください。
 3000円の本の話、何が間違いか解りましたか?
 抜き打ちテストのパラドックス(死刑囚のパラドックス)、秋の夜長に、是非、ネットで検索して、納得のいく答えを探してみてください。(僕はそれこそ、1週間くらい、この問題が頭から離れませんでした)
 電話 → ?
 ねぇ、まだなのー?
 今日、何が一番面白かったか(ダブルバインド・笑)、こっそり教えてくれると嬉しいです。
 本当にみんな、ありがとう!

<2007-9-28>
 いよいよ明日、セミナーです。
 参加者の皆様、今晩はゆっくりお休みくださいね。
 遅刻なきよう、お願いいたします。
 単独で行うセミナーはこれで3回目ですが、今はコアブースターに乗ったセイラさんの気分です。
 「慣れていくのね……。自分でもわかる」

<2007-9-27>
 「催眠のかけ方セミナー・中級編」に参加される皆様に、ひとつ、宿題です。
 落ち込んで元気のない人を、元気づけるためにかけてあげる「言葉」を考えてきてください。
 もし難しかったら、自分が元気がないときに、どんな言葉をかけてもらったら嬉しいかを考えてみてくださいね。

<2007-9-25>
 29日のセミナーでは、催眠の他に、記憶術のワークを行います。
 前回も簡単なワークをしましたが、今回はちょっとみっちり(形容矛盾!)やりますので、お楽しみに。(^^)
 僕はこのテクニックを知ってから、本当に生活が楽になりました。
 今回練習するテクニックは、恐らく、5分もあれば習得できるのですが、効果は絶大です。
 何故これを、小学生のうちに教えないのだろう、と不思議に思いますし、僕自身、もっと早くに知りたかったです。
 学生の頃に知っていたら、試験勉強であんなに苦しまなくて済んだのに……。
 記憶術にはいくつかのテクニックがあり、今回のテクニックは一番ベースになるテクニックです。
 それ以外にもお教えしたいテクニックがあるので、いつか、記憶術だけのワークショップをできたらなぁと思っています。(記憶術に、それだけのニーズがあるかどうかは、未知数ですけど)

<2007-9-23>
 「催眠のかけ方セミナー・中級編」ですが、残席が5席になりました。
 今回も、大体1/3ほどが女性参加者ですので、女性の方も安心してお申し込みくださいね。
 (ワークは完全に女性同士、男性同士で行います)
 初級編では、いかに催眠に入れるか、を重点的に勉強しました。
 中級編では、催眠に入れた後、何をするのか、という話をしたいと思っていたのですが、まだまだ紹介したい誘導技法があり、また、いわゆる「トランス」に入れずに暗示を入れるテクニックも今回はご紹介したいと思っていますので、催眠に入れた後、何をすれば良いのか(例えば、不眠解消のためには、どのようなアプローチをすればよいか)、といった話は、更に次回のお楽しみ、ということになりそうです。
 催眠に対する誤解のひとつは、「催眠に入ればどんな暗示でも入る」というものだと思います。
 ですから、初心者向けの多くの催眠習得本や催眠セミナー、スクールは、催眠に入れる方法や、手を固めたりの現象を起こす方法を教えてくれることはあっても、じゃあ、催眠に入れた後に、何をすれば相手の問題にアプローチできるのか、という部分は、ほとんど教えてくれません。
 恐らく、「3つ数えて暗示をすればその通りになるのだから、大切なのはいかに催眠に入れるかだ」という思いが催眠を勉強したい人の心の中にはあるので、「入れた後に何をするのか?」という部分は軽視されがちなのかもしれません。
 もしくは、前世療法をする人は、前世さえ見せれば問題が解決する、と思っているかもしれませんし、旧来的な催眠療法のイメージとしては、原因をただ思い出せばカタルシスを得られて症状が消える、と思われているのかもしれません。
 だからこそ、いかに催眠に入れるかが重要視されるわけです。
 しかし、とても被催眠性の高い人が不眠で悩んでいて、誘導したところ、嘘みたいに催眠に入り、「3つ数えて指を鳴らすと、あなたは眠ってしまいます」という暗示に100%反応し、更には、自己催眠でも100%寝付けるようになったら、それで問題解決かといったら、それで問題解決な人もいれば、そうでない人もいるわけです。不眠が再発することもあれば、他の症状がでることもあり得ます。
 となってくると、大切なのは、いかに催眠に入れるか、ではなく、催眠に入れた後、何をするのか、ということかもしれません。そして、もしそちらが重要なのであれば、果たして催眠に入れる必要はあるのか、という疑問も当然浮かんできます。そこで出て来るのが、フロイトの自由連想法や、現代の多くのブリーフセラピーです。
 29日のセミナーでは、「いかに催眠に入れるか」「いかに暗示を入れるか」の話に始終することと思いますが、是非、催眠誘導が得意になって、その先にある、「催眠に入りさえすれば良いというわけではない」という現実を実感し、「催眠に入れたはいいけれど、ここからどうすればいいの?」という壁を越え、更には「自分は催眠で何をしたかったのか、何をしようとしているのか」という、目的を再確認するための、最初の一歩にしていただければと思います。

<2007-9-22>
 ブルーベリーに水をあげていたら、突然、ラジオ体操第一の前奏に、英語の歌詞を思いつきました。
 ♪ I am Japanese.
       We are Japanese.
       Let's talk our history and see what is going on. ♪

<2007-9-21>
 生きてるって、何でしょうねぇ。
 答えなんて出ないのだけれど、考えずにいられません。
 人間が死ぬ存在でなければ、きっと生きることに対する意味づけはずっと楽だったと思うのだけれど、結局、誰もが死にますから、難しいです。

<2007-9-20>
 古代イスラエルの王、ソロモンは、神様から「何でも願うものを与えよう」という、これ以上ない申し出を受けたとき、「それでは知恵をください」と、頓知のきいた返答をして神様を喜ばせました。そして実際に知恵を授かり、イスラエルは大いに繁栄しました。
 もしこのような境遇に立たされたら、僕だったら、どうでもいいような、何のためにもならないようなものを熟考の末に求めて、神様をがっかりさせ、大して生活に変化もなく、チャンスを台無しにしてしまうのだろうなぁと思います。
 となると、そんなときには、無難に「知恵」を求めておいた方がいいのかな。
 いや、誰にでも分け与えられるような「大きな愛」というのもいいですね。
 いやいや、でもやっぱり、知恵です。
 知恵、最強。
 あー、でも、そこまで知恵があったら、もしかしたら寂しい人生になるのかもしれませんね。
 周りのみんなが馬鹿に見えて、誰も自分を理解できなくて、世の中の仕組みが全部わかってしまって。
 「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」とソロモンは言っています。

<2007-9-16>
 小島よしお がネタの途中で言う、「チントンシャンテントン」。
 僕はずっと、「嫉妬しちゃって、ドーン」だと思っていました。

<2007-9-15>
 今日はあるセミナーで30分ほどお話をしてきました。
 前回30分のお話をしたときもそうだったのですが、用意した原稿の内容をお話し終わると、ほぼぴったり30分でした。
 事前に計算したわけでもなく、練習したわけでもなく「だいたいこんなもんだろう」と思って用意しただけなのに、自分でもびっくりです。
 何だかよく解らないけれど、「与えられた時間ぴったりに話す分だけの原稿を用意する才能」が僕にはあるのかもしれません。

<2007-9-14>
 イベリコ豚の子豚は、イベリ子豚? イベリコ子豚?

<2007-9-13>
 9月29日(土)開催の「催眠のかけ方セミナー・中級編」ですが、おかげさまで残席が10席になりました。
 前回が演舞(プロレス)だとしたら、今回は若干、総合格闘技テイストの誘導方法も混ざっていて、より実践的な内容になっています。
 個人的には、選手同士が協力して試合を成立させるプロレスの方が僕は好きですけど、ベースとして格闘技の技術は持っていて損はないかな、と。
 15日に他のセミナーでお話をするのですが、それを境に席が埋まってしまう予感がするので、参加を迷っていらっしゃる方がいらっしゃいましたら、お早めにお申し込み下さい。
 迷わず行けよ。行けば解るさ!

<2007-9-12>
 ネットで購入した「ノートパソコン冷却台」が届いたので、早速使っています。
 MobileMaterというソフトを使って使用前のシステムの温度を計測すると、52℃。
 スイッチを入れてしばらく経つと、それが44℃になりました。
 数字的にはあまり変化がないようにも見えますが、実際に触ってみると、特にパソコンの裏面の温度は劇的に下がっています。
 もともと、僕のノートは、触っていられないほどパームレストの部分が熱くなるマシンではありませんでしたが、裏面の温度がとても高く、壊れるのではないかと心配していました。
 ノートが熱い、とお悩みの皆様、これ、お勧めです。

<2007-9-11>
 愛車のダイハツMAXが9月で車検のため、ユーザー車検をしてきました。
 普通車の検査場と違い、軽の検査場は狭い、そして古い……。
 戦前の市役所(って行ったことないけど)のような雰囲気で、いかにもお役所仕事という感じでした。
 一度に必要書類を全部渡してくれれば、一度に記入して出すのに、小出しに「はい、次は○番で○○をしてもらってください」みたいなのが何回かあり、住所や車両番号もいろいろな用紙に何回も書かされ、こんなの電子化して自動で出来ないものかなぁと思いました。
 検査ですが、検査官がすごく怖いおじいちゃんで、何を指示しているのか聞き取りにくく、「ほら、言われたとおりにしなさい!」と怒られながらも何とか終了。最後の検査が終わって検査表を返されたときには、一緒に新しいステッカーと更新された車検証も渡され、検査レーンからそのまま帰宅できるという、最後だけはものすごく合理的な終わり方でした。

<2007-9-10>
 あまりにノートパソコンが熱いので、「ノートパソコン冷却台」というのを買ってみました。
 Amazonの評を見ると、安い割には結構効果がありそうなので、ちょっと楽しみです。

<2007-9-9>
 一番大切にしていた「デライト」という品種のブルーベリー。
 ふと気がつくと、元気がありません。葉も落ちています。
 おかしいなぁと思い、根を確認しようと鉢から抜こうとしたら、苗がグラグラしています。
 スコップをあててみると、全く根の感触がなく、すっと中に入ってしまいました。
 思い切って抜いてみたところ、根がほとんどありません。
 やられた……。
 コガネムシの幼虫の仕業です。
 ブルーベリーはコガネムシの幼虫に根を食べられると、簡単に枯れてしまうのです。
 残った土をひっくり返してみると、出るわ出るわ、8匹の幼虫を発見。
 苗は強剪定して、小さい鉢に植えなおしました。
 これで回復してくれるといいけれど、今までの経験上、このまま枯れてしまうかもしれません。
 毎年コガネムシの幼虫のせいで1−2鉢が枯れていきます。
 地植えのブルーベリーに被害が出たことはないので、鉢植えは難しいなぁと思いました。

<2007-9-8>
 寝不足が続いた後に思いっきり寝ると、当たり前だけれど、疲れが取れた感じがします。
 気持ちも軽くなっている気がする。
 寝るって大切ですね。

<2007-9-7>
 憂いあれば備えなし。

<2007-9-6>
 台風の日にコロッケを食べるという文化がもっと広まったら、何だかとても素敵な気がします。
 天気予報で台風の行方を確認し、ジャガイモの買出しに出かけた主婦がスーパーに溢れているのを想像すると、「みんなみんな、生きているんだ、友達なんだ」と思います。

<2007-9-5>
 何の気なしにオンラインウイルスチェックをかけたら、3つも感染ファイルが見つかりました。
 普段、アンチウイルスを常駐させているのだけれど(そしてメールの添付ファイルにときどき反応しているのだけれど)、ソフトによって検出できるウイルスが微妙に違うのかもしれませんね。
 こちらでチェックできます。

http://security.symantec.com/sscv6/default.asp?productid=symhome&langid=jp&venid=sym

<2007-9-4>
 台風が関東を目指していることに、少しだけワクワクしている自分がいます。(^^;
 だって、ブルーベリーがからからなんだもの。

<2007-9-3>
 自転車に乗っていたら、「すみません」と僕を呼ぶ声。ふと横を見ると、道端に女性がたおれていました。
 僕に携帯を差し出し、「救急車を呼んだのだけれど、ここがどこだか判らないので説明してもらえませんか?」とのこと。
 早速携帯を受け取り、あたりの表札を調べて何とかそこの住所を119に告げました。
 彼女は自転車に乗っていたところ、突然のめまいで倒れてしまったそうで、気分がひどく悪く、そのまま立ち上がれなくなったそうです。
 自転車をどかして、道路わきの駐車場に彼女を寝かせて救急車が来るのを待ちました。
 救急隊員は手際よく彼女を担架にのせ、走り去りました。
 間近で救急隊員の仕事を見たのは初めてでしたが、とても大変な仕事だと思いました。
 その数時間後、ジョギングをしていたら、突然曲がり角から2台の自転車がすごいスピードで突進してきて、危うくぶつかりそうになりました。小学生くらいの男の子が先で、その後ろにその母親。真っ暗の中、ふたりともライトをつけず、減速もせず、当然謝りもせず、走り抜けていきました。
 すごく頭にきました。
 僕は大抵のことは許そうと努力しますが、ライトをつけていない自転車、携帯電話の画面を見ながら前を見ずに走っている自転車だけはどうしても許せないのです。
 何故? 2台ともライトが故障中なの? 子供がライトをつけないことを注意できない親も信じられないですが、親本人がライトをつけていないのはもっと信じられないです。
 自転車のライトをつけない人ってすごく多いけれど、何のメリットがあるのでしょう? ライトをつけると重くなるから? それとも、本当に壊れていて、ただ、修理するのが面倒なだけなのでしょうか? ライトって、そんなに簡単に壊れるものなのかな?
 僕は自転車のヘビーユーザーだけれど、ライトがつかなくなった経験は生まれてから一度だけです。そのときも、ライトなしで走るのはとても怖いので、すぐに修理しました。(修理はやろうと思えば自分で簡単に出来ます)
 救急隊員の仕事をみた後だったから、余計に怒りも倍増だったのだと思います。
 こういったバカ親子が、人を跳ねたり、車に跳ねられたりして、そのたびに救急隊員は出動して、怪我をしてぐったりしている人たちの面倒を見なくてはいけないのです。
 無灯火の自転車に乗っている人(もしくは携帯の画面を見ながら自転車に乗っている)は、同じように無灯火だったり、携帯を見ながらだったりする人と曲がり角でぶつかって、自分がいかに危険な行為をしているのかを肌で感じればいいのです。

<2007-9-2>
 夏と冬の間に、秋をおきました。
 だから秋は少しだけ、中途半端なのです。
 この頃はなんとなく、心さみしくて、知らないうちに誰かと、隙間が出来たりします。

<2007-9-1>
 先日開催いたしました、「催眠のかけ方セミナー・初級編」にご参加いただいた皆様のアンケート内容を掲載いたしました。
 次回セミナーをご検討中の皆様は、お読みいただければ参考になるかもしれません。
 こちらです。

<2007-8-31>
 以前も似たようなことを書きましたが、久しぶりに、Windows2000のマシンを触りました。
 しかもそのマシン、Windows2000時代にすでに時代遅れになっていた、CPUはPentium MMX 233MHz、メモリは64MB、HDDは2.1GBという、今からすれば超ロースペック。プリインストールOSはWindows98だったマシンに、無理やりWindows2000を入れたものです。
 ここここを見ているうちに、どこまでできるのか遊んでみたくなって引っ張り出してきました。
 で、早速不必要なサービスやデバイスをばんばん切り、設定をいじり倒し、最後にデフラグかけました。
 すると、「ぜんぜん使えるじゃん!」という驚きの結果に……。
 OSこそ違えど、今使っているパソコンとそれほど変わらない感覚で、普通に使えます。
 もちろん、素で入っているもの以外、常駐ソフトは一切無し。(ウイルスソフトもなし)
 「ネットは使わない」という前提で、WindowsのSPもパッチもあてませんでした。
 スタンドアローンで使うなら、セキュリティなんて必要ありません。
 ネットワークに繋がないのって、なんて素敵なんでしょう。
 OpenOfficeを入れて、ワープロ代わりには使えそうです。
 PRIDEで戦闘竜が豪快に勝利したときの名言、「相撲は強いんだよ!」と同じ語調で、「Windows2000は軽いんだよ!」と心の中で叫びました。

<2007-8-30>
 ここ数日、多忙にしており、皆様からのメールになかなかお返事を書くことが出来ません。
 もう少し、お待ち下さい。

<2007-8-29>
 猫じゃらしって、本当に猫は好きですね。
 うちのマロン、猫じゃらしを揺らすだけで狂ったように飛びついてきます。

<2007-8-28>
 忙しいって、良くないですね。
 やろうと思っていることが片付かないと、ついつい夜更かししてしまいますが、それが何日も続くと、元気がなくなります。
 時間の余裕は心の余裕と関係がありますね。

<2007-8-27>
 昨日セミナーが終わったばかりですが、「催眠のかけ方セミナー・中級編」の開催が正式に決定いたしました!
 初級編ではお伝えし切れなかったテクニックがまだまだありますので、続編を行います。
 日時は9月29日の午後1時より、場所は同じく、高円寺のスタジオKです。
 前回同様、ワーク中心のセミナーになります。
 くわしくはこちらをご覧下さい。
 皆様にお会いできることを、楽しみにしています。   

<2007-8-26>
 「催眠のかけ方セミナー・初級編」にご参加いただいた皆様、本日は本当にお疲れ様でした。
 こちらのリサーチ不足でまさか阿波踊りとかぶるとは思っていなかったのですが、どうにか2次会まで無事に開催できてホッとしています。
 今回、内容が多く、練習の時間が足りなかったこと、反省しています。次回からは、さらにワークの時間を増やそうと思います。(会場の温度ももう少しあげますね)
 「あるテクニック」はいかがでしたか?
 もしかしたら、今日の中で一番実践的なテクニックだったのではないかと思います。
 このテクニックは、是非、口外せず(笑)、自分だけの秘密のテクニックにして、コミュニケーションの武器として使ってくださいね。
 次回は9月29日の予定です。
 まだ、何も内容は決まっていません。
 今日の続きをするのか、それとも、全く違ったセミナーにするのか……。
 何かリクエストがあれば、是非、教えてください。
 皆様とお会いできて、本当に嬉しかったです!
 ありがとう。

<2007-8-25>
 いよいよ明日、久しぶりのセミナーです。
 催眠だけでなく、参加者の皆様には、びっくりするような「あるテクニック」をお教えします。
 実はそちらを教えることの方が、個人的には楽しみだったりして。(^^;;

<2007-8-24>
 今日は山梨の昇仙峡というところへ行って来ました。
 中央自動車道で行ったのですが、僕はサービスエリアやパーキングエリアが大好き。
 途中で寄った談合坂では、大した用も無いのに1時間近くウロウロしてしまいました。
 サービスエリアに寄ると、すごく旅行をしている気分になります。
 周りにいる人たちの半分以上は観光客で、彼らの放出するワクワクした空気が、そのままサービスエリア中に充満しています。
 そんな空気の中にいるだけで、僕の心も同調して、何だかワクワクしてきます。
 あの空気、空港にも充満していますね。
 でも食べ物やお湯と一緒で、こちらの体力が無かったり、空気の密度が濃すぎたりすると、サービスエリアにあたって(湯あたりの「あたる」です)、気分が悪くなったりもします。

<2007-8-23>
 書くことがないので、今日の日記。
 今日は朝から、セミナーのテキストを作って、プログラムを作って、アンケートを作って、お昼に天ぷらそばを食べて、夜にはラーメンズの動画を観ました。
 若干の夏休みモードです。

<2007-8-22>
 セミナーが行われる26日は、ちょうど高円寺で阿波踊りがあります。
 僕は実家が下高井戸で、下高井戸も何故か、夏には阿波踊りをするので、あのリズムを聴くと、妙にテンションがあがります。
 夜店もいっぱい出て、子供の頃は夏休みの楽しみでした。
 「踊る阿呆に観る阿呆、同じ阿呆なら踊りゃなそんそん」
 何だかこの発想は、聖書の中に出てくる「不正な管理人」のたとえ話に通じるところがあるような気がします。 

<2007-8-21>
 僕はよく、ボトル入りのガムを買うのですが、ボトルの中に、小さな付箋紙のような「捨て紙」が入っています。
 この捨て紙ですが、今まで一度も、足りたことがありません。
 いつも、まだガムが残っているのに、捨て紙の方がなくなってしまいます。
 捨て紙は毎回使っているわけではなく、例えばレシートにくるんで捨てたり、ちり紙に捨てたりもしますので、逆に「捨て紙があまる」のなら理解できるのです。
 また、たまたま足りないことがあった、というのなら、それもまた、首を傾げつつも、いずれ忘れてしまうことでしょう。
 でも、そうではない。
 毎回必ず足りないのです。
 それを見越して、なるべく使わないようにしても、それでも足りないのです。
 何故?
 お菓子メーカーは、ガムの数も把握せずに適当に捨て紙を入れているのでしょうか?
 それとも、ポケットの中のビスケットを叩くとビスケットが増えるように、深夜、僕の知らないところでガムが増殖しているのでしょうか?
 はたまた、捨て紙をこっそり盗んでいく人がいるのでしょうか?
 謎は深まるばかりです。

<2007-8-20>
 もうすぐ夏が終わりますね。
 僕は6月が終わったときに「今年も半分終わっちゃったよー」と焦ったりはしませんが、8月が終わると「あぁ、今年も3分の2が終わっちゃったんだな」と、しみじみ思います。
 気が早いですが、9月になると、もう、クリスマスや年末のことを考えます。

<2007-8-19>
 デフラグを実行すると、つい、ハードディスクが綺麗になっていく様子を、何分も飽きずに眺めてしまいます。
 結構、デフラグを眺めるのが好きな人って多いんじゃないかなぁ。

<2007-8-18>
 冷蔵庫が止まった後の静寂って不思議です。
 何も準備が出来ていないのに、いきなりステージに放り出されたような、そんな気分になります。

<2007-8-17>
 深夜に放送していた、「THE JAPANESE TRADITION〜日本の形〜」を観ました。
 外国人に日本の文化を紹介する(?)ショートフィルムなのですが、流しソーメンのくだりが最高!
 「ジャパニーズ・トラディション・シリーズ史上、最上級の謎が、白昼堂々あらわれました。竹製のウォータースライダーを移動する白く細いヌードルを箸で捕まえ、醤油につけて食べます。日本人の奇行です。何故こんな食べ方をするのか、謎です」

<2007-8-16>
 「子供のための哲学対話」(永井均著 講談社)を読み返しました。
 これ読んだの、結構前だったのですが、改めて、気づかされることがたくさんありました。
 今日、一番心に響いた言葉。

ペネトレ: 人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ。そして、友情って、本来、友だちなんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たないものなんじゃないかな?

 本当にその通りだと思います。
 寂しさを埋めあったり、束縛しあったりするのが友情じゃないですね。
 以前ご紹介した、「ゲシュタルトの祈り」にも通じるところがあると思いました。

<2007-8-15>
 今日もマシンセットアップの続きをしています。
 OSのインストールは無事に終了しましたが、前面パネルのヘッドフォン端子から音が鳴りません。
 ケースの端子の位置とマザーボードの端子の位置が違っており、現在悩み中……。

<2007-8-14>
 新作マシンのパーツ一式が届いて、早速組み立てましたが、流用したDVDドライブが古いせいか、OSのインストール途中でファイルを読み込んでくれません。
 いまどきFDによるBIOS更新なのですが、それもうまくいかず。(FDドライブも流用しているからそのせい?)
 また眠れない夜が続きそうです。

<2007-8-13>
 ゴールデンウィークとかお盆とか年末年始の、街の「よそゆき」の感じが好きです。

<2007-8-12>
 今日はブルーベリーの収穫をしました。
 ご覧の通り、大収穫!
 量ったところ、1.5kg ありました。
 ブルーベリーの栽培を本格的に始めてから、今年で3年になりますが、これだけの量がとれたのは初めてです。
 ちなみに、これは2本の木(ティフブルーとバルドウィンという品種)からの収穫です。
 毎日とまでは言いませんが、週に一度、これくらいの量がとれると、結構楽しめると思いました。
 小粒の実はジャムにしましたが、これがまた美味!
 アイスクリームにジャムをひとさじ、そして生の実をトッピングして食べると最高です。
 苦労がやっと報われた気持ちがしました。

<2007-8-11>
 1ヶ月くらい前から、初心に戻って毎日何か書こうと心に決めていました。
 義務感でやるものではない、と解ってはいるのですが、「何か書かなくちゃ」と頭をひねらせている時間が実は大切なのではないかと思う気持ちもあり、例え1行でも何か書こうと思っています。
 あぁ、でも今日は限界。
 何も出てこないのです。
 毎日書いていて気がついたのですが、生きていて何か刺激があったり、楽しかったり、そういうのがあると書けますが、単調な生活を続けていると、途端に書けなくなりますね。
 あと、疲れているときも書く気になりません。
 当たり前といえば、当たり前ですが。

<2007-8-10>
 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」公開まで、あと1ヶ月を切っているんですね。
 もっと話題になってもいいような気もするけれど、もうエヴァには神通力はないのかな?

<2007-8-9>
 Intel か AMD かで悩んでいたPC自作ですが、依頼主のコスト優先の一言で、AMDに決定しました。
 クロック的にはうちの Duron と変わらないAthlon64 がどれだけ速いのか、今からワクワクします。

<2007-8-8>
 今日は、グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学」の中で痺れた一節を引用します。

 人間はこれまで、たとえばキリスト教やテクノロジー信仰の中で「この世の楽園」の青写真を描き、手段を省みずにその実現を図るということを繰り返してきた。そしてそうした企ては、繰り返し悲劇のなかで挫折してきた。そのように進行してしまうプロセスの必然を、科学的に知ることが可能だとわたしは思う。その種の計画推進者は、ひとつの大事な点を忘れているのだ。それは、社会をいじる時の道具が、ハンマーでもドライバーでもなく、生身の人間だということである。ドライバーは、クサビ代わりに使ったとしても、たいした影響を受けるわけではないし、ハンマーの柄を挺子(てこ)として使っても、それでハンマーの性質が歪んだりするわけではない。しかし人間を道具として使うときには、学習という現象が避けがたく起こる。そして、人間が獲得する習慣は、彼を操作しようとするものが植えつける個々のふるまい方よりも、もっと細やかで、もっと深くしみ込んだものなのだ。

 催眠やNLPを勉強し、またそれを使用するとき、いつも心に覚えておきたい言葉です。

<2007-8-7>
 越後製菓の「ふんわり名人 きなこ餅」を初めて食べました。
 食べてびっくり! あり得ない食感、そして、きなこ餅そのままの味。
 超美味しいです。
 ランチパックの「キナコモチ」を食べたときも美味しさにびっくりしましたが、それ以来の衝撃です。
 意識したことはなかったけれど、僕はきなこ餅が好きなのかな?
 思い返せば子供の頃、キナコモチというアイスがあって、狂ったようにそればかり食べていた時期がありました。中にお餅が入っていて、すごく美味しかったのです。
 でも、本物のきなこ餅は、あれば食べるけれど、率先して「あー、きなこ餅たべたーい」というほど好きではありません。
 すぐ硬くなってしまうし、準備も大変だし、きなこは散るし……。
 きっと、手間のかかるきなこ餅をお手軽に……、という角度から責められると、僕は弱いのかもしれません。
 ふんわり名人、是非、皆さんもお試し下さい。 

<2007-8-6>
 「サルスベリ」という木があります。
 猿もすべって登れないことから、「サルスベリ」と名づけられたようですが、ということは、猿ありき、なんですね。
 言葉って不思議です。
 「猿」はどうして「猿」と呼ばれるようになったかは判りませんが、「サルスベリ」は、「猿」を「猿」と人が呼ぶようになった後に名づけられたわけです。
 ということは、しばらくの間は、「猿」は「猿」と呼ばれているのに、「サルスベリ」には名前が無かった時期があったということでしょう。
 そのときは本当に名前の無い木だったのかな。それとも、他の呼び名で呼ばれていたのでしょうか。
 「サルスベリ」だけでなく、「バフンウニ」とか「スッポンモドキ」とか「カニクイザル」って、なんだか自立を禁じられている気がします。

<2007-8-5>
 26日に予定している「催眠のかけ方セミナー」ですが、おかげさまで、残席あと4席となりました。
 ご希望の方は、お早めにお申し込みくださいね。(^^)
 (参加希望者の 1/3 弱が女性ですので、女性の皆様もお気軽にどうぞ!)

<2007-8-4>
 何故だか知らないけれど昔覚えた英熟語。
 "Step on the gas"
 意味:アクセルを踏み込む

<2007-8-3>
 年を取れば取るほどつくづく感じるのですが、何が正しいかなんて、現実社会では大した問題ではないですね。
 どれだけ愛されているかが問題なのだと思います。
 とても悲しいことだけれど。
 だって、愛は気紛れだから。

<2007-8-2>
 久しぶりに、PCを1台組み立てることになりました。
 PCの自作は、AthlonXP世代に作ったきりですので、最近のトレンドが解らず、いろいろ調べてみました。
 僕は昔から反Intelでしたので、AMDや、今は亡きCyrix、更にはIDTのCPUを使うことはあっても、IntelのCPUを購入したことはありませんでした。
 しかし、調べれば調べるほど、Core2DuoはPentium4世代とは比較にならないほど良いCPUみたいで、Athlon64 X2とどちらにすればいいか悩んでいます。
 最近PCを組んだ皆様、どうか僕の肩をポンと押してください。(^^)

<2007-8-1>
 「すべての催眠は自己催眠である」という言葉をよく聞きます。
 僕もずっと、そうだろうなぁと、何の疑いもなく信じてきました。
 だけど、ベイトソンのダブルバインド理論を読んでいて、もしかしたら、自己催眠を含め、「すべての催眠は他者催眠だ」ということもできるのではないかという気がしてきました。
 もし本当にすべての催眠が自己催眠なら、そもそも「自己」とか「他者」などという言葉をつける必要はないし、他者催眠なんて存在すらしないということになります。
(ちなみに、欧米では日本と違い、自己催眠と他者催眠を厳密に区別し、自律訓練法などの狭義の自己催眠は、催眠としては扱わないのが通例のようです)
 自己催眠の達人は、他者催眠と同じことを自分相手にやってのけます。
 このとき、心で起こっていることって、自分で自分に、催眠なり暗示なりをかけているわけだけれど、誰がかけているかといったら「もう一人の自分」がかけているわけで、このもう一人の自分をして「他者催眠」と呼べなくもないと思います。(例えば、目をつぶって自己催眠をするときに、自分のセラピストが話しかけてくるイメージで催眠に入る人がいたとしたら、それは他者催眠と呼べなくもない、という意味です)
 逆に、他者催眠で「手が固まる」という暗示に反応した場合、その人の心は、無意識的に手が固まる「努力」をしているのですが、本人はその努力を意識することができず、現象だけを見て「あ、固まった」とびっくりするわけです。しかしこの「固まる」現象を起こしているのは紛れもない本人なので、そういった意味では、「自己催眠」です。
 つまり、「自己催眠」という言葉が使われる場合は反応するプロセスをさしているし、「他者催眠」という言葉が使われる場合はその誘導における関係性をさしているのではないかな?
 全く違うもの(例えばチョコレートとカカオ豆)をさしているのに、種類の違い(例えばビターチョコレートとミルクチョコレート)のような言い回しをするので、わざわざ「すべての催眠は自己催眠である」などというフレーズが必要になってきたのではないでしょうか。
 まぁ、こういうのは言葉尻の問題で、大切なのは、「自己催眠も他者催眠も原理は同じ」ということですね。

<2007-7-31>
 図書館で借りてきたグレゴリー・ベイトソン「精神の生態学」という本を読み始めました。
 第一篇の「メタローグ」は、父と娘の会話という形式で書かれており、すごく読みやすく、面白いのですが、その中の「ゲームすること、マジメであること」を読んで、うーん、と考えてしまいました。
 例えば、ときどき「恋愛をゲームだと思っている」的な表現を聞くことがありますが、「ゲームの恋愛」と「マジメな恋愛」って、どう違うのかな?
 恋愛でズルする人は、どっちなんだろう? マジメな恋愛をする人は、ゲームを楽しむ余裕なんてないからこそ、本気になって、ルールのことなんて構っていられなくなって、ズルをするのでしょうか? そして逆に、恋愛をゲームとして楽しんでいる人は、どこかゲームとしての余裕があるので、ズルをする必要なんてないのでしょうか?
 恋愛ゲームを本気で楽しんでいる人の「本気」と、マジメに本気の恋愛をしている人の「本気」は、どっちが「本気」なのでしょう?
 それとも、やっぱり恋愛をゲームだと思っているからこそ、ズルをするのかな? マジメな恋愛をする人は、ズルをすることなんて、考えもしないのかな?
 「恋愛をゲームだと思っている」と言い切ってしまう人に、すがすがしさ、潔さ、更にはある種の純粋さを感じ、「マジメな恋愛」をしているはずの人たちが比較的ドロドロしているように見えるのは、僕の認知に歪みがあるからなのだろうかと、本を読みながら思いました。

<2007-7-30>
 夜、調布にある「アジアンタイペイ」というお店に行きました。
 以前、一度だけ行ったことがあり、そのときに食べた「チーズナン」の味が忘れられなくて、もう一度食べたいと思っていました。
 早速注文して食べましたが、とっても美味!
 思っていたより量も多くて、食べきれず、もったいないので包んでもらって持って帰りました。

<2007-7-29>
 4年前に購入したノートPCのHDDが、ここ1年くらい、時々カラカラと嫌な音がしたり、起動に失敗したりと調子がよくありませんでした。
 購入後2年くらいは、頻繁に持ち歩いて使用していましたし、PCで作業する時間も長く、M/Bが死んで修理に出すことも一回、もういい加減寿命かなぁと思っていました。
 新しいノートPCの購入も考えたのですが、調べてみると、ノート用のHDDの値段がずいぶん安くなっており、新しいマシンを購入する前に、HDDを交換してみることにしました。
 分解して取り出したHDDと、新しいHDDをデスクトップPCにつなぎ、Drive Imageで環境移行を試みるも、CRCエラーというエラーが表示されて完了せず。そこで、SeagateのDiskWizardをダウンロードして再挑戦。やはり「クラスタが読み取れない」というエラーが表示されましたが、DiskWizardには「無視」という選択肢があったので、「無視」を選んで続行したところ、無事(?)環境移行が完了しました。
 新しいHDDをノートPCに取り付けて起動すると、ちゃんと起動しました。
 ついでにメモリも512MB(256MB x 2)だったものを、1枚を512MBに交換し、768MBに増設。更にページファイルの使用もやめてみました。
 すると、体感速度で2倍以上速くなり(実際に、HDDのアクセス速度はベンチマークでほとんどの値が2倍近くになっていました)、まったく別のPCのように快適になりました。(^^)
 新型HDDはアクセス音がほとんどせず、更には発熱も少ない感じで、失われたクラスタの内容は気になるものの、大満足の結果となりました。
 ビグザムひとつで戦況が変わると信じていたギレンに対してドズル中将の言った「戦いは数だよ、兄貴!」という言葉や、ナウシカがユパ様に言った、「汚れているのは土なんです!」という言葉同様、「マシン速度はメモリ量だよ、兄貴!」「遅いのはHDDなんです!」ということを改めて思わされた一日でした。

<2007-7-28>
 今年4月に開催した、「催眠療法体験セミナー」に参加してくださった方の声(アンケートの一部)を掲載いたしました。
 8月に開催する「催眠のかけ方セミナー」とは内容が違いますので、あまり参考にならないかもしれませんが、雰囲気だけでもつかんでいただければと思います。
 こちらです。

<2007-7-27>
 NLPに関して、こんなページを見つけました。
 僕はNLP原理主義者ではないし、常々、NLPの大風呂敷には辟易しているので、こういうページを読んで苛立ちを覚えることはなく、むしろスッキリしてしまいました。(^^;;
 もちろん、この人の言っているように、NLPがほとんど無益だとは、僕は思っていません。
 NLPが体系化したテクニックの中で、使えるものはいくつかあると思います。
 ただ、NLPerの犯した過ちのひとつは、人間の心を機械として扱おうとしたことだと思う。
 NLPerと話すたび、「人間がそんなに便利になれるはず、ない……」という、セイラさんの言葉を思い出します。

<2007-7-26>
 8月に、「催眠のかけ方セミナー」を行うことになりました。
 前回のセミナーで、意外にも、「催眠誘導を教えて欲しい」というリクエストが多かったので、初心者でもトランスに入れられるよう、ワークを中心としたセミナーにする予定です。
 催眠のかけ方を勉強したからと言って、日常生活ですぐに何かの役に立つわけではないかもしれませんが、コミュニケーションのベーシックスキルとして催眠の概念を学んでおくと、余計なトラブルを回避できたり、物事がスムースに運ぶようになるのではないかと思います。
 数学を学んでおくと、例えば加法定理が日常生活に役立つわけではありませんが、数学的思考、論理的思考が身につくことで、間接的に生きやすくなる、というのと似ているかもしれません。
 詳しくは、こちらをご覧下さい。
 ご興味のある方は、是非、いらしてくださいね。(^^)

<2007-7-25>
 密かに(?)実行していた、ビリーズブートキャンプですが、めでたく、7日間のプログラムを終了しました。
 結果は、体重 1kg 減、体脂肪率 2% 減、でした。
 始める前に、全身の写真を撮っておいたので、今日、終了後も写真を撮り、比べてみました。
 数値的に見ると、大して変わっていないけれど、写真で見ると、確かに痩せています。(痩せたのもそうだけど、筋肉がついた感じがします)
 食事制限をせずに、一週間で 1kg 痩せられれば上等だと思います。
 新兵は入隊後、6週間ブートキャンプを行うらしいので、僕もこの勢いで、がんばって6週間、続けてみたいと思います。
 「ブートキャンプは魂で行うんだ!」
 「イエッサー!」

<2007-7-24>
 更に昨日の続きです。
 こちらのページで、犬が哺乳類だと言う主張をしている人は、恐らく科学的な定義に基づいた話をしており、犬が哺乳類じゃないと言う主張をしている人は、そういった定義の存在自体に疑問を感じているし、「哺乳類としての犬はどうでも良くて、ただ犬について語りたい」のではないかと思います。だからこそ、話が噛み合わないし、議論に答えが出ないわけですね。
 例えば、年頃の女の子が、留学先で出逢ったアメリカ人男性(仮に、クリスと名づけます)をお母さんに紹介したとします。
 お母さんは、「でもアメリカ人って好戦的でしょ。だからお母さん、アメリカ人の恋人は反対よ」と答えます。
 そこで、その女の子とお母さんの間で、「アメリカ人は果たして好戦的かどうか」の議論が始まったとします。
 歴史を紐解けば、この議論はお母さんの方がはるかに優勢。
 クリスを認めて欲しい女の子は、だんだんと冷静さを失い、いわゆる「詭弁」を使い始めます。
 ここで考えていただきたいのですが、仮に議論はお母さんの勝利で、「アメリカ人は好戦的だ」ということを女の子が認めたとしても、それは何の意味もない、ということです。
 大切なのは、アメリカ人が好戦的かどうかではなく、クリスが好戦的かどうか、なのです。
 そもそも、アメリカ人が好戦的かどうかで議論が始まってしまったことに問題があり、女の子はそんな議論は全く興味がなく、仕方なく、その議論に参加せざるをえなかったわけです。
 こういったボタンのかけ違いが、不意に始まった議論には存在しているのではないでしょうか。
 論点が、初めからお互いにずれているのです。

 議論をするには、例えば総合格闘技と同じで、ルールが必要ですね。
 立ち技選手に有利なルールにするか、寝技選手に有利なルールにするかで、勝敗は変わってしまいます。
 今、一応、暗黙のルールとして存在しているのが、科学ですが、科学は真実であるべきです。いや、真実を科学と呼ぶべきなのかな。よく判らないけれど、今の科学が真実かといえば、それは誰にも判りません。「とりあえず、今のところは真実だとされている」程度です。例えば、ニュートン力学は、当時は科学であり、真実でしたが、相対性理論や量子力学によって、「絶対的な真実ではなく、ある条件における近似解に過ぎない」ことが判ってきました。
 思うに、「それは詭弁だ!」と言ってしまう人は、科学絶対主義者で、「それは詭弁だ!」と言われてしまう人は、科学のそういった不確かさを感じていて、それを真実として扱うことに、若干の気恥ずかしさを感じているのかもしれません。
 つまり、詭弁を言う人は、一応、科学と言うルールに従って議論をしては見るものの、そのルールの有効性自体を信じていないので、平気で反則をするし、それを間違ってもいないと思っているのかも。
 総合格闘技において、立ち技有利のルールの下で試合をして寝技系選手が負けたとしても、寝技系選手のファンは、「あのルールでは勝てるわけが無い」と負けを認めないのと同じことが、多くの不毛な議論の中にはあるような気がします。
 もし、本当に相手のことを負かしたいのであれば、例えば自分が立ち技系で、相手が寝技系だとしたら、あえて寝技ルールで勝利するしかないのかもしれませんね。

<2007-7-23>
 昨日、詭弁について書きましたが、こんなページを教えてもらいました。
 これ、なかなか面白いですね。(^^)
 僕の意見の述べ方が、詭弁だと感じた人がいたということは、ここにあるような話し方を僕はしていると感じているのでしょう。
 ここの例は極端だとしても、僕は基本的に、定義というのが苦手で、嫌いです。だから、こういう反論をしたい人の気持ちが、解らないでもありません。
 定義と言うのは、便宜的で、実用的であれば、それでいいと思っています。
 突き詰めていけばいくほど、科学的になろうとすればするほど、本質が見えなくなる可能性があるからです。
 例えば「愛」の定義なんて、はじめた途端に、愛なんてどこかに吹き飛んでしまいます。
 「だいたいの感じ」でいいんじゃないかな。
 定義をして、一般論で論じると言うことは、公平な判断や、自由な発想を奪う危険性があるのではないかと思っています。
 犬が哺乳類かどうかの例を読んでいて、以前読んだ、「子供のための哲学対話」(永井均著 講談社)を思い出しました。
 お気に入りのくだりがありますので、一部、転載いたします。

ペネトレ: クジラは魚のように見えるけど、本当は哺乳類で魚じゃないって話、聞いたことある?
    僕: もちろんあるよ。クジラは魚のようにえらじゃなくて肺で呼吸するし、魚のように卵の形で子供を産むんじゃなくて、クジラの形で産むんだよ。(略)だから、クジラは魚のように見えるけど、本当は哺乳類で、魚類じゃないんだよね。
ペネトレ: でも、その逆のことも言えるんじゃない?
    僕: 逆?
ペネトレ: つまり、そういう点ではクジラはどうしても哺乳類のように思えちゃうけど、肝心な外形や生活環境が魚みたいだから、本当は魚なんだって言ったら?
    僕: なんで外形や生活環境の方が肝心なのさ?
ペネトレ: そんなら、なんで内部の仕組みの方が肝心なのさ?
    僕: だって外形の方が大事なら、本物と見分けがつかないようなにせもののダイヤモンドは、本物のダイヤモンドだ、ってことになっちゃうよ!
ペネトレ: そうなんじゃない? とくに宝石なんて、見かけの美しさこそが一番肝心なんだから、内部構造は全然違うけど、一番肝心な見かけが同じだから、本当はダイヤモンドなんだ、って言えると思うよ。
    僕: そんなの、なんかおかしいよ。
ペネトレ: それは君が科学に洗脳されているからだよ。科学って言うよりももっと根本的なある種のものの見方にだな。見かけや外形の奥に隠れいているものこそが、その物の本当の姿である、っていうような。
    僕: そうじゃないの?
ペネトレ: それは、ひょっとしたら奥にあるものを知っている人が知らない人たちに対して権力を持つために作り出した作り話だったんじゃないかな? みんな、うまくだまされちゃったのかもしれないよ。
    僕: まさか!
--------------------------
ペネトレ: 世の中のいろんなことにはね、公式の答えというものが用意されているんだ。世の中をこのままちゃんと維持していくためには、どうしてもみんなにそう信じてもらわなくちゃ困るってことなんだよ。そういうものを、少しも疑わずに信じられる人の方が、うまく、楽しく生きていけるんだけどね。
--------------------------
ペネトレ: 困っている人や苦しんでいる人を、やたらに助けちゃいけないよ。そのとき限りの単純な困り方の場合ならいいよ。例えばけがをしたとか財布を落としたとかね。でももっと深くて重い苦しみを味わっている人を助けるには、きみ自身がその人の苦しみと同じだけ深く重くならなくちゃならないんだ。そんなことは、めったやたらにできることじゃないし、できたとしたら、きみの精神に破壊的な影響を与えることになるんだ。もし、きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それと同じ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことができる可能性がある。そう言う場合だけ、相手が助けてもらったことに気がつかないような助け方ができるからね。

<2007-7-22>
 詭弁って、なんですかねー。
 「それは詭弁だ」と責められることがありますが、もし詭弁だったら、簡単に矛盾点が見つかって、そんな風に責めるまでもなく、論破できると思うんだけれど、違うのかな。
 それとも詭弁と言うのは、核爆弾みたいに、それまでの戦況とは関係なく、すべてを終わらせてしまう、卑怯なやり方のことを言うのかな?
 理屈は通っていて、反論できないけれど、それでも間違っている考え方のことなのでしょうか。
 でも、もしそんな方法があるのだったら、卑怯かどうかなんて考えないで、みんな使いまくると思うんです。つまり、世の中は詭弁で満ち溢れてしまうのではないか、と。しかし実際には、自分と意見が違う場合に、そんなに見事に言いくるめられることって少ないですよね。詭弁を使うのにも才能や技術が必要と言う事なのでしょうか?
 そんなことを考えていると、「それは詭弁だ」という言葉の意味が良く判らなくなります。
 恐らくこのセリフを言う人は、「それは卑怯だ」的な、相手を非難する意味で言っていると思うのだけれど、詭弁って、何でいけないんだろう?
 本人にしてみれば、「あぁ、これ、詭弁になってるな」なんて自覚はないわけだし(ある人もいるのかな?)、詭弁だと言われても、何がいけないのかも解らなければ、どうやめればいいのかも解らないと思うんです。
 相手の意見が受け入れられないし、かといって、反論もできないときの、マジックワードが「それは詭弁だ!」なのではないでしょうか。
 僕は「詭弁」という言葉の意味がよく解らないからかもしれませんが、「それは詭弁だよ」というようなことを言ったことは一度もありません。 僕にとっては、詭弁かどうかよりも、合理的かどうかが重要なので、合理的な詭弁(?)には、無批判にぐるぐるまかれちゃうタイプです。(^^;
 多分、僕が「それは詭弁だ」と言われてしまう理由は、意識的にも無意識的にも、例え話(メタファー)を使って話すことがあるからだと思います。
 例え話をしてしまうと、今度はその例え話が適切かどうかで議論になることがあり、いつの間にか、何を議論していたのか解らなくなってしまったり、いつまでも議論が進まなくなってしまうので、その例え話をして、詭弁と思われてしまうのかもしれません。
 また、例え話は、概念的な話を、現実的な理解に結びつける力があるので、何かを説明するときには有効だと思いますが、自分の意見と違うときに、相手が例え話を出してきて、一見、相手の意見が正しく見えてしまい、自分も効果的な反論が思い浮かばなかったときに、「それは詭弁だ!」と言うと、とりあえず相手に反論することができる、ということなのかもしれません。
 この文章自体、大いなる詭弁なのかな。(^^;

<2007-7-21>
 僕はずーっと、大団円のことを、大円団だと思っていました。
 (IMEで変換できなくて、初めて気がつきました)
 何でだろう? 読み間違い? 聞き間違い?
 正解を知った今でも、大円団の方が、何かしっくり来ます。
 Googleで調べたところ、同じく、大円団だと思っている人が多かったです。
 もしかしたら、国民の2割くらいは、大円団だと思っているんじゃないでしょうか。

<2007-7-20>
 おいでイスタンブール
 うらまないのがルール

<2007-7-19>
 肉まんに段ボールが入っていたニュースがねつ造だったと、中国のテレビ局が認めたそうです。
 マスコミの伝える情報が全て正しいわけではないので、鵜呑みにしないで裏を取る努力が視聴者にも問われているのは承知していますし、別の側面から見たり、情報の中に隠されている「嘘」を見抜く能力(例えば、アンケート調査の結果が使われている場合はその母集団が適切なのかどうか、等)も大切だと思います。
 しかし、今回のような報道から真実を見抜くことは、一般的な視聴者にはほぼ無理なのではないかと思うのです。
 実際に中国に行って現物を見てくるとか、段ボールと劇薬を使って味や危険性を再現してみるとかすれば、真実が見えてくる可能性はありますが、すべてのニュースをそのような姿勢で検証することは現実的ではありませんし、だからと言って、検証できないものは基本的に信じない、となると、ニュースを見る意味がほとんどなくなります。
 このニュースを聞いて、「突拍子もないところで相手が本気で騙そうとしている場合、防ぎようがないんだな」と改めて思わされました。
 政府やマスコミによるマインドコントロールって、きっとすごく簡単なのだと思います。
 実際に、庶民の価値観のある部分(大部分?)は、確実にマインドコントロールによる作り物なのでしょう。
 果たして、それに気づいてフリーマインドを手に入れることが幸せなのか、気づかずに与えられた価値観で生きていくことが幸せなのか……。
 映画「マトリックス」を見たとき、それがいくらコンピュータによる作り物だとしても、何も知らずにその世界で生き続けた方がずっと楽なんじゃないかと思いました。
 でもそういう考えこそ、飼い慣らされた人間の発想なのかもしれません。

<2007-7-18>
 圧倒的に、YES!

<2007-7-17>
 「悪いプロレスラーは膝ばかり痛める。
 もっと悪いプロレスラーは膝さえ痛めない」

(注:元ネタは、村上春樹「風の歌を聴け」です。ちょっと深いでしょ。)

<2007-7-16>
 数年前、「夢見工房」というおもちゃを買いました。
 見たい夢を見ることができるというその機械、期待していたのですが、結局見たい夢は見られませんでした。
 でも、本当に、確実に見たい夢を見られる機械が発売されたら、国が滅びてしまうのかもしれませんね。
 働くのもバカらしくなって、国中が惰眠をむさぼるようになってしまいそう。

<2007-7-15>
 以前、叔父が、お酒の席でこんなことを言っていました。
「上に立つ人間には二つの条件がある。ひとつは、人を使うことが上手い、ということ。もうひとつは、汚れる仕事を率先してできる、ということ」
 叔父は小型ビデオカメラの製造メーカーの社長をしており、恐らくこれは、たくさんの経営者を観てきた中から学んだことなのでしょう。
 人を使うのが上手い、というのは、人を信頼して任せられる度量のことかもしれませんし、相手を褒めながら上手く動かすテクニックなのかもしれません。その仕事に一番適しているのは誰なのか、部下の素質を見抜く能力も必要でしょう。いずれにせよ、一番大切なのは、普段から部下の模範となる生き方ができているか、ということだと思います。これは次の「汚れる仕事」の話とも関係しますが、大変なことは全部部下にやらせて、手柄だけ独り占めするような上司では、部下もついてはいかないでしょう。「この人のためなら」という気持ちを部下が持っているかどうかが問われるのではないかと思います。
 汚れる仕事を率先してできるかどうか、というのは、文字通りですね。どんなに偉くなっても、手の汚れる仕事、大変な仕事、面倒くさい仕事、格好悪い仕事、誰でも出来るような仕事を率先して自分からやることで、部下がついて来るのではないかと思います。
 この叔父の言葉は、僕の心に暗示的に染み込み、以来、人の上に立つかどうかとは関係なく、僕は出来る限り、このふたつを実践するよう、生きてきました。(もちろん、まだまだ完全には出来ていませんが)
 また、人を判断するときも、この二つの条件は、無意識的に結構大きな判断材料となっている気がします。
 先日のセミナーのとき、セミナー終了後に、二人の参加者が、ゴミの片付けを手伝ってくれました。
 お金を払って参加されたのですから、そんなことをする必要は全くないのに、吉祥寺の街の中、一緒に大きなゴミ袋を持って歩いてくれました。
 僕はその優しさが本当に嬉しくて、あぁ、このふたりは、きっと成功する人だろうな、と思いました。
 この場をお借りして、本当にありがとうございました。

<2007-7-14>
 「基本的に人間が好き」(以下、人間愛、と名付けます)、とか、「嫌い」、って、子供のころに形成されて、あとはどれだけテクニックを学ぼうが、洗脳されようが、変わらない気がします。
 それは、コミュニケーション能力とは全く別物じゃないかと。
 先天的、といってもいいかもしれない。ピアニストにとっての手の大きさと同じで、努力でどうこうできるものじゃない。
コミュニケーションがうまいとか、初対面が苦じゃない、場を盛り上げることが出来る、すぐに恋人を作ることが出来る、リーダーシップをとれる、人前で話すことが得意、等々の能力とは別物で、本当に切羽詰ったときや、逆にふとした瞬間に、「人間愛」が試されるように思います。
 催眠を勉強しよう、心理学を勉強しよう、なんていう人間は、多かれ少なかれ、この人間愛が足りないからこそ、テクニックでどうにかしたいと言う幻想からその道に入っていくんじゃないでしょうか。(ごめんなさい、全部偏見です)
 もちろん、僕も、人間愛が足りないグループのひとりです。
 だから時々、素でものすごく人間愛にあふれている人を見ると、溜め息混じりに羨ましく思います。

<2007-7-13>
 たくさんひどいことされて、解ってもらえなくて、ひどく悔しくて、自分のこれからが全く見えなくなってしまった、そんなときに、まるでおとぎ話みたいな理想の相手が偶然目の前に現れて、「忘れちゃいなよ。ぜーんぶ、忘れちゃいなよ」って、目を覗き込みながら、にっこり笑って言ってくれたら、そして、手を差し伸べて、「ねぇ、行こうよ」って、ぐいぐい手を引っ張って、自分の全く知らない世界に連れて行ってくれたら、心の中のぐちゃぐちゃが全部なくなって、人生が一瞬でキラキラ輝き出すのかもしれないなぁと、昨日はそんなことを書きたかったんだと思います。

<2007-7-12>
 「理想の女性は?」と聞かれると、無意識的に一番最初に名前が出てきてしまうのが、森高千里です。
 もちろん、頭の中で急いでその名前をかき消して、誰が理想かなぁと考え直すのですが、この条件反射はもしかしたら、一生治らないのかもしれません。若い頃の刷り込みって怖いですね。
 僕等の世代の男性は、多かれ少なかれ、森高が好きなんじゃないかと思うのだけれど、いかがでしょう?
 子供の頃って、それこそ松田聖子とか、小泉今日子とか、菊池桃子とか、解りやすいアイドルがいっぱいいたけれど、ちょうど僕等が二十歳前後の頃(15年位前)は、アイドル冬の時代でした。そんな中、ひとりフリフリの服を着て、「17歳」を歌う彼女の姿は、他を寄せ付けない、圧倒的な存在感があり、非常に完成されていました。これ以上、というのが想像できないくらい、完成されていました。
 全ての女性が目指している先は、結局、森高千里なのではないか、いや、むしろ森高千里であるべきなんじゃないか……。結構本気でそう思っていました。(きゃー。石を投げないでー)
 今、森高なみに存在感のあるアイドルって全然いませんね。
 もしかしたら彼女は、アイドルがアイドルらしく生きていた時代の、最後のひとりなのかもしれません。
 本当はもっと他の事を書くつもだったのだけれど、ついつい話が脱線してしまいました。
 続きは明日にでも。

<2007-7-11>
 「オートマティックな恋だけれど、誰にも Yes No 言わせないぜ」 スターダスト・キッズ 〜 佐野元春

 この、「誰にも Yes No 言わせないぜ」というの、下半期の僕のテーマにしようと思います。
 前から解っていたことですが、人は誰でも、自分の価値観に合っている意見を「合理的」だと思い、価値観に合わないものを「非合理的」と思っています。だから、議論をしても最終的には解り合えません。
 だったら、議論する必要ってないのかもしれない、と思いました。
 「解り合えるかも」という幻想を抱えて、結果的にずいぶん、人とぶつかってきましたが、「議論モード」に入ってしまうと、そこから抜け出せなくなってしまいますね。
 議論して、お互いに嫌な気持ちになるのだったら、相手の考えに反論しないで、見かけだけでもそのまま 100% 認めてあげる。それでもかわせないときは、「ふうん、そんな風に考えているんだねー」と、流してしまったほうが良い。
 そのかわり、相手が自分の考えに反論しているときは、受け入れるのではなくて(受け入れると、言っている事とやっている事が違ってしまいますので)、「誰にも Yes No 言わせないぜ」という姿勢でのぞみたいと思います。
 「まぁ、今はやりたいようにやらせてよ」って。
 それでも否定されたら、心を閉ざすしかないのかな。
 こんな生き方をしていると、無反省な人間になってしまいそうですが、誰にも Yes No 言わせないで先に進んで、失敗してしまったら、そのときちゃんと反省する人間になれれば、それで良いんじゃないかと思います。

<2007-7-10>
 人間が死んだ後、天国も地獄もないかわりに、猫の世界に行かなければならなかったら……、と時々考えます。
 猫が言葉を話し、超ハイテクな世界を築いていて、そのかわりに人間は言葉をなくし、猫に飼われている「飼い人間」として生きていくか、「野良人間」として生きていかなければならない世界。
 飼い人間は猫の都合で爪を抜かれたり去勢手術されたりしながらも、毎日カリカリに乾燥されたヒューマンフードを与えられて、それなりに安全に暮らしていけます。
 野良人間は、ゴミをあさり、セミや鳥を捕まえたりしてどうにか飢えをしのぎますが、それでも毎年、多くの野良人間が冬を越せずにひっそり死んでいきます。縄張り争いで怪我をすることもしょっちゅう……。もちろん、優しい猫のおばさんがエサをくれたりもするし、公園でのんびり日向ぼっこを楽しむことも出来るし、基本的には「飼い人間」と違い、自由恋愛し放題です。
 でも、どちらにしても、気まぐれな猫たちのせいで、アウシュビッツのような「保健所」に連れて行かれて処分される可能性は否めませんし、場合によっては三味線の皮にされてしまう危険性もあります。
 そう、死後に待っている猫の世界というのは、非常にシビアな世界なのです。
 何でこんなことを考えるかと言うと、我が家の雑種猫「マロン」がもし、その猫の世界の住人で、その猫の世界に僕が紛れ込んだとしたら、果たしてマロンは僕のことを思い出し、「人間の世界にいたときには世話になったなぁ」と、僕のことを家に迎え入れてくれるのかどうか、とても気になるからです。
 僕はマロンが大好きで、もちろんいじめたりはしません。傍目には、マロンはとても幸せに生きています。
 でも、マロンが本当に幸せかどうか、それはマロンにならないと判りません。
 室内で飼っていますので、マロンからしてみれば、幽閉されているわけです。エサはブランドが変わることはあっても、ペレットか缶詰。猫の仲間と遊ぶことも出来ないし、ひとりで過ごす時間も短くありません。思い切り遊ぶことも出来なければ、刺激もありません。
 「今度は私が面倒見てあげるからね」って優しく言ってくれるのか、それとも、「コイツ、ひどい飼い主だったからな」と受け入れてくれないのか……。
 そんなことを考えていると、途端に自信がなくなってしまうのです。

<2007-7-6>
 この季節、日没の前後、あたりはほんのり暗いけれどまだ明るくて、空は真っ青じゃないけれどぼんやり青くて、ぽっかり浮かんでいる雲に夕日のなごりが反射して、薄いオレンジやピンクに染まっているのを観ると、あぁ、俺、何やってんだろうなぁって思います。
 夏の曇って、大好きだけれど大嫌い。

<2007-6-15>
 「ガリレオの遺伝子」という番組を観ました。
 「地底人は存在する!」というような、なかなか世間では取り上げてもらえない仮説を紹介する番組で、面白く見終わりました。
 この番組で紹介された仮説の中で、僕が一番「ありえねぇ〜」と思ったのは、「みんなでジャンプして地球の軌道を太陽から離して温暖化を阻止しよう」というものです。こんなの、高校の物理を理解していたらあり得ないことくらい、何で解らないんだろう?
 きっと、大きなハンマーでガツーンと地球を叩いたら、少し太陽との距離が離れる、というイメージなんだろうけれど、実際には、着地の瞬間の衝撃でそうなるのではなく、ジャンプして人が宙に浮いた状態こそ、地球が太陽と離されています。キャスターつきの椅子に乗った人同士が、手を合わせて「えいや!」とお互いに押すと、2人とも動きますよね。あれと同じです。
 「じゃあ、1億人がそれをしたら、やっぱり地球は太陽から離れるんじゃないか!」と思う人もいるかもしれませんが、残念ながら、その1億人と地球は万有引力で引き合っていますから、その引力で戻されて、着地したときには、また同じ位置に戻ってしまうんですね。
 キャスターつきの椅子の例で言えば、その2人がゴムで結ばれている場合、ある距離まで離れると、今度はゴムの力で引き寄せられて、最後はお互いにまた同じ場所まで戻されるのと同じです。
 仮に、本当に地球を太陽から離したいのであれば、朝、太陽に向かって重い物をどんどんロケットで発射するしかありません。ピストルを発射したときに反動を手に感じるのと同じ方法で、ロケット発射の力を利用すれば、軌道をずらすことができるかも?(そんな単純には行かないかな)
 「誰でも死者と会話できる」というのも、少なくともこの実験では何の証明にもならないと思いました。何人もの人が死んだ人を感じていましたが、人間はいくらでもこういった幻覚を体験します。番組を観ながら、僕はもっとはっきりと見たり聞いたりするのかと予想していたくらいです。鏡、そして15W程度の暗い電球、というのがポイントですね。死者と話す気満々で来て、このセッティングだったら、十分トランスに入ってしまうと思う。
 オーラの写真を撮っていた人も、カメラに特殊な仕掛けがしているという段階で(しかも、その内容は秘密、という段階で)、まったく信憑性がなくなります。
 むしろ、地底人とか、宇宙人との交換留学生とかの方が、あって欲しいです。もう観ていてワクワクしてしまいました。
 地球に帰りたくない、と言って残ったふたりの気持ち、なんだかよく解ります。(^^)
 (6/17(日) 14:25-16:20 日本テレビ系列で再放送があるようです)

<2007-6-13>
 Show. Don't tell.

<2007-6-11>
 村上春樹の小説「羊をめぐる冒険」で、耳のモデルをしている女の子が、主人公と初めてデートをしたとき、こんなことを言うくだりがあります。

「私は初対面の人に会うと、十分間しゃべってもううことにするの。そして相手のしゃべった内容とは正反対の観点から相手を捉えることにしてるの」

 主人公の「僕」は、この種あかしを聞く前に、彼女から「十分間話して」と言われ、自分のことを9分27秒話し、最後にこうまとめていました。

「ずっと退屈な人生だったし、これからだって同じさ。でもそれが気に入らないというわけでもない。要するに仕方ないことなんだよ」

 彼女は種あかしをした後、こう続けます。

「その方法をあなたにあてはめるてみると、こうなると思うの。つまり、あなたの人生が退屈なんじゃなくて、退屈な人生を求めているのがあなたなんじゃないかってね。それは間違っている?」

 主人公の「僕」は、君の言うとおりかもしれない、と答えます。

 僕も彼女のやり方はとても的を得ているのではないかと思います。
 初対面の相手が、こちらが聞いてもいない自分のことを熱心に話している場合、大抵の場合は自分はそうではないからこそ、理想の自分、なりたい自分をあたかも本当のように話す傾向にあるのではないでしょうか。(「甘いレモンの論理」と通じるところがあるのかもしれません)
 もちろん、だからといって相手に「あなたがこう言っているという事は、実はそうではないからではないですか?」等と言うのは野暮です。意識レベルではそう思っていないからこそ、そう発言しているのですから。
 客観的にこの判断が正しいかどうかは、相手に確認する必要も、周りに確認する必要もなく、その相手と付き合うためのひとつのヒントとして、心の隅に閉まっておけば、あるいは役に立つときが来るのかもしれません。
 僕は、むしろこの方法は、他人に対してではなく、自分自身を知るために使ってみると、多くの気づきがあるのではないかと思っています。
 初対面の人とあったとき、もしくは、初対面ではなくても、自分のことを解って欲しくて話しているとき、相手に聞かれていないことを「私はこういう人間です」と自ら話した場合は、本当の自分はそれとは正反対だと考えても良いのではないかと。
 自分や周りにとって当たり前のことは、わざわざ話題に出したりしません。
 本当のお金持ちが、自分はお金持ちだ、などと言わないのと同じです。
 「低レベルのすすめ」でも以前書きましたが、証明できないけどそう思いたいことだからこそ、わざわざ口に出すのです。

 今日、初対面の人と何人かでお会いしたのですが、自分を紹介するとき、普段は思ってもいないことを事実のように言っている自分がいました。あぁ、僕はこう思われたいんだなぁって、帰りの電車の中で、反省と、納得と、驚きと、ちょっとだけどうでもいい気持ちで思いました。

<2007-6-9>
 先週くらいから、ラズベリーの収穫が始まりました。
 毎日、お茶碗一杯くらいの収穫があります。
 何の世話をしなくても、毎年春から夏にかけて、地面からニョキニョキと新梢(サッカーと呼びます)が生えてきて、翌年にはこのようにたくさんの実をつけてくれます。
 今、実のついている木は、どのみち枯れてしまうので、収穫が終わったあとに、根元からばっさり切ってしまいます。
 この写真では見えないですが、すでに地面からは、来年用サッカーが10本近く出てきています。
 ラズベリーは1年で成木になるので管理が楽で、収量も多く、安定して美味しい(完熟具合がひと目で判る)ので、家庭向きの果樹だと思います。
 しっかり根域を制限しないと、あちこちにサッカーが発生し、増えすぎてしまうことと、大株になり、サッカーで更新するので植木鉢での栽培が難しいことが欠点でしょうか。

 ブルーベリーの収穫も始まっています。
 こちらは、ハイブッシュ系のパトリオットと言う品種です。
 去年購入し、今年初めての収穫でしたが、大粒ですごくフレッシュな味わい。美味しいです。
 ハイブッシュ系は一般に早生で、他の品種もポツポツ色づき始めています。

 最後の写真は、ラビットアイ系のブライトウェルという品種です。
 ラビットアイ系は晩成で、7月下旬頃から収穫がはじまります。
 去年一年で木が大きく育ったので、今年はご覧のように、びっしりと幼果がついています。
 収穫が楽しみです。


<2007-6-7>
 みなさん、ゴミの分別、リサイクルはちゃんとしていますか?
 ペットボトルやコンビニ弁当の容器は燃えないゴミじゃなくて、プラの日に分けてだしていますか?
 もし、ちゃんと分けている人がいたら、その人は環境破壊に加担していますから、すぐにリサイクルをやめて、何でもかんでもじゃんじゃん燃えるゴミに捨てちゃってください。
 昨日までは、ゴミの仕分けをきちんとしない人をみると、「自分だけよければそれでいいのか!」と、ちょっと嫌な気持ちになっていましたが、今日を境に、そういう人たちはなんて地球に優しい人たちだったんだろうと、僕は考えを改めることにしました。
 というのも、ミランカで「博士も知らないニッポンのウラ」という番組を観たからです。
 ゲストに、「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」の著者、武田邦彦氏を迎え、リサイクルのもたらす害、環境問題の嘘が次々に明らかにされていきます。
 本当に目から鱗が落ちっぱなし。
 実は僕は大学時代、同じ学科の中に環境工学の研究室があり、いくつか授業をとっていました。
 その中で、分別リサイクルが自己満足以外のなにものでもないことを勉強したのですが、そうは言っても、ダイオキシンは怖いし、自分だけ分別を拒否できないし、なんか良いことをしている気もして、普通にゴミは分別していました。
 でも、本気で明日から、地球のために、気づかれない範囲で、生ゴミにプラスチックを混ぜようと思っています。
 この番組は今なら無料ですから、是非、観てください。前半と後半がありますが、時間のない人は前半だけでも観てください。
 ペットボトルはリサイクルするべきじゃないし、地球が温暖化しても陸地は水没しないし、ダイオキシンは醤油なみに無害です。
 リサイクルをすればするほど、水質汚染が広がり、化石燃料が無駄遣いされ、税金が高くなります。
 武田氏の意見に100%賛成なわけでもないし、疑問に思う点もありますが、少なくとも、プラスチックの回収に関しては、即刻やめるべきだと思いました。

<2007-5-28>
 言葉より行動。
 その人が何を言っているかは大した問題ではないですね。
 その人が何をしているかが問題です。
 言葉では何でも言えるけれど、行動には本心が表れます。
 善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切上げて、僕も善い人間にならなくちゃ。 

<2007-5-23>
 超能力と技術(科学でも良いです)の線引きってどこなんだろうって思います。
 僕は基本的には、超能力否定派で、もしそれが実在するならば、それはすでに超能力ではない、と思っています。例え、理屈は証明できなくても、自在に再現可能であるべきだ、と。
 例えば、飛行機が飛ぶ原理は、未だに完全には解明されていないのですが、飛行現象は超常現象ではありません。それと同じで、どんな条件でも完璧に再現可能な超能力者が現れたら、それは既に超能力ではなく、ただ単に、科学が追いついていないだけだと考えます。
 先日、中国の超能力者が、何時間もかけて、折りたたまれた紙に書かれた文字(漢字!)を透視していました。僕はそれを見て、「何かトリックがあるはず」と思いました。つまり、科学的にあり得ないと思ったのです。
 一方、フォトリーディングという技術を持っている人がいます。フォトリーディングとは、文字を文字として認識するのではなく、映像として覚えてしまう技術です。 Derren Brown がこのフォトリーディングを使って、分厚い辞書の内容をすべて覚えてしまうというパフォーマンスをするのですが、僕はこれを見て、「超能力だ」とか、「トリックがあるはずだ」とは思いませんでした。科学的にあり得ることだと思ったからです。
 その中国の超能力者が、本当に3時間くらいかければ目の前の紙の中に書かれた「漢字」を完全に透視できたとしても、20分ほどで辞書を全部覚えてしまった Derren の能力の方がよっぽどすごいし、優れた能力だと個人的には思います。
 もちろん、Derren のパフォーマンスにも、何かトリックがあったのかもしれません。
 しかし、ポイントは、「フォトリーディングは起こりうる」と僕の心が捉えたと言う事。そして、「透視はあり得ない」と僕の心が捉えたと言う事です。この差はいったい、何なのか?
 20分で辞書を全部覚えてしまうと言うのは、1枚1枚ページをめくって、心に焼き付けていけば、訓練によっては出来うるのではないかと僕は思ったわけです。
 それでは、辞書の1ページを、3秒で覚えてしまうパフォーマンスを見たら、僕はそれを「いや、あり得ない、それはトリックだ」と思うでしょうか? いや、思わないでしょう。それもあり得る、と思うと思います。
 では、1秒では? ……やはり、あり得ると思う。
 じゃあ、0.1秒では?
 Derren が、目の前を一瞬で通過した辞書の1ページを、全部完璧に覚えてしまったら、その現象を信じるでしょうか?
 多分僕はそこで初めて、「それはトリックに違いない」と思うと思います。
 そんな一瞬で、人間の目が物体を認識できるわけがないから、トリックのはずだ、と。
 では、中間の、0.5秒では? 0.3秒では? 0.8秒では?
 そんなことを考えていたら、途端に自分の考えに自信が持てなくなりました。
 僕は無根拠に線引きをしている。
 一体、正しい線はどこに引くべきなのだろうか?、と。
 当たり前なのだけれど、結局、超能力かどうか(というか、僕の場合はトリックがあるかどうか)、認めるか認めないかの判定って、ものすごく主観的なものなのだと思いました。
 目の研究とか、脳が認識する原理などを研究している人からすれば、僕の、1秒は認めるが0.1秒は認めない、という主観は素人考えで、トリック(超能力)か現実かの境界線を、僕とは違ったところに引く可能性が高いのです。
 もし、会話というのが、無根拠な主観のキャッチボールだとしたら、何と恐ろしい世界に生きているのだろうと思いました。
 トリックか、超能力か、という問題を隣に置いておいたとしても、そうなのですから。

<2007-5-14>
 「大切なことは、病から癒えることではなく、病みつついかに生きるか、だ」
 これも僕が大好きなリフレーミングのひとつです。
 「癒えるか癒えないか」というフレームで見るのではなく、「そのままの自分でいかに生きるか」というフレームで物事を考えることは、大切な第一歩だと思います。

<2007-5-13>
 NLP用語に、「リフレーミング」という言葉があります。
 文字通り、見ているフレームを変えることで、問題に対してアプローチすることを指す言葉です。
 このリフレーミングですが、物事の良い面を見ようとか、ネガティブに考えていることをポジティブに考えてみよう、という意味では決してないと僕は思っています。
 例えば、ある出来事を「それは自分にとって-1だ」と評価しているとして、それを「いや、+1だ」と評価しなおすことがリフレーミングでは「ありません」。
 これだと、数値という「同じフレーム」で判断しているから、リフレームされていないのです。
 では、リフレーミングとは何かというと、「-1」を、「数値というフレーム」ではなく、「文字列というフレーム」や、「図形というフレーム」、「画数というフレーム」といった違ったフレームで認識しなおす作業だと僕は思います。
 例えば、「ノルウェイの森」という小説の中に、緑という女の子が、「人生はビスケットの缶だ」と言うくだりがあります。
 このビスケットの缶の中には、好きなビスケットも、嫌いなビスケットも入っています。
 その中からたまたま、嫌いなビスケットをひとつ取り出してしまったとして、食べるとまずいのだけれど、がんばって美味しいと思い込むことがリフレーミングでは「ありません」。
 そうではなくて、嫌いなものは嫌いなまま、「ビスケットの缶の中に入っている嫌いなビスケットの数は決まっている。今、ひとつ食べたと言う事は、確実にそれがひとつ減ったと言う事だ。今後、嫌いなビスケットが続くかもしれないけれど、それが続けば続くほど、嫌いなビスケットはなくなり、あとには好きなビスケットだけが残る」という、好きか嫌いかとは違ったフレームで見つめなおすことで楽になることが、リフレーミングだと思います。
 決して良い面を見よう、うまいことを言おう、というのがリフレーミングではないのです。(それが無意味だと言っているわけではありません)
 ちなみに、このビスケットの缶(人生のメタファーになっています)の話、僕は大好きです。

<2007-5-12>
 今日、初めて英語で催眠誘導をしました。
 今まで、日本語の出来る外国人を日本語で誘導したことは何度かありましたが、英語での誘導は全く初めて。
 上手くいくのかドキドキしましたが、結果は大成功でした。
 思うに、僕のカタコトの英語がかえって良かったのではないかと思います。
 カタコトだと、相手は何を言っているのだろうと必死に僕の言葉に集中します。
 また、意味が判らない部分、曖昧な部分は、「きっと私はこうなるのだろう」、と勝手に頭の中で補完していきますので、理想的な「暗示」が入るのだと思います。 
 その人も非常に楽しんでくださったので、僕も非常に楽しかったです。

<2007-5-1>
 たまたまつけたテレビで流れていた、森進一の歌う「時代」に、ちょっと感動してしまいました。

 ♪ だから今日はくよくよしないで
   今日の風に吹かれましょう

<2007-4-26>
 毎年春になると、桜より楽しみにしているのが、ナガミノヒナゲシの花です。
 そう、あの、アグネスが歌っていたヒナゲシです。
 ここ数年で急速に増殖している帰化雑草なのですが、とにかくオレンジ色の花が綺麗。
 道を自転車で走っていると、あっちにも、こっちにも咲いています。
 こんな花です。
 綺麗な雑草選手権があったら、間違いなく1位だと思うのだけれど、いかがでしょうか。 

<2007-4-23>
 あなたは茂作さんではないですか?(英訳)

<2007-4-20>
 「アメトーーク」のドラえもん芸人を観ていたら、不覚にも、何度もウルウルしてしまいました。
 「さよならドラえもん」、「帰って来たドラえもん」、「おばあちゃんの思い出」の3本は、戦争映画を観るときのような心構えがないと観られないくらい、強烈に感情を揺さぶられます。

<2007-4-17>
 毎日がエブリディ、という言葉、嫌いじゃないです。

<2007-4-16>
 催眠をなかなか実感できない人がいます。
 手を固める暗示をしても開いてしまい、手が上がる暗示をしても、動きません。
 何故かというと、これらは自分でも意思の力で出来てしまうからです。いまいち、暗示の力なのか、自分の意思なのかの区別ができず、逆に抵抗してしまうのだと思います。手を握ったり開いたり、上に持ち上げたりというコントロールに慣れすぎているのです。
 そういう方にお勧めなのは、手の痺れを感じる方法です。
 両手を膝の上に置いて、目を閉じてください。
 次に、肺の中にいっぱい空気を吸い込み、これ以上入らないところまで吸ったら、ゆっくりと、全部吐き出してください。
 この深呼吸を3回繰り返します。
 終わったら、自然な呼吸に戻し、目を閉じたまま、両手に意識を向けます。
 そして、右の手のひらと、左の手のひらの、どちらが先にピリピリ痺れてくるかを、感じてみてください。
 ちょうど、長時間正座をした後の足の痺れのような、力が抜けたような、重いような、モヤモヤするような、ピリピリするような、そんな感覚を感じてください。
 感じ始めると、その感覚はどんどん大きくなっていきます。
 普通は自分の意思で手を痺れさせることなんて出来ませんよね。
 もし、この練習で手の痺れをはっきり感じたら、あなたは暗示にかかっているのです。
 痺れが弱い人も、毎日練習することで、瞬時にピリピリ感を感じられるようになっていきます。
 それが何かの役に立つわけではもちろんありませんが、無意識が反応してくれる感覚を知ることで、被催眠性は確実に高くなります。

<2007-4-11>
 NLPや現代催眠をまとめた英語サイトを発見して以来、ずっと読んでいます。
 http://www.nlpweekly.com/
 こちらなのですが、これだけ充実したサイトが無料で提供されているとは驚きです。何と言うか、アメリカの底力みたいなものを感じました。
 すごく面白くて、辞書を引きながら読んでいますが、この調子で行くと、NLPだけではなくて、英語も身につきそうです。(^^) 

<2007-4-7>
 催眠療法体験セミナーにご参加いただいた皆さん、本当にお疲れ様でした。
 おひとりおひとりと十分にお話しすることは出来ませんでしたが、お会いできてとても嬉しかったです。(^^)
 今回は初回と言う事もあり、少し気合を入れすぎて話が長くなってしまいましたし、実際にやってみて、こうすればもっと良かったと、気づく部分もたくさんありました。また、皆様からいただいたアンケートを読みながら、アイデアをたくさんいただきました。次回は更に良いセミナーになることと思います。
 個人的には、トランプのカードはもう少し多くの人があたると思っていたのでちょっと残念。
 逆に、初回の青いカードは、ほとんどの人があたってびっくりでした。
 更に、催眠の中で涙を流している方が多くいらっしゃったのも、印象的でした。
 今日、知らない人ばかりの環境で、なかなか手を上げて質問することが出来なかったと思います。
 セミナーで解らなかったこと、聞いて欲しかったこと、言いたいこと、ご感想など、是非、メールにて教えてください。
 今夜は、「雨乞い師」の話を少しだけ思い出してから寝てくださいね。
 本日はありがとうございました。

<2007-4-6>
 いよいよ明日、催眠療法体験セミナーを開催いたします。
 今回はただの催眠体験にとどまらず、なぜ暗示に人は反応するのか、体験しながら理解するための楽しいデモをたくさん用意しました。
 セミナーに参加するとき、参加する前はワクワクしているのに、終わってみれば何も残っていないことがありますが、今回は何か一つでも変化を感じていただけるよう、いろいろな「仕掛け」がありますので、参加者の皆さんはぜひ、楽しみにしていてください。
 まだ、若干席が残っていますので、参加ご希望の方は、明日の朝までにお申し込みください。席を確保してお返事します。
 持ち物がいろいろありますが、忘れないように。
 そして、今夜はたっぷり寝てください。
 お会いできることを楽しみにしています。(^^) 

<2007-4-4>
 「餅」の食感から「もちもちしている」という表現が生まれたのか、それとも「もちもちしている」から「餅」という名前がついたのか……。
 ラジオのネタに、思わず考え込んでしまいました。

<2007-4-3>
 Derren Brown という人を知っていますか?
 心理学を駆使した手品を行うパフォーマーなのですが、見たこともないマジック(?)の連続です。
 中には完全なマジック(メンタルマジックでもない)もたくさんあるようですが、多くはNLPや現代催眠を駆使したパフォーマンスだと思います。

http://www.channel4.com/entertainment/tv/microsites/M/mindcontrol/video/index.html

 例えばこの一番上の、「Are you feeling sleepy?」を見ていただきたいのですが、女性が電話を取ってしばらくすると、完全に寝てしまいます。右にある、種明かしのコーナーには、混乱技法を使っていると書いてありました。
 「Silent responses」では、ある人に、心の中で5つのことを思ってもらい、そのうちのひとつは嘘を思ってもらいます。そしてその嘘が何番目なのかを当てる、ということをしています。見ていると、あぁ、これが嘘だな、と判るのですが、NLPの本だけではなかなかイメージがつかめなかったことを、実際の映像で見せてもらった感じで、非常に勉強になります。
 「Seeing the future」では、初対面の相手のことをずばずば当てていきます。(コールドリーディング)
 一番下の「Illusion or miracle?」では、いわゆる催眠誘導なしに、痛みの幻覚を作り出しています。
 Youtubeで"Derren Brown"で検索すると、このようなビデオがたくさんヒットします。本の中でしか知らなかったエリクソンの散りばめ話法の実演が見られたり、電車の中の人の記憶を一時的に消したり、握手誘導で道行く人をトランスに入れたりと、「現代催眠とはこうやって使うのだ」というDerrenの強烈なメッセージを感じました。
 よくビデオを見ていると、ミラーリング、イエスセット、混乱、パターン介入、散りばめ等、実に合理的に、見事に使っています。
 僕は今まで、どこかで、現代催眠の力を信じていませんでした。そんなにうまくいくのか、と。ローリスクローリターンな気がしていましたし、実際に達人レベルの実演をみたこともありませんでした。もちろん、現代催眠の考え方を僕も使いますが、それはあくまで、打率を上げるための保守的な使い方にすぎませんでした。
 「相手に気づかれることなく」「トランスに入れることなく」というのが現代催眠の売り言葉ですが、逆に言うと、相手に(結果を)気づいてもらえるような暗示はできないからではないか、本当はトランスに入れることができないからではないか、とさえ思っていました。
 しかし、Derrenのビデオを見て、完全に考え方が変わりました。
 現代催眠だってハイリスクハイリターンだし、全然保守的ではなく、深いトランスに入れることさえするようです。
 もちろん、この人のレベルに達するには、もしかしたら古典催眠の達人になるよりもずっと難しいのかもしれません。そういった意味では、古典催眠の方法論が現代催眠によってすでに駆逐されているとは全然思いませんし、古典催眠には、古典催眠の良さがあります。場合によっては現代催眠よりもずっと確実なのです。
 しかしそれでも、これらのビデオを見て、もっとNLPや現代催眠を勉強したいと、気持ちを新たにしました。

 以下、老婆心ながら……。
 はじめにも書いたとおり、彼のパフォーマンスのすべてが心理誘導ではなく、ただの手品もたくさん混ざっています。
当然、失敗したシーンはカットされていることが多いので(電車の中で記憶を消すビデオでは、失敗シーンがきちんと収録されていました)、誰に対しても100%できるわけでもないでしょう。 更に、広義の意味でも狭義の意味でもヤラセもあるかもしれません。
 また、中には倫理的ではないパフォーマンスもたくさんありました。まったく許可なしに素人相手にやっているとしたら、これはほとんど、心理的レイプではないか、というものもありました。そういうのは、見ていて気分の良いものではありません。

<2007-3-30>
 君たちがいて、僕がいる……。
 よく考えると、深い言葉です。

<2007-3-29>
 夜桜を見ようと、近所をドライブしてきました。
 今日はとても暖かかったので、一気に桜も咲いたようです。
 何でもない道に、こうやって桜がたくさん咲いているのを見ると、とても贅沢だなぁって思います。
 僕は全体を眺める桜も好きですが、近づいて観察するのも好きです。
 桜ってとても不思議で、近づいてみると、太い幹の途中で枝も出さずにいきなり花がごてっと咲いていたりするんですよね。我が家のプルーンは、申し訳程度にしか花を咲かせないので、桜のように大盤振る舞いで花芽をつけ、咲き乱れる木をみると、何だかありがたい気持ちになります。
 さあて、桜の次は、ブルーベリーです!

<2007-3-22>
 最近、にわかに人気がでてきたムーディ勝山。
 初めて「右から来たものを左へ受け流すの歌」を聴いたときには、しばらく笑いが止まりませんでした。こういった爆発的な、そしてとても新鮮な感じの笑いは、そうそう体験できるわけではありません。僕にとっては、バカリズムの「トツギーノ」を見たとき以来の衝撃でした。
 「笑い」というのに公式があるとしたら(もちろんあります)、彼のネタは忠実にその公式を利用しているように思います。心の中の気持ちの変化がしっかり計算されていて、笑いが心地よいのです。
 もちろん、いつかは飽きられてしまうタイプのネタなのかもしれませんが、誰かを皮肉るわけでもなく、あるあるネタでも自虐ネタでもなく、あれだけ内容のないもので爆笑をとれるのは偉大です。

<2007-3-19>
 高校1年の頃、偶然知り合ったふたつ上の他校の先輩が、自分の同級生についてこんな風に言っていました。
「うちのクラスはレベルが低すぎて話せるやつがいない。中学のときのクラスメートはすごいやつらばかりで、毎日レベルの高い話をしていた。今のクラスの連中は中学のときの俺たちよりもレベルが低い」
 僕は彼がそう言うのを、話を遮らずに黙って聞いていましたが、聞き終わって、その歪んだ選民意識に、何とも嫌な気持ちになりました。
 「レベル」という定量的に測定不可能な尺度で人を判断していることが納得できなかったし、たとえそれが彼にとっての事実であったとしても、「あいつらはレベルが低い」と言葉にしてしまう行為は、非常に恥ずかしい行為のような気がしたのです。
 実際、彼はそれをすいた電車の中で、大声で話していたのですが、僕は周りの大人たちがこの発言を聞いて「わ、この高校生恥ずかしい」と心の中で思っているのではないかとヒヤヒヤしていました。
 そもそも、レベルって何だよ、と僕は思いました。
 彼が、「うちのクラスはみんな下品で話せるやつがいない」と言ったならまだ良かったのです。もちろんこの「下品だ」というのも主観ですが、言われている側には努力の余地があるからです。
 仮に彼が僕に向かって、「君は下品だから話したくない」と言ったとしたら、僕は僕なりの品の良さを追及することができるかもしれない。
 しかし、「君はレベルが低いから話したくない」と言われたら、僕はどうしたらいいのか判らないのです。品の良さを追求するより、レベルの高さを追求する方がずっと難しい。
 もちろん彼は僕に対して「レベルが低い」と言った訳ではありませんが、こんな風に嫌な思い出として残っているのは、いつしか僕も「レベルが低い」とばっさり切られるんじゃないかと、無意識的に感じていたからだと思います。
 それ以来、僕はこの「レベルが低い」という形容が大嫌いで、平気で「あいつはレベルが低い」とか、「あそこはレベルが低い」と言ってしまう人とは、仲良くなれないなぁって思います。まず、謙虚じゃないですよ。根拠なく自分を上に置いている。もし根拠があるなら、そんな曖昧な言葉を使うべきではないんです。自分の感じている優位性を理論的に、定量的に説明すればいい。それができないのであれば、わざわざ自分を上に置くのではなく、自分の優位性を歴史が証明するまで、黙ってみていればそれでいいんです。
 僕は松本人志が好きですが、彼が「俺の笑いが通じないのは、俺の笑いのレベルが高すぎて視聴者が理解できないからだ。早く視聴者にこのレベルまで上がってきて欲しい」というようなことをラジオで言っているのを聞くたび、笑いを「レベル」というエンプティーワードで測ろうとしていることにがっかりします。
 本当に視聴者のお笑いレベルが低いのであれば、それを高くするために、何を勉強すれば良いのか、何を訓練すれば良いのか、勉強でも訓練でもなければ、じゃあ何をすれば良いのか、はたまた、お笑いレベルは持って生まれたものだから、もう遅いのか、嘆く前にはっきりして欲しいのです。
 「レベルが低い」と言い放つのは、自己満足に他なりません。
 もしかしたらこの言葉を使いたがる人は、怖いのかもしれません。自分より下にいるはずの人が自分を追い越していくことが怖いのかもしれないし、実は自分は大したことがないという現実が明らかになるのが怖いのかもしれません。
 不必要なプラス思考は、時に、不必要なマイナス思考よりもずっと害をなすのと同じで、自分はレベルが高いと思っている人ばかりが住んでいる国があったら、その国は、レベルが低いと思っている人ばかりが住んでいる国よりも、ずっとずっと住みにくい国なんじゃないかと思います。

<2007-3-14>
 ふと、心の中に、オフコースの「YES-YES-YES」の一節が浮かびました。
 僕は小学生でオフコースを好きになってから、ずーっと男目線で曲を聴いていました。
 だから「YES-YES-YES」のような女性に語りかけるタイプの曲は、どうもピンと来ませんでした。むしろ、「ワインの匂い」のような、物語性のある曲を好みました。
 でもふと、「YES-YES-YES」を思い出し、自分が女性で、誰かがこんなことを言ってくれたら、なんて素敵なんだろうと思いました。顔が全然タイプではなくても、自分が弱っているときに真顔でこんなこと言われたら、それだけで運命的な恋に落ちてしまうだろうなと。オフコースに熱狂的な女性ファンが多かったのが、今更ながら理解できた気がしました。
 当たり前だけれど、本当に僕が女性に生まれていたら、ずっと違った人生だったのだと思います。

 ♪ 振り返らないで 今 君は素敵だよ
   僕のゆくところへ あなたを連れてゆくよ
   "手を離さないで"

<2007-3-9>
 4月7日(土)の催眠体験セミナーですが、皆様のおかげで、定員の半数近くが既に埋まってしまいました。
 ご希望の方は、お早めにお申し込みくださいね!

<2007-3-6>
 最近、週末のみセッションを行っているため、なかなかご希望通りにセッションをお受けすることが難しくなっています。
 そこで、催眠体験セミナーを開催いたします!
 セミナーと言っても、通常のセッションと同じく、丁寧に催眠誘導をしていきますので、初めての方も、催眠療法や癒しを体験できることと思います。
 ご興味のある方は、是非、いらしてくださいね。
 定員があまり多くありませんので、お早めに!!

<2007-3-4>
 某催眠セミナーで、飛び入りで誘導をしてきました。
 多くの人を一度に誘導すると、聞く人によって心の中で体験することは様々です。
 手が重くなる人、軽くなる人、すぐに寝てしまう人、心の中で空を飛んでしまう人……。
 終わった後に皆さんの感想を伺うと、改めて、心って不思議だなぁと思います。
 これだけ人によって受け方が違うのだから、普段、会話が成立しているのが奇跡のようにも思うし、逆に、どこまでこちらのイメージ通りに伝わっているのかが心配にもなります。
 僕たちが出来ることは、解り合う事では決してなく、思いを可能性のある言葉に載せて、飛ばし合うことだけなのかもしれません。
 だからこそ、あぁ、本当にこの人は理解してくれたんだ、って実感できると嬉しくなるんですよね。
 「人が真実しか語らなくなったら、真実の価値なんてなくなってしまう」と誰かの小説にありましたが、その通りだと思います。

<2007-2-22>
 「ゲシュタルトの祈り」という詩をご存知でしょうか?
 僕は学生時代にこの詩をどこかで聞き、ものすごーく影響されました。

私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

 誰かのために生きる必要はないし、誰かを自分のために縛り付けるのは、間違ったことだと思います。
 たまたま同じ道を歩いているときは素晴らしい一時を分かち合い、やがてお互いの道がわかれたときには、ただそれに従う。
 ちょっと寂しい気もするけど、そんな風に生きれたらって思います。

<2007-2-21>
 またまた美味しいコンビニグルメを見つけました。
 オリジナル商品ではありませんが、ヤマザキ「ランチパック」シリーズの、「キナコモチ」です。
 耳を取った食パン2枚に、お餅(求肥)とキナコクリームが挟んであります。
 モチモチした食感がとても美味!
 マイナー商品なのか、なかなか売っている所がありませんが、見つけたら是非食べてみてください!

<2007-2-13>
 Don't think. Feel !!

<2007-2-12>
 テレビでウッチャンがお勧めしていた、ampm の「フレッシュチーズめいっぱい」というのを食べてみました。
 確かにひとりでは食べきれない量でしたが、すごく美味しかったです。
 ついでにダウンタウンの松ちゃんがラジオでお勧めしていた、セブンイレブンの「もちもちお好み焼きパン」というのも食べてみました。こちらも不思議な食感で美味しかったです。
 コンビニのオリジナル商品もあなどれませんね。
 まだ食べていない方は、是非チャレンジしてみてください。

<2007-2-2>
 はじめ、Aだと思っていたことが、だんだん、いや、やはりBだ、と思い始め、うん、やっぱりBだよって思って生きていくのですが、いろんなことを経験して、あぁ、やっぱりAなのかもしれないなぁ、って思うことがあります。(うーん、我ながら、解りにくい文章ですね)
 例えば、子供の頃、お金があれば何でも買えるから、お金が一番大切、と思ったとします。(A)
 しかし思春期になり、いや、お金で買えないものもある。お金がすべてじゃない、と理想に目覚め、考え方が変わります。(B)
 そのまま理想まっしぐらに行けば良いのですが、年を重ね、夢と愛だけではどうにもならない状況を経験するうちに、お金が全てじゃないなんて簡単に言えないな、と思い直します。(A')
 このような現象を、「思考のブーメラン現象」と呼びます。(勝手に名づけちゃった!)
 人は長い人生の中、頻繁にこれを繰り返しているのではないでしょうか。
 仲が良かった人と何かがきっかけで疎遠になり、だけどどこかでばったり会って、再び前以上に仲良くなったり、好きだった音楽を次第に「こんなのもう古い」と聴かなくなるのだけれど、何年かたって、ラジオから流れてきたその曲を聴いて、昔は気がつかなかった良さに気づき、もっと好きになったり、戦争はいけないと教育された子供が、大人になると正義を守るための戦争を容認し、やがて戦争の不条理性、残酷性を知ることで心から戦争に反対するようになったり……。
 思考のブーメラン現象のポイントはふたつあり、

1.はじめのAと、終わりのA'は、同じAでも質が違うということ。(当然、A'の方は、経験に裏付けられており、本物です)
2.第一印象や直感というのは、その人にとってみれば正しいことが多い。

ということです。
 一度考えがBに行くのは、Aであることのを確認作業なのかもしれませんし、老人になって童心に返るのも、人がときどきデジャヴを経験するのも、思考のブーメラン現象と関係があるのかもしれません。
 AとBという対立概念があり、自分はBだと思っているとき、それをAだと言っている人がいると、若いなぁとか、子供だなぁと感じます。しかし、もしかしたらその人は、すでにA'の域に達しているのかもしれない。
 また、自分と同じ意見の人がいたところで、それは自分が未だに人生経験が浅いが故に<たまたま>意見が合っているだけなのかもしれない。
 そう考えると、人と接するときに必要なのは、意見が合うかどうかでは全然なくて、立ち位置を確認することなのかもしれません。
 今は意見が合わなくても、ブーメランはやがて返ってくるのかもしれないのですから。

<2007-1-29>
 ラジオで おぎやはぎ が、「もし生き物がすべて同じ大きさなら、最強の生き物はなんだろう?」という話をしていました。
 例えば、人間もライオンもアリもみんな2mだったとしたら、何が一番強いのでしょうか?
 ラジオでは、カマキリではないかということで話がまとまっていました。
 確かに、生き物の中であれだけ露骨に武器を持っているのはカマキリだけです。
 でも僕は、カマキリは違うと思います。
 カマキリはお腹の辺りがフニャフニャだし、いくら2mになったところで、あのカマでサイや白熊の皮膚にダメージを与えられるとは思えません。
 となると、スズメバチ辺りが最強かな。

<2007-1-12>
(昨日の続きです)
 この都市伝説を検証するのは簡単です。
 ラピュタを1度も観たことのない人に、幻のエンディングや検証のことを何も告げずに観てもらうのです。
 そしてしばらくしてからもう1度観てもらい、何か気がついた点はないか、話を聞きます。
 千人単位でこの検証をすることができれば、何人かは「幻のエンディング」を観るのではないかと思います。

<2007-1-11>
(9日の続きです)
 僕はこの都市伝説は、集団催眠現象の典型ではないかと考えています。
 映画を観る、という行為は、広義の意味での催眠状態に人を導きます。
 催眠誘導の方法のひとつに、ブレイド法といって、光源などの一点を凝視させる方法がありますが、テレビや映画を観ているときの集中状態はこれに近く、例えばテレビを観ていて時間が経つのがはやく感じたり、お風呂の水を止め忘れたり、誰かの呼びかけが聞こえなかったりするのは、変性意識状態ゆえの現象です。
 また、ラピュタには浮遊シーンが多く描かれており、この「浮かぶ」というイメージが更にトランスを深くしているのではないかと思われます。(余談ですが、空を飛ぶ夢というのは明晰夢 ― 夢の中で「これは夢だ」と気がつき、夢の内容をある程度コントロールできる夢 ― と関係があります。明晰夢もまた、変性意識状態のひとつです)
 そして催眠状態が深くなったところで、映画の中の映像やセリフ、音楽が暗示的な作用をし、多くの人たちに同様の体験(この場合は、パズーがシータの故郷に訪れるシーンを観るという体験)をさせたのではないでしょうか。
 例えば、パズーの「見たいんだ、シータの生まれた古い家や谷やヤク達を」という言葉は、いずれそうなることを暗示していますし、エンディングに流れる「君をのせて」の「さあ出掛けよう」は訪問を、「君を隠して」はシータとの離別を暗示していたのかもしれません。
 「確かに観た」と証言する人の中に、「うちにビデオが残っているはず」とおっしゃり、見直したところ、「あるはずのそのシーンがなかった」、と書いていらっしゃる人がいました。また、ほとんどの人が、1度目でこのエンディングを観ており、2度目で「あれ? エンディングが違う……」と感じていらっしゃいます。仮にテレビでそのエンディングが放送されたとしても、人によって時期がバラバラ。もし、そのエンディングが何回か放送されていたとしたら、2回観たことがある人がいても良いはずですが、僕の確認した限り、そういった人はひとりもいらっしゃいませんでした。
 何が言いたいかというと、1度目に観たときはトランスに入りやすく、暗示的要素に反応した人も、2度目は理性の働きが強く、「この後は○○になるんだよね」という確認作業を無意識的にしながら観ているため、暗示に反応しなかったのではないかと思うのです。
 というわけで、僕はこの都市伝説は、「集団催眠説」が正解なのではないかと考えています。
 ガセネタとして扱っているサイトには、偽の記憶のせいだというニュアンスの説明がありましたが、偽の記憶というのは、実際には見ていないものを、記憶の混乱などで「見た」と錯覚している状態です。それに対して、幻のエンディングを観た人たちは、記憶違いをしているのではなく、「実際に催眠の中でそのエンディングを観た」のですから、偽の記憶とは別物なのです。
 その人にとっての事実というのは客観的なものではなく、主観的なものです。言葉にすると当たり前ですが、ラピュタの都市伝説を調べていて、僕は何とも言えない、恐怖に似た気持ちになりました。
 僕の生きている現実は、周りの人たちと同じ現実なのか?
 頭では「そうではない可能性がある」と解っていても、無意識では「現実はひとつ」と何の疑いもなく思っていました。
 だからこそ、この都市伝説を通して、その無意識が揺さぶられ、何とも言えない気持ちになったのだと思います。
 正午は午前12時? 午後12時? でも似たようなことを書きましたが、僕が怖かったのは、事実というのはひとりひとり違うのだということをまざまざと見せつけられたからでは決してなく、それでも何の問題もなく世界が動いているから、なんです。

<2007-1-9>
 「天空の城ラピュタ」には、幻のエンディングがある、という都市伝説があります。
 テレビ放送の際、劇場版のエンディングとは違い、パズーがシータの故郷に訪れ、握手して別れるという、別バージョンのエンディングが一度だけ放送された、というものです。検索エンジンで、「ラピュタ 幻のエンディング」で検索いただくと、検証サイトがゴロゴロヒットします。例えばこちら
 この噂が他の都市伝説に比べて特徴的なのは、多くの都市伝説が「友達の友達」的なところを出所としており、実際に目撃した人の話を聞くことが滅多にないのに対し、「私も覚えている!」という証言者が非常に多くいる点です。例えばこちらこちら
 一方、制作元のスタジオジブリは、この噂を公式に否定しており、こちらのサイトでは完全なガセネタとして扱われています。
 これらは一体何を表しているのでしょうか?
 これだけ多くの人が「見た」と証言しているにもかかわらず、そのビデオ1本出てこないのです。
 証拠が出てこないということは、物理的に幻のエンディングが放送された可能性はゼロに近いのではないかと僕は思います。
 ただ、そうなると多くの人が体験した別バージョンのエンディングは何だったのか……。
 この都市伝説にも多くの説があります。小説版ラピュタ混同説。未来少年コナン混同説。子供の空想説。
 しかし、どれも決定打にかけます。小説版を読んでいる人は少数でしょうし、いくら同じ宮崎作品だからといって、多くの人が同時にこのような勘違いをするとは考えにくいです。また、証言者の中にはそのエンディングを見た時点ですでに大人だった人も多く、「子供は想像力が豊かだから……」と片付けてしまうには無理があると思います。
 やはり幻のエンディングは本当に存在するのでしょうか?
 本当はこの話、一気に書いてしまおうと思ったのですが、長くなりそうなので、続きは明日以降、書きたいと思います。

<2007-1-1>
 あけましておめでとうございます。
 昨年は個人的にはあまり良い年ではありませんでしたが、何だか今年は良い年になるような気がしています。
 もう十分、受けるべきものは受けたんじゃないか、と。(^^;;
 そうそう、今年の予言(?)をひとつだけしておきます。
 今年は、ぐっさんの相方の平畠がブレークします!

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