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ひとりごと

エッセイもお読みくださいね。

<2009-12-31>
 大晦日に入るお風呂って、大好きです。
 いつもの湯船も、特別に感じられます。
 変わらずに明日も来るのですが、どこかに、「これで最後」みたいな空気があって、そういうのがたまりません。
 皆様、よいお年をお迎えください。

<2009-12-26>
 フォンドボー。
 意味は良く判らないけれど、良い響きです。

<2009-12-25>
 「2010年」というのは、読みなれないせいか、文字のバランスのせいか、インチキくさく感じます。
 2011年も2012年もそれっぽく読めるのに、何で2010年だけ、変な感じなんだろう?

<2009-12-20>
 M-1グランプリを観ました。
 審査員の評価は低かったですが、僕は東京ダイナマイトが一番面白かったです。
 この気持ちを誰に伝えたいですか?、のくだりは、久しぶりに苦しくなるくらい笑ってしまいました。
 笑い飯もさすがですね。鳥人は彼らの漫才の完成系のような気がしました。

<2009-12-18>
 ここ1ヶ月くらい、マロン(オス・年齢不詳)の性格が変わり始めています。
 マロンは我が家に来たとき、すでに成猫で、性格も非常に安定していました。
 ボランティアさんのキャリーから出た直後から、まるで昔からうちで暮らしていたかのような落ち着きぶりで、初対面なのに逃げることも威嚇することもなく、用意しておいたトイレを見つけると、当たり前のようにそこで用を足し、緊張している様子はまるでありませんでした。
 マロンはボイスレスキャットで、ほとんど鳴きませんでした。
 鳴くとしても、本当に小さい声で、「にゃん」程度。
 来客があっても人見知りせずに寄っていくし、窓の外を野良猫が通っても、威嚇することはありません。二匹目のゆずが来たときも、ボランティアさんがびっくりするくらい、はじめからウエルカムで、縄張りを主張することもありませんでした。
 本当に穏やかで控えめな猫で、飼い主としては、若干物足りないほど。ゴロゴロも控えめ。数ヶ月に一度、まるでご褒美のように、チロチロと手を舐めてくれることはありますが、それもすぐにやめてしまいます。呼んで来てくれることも滅多にありません。もっと自己主張してくれれば良いのだけれど、まるでぬいぐるみのように、いつもじっと佇んでいます。それは時々、「うちにはペットがいないのではないか?」と感じるほどで、ゆずを貰おうと思った遠因にもなっています。
 手がかからないのは良いのですが、ほとんど甘えてこないし、人間に対しても無関心で、餌を用意してトイレを綺麗にしてくれる存在としてしか見ていない感じがしました。マロン自身、どこか悟ったようなところがあり、「朝が来て、夜が来て、食べて、寝て、人生なんてそれだけだ」というような顔をして、哲学者然としています。「猫がいたずらをして困る!」という人の話を聴くと、羨ましく思ったりもしました。
 一方のゆず(メス・2歳)は、マロンとはまるっきり正反対の性格で、ピーピーと自己主張が激しく(ドア開けろ!、餌よこせ!、抱っこしろ!、遊べ!)、近寄ってきては痛いくらいに手を舐め、ときどきストーカーのようについてまわり、座っていると自分から膝にのってきてゴローンと寝てしまいます。抱っこも大好き。マロンは抱っこが好きではなく、抱っこすると、気を使ってしばらくはじっとしているのですが、しばらくすると「もういいでしょ。おろしなさいよ」という目をして、もぞもぞします。
 ゆずは少し撫でてあげるだけで、すぐにゴロゴロいいます。忙しくて無視していると、背伸びして右前脚で、「ちょんちょん」と、まるで人間が「ちょっとちょっと」と肩を叩くように、僕の脚を叩きます。呼べば返事をして、しっぽを立てて走り寄ってきます。縄張り意識も強く、窓の前に野良猫が通ると激しく威嚇し、マロンの場所は片っ端から占領。来客があると、おびえて隠れてしまいます。
 で、そのマロンなのですが、もう性格が変わることはないと諦めていました。ゆずは子猫から飼っているので、性格の変化がいろいろありましたが、マロンは来たときから5年間、全く性格が変わっていないし、これ以上なつくこともなければ、嫌われることもありませんでした。これがマロンの性格だし、小さなゴロゴロも、本当にときどきチロチロと舐めてくれるのも、カリオストロの城に忍び込んだルパン3世のように、「今はこれが精一杯」なのかもしれない。甘えるのが下手な、優しさに似たロケンロールなのです。
 マロンは殺処分されそうだったところを、ボランティアさんに「この子ならばもらわれるはず」と救われた猫で、詳しいことは知りませんが、大変な過去を背負っている感じがします。だから、ありのままのマロンを、そのままで愛そうと思っているし、いてくれればそれだけでありがたい存在です。ゆずが悪いことをすると本気で叱るし、頭に来ることもあるのですが、マロンは何をしても、「そのままでいいんだよ、マロン」という気持ちになるのです。
 それが最近、どうもマロンが変わってきたのです。
 まず、よくしゃべるようになりました。昔は鳴いても「にゃん」という小さな声でしたが、今は結構大きな声で、うにゃうにゃ言います。ゆずのように、何か要求があるわけではなく、まるでひとりごとのように、うにゃうにゃしゃべるのです。
 そして、呼ぶと結構きてくれるようになりました。今までは「どうせ用なんてないんでしょ」というクールな感じで見つめるだけで、動きませんでしたが、今は呼ぶと、寄ってきてくれることが増えました。
 更に、一番の変化は、自分から甘えに来ることです。パソコンの前にいると、ぴょんと机の上に載って、スリスリと体をよせてきます。キーボードを打っている手を優しく舐め、僕の方を向いて箱座りして、「僕がそばにいるからね」って励ましてくれているみたいに、ずっと居てくれます。ゆずは気まぐれで、眠くなるとどこかへ消えてしまいますが、マロンは僕が起きている限り、机の上や、マロン専用座布団の上で、待っていてくれます。
 それはもう、「マロン、一体どうしちゃったの?」、という変化で、もちろん嬉しいのですが、理解のできない、突然の変化です。
 やっと僕の愛がマロンに伝わったのか、それとも死期が近いのか、はたまた、ゆずを観ていて甘えることを覚えたのか……。
 ゆずは気まぐれで直接的なツンデレですが、マロンはもっとずっと高度なツンデレで、最近、マロンにメロメロです。

<2009-12-17>
 ビートルズの「Drive My Car」、大好きです。
 この曲に出てくる女の子は、セリフがいちいち格好良いですね。
 「多分あなたのこと、愛してあげるわ」とか、「私なら、もっと良い夢みさせてあげるわよ」とか、「車がなくて悲しいけど、とりあえず運転手は見つかったし、それがはじまりよね」とか……。
 村上春樹の小説に出てきそうな女の子です。
 ついでにライブで踊り狂っている観客も最高です!
 以前も書きましたが、「Working for peanuts is all very fine」は、本来の「あくせく働くのも悪くないけど」と訳すよりも、直訳で「ピーナッツのために働くのも悪くないけど」の方が、状況が目に浮かんで面白いと思います。
 [peatuts] の変わりに自分の会社名とか作っているものの名前とかを入れると、この女の子の魅力が更に身近になります。

<2009-12-15>
 ある弁護士ものの海外ドラマを観ていたら、最終弁論で弁護士が、大おばの格言としてこんなことを言っていました。

 「変なニオイだから食べないわ」 (This smells funny and I'm not going to eat it.)

 冤罪の被告を弁護するための発言で、結果、陪審員は被告に無罪を宣告しました。
 このまま有罪にするには何か"におう"と思っていた陪審員の心を、見事に動かした一言でした。
 これ、座右の銘にしようかな。

<2009-12-14>
 今年は部屋にこもっていることが多いせいか、全然クリスマスの感じがしないので、今日はずっと AccuHolidays! を聴いています。
 さすがに一日聴いていると、同じ曲が、アーティストやアレンジを変えて、何度も流れます。
 クリスマスには家に帰るとか帰らないとか、子供がドラム叩いてラパパッパーとか、シルバーベルシルバーベル、ママがサンタにどーたらこーたら、雪を降らせなさいよ降らせなさいよ降らせなさいよ……。
 もっとクリスマスの歌ってあったと思うけれど、そんな曲ばかりへヴィーローテーションで繰り返されています。

<2009-12-13>
 レンダプスキーフォリオンマヘ

<2009-12-9>
 受験のときに覚えた英語の例文が、未だにふと、心に浮かぶときがあります。
 There is no time to lose. (ぐずぐずしている時間はありません)
 きっと、no time とか、to lose とかが、この例文のポイントなのでしょう。

<2009-12-8>
 先月、「天空の城ラピュタ」が放送された日をきっかけに、当サイトのアクセス数が最大で10倍にも増えました。
 エッセイにある「ラピュタの都市伝説」がアクセス増の原因のようで、映画が放送されてから2週間以上もたっているのに、今もラピュタバブルは継続中です。
 ラピュタの都市伝説を扱ったサイトは多くあるのに、何故ここにまでそんなに来るのかなぁと、「ラピュタ 都市伝説」を google で検索すると、当サイトの「ラピュタの都市伝説」が2番目に表示されていました。「ラピュタ」だけで検索しても、何故か当サイトが2番目。Yahoo! では、「ラピュタ 都市伝説」で検索すると、なんと最上位に表示されました。なるほど、アクセス数が増えるはずです。
 アクセス数が増えたといっても、ほとんどの人がエッセイのページだけ読んで、そのまま消えていくので、あまり仕事には影響はないのですが、多くの人に読まれているのだなぁと思うと、嬉しいような、恥ずかしいような、そんな気持ちです。

<2009-12-5>
 信じられないことを、「事実だから」と無理に信じる必要はないような気がしてきました。
 信じられるときが来るまで、「事実かもしれないけれど信じられないよね」って、保留にして良いのかもしれません。
 本当にそれが「事実」かどうかも判らないしね。

<2009-12-4>
 世の中には、散歩をする人と散歩をしない人がいます。
 僕は散歩が学生の頃から大好きで、まぁ、人生を通して、ずっと暇人だからかもしれませんが、ちょっと歩いてこようかな、という感じで、用が何もなくても歩くためだけに外に出ることがあります。
 散歩をし始めた頃って、やっぱりどこか緊張していて、何か自分はひどく間違ったことをしているのではないか、という気持ちになったものです。
 無理に例えるならば、缶ジュースをあけて、飲まずにそのまま流しに捨てるみたいな、そんな罪悪感じみたものを感じました。
 缶ジュースをあけて、飲まずに捨てるのは、全くの無意味だし、かといって飲もうが捨てようが自分の自由のはず、だけれど悪いことをしている気分……。
 散歩って、まさにそんな行為です。
 何でこんなに散歩が好きなのか、自分でもよく解らなくなることがあります。あるいは自己を罰しているのかもしれません。
 フワフワした雲でも浮かんでいようものなら、空を見ながらどこまでも歩いてしまいます。
 趣味を訊かれたときに、一瞬の迷いもなく「散歩です」と答える人に逢ったことはありませんが、そんな人に逢える日を、心のどこかで楽しみにしている自分がいます。
 「散歩」に似た概念は他にもありますが、あくまで「散歩」が好きなのです。
 「ウォーキング」は、「あわよくば」という感じがとても下品に感じます。
 「ハイキング」は、目的意識が強すぎて、散歩とは対極の概念です。
 「登山」もしかり。
 同じ散歩でも、「犬の散歩」には、義務感しか感じられません。
 「徘徊」は、本人的には散歩ですが、周りがそう認めてくれないところが辛いところです。
 純粋な「散歩」って、なかなか難しいのです。
 恐らく、生まれてから一度も散歩をしたことがない(全く目的のない外出をしたことがない)人も結構いるのではないかと思う。
 散歩をしたことがない人は、散歩をする人の気持ちなど、きっと理解できないのだろうな。

<2009-12-2>
 日本で一番食べられている魚介類は、イカだそうです。
 2位が鮭で、3位がマグロ。
 鮭とマグロは理解できるけれど、イカってそんなに食べられているのだろうか。
 全然イメージがわきません。
 もしかしたら今年、僕は一度もイカを食べていないかもしれない。

<2009-11-29>
 思いつくままに雑記。
 マクドナルドの、クォーターパウンダー・レタス&トマトを食べました。トマトが入るだけで、数倍美味しく感じました。
 気がつくと、HEROESのピーター・ペトレリのモノマネが得意です。リクエストがあれば、いつでも全力でやります。
 来年は良いことがあるんじゃないかと毎年思って、結局平凡な一年を繰り返していますが、来年こそ、本当に良いことがあるんじゃないかと思っています。
 ベッキーはやっぱり苦手。見ていると、ニーチェの「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」という言葉が頭をよぎります。
 「太田胃酸」のコマーシャルに流れているピアノ曲は、ショパンの「前奏曲 第7番 イ長調」です。そうです。「胃腸調」です。

<2009-11-27>
 「鷹の爪団」は、前回の放送で初めて、世界征服っぽいことをしたように思います。
 このアニメ、見れば見るほど、人の温かさを感じます。

<2009-11-24>
 毎年同じようなことを書いている気がしますが、僕は晩秋から初冬が一年で一番好きです。
 「いろいろあったけど、今年ももう終わり!」という空気がたまりません。
 もちろん、年が変わったからと言って、何かがチャラになったりするわけではないのですが、自分なりにそういった「区切り」をつけていくのって、生きていく上で必要なことだと思います。
 毎年、フローリングの上にホットカーペットを敷き、その上にコタツを置いていたのですが、今年は「置き畳」を買って、その上にコタツを置いています。
 やっぱり畳はいいですね。匂いもいいし、断熱効果も高く、座り心地も良いです。
 箱で買ったみかんとコタツがあるだけで、何だか幸せです。

<2009-11-20>
 昨日の夜、雨が上がった後に散歩をして帰ってきたら、蚊に刺されていました。
 こんなに寒くても活動している蚊がいるのもびっくりだし、そんな生き残りの蚊に刺されている自分にもびっくりです。

<2009-11-19>
 セッションにいらっしゃった方からメールをいただき、掲載の許可をいただきましたので、久しぶりに体験談として、ご紹介いたします。
 過食嘔吐の悩みで相談にいらっしゃいました、29歳の女性の方です。

<ここから>
 昨日は急な予約にもかかわらず、柔軟にご対応くださり標題にかさねましてお礼を申し上げます。まことにありがとうございました。

 さて、1日たった現在ですが暗示をかけていただいたとおり、異常な食欲がピタリとやんでいます!
 今まではお腹が空いていなくとも、「食べたい、満腹になりたい」という思いが強く結局制御できなかったのですがセッションをうけてから教えてくださったおまじないの効果もあり(吐かない→満腹の状態を受け入れる→少しずつ様子を見ながら食べる→過食できない!)という過食症以前の大切な(クリエイティブな事に関する情熱もふくめ)感覚が戻ってきました。
 茫洋とした夢から醒めたみたいで10年も葛藤していたのが1回のセッションで正してもらえて嘘みたい!
 感謝の気持ちでいっぱいです。

(2日後にいただいたメール)
 セッションから丸一日たった今も、過食嘔吐や異常な食欲がなくいままでの10年間の生活が嘘みたいです!こういう風になおるんだ!
 (なんだかしつこくて申し訳有りません、それくらい感動してます!)

 ところで、体験談についてですが、摂食障害や何かへの依存を断ち切りたい方の助力になるようでしたら、是非是非ご利用下さい!
 切実に悩む方々が、敷居を高く感じている催眠療法について費用対効果を考えたときに確実に効果があるという事を実感してくれたらよいなぁ・・・と、思います。
<ここまで>

<2009-11-15>
 重力加速度は9.8m/s2(9.8メートル毎秒毎秒)ですが、この「まいびょうまいびょう」とうい響き、大好きです。

<2009-11-14>
 手をぎゅっと握ってゆっくり開き、手相を眺めると、シワが動いて見えるのは幻覚なのでしょうか?

<2009-11-12>
 今日はカウンセリングルームに、マジシャンの なか。たつや さんが遊びに来てくださいました。
 目の前でいくつもマジックを披露してくださり、プロのマジシャンの華麗なテクニックに酔いしれてしまいました。目の前でフォークがぐにゃぐにゃになってしまったのを見て、マジックだと解っていても、どこでそんな風に曲げたのだろうと、不思議で仕方がなかったです。原理を頭で理解するのと、それが実際に出来るのとでは、全く別の話なのだと改めて思いました。
 マジシャンの方にお会いするたびに、こんな風にマジックができたら、さぞかし楽しいだろうなぁと思います。そして何よりも、マジシャンがマジックをしている姿は、かっこいいです。例えそれが一瞬でも、常識を覆し、価値観を変え、夢をみさせてくれるのですから。
 今日、とても勉強になったのは、「アウト」という考え方です。正確な定義は判りませんが、「うまくいかなかったときにどうやって立て直すか」というような概念だと思われます。(違っていたらごめんなさい) マジシャンの方は、相手がどんな選択をしても、すべてが成功に繋がるように、緻密な計算でパフォーマンスを組み立てます。ですから、失敗がないのです。
 例えば催眠をしていて、「立てない」という暗示をしたとします。うまく行く場合もあれば、うまく行かない場合もありますが、大抵の催眠の教科書には、うまく行かなかったときの「アウト」など書いてはありません。「うまく行かないかもしれない」と思って誘導すると本当に失敗するので、自信を持って誘導しましょう!、というような、精神論ばかりです。でも、暗示に100%などあり得ないのですから、やはり、うまくいかなかったときにラポールを壊さないフォローの仕方は考えておく必要があると思います。マジシャンのように、すべてを成功に導く完璧な「アウト」は催眠では難しいかもしれませんが、相手の方に、立ててしまったことを気まずくさせないような展開に持っていくことが確実に出来れば、誘導する側ももっと自信を持てると思うのです。
 もっともっと、いろいろなパターンの「アウト」を誘導に取り入れていけたらと思いました。

<2009-11-8>
 日本人はシャイだとか自分を出さないとか意見を言わないとか遠慮ばかりするとか無口だとか言われますが、本当はそれくらいが丁度いいのだと思います。

<2009-11-7>
 今日はカウンセリングルームで2回目の大江千里オフ会を開催しました。
 今回気がついたことは3つ。

 1つ目は、大江千里が好きな単語について。
 彼の歌が醸し出す独特の世界観って、単語選びによるところも大きいと思うのです。「テントのさびくい」とか、「妹の文字コーヒー滲む」とか。
 そして、複数の曲にまたがって登場する単語が多いことに気がつきました。
 魚(魚のような口づけ〜、魚になりたい〜)、バス(夕方混んだ都バスのにおい、空いたバスの後ろに揺られてみた)、空車(空車がなくなるー、空車のタクシーと)、ケチャップ(ケチャップの染み、デルモンテトマトケチャップ)。
 あと、空車もそうだけれど、空の状況やなくなりそうな状況が好きみたい。空き缶で指を切ったとか、残高が少しある通帳とか。

 2つ目は、「魚になりたい」はやっぱり名曲、ということです。
 「見てるだけ」で何も起こらないのに、これだけの曲を作ってしまうのですから。
 ライブ映像を観ていて、あぁ、いつの間にかこういった青春時代は終わっちゃったんだなぁって、何度も思いました。
 ひと目みるためだけに、可能な限り仕事を引き伸ばして、新聞を広げてその瞬間を待とうという気持ちは、「昔もっていた感覚」という気がしてしまった。
 この曲の、「年上だっていい、年下だっていい」とか、見かけよりひとりでいるマドンナとか、恵比寿とか、疲れ果てて眠りこけている様子とか、そういう描写は本当に素晴らしいです。
 ところで「魚になりたい」ってどういう意味なんだろう??

 3つ目は、帰りの電車の中でアルバム「AVEC」を聴きながら思ったのですが、「17℃」、「アリアじャない」、「去りゆく青春」という流れは、「1234」の「ハワイへ行きたい」、「サヴォタージュ」、「帰郷」、「昼グリル」に匹敵する流れだと思いました。一曲一曲も良いのですが、この流れも含めてひとつの作品という気がします。
 中でも「マリアじゃない」は名曲ですね。中学のときに聴いていたときは、大人になれば、ガールフレンドも10人くらいいて、「あなたの右のこめかみの険しさが好きよ」なんて言われたりするのかなぁと漠然と思っていましたが、大人になってもそんなことは全然起こりませんでした。(^^;;
 今ではギアをローに入れることはないし、進駐軍放送はFENではなく、AFNになっちゃいましたが、変わらずにこの曲を聴くと切ない気持ちになります。

<2009-11-4>
 知人の紹介でセッションにいらっしゃる方の中で、一番多いのが禁煙の依頼です。
 催眠療法の効果は、ダイエットや不眠よりも、禁煙が一番周りに対して目立ちやすいのでしょう。仕事の休憩時間に一緒にタバコを吸っていた同僚が、突然タバコを吸わなくなったら理由を聞きたくなりますよね。
 タバコはお金がかかりますし、健康に対する影響も気になります。また、タバコを吸えない場所も増えて来ていますので、喫煙者の方は心のどこかで、禁煙することを「いつかはしなくてはならない宿題」のように考えていらっしゃることがあります。そんな折に知人が簡単に禁煙してしまったわけですから、この際自分もチャレンジしようということになるのかもしれません。
 催眠を、何でもできる魔法のように宣伝しているサイトは少なくなく、「催眠で禁煙は簡単!」というニュアンスで書かれているのを読むたび、それは催眠を買いかぶりすぎだと思わされます。身体が完全にニコチン依存を起こしている場合は、禁煙外来で治療してもうら必要があります。禁煙のセッションを行い、催眠で禁煙ができることを宣伝している催眠療法士自身がヘビースモーカーであるという、笑えない話だってあるのです。
 一方、自分が喫煙者のせいか、「催眠で禁煙などできない」とおっしゃる催眠療法士もいらっしゃいます。とても誠実な意見ですが、それも極端だと思います。催眠など使わなくても、多くの方が、「タバコをやめよう」という意思だけで、禁煙に成功しています。僕の知り合いも、長年チェーンスモーカーで指先が黄色くなるほどでしたが、「やめよう」と決めたら完全に吸わなくなりました。意思だけでも禁煙に成功する人がいらっしゃるのですから、催眠でサポートしてあげれば、成功率は高くなるし、より楽にタバコと決別できる可能性だってあるのです。
 実は、タバコを吸っている人すべてがニコチン依存ではありません。ですから、ニコチン依存でない方は催眠療法で禁煙できる可能性があります。また、ニコチン依存の場合でも、離脱症状の現れ方は人それぞれ、そしてその受け取り方も人それぞれなので、暗示を入れることでそれらを回避できる可能性があります。
 ニコチン依存は、ニコチンパッチやニコレットなどのニコチンガムで対処することができます。しかし、もしそれでもやめられない場合は、身体的なニコチン依存とは違うところでタバコが止められないのですから、催眠を試してみる価値はあるのです。
 禁煙のセッションを行なうと、終わった途端にタバコに触れなくなったり、匂いをかぐだけで気持ちが悪くなってしまう方が多く、その反応はこちらが驚いてしまうほどです。
 好きなものほど、悪い面もよく知りながら目をつぶっていることがあるので、一旦「嫌い」の側に天秤が振れると、どこまでも嫌いな気持ちが大きくなっていくのかもしれません。

<2009-11-3>
 マロンにはマロン用の座布団があって、大抵はそこで寝ています。
 柚子には柚子用の座布団はなくて、何でないのかと聞かれれば、マロンは先住猫だからとしか言いようがありません。(それでは柚子がかわいそうではないか!、というお叱りがあれば、甘んじて受けます)
 マロン用の座布団と言っても、マロンは優しい猫なので、柚子が座布団の上にやって来ると、しばらくは頑張るのですが、最終的には柚子に座布団を譲って自分はおりてしまいます。
 今は座布団の上でマロンが寝ています。
 ときどきマロンが、「そうだよ。僕が友達だよ」と言っている気がするのは、また別のお話です。

<2009-10-23>
 数ある童謡の中で、「森の熊さん」についで不可解なのは「山寺の和尚さん」ではないかと思います。
 この歌の不可解さは、3つの点に集約されます。
 1.和尚にとって鞠を蹴ることが日常的であるという設定。
 2.代用品を作ってまで鞠を蹴らなければならないという強迫観念。
 3.猫をかん袋に入れれば鞠の代わりになるという発想。
 童謡とはいえ、和尚という立派な身分のある大人が、「さて、暇だから鞠でも蹴るかな」と思っていることがまず理解できません。そして、鞠がないのならば諦めれば良いのに、鞠の代わりになるものを作ってでも蹴りたい衝動にかられているのも理解に苦しみます。更に、猫を袋に押し込めば鞠のようになるという発想はどこから生まれたのか、こちらも理解できません。袋につめれば鞠になりそうなものはいくらでもあるのに、何故に猫なのでしょうか。うちにも猫がいますが、袋に入れて蹴るというのはかなり残酷な行為です。
 そして一番不可解なのは、楽しげなメロディにのせてまで、何でこのような歌を歌わなければいけなかったのか、ということです。
 ついでに「森の熊さん」の不可解さについても書こうと思ったのだけれど、不可解さのスケールが大きすぎて、挫折しました。(^^;;

<2009-10-22>
 ベランダに地デジのアンテナを建ててみました。
 ベランダ用の地デジアンテナでは、YAGIアンテナの「UwPA」の評判がとても良かったのですが、カタログ上の利得があまり高くなかったので、若干スペックの高い、BUFFALOの「BSATD02」というアンテナを購入しました。
 このアンテナは、ベランダ取付金具やケーブルがすべてセットになっており、値段も3,000円以下と激安です。(通常、ベランダ取付金具とケーブルを別々に買うだけでも3,000円以上はします。ちなみに「UwPA」のベランダ取付セットは6,000円ほどです)
 組み立ても取り付けもあっという間に終わり、実家から借りてきた地デジチューナーに直接つなぐと、MXを除く全局が綺麗に映りました。更に、元々使っていたブースターを間に挟むとMXも映るようになりました。
 元々この近所は、電波障害があるということで共同アンテナでした。
 しかし、地デジの電波は強いという理由で、共同アンテナはアナログ停波のタイミングで撤去されることが既に決まっていました。
 ときどきケーブルテレビのセールスがやって来て、「アンテナを建てたところで映らない可能性があるからケーブルテレビに入った方がいい」と勧誘されていましたので、地デジのアンテナをどうするかは2011年までの宿題という感じで気が重かったのですが、今回、とても簡単に地デジ化が終了してホッとしました。これでいつテレビを買い換えても大丈夫です。
 今後、地デジアンテナを建てる予定、もしくは地デジを観るためにケーブルテレビに加入予定の方は、一度ベランダアンテナを試してみてください。うちは三鷹市ですが、少なくとも23区内で、東京タワー方面に障害物がなく、見晴らしが良ければ、ベランダアンテナで十分観られる可能性があります。僕の購入した「BSATD02」はいかにもアンテナという形ですが、「UwPA」などは外観を損ねることもなく、手軽で良いと思います。
 もちろん、うちがたまたまロケーションが良かっただけかもしれませんので、絶対に映るという保証はできませんが、高いお金を出してアンテナ工事をする前に、試す価値はあると思います。

<2009-10-11>
 植木に水をあげながら、秋の心地よい日射しを感じていたら、突然「海岸通」を聴きたくなりました。
 移動手段に当たり前のように船を選ぶことができるのって素敵だなぁと思います。きっと時間はゆっくり流れていくのでしょうね。

<2009-10-7>
 台風接近中ということで、夕食にコロッケを食べました。
 「台風の日はコロッケ」という風習が僕は大好きです。
 「年越しそば」や「土用のうなぎ」、「クリスマスのケーキ」も好き。行事としてみんなが同じものを食べている状況が好きなんだと思います。
 「引越しそば」はそんな行事が特定の日に固定されていないのは魅力ですが、そうそう引越しがあるわけではないし、自分の周りだけなので盛り上がりに欠けます。
 「台風の日のコロッケ」は、突然やってくるドキドキ感も良いし、一年に一度は楽しめそうだし、自分ひとりじゃないし、大晦日や土用やクリスマスは無関係に過ごそうと思えば過ごせますが、台風は、その地域の住民全員の共通イベントなので、一体感が桁違いで、そういうのがたまりません。
 「台風の日はコロッケ」という風習がもっと広まって、台風が来ると当たり前のようにスーパーのお惣菜コーナーに人が群がるようになったら、とても微笑ましいなぁって思います。
 「何で台風の日はコロッケ?」と思った方は、是非「台風 コロッケ」で検索してみてください!

<2009-10-5>
 送迎のため、成田空港まで行ってきました。
 出発前に給油し、帰りに家の近くでもう一度給油したのですが、燃費を計算してびっくり!
 18km/l も走りました。
 車(MAXという軽自動車です)を買ってから、毎回計算しているのですが、こんなに燃費が良かったのは初めてです。
 軽自動車は燃費が良いイメージがありますが、最近の軽は、エンジンは小さいのに車体が大きいため、決して燃費は良くありません。そしてこの車はターボ車ですので、更に燃費は悪く、いつもは街乗りということも重なって、普段の燃費はだいたい 10km/l くらいなんです。
 今回は、ほとんど高速に乗っていたとはいえ、こんな結果が出て驚きました。

<2009-10-2>
 「もっと遊びたかったらしい」と、「もっと遊びたいらしかった」というのは、似たような文章ですが、意味が微妙に違いますね。
 外国人から、このふたつの文章の違いを説明して欲しいと言われても、すぐにパッと答えられる人は少ないのではないかと思います。
 一度、頭の中で解釈する時間が必要です。
 一方、感覚的には、文章を読んだ瞬間から違いを感じていますね。決して説明は出来ないかもしれないけれど、同じ意味でないことは解っています。また、そういった状況になれば、このふたつを完璧に使い分けることも出来ます。
 理解する能力と説明する能力って、本当は全く別の能力なのですが、「理解しているのならば説明できるはずだ」という幻想を多くの人たちが持っていることは、必要のない誤解や争いをうむ原因となっていると思います。「何でこんなことしたの!」と怒られたとき、例え正当な理由があったとしても、それを相手に伝えられなければ、「正当な理由もなく、そんなことをした」とみなされるわけですから。
 また、一般的に、説明する能力に長けている人ほど「理解している」と思われがちですが、それも幻想だと思います。説明できないけれど理解力に長けている人も、もちろんいます。5で理解したものを5で説明できる人と、10で理解しているのに1でしか説明できない人がいたとしたら、前者の方が理解していると思われるのは仕方のないことですが、本当にパフォーマンスを発揮できるのは、後者でしょう。
 何かを感じることと、それを言語化することは別なんですよね。愛情表現の下手な人が愛していないわけではないし、愛情表現の上手な人が愛しているわけでもありません。
 もしかしたら、理解力のある人は説明する必要なんてないからどんどん説明が下手になっていくし、理解力のない人は言葉で確認しないと理解できないのでどんどん説明がうまくなっていくのかな。
 さて、皆さんが冒頭のふたつの違いを説明するとしたら、どんな風に説明しますか?

<2009-9-29>
 「イギリス英語」っていうのも、二重形容ですね。
 こう考えると、必要悪的な二重形容って、結構多い気がします。

<2009-9-25>
 新幹線の乗車率を表すときに「120%」というのは全く問題ないのですが、自信や可能性を表すときに「120%」を使う人をみると、何だか信用なりません。
 「120%大丈夫です!」なんて言われると、逆に心配になるのです。
 まず、こういう場合に100%より大きい数字を言ってしまう人は、「パーセント」の意味を解っていません。
 「パーセント」の「パー」は、「〜につき」という意味で、「セント」(ラテン語でcentum)は、「100」という意味ですから、「パーセント」は、「100につき」という意味があります。つまり、百分率を表します。
 百分率ですから、自信や可能性などを表す場合は、最大が100になるはずです。
 それなのに、絶対に自信があることを伝えたくて、「120%大丈夫です!」なんて言ってしまうのは、頭の悪さ丸出しです。
 「100%大丈夫です!」で良いのです。
 以前、「絶対条件が許せない」でも書きましたが、これ以上ゆずれない状況を表すために、「絶対条件」だとか、「絶対必要条件」だとかいう言葉を使いたがる人がいます。でもそんな言葉は日本語にありません。「必要条件」が正解です。「必要条件」だと、なんとなく言葉にインパクトがないから、「絶対条件」などと言ってしまうのだろうけれど、この言い方をされるだけで、「この人のいっている絶対条件というのは、本当に必要条件のことなのだろうか?」と悩んでしまい、言葉の意味も解らない人が言っている「条件」が、合っているのかどうか、全然確信が持てなくなります。
 それと同じで、「パーセント」の意味さえ解っていない人が言っている数字に、果たして意味があるのかと、信用できなくなるのです。
 仮に、この人は完全に自信があることを「120%」と呼ぶのだと仮定したら、今後この人が「100%」と言っても、何だかそれは100%じゃないような気がするし、83%くらいの気持ちで聞かなければいけないような気がする。
 言葉にインパクトを持たせたいのは解りますが、絶対条件だとか、120%だとか、雰囲気だけで数学的な言葉を使う人をみると、ついつい、話半分で聞いてしまいます。

<2009-9-23>
 明日の深夜2時(9/25 2:00)より、フジテレビにて、「デーブ」という映画が放送されます。
 僕はこの映画が大好き。今まで観た映画の中で、今のところNo.1です。
 笑いあり、涙あり、ロマンスあり、勧善懲悪で、完璧な映画です。
 シガニー・ウィーバーがとても素敵です。
 ご覧になったことのない方は、騙されたと思って、是非みてみてください。

<2009-9-20>
 童謡「サッちゃん」。
 1番と2番は、サチコって呼べないだとか、バナナは半分しか食べられないだとか、能天気なテイストの歌だったのに、3番の悲しさはガチ過ぎます。

<2009-9-18>
 ビートルズのアルバムがリマスターされた関係で、最近、ビートルズ関連の番組を良く観ます。
 今日、録画しておいたNHKの番組を観たのですが、その中で、ジョンが「I am the walrus」について語るシーンがありました。

「私はエッグマン」というのはどういう意味なのか、深読みしようとする人もいるけど、別に「プリンの容器」だって構わないんだよ。
言葉遊びであって、まじめに考えることじゃないんだ。

 こういうことをサラッと言えてしまうジョンは、本当に格好いいと思います。
 この曲、僕は大好きです。
 歌も小説も、歌われ、語られている内容よりも、文章としての面白さ、言葉としての面白さに、僕は惹かれる傾向にあるみたい。
 何を語るかは問題ではなくて、どんな風に語るかこそ、問題なのだと思っています。

<2009-9-17>
 秋になると、条件反射のようにオフコースを聴きたくなります。
 オフコースに一番はまっていたのは、中学のときなので、どうしても中学の頃を思い出してしまいます。
 まだ、愛とか恋とかよく判らなかったけれど(今も判っているかどうか怪しいけれど)、こういう曲を聴いていると、本当にひとりだけ取り残された気がして、そういう気持ちは大人になった今でも、全然変わりません。
 たった3年間の中学生活でしたが、あの頃の1年間は、今の10年間分くらいの密度があった気がします。
 大人になってからずっと、いつかもう一度、あの頃に戻ることになるんじゃないかって、そんなわけないのだけれど、思い続けています。

<2009-9-16>
「仕事、何してるの?」
「牛泥棒さ」
「牛泥棒? 大変なお仕事ね」
「みんなには内緒だぜ」

 こういった文章から醸し出されるような空気って、決して現実には存在しませんよね。
 小説の面白みって、この空気なのだと思います。

<2009-9-13>
 「湯沸かし器」や「万能ねぎ」といったネーミングは、なんとなく愛を感じないので好きではないのですが、その系列である「人造バター」というネーミングは、結構好きです。
 「人造バター」が死語だからかもしれませんが、人類の叡智みたいなものを感じます。
 「マーガリン」なんて外行きな顔しないで、悪の組織に改造された仮面ライダーのように、「人造バター」として、暗い過去を背負いながら闘っていって欲しいものです。

<2009-9-9>
 昨日、「20世紀少年」を吉祥寺まで観にいきました。
 気合を入れて午前中の回に、しかも1時間も前に行った所、ぶっちぎりで1番の客となることができました。(^^;;
 誰もいない映画館に入ったのも初めてですし、こんなに良い席で映画を観たのも初めてです。予想外に客入りが悪く、僕が入ってから30分くらいは、誰もやってこなくて、まさか貸しきり状態で始まるのではないかと、ドキドキしてしまいました。
 その後、少しずつお客さんが入ってきましたが、それでも全部で30人くらいだったと思います。
 いくら人気作品と言っても、吉祥寺の平日の午前中の回だと、こんな感じなのかもしれません。
 映画自体は、非常に濃い作品で、しっかり結末まで描かれており、大満足の最終章でした。
 映画と原作では、結末が異なるということで、今度は原作が読んでみたくなりました。
 ただ、全24巻なんですよね。集めるには多すぎる……。マンガ喫茶でも行こうかなぁ。
 誰か、お持ちでしたら貸してください。(^^;

<2009-9-8>
 僕たちが他言語を習得するときって、もともと日本語を知っていることに非常に助けられている気がします。
 つまり、辞書を見れば、その意味が判るわけですし、文法だって、日本語の経験があるからこそ、理解できるわけです。
 ところが、赤ちゃんのとき、日本語を習得したときはどうだったかと言うと、全く他の言語は知らないのに、「勝手に」日本語を覚えてしまったわけです。
 もちろん、ある程度大人になれば、国語辞典を引くことで、新しい単語をどんどん習得することは可能ですし、親や先生から新しい単語を習うことももちろんありました。
 ただ、基本的な部分は、やっぱり「勝手に覚えてしまった」としか言いようがありません。
 外国人にしてみれば、なぜ、1のときは「ぽん」で、2のときは「ほん」で、3のときは「ぼん」なのか、理解は出来ないだろうし、これは覚えるしかないのですが、僕たちはそんな違いがあったことさえ、言われてみなければ気がつかない。それくらい自然に、覚えてしまっている。
 僕はそのように、言語のない状態から日本語を覚えられたのは、赤ちゃんのときだからこそ、と思っています。
 つまり、今、突然知らない国に迷い込み、辞書もなく、日本語が出来る人もいない状況になったら、その国の言語を覚えることは不可能な気がするし、例え出来たとしても、それは赤ちゃんが覚えたように覚えるのではなくて、きっと理屈に頼って、より多くの努力を必要とするのではないか。
 むしろ、日本語を知っていることが、邪魔になる気がする。
 何でこんなことを書いたかと言うと、僕は英単語が判らないとき、辞書を引きますし、文脈から、大体こんな意味じゃないかなぁと想像することもあります。これは、日本語がベースにあるからこそ出来る覚え方です。
 しかし、唯一、例外があって、まだ英語を勉強したこともなかった小学生の頃、アメリカ人が話しているのを聞き、やたらと「ピーポー」という単語が耳についたんですね。もちろん、何を言っているのかさっぱり解らなかったのだけれど、直感的に、「このピーポーは、『人々』のことだ」と、確信したことがあるんです。
 当時は英語の辞書も持っていなかったので、それを確認もせずに数年が過ぎました。そして、初めて英語の授業で people という単語が出てきて、それが「人々」という意味だということを知ったとき、すごくびっくりしたんです。「やっぱりあってたんだ!」って。何で小学生の頃にその単語の意味だけ解ったのか、不思議で仕方がありませんでした。サイド6で、アムロが初めてシャアに出逢ったときの、「初めて会った人だというのに、なぜシャアだってわかったんだ?」みたいな驚きでした。
 僕は自分の人生で、唯一、あの瞬間が、日本語を習得したように、勝手に英語を理解した瞬間だと思っています。
 本当に、ただ、解ったんですよ。
 ニュータイプだから?

<2009-9-6>
 久しぶりに見つけた形容矛盾
 「固まった溶岩」

 同様に、二重形容
 「溶けた溶岩」

<2009-9-3>
 今、椅子の上でペターっと寝ている柚子(雑種猫・メス・1歳)と目があったので、「おいで」と言った所、椅子からぴょんと降りて、ゆっくり歩いてこちらに来ました。
 そして僕の目の前でゴローンと横になり、ゴロゴロ言うので、抱っこしました。
 柚子は本当に不思議な猫で、こうやって呼ぶと来ることもあれば、目を見ただけで身をかがめ、ちょっとでも近寄ろうものなら逃げ惑うこともあります。
 それはもう、全く別猫のようです。(その点、マロンはいつも安定していて、逃げることもなければ、呼んで来ることもほとんどありません)
 いつかこの性格も安定して、逃げることはなくなるのではないかと期待しているのですが、今のところ、年をとればとるほど、警戒心が強くなっている気がします。
 間違って外に逃げてしまったら、絶対に捕まえられないと思う。
 でも、甘えてくるときは、末恐ろしい甘え方をしてくるんです。
 行く所行く所、ストーカーのようについて歩き、抱っこしないと、前足でチョンチョンと、「抱っこしろー」って催促します。
 これが本当にしつこくて、忙しくて相手をしないと、今度はペターっと寝たまま、すごくふてくされた顔でこちらを恨めしそうに見つめます。
 それでいて、抱っこしてあげると、しばらくはゴロゴロ言っているのですが、「もういい」という感じで飛び降りて、その後は僕が近寄ると慌てて逃げてしまうこともあります。
 柚子が人間の女の子だったら、振り回されっぱなしで、完全に自信をなくしていたと思います。

<2009-9-1>
 「エミリーローズ」という映画を観ました。
 この映画は実話に基づいた、悪魔祓いがテーマのお話です。
 カトリック教会から正式に「悪魔憑き」と宣告された19歳の女性、エミリーローズが、悪魔祓いを受けます。悪魔祓いは失敗に終わり、彼女は栄養失調と自傷行為の結果、死んでしまいます。彼女の死後、悪魔祓いを行なった神父が、過失致死罪で刑事告訴され、その裁判の模様を中心に映画は進んでいきます。神父が悪魔祓いなどをせず、医学的な治療を受けさせ続けたら、彼女は死ぬことがなかった、というのが検察側の告訴理由です。
 ちょうど今、催眠の歴史についてまとめているのですが、近代催眠の源流とみなされている、メスメルの動物磁気術の少し前に、ガスナー神父という人物が登場します。
 彼は、ある種の病気は、悪霊の仕業であると考え、祓魔術(ふつまじゅつ)を行なうことで多くの病人を癒したと言われています。
 これは勝手な僕の推測なのですが、もし、エミリーローズが18世紀に生まれ、ガスナー神父の祓魔術を受けていたとしたら、あるいはエミリーローズは死なずに助かったのかもしれません。
 催眠的現象を起こすために必要なことは、その人の中にある、ビリーフシステムです。
 どういう枠組みで物事を見ているのか、そして何を信じているのか。
 エミリーローズも、悪魔祓いをした神父も、心底、悪魔の憑依を信じていましたが、その一方で、「これは精神病なのではないか」という問いは、当然心の片隅にあったはずです。そしてこの問いは、ガスナー神父の時代よりも、ずっと大きかったはずです。神父は悪魔祓いの際、精神科医を同席させていましたし、はじめ彼女は、病院に入院していたのですから。
 病気か、悪魔の仕業か……。
 彼らのビリーフシステムに迷いがなければ、完全に医学を信用することで生き延びることができたかもしれませんし、完全に悪魔の仕業として、悪魔祓いが成功したのかもしれません。
 エミリーローズのモデルとなった、アンネリーゼ・ミシェルのドキュメンタリーがYoutubeにあがっていたので、それも観てみたのですが、果たして悪魔が実在するとしたら、こんな風に、人間が想像するような「悪魔的な」声を出すのだろうかと、疑問に思いました。
 彼女の無意識が、どうにか「自分は悪魔に憑かれているのだ」ということを認めて欲しくて、どんどん悪魔的な行動をとっていったのではないかと思いました。
 6つの悪魔が祓われたと思ったら、よく理解できない理由で彼らは彼女の体の中に留まり、再び現れるのですが、それが彼女の心の葛藤に思えてなりません。 

<2009-8-30>
 世の中には、二種類の人がいると思います。
 そんな必要はないのに、自分を安く売る人と、そんな価値はないのに、自分を高く売る人です。
 自分を安く売りすぎると病気になるし、自分を高く売りすぎると孤独になるのかもしれません。

<2009-8-29>
 お台場にガンダムを観にいきました。
 原寸大の迫力は想像以上で、ガンダム世代にはたまらないひとときでした。
 ガンダムの大きさもさることながら、これを立ったまま収容できたホワイトベースは、どんだけでかい船なんだと思わされました。
 手のひらに乗ったセイラさんも、あの高さでは、さぞ怖かったでしょう。
 途中で、首が動いて、ミストが噴射されるデモンストレーションがありました。ただ左右に首が動いただけなのに、公園中から「うぉー!!!」という歓声が沸きあがりました。
 せっかくここまで作ったのだから、首だけではなくて、せめてもう少し動いてくれたら……、と期待してしまいましたが、「今はこれが精一杯」(by ルパン三世)なのかもしれません。
 20年後の、50周年記念では、歩くガンダムが見られることを夢みて、会場を後にしました。
 あ、何だか小学生の夏休みの日記みたいな文章だ。(^^;;

<2009-8-28>
 連日の歌ネタですみません。
 加藤いづみの歌う「太陽が呼んでいる」。
 サモンナイトというゲームの歌らしいのですが、そんなことは全然知らず、加藤いづみの歌ということで好きになりました。
 彼女の歌声は、瑞々しいという表現がぴったりだと思います。新鮮なフルーツみたいな声。
 オープニングのアコギも最高! アルペジオもエレキの速弾きもいいけれど、やっぱりギターはこうやってジャカジャカ鳴らして欲しいのです。
 そしてそして、この、青臭いけれど、もう一度信じてみようと思わせる歌詞は素晴らし過ぎます。
 共感できる現実なんて歌わなくたって構わない。圧倒的なユートピアに、ただただ巻き込まれて、何だか知らないけれど、「そうだよ!」と膝を叩きたくなるのです。
 初めて聴いたのが夏だったので、夏になると聴きたくなる曲です。
 ドライブしながら歌っていると、倦怠感が吹き飛んでいきます。

♪求めたいだけじゃ始まらない。行動を起こせばいい。
 一筋の日射しは、氷の世界、溶かすきっかけだから。
 自分がどう映ろうとも進むしかない場面で、ためらえばすべて、無意味なcollageさ。

 本当にその通りです。

<2009-8-27>
 ロックンロール・ナイト
 高校生のときは何となく聞き流していた曲ですが、この年になって改めて聴くと、名曲ですね。
 「ずっとさっきから街路樹に車をとめて」あたりからの畳み掛けるような詩の流れが、心にぐさぐさきます。
 sleep tight って、いい表現ですね。 

<2009-8-26>
 勝ち組、という言葉がありますが、最近、「人生に勝つ」って何なのかなぁって思います。
 僕はブルーベリー栽培が趣味で、もし、栽培方法に勝ち負けがあるとしたら、恐らく、「毎年たくさん収穫できる」ことこそ、勝ちの栽培方法なのだと思います。
 それでは同様に、「勝ちの生き方」って何なのか?
 真っ先に思い浮かぶのが、お金です。人よりも、より多くの収入や財産があること。そして、できれば人よりも楽にそれを得ていること。
 でもこれは違う気がする。一通りの贅沢をしたら、それ以上はお金ではどうしようもないものにぶつかる気がするんです。まぁ、僕はそこまでお金がないので、お金持ちの本当の気持ちは解りませんが。
 となると、やりがいをお金の上に載せてやる必要がありますね。
 仕事が楽しくて楽しくて仕方がなくて、それでいて多くの収入があったら勝ちなのかな。
 でも、それだけでもきっと駄目です。
 健康だって必要だし、愛してくれる相手も必要かもしれない。もちろん、自分が愛を注げる対象も必要だし、その関係を維持するための、持って生まれた優しさみたいなものも必要なのかもしれない。
 そんなこと言い出したら、何でもかんでも得ていなければ、勝ち組じゃないことになって、ブルーベリー栽培のような「毎年たくさん収穫できれば勝ち」みたいな、単純な図式は得られません。
 結局は、生きている意味や目的が解らないと、勝とうにも、勝てないのかもしれませんね。
 ということは、夢があって、その夢を実現できた人が勝ちなのかな。
 うーん、何だか漠然としている。ぼんやりとしている。ぼんやりとした不安がある。
 文明が発達する以前の、ただ、食べることや、生き延びることだけを目的に生きていた時代の方が、「勝ちの生き方」はシンプルだったのかもしれません。
 「お腹いっぱい食べたら勝ち」、「長生きしたら勝ち」なのですから。
 出口が見えないままこの文章を書き始めましたが、やっぱり出口は見つかりませんでした。(^^;;

<2009-8-23>
 初めてこれを観たとき、笑い死ぬかと思いました。 We can not sleep without you. ナニ? クドイテルノソレ?
 今、ある資料を作っていて、その関係で催眠の歴史についてまとめているのですが、メスメルの主張していた動物磁気の存在が、ルイ16世の調査委員会によって否定された10年後にペリーが生まれ、ブレイドが「磁気術」を「催眠」と命名した10年後に、ペリーが黒船を率いて浦賀に来ているのですね。
 ペリーが生まれた翌年にブレイドが生まれ、ペリーが亡くなった2年後にブレイドが亡くなっていますから、ふたりはほぼ、同世代を生きたことになります。
 こうやって歴史を並べると、すべては繋がっているんだなぁ、と思ったり、思わなかったりします。

<2009-8-21>
 流しそうめんって、日本人の僕から見ても、何が楽しいのか、何が美味しいのか、何が風流なのか、涼なのか、粋なのか、趣なのか、さっぱり理解できません。
 スイカ割りは理解できます。確かに叩き割られたスイカは食べにくかったりしますが、何より楽しいです。
 わんこそばだって、旅の解放感でチャレンジしちゃうかもしれません。
 しかし、流しそうめんだけは全くやってみたいとは思えない。

 流す人の苦労、下流の人への気遣い、衛生面に対する若干の不安、最後の人の全部取らなければならないという責任感、食事中に水が流しっぱなしになることへの罪悪感……。
 これだけの犠牲を払っていったい何が得られるというのでしょうか。

 そもそも、僕はそうめんが大嫌い。味も単調だし、どれだけ食べれば食事を終わりにして良いのか不明だし、食べた気しないし、かといってお腹いっぱい食べたいとも思えません。おまけに、あのミカンは何ですか。

 日本人の僕でさえそうなのだから、外国人が流しそうめんを見たら、これが何を意味しているのか、さっぱり理解が出来ないと思う。
 観光に来た外国人に、間違って流しそうめんの説明をしなければならない状況になったら、それはもう、拷問です。

「ナンデコンナタベカタヲシテイルノ? ナニヲヒョウゲンシヨウトシテイルノ? イカリ? カナシミ? ヨロコビ? キドアイラク?」

 きっと会話はちぐはぐなまま、お互いに、やっぱり世界はひとつになれないのだと、言い様のない徒労感を覚えることでしょう。
 いや、違うかな。日本贔屓の外国人は、「必勝」とか書いた鉢巻を頭に巻いて、キャッキャ喜びながら全力で流しそうめんを楽しんじゃうのかな。
 いずれにしても、流しそうめんは、三本の指に入る、日本人の奇行です。

<2009-8-19>
 僕はオアシズの大久保さんが結構好きです。
 最近は女芸人も多いですが、大久保さんは、何だか本物の匂いがする。
 テレビではすっかり観なくなりましたが、DonDokoDonの平畠も大好きです。
 ふたりとも好きな理由は同じで、地味だけれど、がんばっているところ。
 あ、ついでにレイザーラモンのRGも好きです。生きる強さを感じられるから。
 あとはやっぱり、椿鬼奴と増谷キートンですかね。
 平ちゃんは、いつかブレイク(再ブレイク?)するんじゃないかと何年も前から期待しているのだけれど、なかなかしませんね。

<2009-8-18>
 人間が誰かを嫌うときの理由って、もしかしたら半分くらいは同属嫌悪なのではないかと思います。
 はっきり物を言う人は、はっきり物を言う人が嫌いだったり、自己中心的な人は自己中心的な人が嫌いだったり、ケチな人はケチな人が嫌いだったり、怒りっぽい人は怒りっぽい人が嫌いだったり、好き嫌いが激しい人は好き嫌いが激しい人を嫌いだったり、ルーズな人はルーズな人が嫌いだったり、理屈っぽい人は理屈っぽい人が嫌いだったり、意見を曲げない人は意見を曲げない人が嫌いだったり、プライドが高い人はプライドが高い人が嫌いだったり、反省しない人は反省しない人が嫌いだったり、人の話を聞けない人は人の話を聞けない人が嫌いだったり……。
 もちろん、逆だからこそ頭にくることも多いとは思いますが、自分もそうだからこそ葛藤があって、その葛藤が余計に嫌悪感を増すこともあると思います。
 自分もそうだからこそ相手がそうしている理由が理解でき、理解できるからこそ頭にくるのかもしれません。
 催眠関連の本を読むと、ときどき、「無意識は自分と他人の区別が出来ない」というようなことが書かれていることがあります。
 つまり、誰かに対して怒りがあると、無意識はその対象を区別しないので、その怒りを自分に対しても向けてしまう、というのです。
 もしそれが正しいのであれば、自分に対する怒りが、そのまま他人に向かってしまうパターンがあってもおかしくないのかもしれません。

<2009-8-17>
 ポケットの中にはビスケットがひとつ。
 ポケットを叩くとビスケットはふたつ。
 ……という、叩いてみるたびビスケットが増える、「ふしぎなポケット」という童謡があります。
 「そんな不思議なポケットが欲しい」でこの歌は終わりますが、なんでこんな、どこにも行くあてのない歌を作ったんだろう?
 世の中にはもっと他に、歌うべきことがあるだろうに……。

<2009-8-16>

 有言実行ということで、浅草へ行ってきました。
 嘘のような快晴で日射しは強く、お盆ということでどこも人でいっぱい。
 東京に住んでいるのだから、わざわざこんな日に来なくてもよかったのだけれど、おかげで夏休み気分は満喫できました。
 網の目のように広がる路地を適当に入ると、古い土産物屋やマニアックな専門店が立ち並び、どこかとても遠いところに旅行に来たような気分になりました。
 以前、桧原村〜奥多摩湖までドライブへ行ったとき、あまりにも観光客が少なく、ほとんど誰も停めていない土産物屋の駐車場に車を停めると、店員の視線が一斉にこちらに向き、何も買わないで帰るのは許されないような、そんな緊張感のある場所ばかりでした。僕は基本的に、混んでいるところは好きではありませんが、観光地だけは別で、ある程度同じ目的の人が周りにいてくれないと、盛り上がるものも盛り上がれません。
 一度、空いているディズニーランドへ行ったことがあって、すぐに乗り物に乗れるのは良かったのですが、やはり、どこか寂しい感じがしました。
 観光って、人々が発散するレジャー感のようなものが充満していてはじめて、楽しめるのかもしれません。

<2009-8-15>
 カリオストロの城の主題歌「炎のたからもの」。
 今井美樹バージョンもあったなんて、知りませんでした。
 歌詞、メロディー、アレンジ、そして歌声。全てが合わさって、本当に芸術だなぁと思います。プロの仕事。
 超名曲です。
 土曜の夕暮れに、偶然車のラジオから流れてきたら、多分泣いちゃいます。

<2009-8-14>
 先日気がついた、本当にどうでも良いことなのですが、「ゴジャン」と声に出して言うと、自分では「ゴジャン」と言っているつもりなのに、耳からは「五時半」と聞こえます。
 もし、ちょうど5時半に、誰かに「今何時?」って聞かれたら、「ゴジャン」と答えてみてください。誰一人、「え? ゴジャンって何?」とは聞き返さず、「ありがとう」と言うと思います。
 今、この文章を読んで、何人かの人が、パソコンの前で何回も「ゴジャン」と声に出して言っていたり、会社や電車の中で声を出せず、はやく人目のないところで「ゴジャン」と言いたい熱にかられている人が、言いたくてウズウズしている様子を想像すると、何だかとても微笑ましい気持ちになります。(^^)

<2009-8-13>
 セミは、地中で7年間過ごし、成虫になってからは1週間で死んでしまうと言われています。
 それにしては、セミ、多すぎやしませんか?
 夏になると、毎日朝から晩まで鳴き続けているし、外に出れば、必ずどこかで出逢います。
 僕は散歩をしていてカブトムシを見つけたこともクワガタを見つけたこともありますが、毎年ではありませんし、必ずでもありません。
 他の昆虫の生態が良く解らないので、勝手に推測しますが、例えば他の昆虫は、卵から1年で成虫になると仮定すれば、セミの幼虫は地中に、単純計算で7倍いるということになります。更に、他の昆虫は夏の間は生き延びると仮定すれば、セミは1週間で死んでしまうわけですから、夏を4週間と見積もっても、セミの幼虫は更に4倍いるはずです。
 つまり、地中には、他の昆虫の幼虫に比べ、28倍のセミの幼虫がいることになります。
 例えば、1匹のコガネムシに対し、1匹のセミを見たとしても、その状況を生み出すためには、絶えず地中に、28倍のセミの幼虫がいた、ということになります。
 ときどき、ベランダにマロンを出していると、フラフラと迷い込んだセミをマロンが大喜びで捕まえて、部屋の中まで持っていき、食べるわけでもなく、両手で転がしたりして遊ぶことがあります。
 それを観るたびに、「1週間しか命がないのにかわいそうに……」と、罪悪感を感じ、マロンの隙を見ては捕まえて外に放してやるのですが、噛まれたり両手で叩かれたりして元気のなくなったセミは、そのまま飛ぶことも出来ず、土の上で死んで、アリの餌になってしまうことも少なくありません。7年間も地中で大空を飛ぶことを夢みながらようやく羽化し、1週間しか自由な時間はないというのに、餌に困っているわけでもない、飼い猫のおもちゃになって死んでしまうわけです。
 他の昆虫に対しては、ここまで感傷的な気分になることはないのですが、やはり、7年間とか、1週間とか、そういった数字が、セミに対する人間の感情を揺さぶっているのでしょう。
 飼い猫に1匹捕まえられようが、びくともしないくらい、地中はセミの幼虫で一杯なのだと想像したら、少しだけ、自由になれた気がしました。

<2009-8-12>
 自分が死ぬ、ということがどういうことなのか、うまく想像ができません。
 だから、「このまま僕は死なないのではないか」と思うことさえあります。
 決して神に祝福されて死なないのではなく、むしろ何かの呪いで死ねないのではないかと。

<2009-8-11>
 先日の読書会のときに、ある方から「若い頃の村上春樹に顔が似ている!」と言われました。
 村上春樹はあまりメディアに登場しないので、正直、どんな顔かピンと来なかったのですが、ファンの方がそうおっしゃるのですから、まぁ、日本国民を、ざっくり10個位のグループに分けるとすれば、恐らく僕と村上春樹は同じグループに入るくらいには似ているのでしょう。
 ついでに、登山家の野口健にも似ていると言われました。基本、濃くて、目がギョロっとしている人に似ていると言われる傾向にあるので、こちらはそういう人の気持ちが解らないでもありません。
 昔、外資系の会社に勤めていた頃は、上司のアメリカ人に、「君はサイモン&ガーファンクルのポール・サイモンに似ている」と言われました。サイモン&ガーファンクルは大好きなアーティストだったので、余計に「似ている」と言われても実感が沸きませんでした。(顔ではないですが、その上司には、「Thank you.」の発音の仕方が、ミッキーマウスに似ていると言われたこともあります。ここまでくると、もう、何がなんだかさっぱり解りません)
 去年の8/31の日記でも、同じ様な話題を書きましたが、しゃべり方とか、文章とか、そういった自分の意思でいくらでも変えられる部分が「似ている」のならば理解できるのですが、顔となると、自覚がないし、全然客観的に見られないので、ただただ、不思議に思います。
 似ていると言われる対象も、ルックスで売っている人たちはほとんどいないので、喜んでいいのか悩むし、ルックスで売っていないにしろ、喜んだら喜んだで、調子に乗ってるって思われるのも怖くて、「○○に似てますね」と言われるのは、非常にリアクションに困ります。
 「全然似てませんよー」というのも相手の感性を否定している感じがするし、「ありがとうございます」というのも、もしかしたら「いや、褒めてないんだけどね」ということかもしれないし。
 「顔がフライパンに似ていますね」って言われたとき、どう返答していいのか困るのと同じような困惑を、誰かに似ていると言われるたびに感じるんです。
 唯一、自分でも似ていると思うのが、うちの姉です。
 双子みたいだと言われて育ってきて、昔は「全然似てない!」と思っていたのですが、最近、鏡で自分の顔を見ると、気持ち悪いくらい似ていると思うことがあります。
 ……と、いろんなことを書きましたが、それでも、「○○に似てるね」って言われるのは、本当はすごく嬉しいです。
 相手が誰であれ、それだけ僕のことを、関心を持って観てくれているということですから。
 今、僕が村上春樹やポール・サイモンに似ているのなら、村上春樹とポール・サイモンも似ているのかなぁと思って、googleで「ポール・サイモン 村上春樹」と検索したのですが、結構「似ている」と書いている人が多くてびっくりしました。
 やっぱり、僕の顔は、客観的に見るとこの系列なのですね。

<2009-8-10>
  

 ブルーベリーは、毎日、多いときはこれくらいとれます。ボール一杯で、だいたい500グラムくらい。
 今日は、ブルーベリーとクリームチーズのケーキを焼いてみました。
 これでもかと生地にブルーベリーの実を放り込んだのですが、全然減らず、残った実は、ミキサーでジュースにしてみました。
 ブルーベリージュースは初挑戦です。
 ときどきお土産でブルーベリージュースをもらうことがあり、それと同じ味を想像しながら飲んだら、全然違いました。
 まず、種や果肉をこしてないので、ミキサーにかけただけなのに、どろっと濃厚な感じの仕上がり。
 それでいて飲んでみると、妙にあっさりしていて、よくもらう果汁20%のブルーベリージュースの方がよっぽど味が濃い感じがしました。
 うーん、これだけ実を使った割には、ジュースは失敗かなぁ。普通に生で食べるか、ジャムにした方が、満足度は高いです。
 ケーキの方は、ブルーベリーの酸味がちょうど良く、とても美味しくできました。
 焼きたても美味しかったし、冷蔵庫で冷やして食べても、更に美味しかったです。 

<2009-8-9>
 荻窪のROKUJIGENというカフェで開催された、「村上春樹の読書会」に参加しました。
 今回の課題図書は、デビュー作の「風の歌を聴け」でした。
 以前にも書きましたが、僕はこの小説が大好きで、恐らく100回は読み返していると思います。ほとんど、暗証できるのではないかと言うくらい。
 今回、久しぶりに読み直したのですが、僕が好きなのは「この」村上春樹であって、今の祭り上げられている村上春樹ではないのだと改めて思いました。
 彼自身が、糸井重里の文章を、「読む前と読んだ後で、同じ空間しか残らない」と表現しているのですが、恐らく僕が村上春樹に求めているのは、そういうことなのだと思います。
 読む人間が、読みたいように読んで、「真っ赤なスカーフ」みたいに、「みんなその気でいればいい」と割り切れるような小説。
 「黒服の男は鼠が死んでいたことを知っていたのか?」とか、「キキを殺したのは五反田君だったのか?」とか、そんなことで悩みたくはないのです。
 そういった視点で見ると、悩まなくていい作品は、短編を除けば、「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」だけなのかもしれません。

 2次会が終わった後、残った人たちと井の頭公園へ行きました。
 夏の夜に井の頭公園を散歩していると、何だか学生の頃に戻ったみたいで、みんなみんな、生きているんだ、友達なんだ、と思いました。
 気分が良かったので、皆さんと駅でお別れした後、1時間かけて歩いて家まで帰りました。
 MP3プレーヤーで「壊れた扉から」を聴きながら歩いたのですが、このアルバムの世界観は、何だか「風の歌を聴け」の世界観と非常に似ている気がしました。
 もちろん、この小説に出逢った当時、このアルバムを良く聴いていたのでそういう印象が残っているだけなのかもしれませんが、「誰かのクラクション」に出てくる「心から愛されたことがあるかって訊かれた。一緒に捜してたものならあった気がする」という歌詞は、そのまま「僕」が抱えていた問題に重なるのではないかと思いました。

<2009-8-8>
 マグロは泳いでいないと死んでしまうらしいけれど、どうやって水族館まで運んだんだろう?

<2009-8-7>
 ブルーベリーを育て始めた頃、とにかく収穫してみたくて、まだ苗が小さいのに花を咲かせ、10粒ほどの幼果を「はやく青くならないかなぁ」と毎日眺めていました。
 そうやって気合を入れているのは僕だけではなくて、そろそろ収穫しようと思っていると、次の日には鳥に食べられてなくなっていたり、ならばと早めに収穫すると酸っぱかったりと、ブルーベリーの味が良く判らないままシーズンが終わってしまう、ということを繰り返していました。
 小さい苗に実をつけさせると、極端に成長が悪くなってしまうため、本当は心を鬼にして花は摘んでしまわないといけないのにそれができず、また当時はネットから、「ハイブッシュ系の方が大実で美味しく、しかも自家受粉する」という情報を得ていたので、暖地向きのラビットアイ系ではなく、冷涼地向けのハイブッシュ系ばかりを育てていたため、何年たっても一向に満足のいく収穫は得られませんでした。
 ようやく収穫できた一粒や二粒のブルーベリーを噛み締めながら、「いつか飽きるくらいブルーベリーを食べてみたい」というのが当時の僕の夢でした。
 その後、本格的にブルーベリーについて勉強して、ハイブッシュ系は諦め、ラビットアイ系を育てるようになり、更に小苗のうちは出来る限り花芽を摘むようにしました。
 剪定の方法も勉強し、以前はせっかくの枝を切ってしまうのはかわいそうだと思っていたのですが、大胆に風通しの悪そうなところやいらない枝を切るようになりました。
 そうするうちに、木はどんどん成長し、気がつけばかなりの量が収穫できるようになっていました。
 今年は先週から今週にかけてが最盛期なようで、毎日毎日、ボール一杯収穫できます。
 収穫ができたらできたで、他の悩みがでてきました。
 次第に食べきれなくなってきたのです。
 そこで、余った実でジャムを作るようになりました。
 ジャムを作り始めたときはそれはそれで楽しかったのですが、今度は用意していたジャムの瓶がなくなり、冷蔵庫もジャムの瓶だらけになり、そもそも僕はパンをあまり食べないので、こんなにジャムがあっても、消費しきれない気がしてきました。
 機会があれば知人にあげたりもするのですが、ブルーベリーは日持ちがしないので、郵送も出来ず、なかなか人にもあげられません。
 ブルーベリーは待ってはくれません。収穫しても収穫しても、次々と青くなります。
 「せっかくだから旬のうちは出来るだけ生食で」と思い、がんばって食べているのですが、毎日食べきれないほど食べていると、さすがに飽きます。
 スイカや桃だって食べたくなります。
 そうです。
 何が言いたいかと言うと、「いつか飽きるくらいブルーベリーを食べてみたい」という僕の夢は、気がつけば叶ってしまったわけです。しかも、お釣りがくるくらい。
 ブルーベリーの魅力は決して収穫だけではなく、苗の成長も、花も、紅葉も、挿し木で苗を増やすことも、全てが楽しいので、一時的に食べるのに飽きてきたからと言ってブルーベリーが嫌いになったわけではありません。
 ただ、夢って、夢見ていたときと叶った後では、当たり前だけど、全然同じじゃないんですよね。
 贅沢な悩みだとは解っているのですが、もう少し平均的に、1年を通して収穫できたらどれだけ楽だろうと思います。
 大江千里の「Apollo」という曲に、「届くはずない未来 いつの間にか追い越して 憧れていた未来 こんなにすぐ追い越して」という歌詞が出てきます。
 同様に、Eagles の「After The Thrill Is Gone」という曲に、「What can you do when your dreams come true And it's not quite like you planned?」という歌詞が出てきます。
 たかがブルーベリーですが、そんな歌詞が身に染みる8月の夕暮れです。

<2009-8-6>
 こちらで、ブルーベリーの苗木プレゼントをしています。
 プレゼントされる「あまつぶ星」と「おおつぶ星」は、どちらも日本生まれの品種で、ハイブッシュ系と呼ばれるブルーベリーです。
 ハイブッシュ系は暑さに弱いので、東京より南での栽培は少し難しいかもしれませんが、ご興味のある方、チャレンジしてみてはいかがでしょうか。

<2009-8-5>
 僕は東京生まれですが、都電に乗ったことも、ちゃんと浅草を観光したこともありません。
 いつか行こうと思ってはいたのですが、そんな機会もなく、今まで過ごしてきました。
 機会って、よっこらしょ、という感じで作らないと、向こうから歩いてきてはくれませんね。
 ということで、年内には両方行ってこようと思います。

<2009-8-4>
 マロンを撫でると、ときどきゴロンと体を倒して「おなか触って〜」と言わんばかりに愛嬌を振りまくことがあります。
 猫は自分がかわいいことを、知っているのかなぁ。 

<2009-8-3>
 常識にとらわれてはいけないと思うことがあります。
 常識にとらわれないところに、新しいアイデア、誰も気がつかなかったアイデアがうまれるように思うからです。
 一方、常識と言うのは、全てではないかもしれませんが、歴史の波に洗われて残ったものですから、それなりに合理的です。
 ガチガチの常識にとらわれていた方が、大当たりはなくても、失敗は減るのかもしれないですね。
 日本人はそもそも、常識とか礼儀とかを重んじる国民なので、余計に「常識にとらわれない柔軟な発想」に憧れてしまうのかもしれません。
 僕は万に一つの大発見をする人よりも、コツコツと与えられた仕事をこなせる人の方に惹かれることが多いです。

<2009-8-2>
 天気が悪いせいもあるのでしょうが、夜道を歩いていると、あまりにも涼しくて、何だか秋みたいでした。
 以前、松ちゃんがラジオで、「1年の半分くらいは寒い!」と言っていたのを、歩きながら思い出しました。
 初めてそれを聴いたときは、そんなことはないと思ったのですが、冷静に計算すると、確かにそうかもしれません。
 11月から3月まで、暖かい日もあるけれど、基本は寒いですよね。これでもう5ヶ月。
 4月だってめちゃくちゃ寒い日があるし、10月後半は、そろそろ暖房を入れたくなりますから、全部合わせれば6ヶ月くらいは寒いことになります。
 感覚的に言えば、一年の半分は冬で、夏は3ヶ月、春と秋は1.5ヶ月くらいなのかもしれません。 

<2009-8-1>
 こ、き、く、くる、くれ、こ。
 言ってみただけです。

<2009-7-31>
 こちらこちら
 同じ「ファイト」なのに、ギャップが半端ないです。
 太郎君が羨ましい、私の敵は私です。

<2009-7-30>
 どうでも良くないことは、譲ってはいけないと思います。
 だけどどうでも良いことは、例え反射的に「そうじゃない」って思っても、相手に最後まで言わせてあげて、「そうだねー」って同意してあげた方が、お互いに気持ちよく生きていけるのではないかと思います。
 もちろん自戒の意味を込めてなのですが、人間って、放っておくと否定ばかりしたがりますね。
 自尊心とか、虚栄心とかを満たしたいのかもしれないし、否定することで、原理的には相手より上の立場に立てることを、心のどこかで信じているからかもしれません。
 自分の心に「どうでも良い嘘」ならいくらついてもいいんじゃないかなぁと思います。
 「今年の夏は暑いよねー」って言われて、心の中で「いや、例年に比べればまだまだ過ごしやすい」と思ったとしても、自分の心に「どうでも良い嘘」をついて、「ほんと暑いよねー」って返してあげてもいいんじゃないかな。
 些細なことですが、これがちゃんとできる人が、愛され上手な人なのではないかと思います。

<2009-7-29>
 確か小学校4年生くらいの頃、我が家にアメリカ人の男子学生が二人、食事にやって来ました。
 ふたりともアメフトだかラグビーだかの選手で、体格がよく、身長が190センチ近くあったと思います。
 真面目な青年たちでしたが、「招待された家の子供を楽しませてあげなければいけない」とでも思ったのでしょう、食事の前に、僕に向かっておいでと手を振りました。
 僕は英語は判らなかったけれど、来いという空気を理解し、ニコニコしながら彼らの方へ歩いていきました。
 すると突然、ふたりは両側からそれぞれ僕の右手と左手を持って僕を持ち上げ、空いた手で僕のおなかをくすぐり始めたのです。
 僕はびっくりしたのとくすぐったいので、大きな声を出して笑いました。
 そしてそれを彼らは「喜んでいる」と勘違いしたのか、更に激しくくすぐってきました。
 彼らには力加減と言うものがなく、それはほとんど拷問のような苦しさでした。しばらくすれば終わるだろうと初めは我慢していましたが、一向に終わる気配がありません。
 逃げられないし、言葉は通じないし、家族の前で恥ずかしいしで、笑い声はいつの間にか、泣き声のようになっていきました。
 しばらくして学生二人も変化に気づき、慌てて僕をおろしました。
 屈辱的な思いで、僕は大声で泣きたかったのだけれど、ここで泣いたらせっかくの食事会の空気が凍りつくだろうし、食事の準備をした母も困るだろうし、だけれど溢れようとする涙をこらえることも出来ず、顔を隠し、何も言わずに走って自分の部屋に駆け込みました。そして彼らが帰るまで、そこには戻りませんでした。
 その後、家族の誰かが心配して来てくれたような気もしますし、「お客様に失礼だから一緒に食事をしなさい」と言われたような気もしますが、はっきり覚えていません。とにかく、彼らとは二度と顔を合わせられないという、恥ずかしい思いでいっぱいでした。
 最後に覚えているのは、なんとなく漂ってきた、学生二人がその状況に困惑し、両親に何度も謝っている空気と、「子供のことだから気にしないでください」と恐縮している親の姿でした。
 僕が親の立場なら、同じ様にゲストに対して「気にしないでください」と言うだろうことは、当時の僕も十分理解していました。
 ただ、ここで、「うちの子供に何をするんだ!」と、親がそのアメリカ人たちに対し、真剣に怒ってくれたら、どんなに嬉しいだろうと思った記憶があります。そして、決してうちの両親はそういうタイプではなく、波風立てないことが最優先事項なのだという事実が、僕を余計に苛立たせました。
 今、この出来事を振り返ると、多分、誰も悪くありません。むしろ善意が集まったところで起こった出来事だと思います。
 微妙なボタンの掛け違いの結果だろうし、もしかしたら、僕がもっと強い子供で、そうやってかまってくれることを、キャッキャと喜ぶことが出来れば、何の問題もない、平和な食事会になっていたのかもしれない。
 でも僕はそんなに強くなくて、結局はボタンの掛け違いの原因を作ってしまったし、その結果の大部分をひとりで引き受けてしまったのかもしれない。
 この出来事がトラウマで、アメリカ人が怖いとか、親が信じられなくなったとかはもちろんないのですが、しばらくはこの出来事が頭から離れなかったし、何でもなかった出来事として、ゆっくり記憶から消えることも、ついにありませんでした。
 そしてそれ以来、「悪意のない仕打ち」というのはあるのだなぁと、漠然と思うようになりました。
 「悪意のない仕打ち」って、「悪意のある仕打ち」よりもずっと性質が悪いです。
 誰のせいでもないのに苦しい。誰のせいでもないからその場に居合わせた自分を責めてしまう。
 嫌な記憶が消えないのは、そこから学ぶことがまだあるからだと思います。
 同じことが起こったときに、どう対処すれば良いのか、まだ答が見つかっていないからかもしれないし、その準備をするためにも、嫌な出来事は忘れてはいけないのかもしれません。
 僕がこの手のアグレッシブな「冗談」に対して、周りが引くほど冷めているのは、今思えば、この出来事が原因だったのかもなぁと思います。

<2009-7-28>
 寝転んでぼんやりしていると、「あぁ、このまま浮きたいなぁ」って思うことがあります。
 同じく、本当にときどきですが、「目から赤いレーザー光線でないかなぁ」って思うことがあります。

<2009-7-27>
 皆さん、携帯電話で通話するとき、左手で持ちますか? 右手で持ちますか?
 恐らく、僕と同世代か、それ以上の年齢の方は、左手で持つのではないかと思います。
 そして、若い世代の方は、右手で持つのではないでしょうか。
 これにはちゃんと理由があって、子供の頃から携帯電話があった世代は、右手でメールを打つことに慣れているので、通話も右手で持つ傾向にあるそうです。
 反対に、子供の頃には携帯がなくて、家の電話しかなかった世代は、家の電話というのは、左手で受話器を持って右手でダイヤルするように設計されている関係上、左手で持つ傾向にあるそうです。
 右脳論、左脳論が正しいと仮定すれば、左耳の情報は右脳に伝えられますので、左手で持つ人の方が長電話の傾向があるのかもしれません。

<2009-7-26>
 「どっきり」と書いたプラカードを持った人が、あの柱の影から出てきたらなんて素敵なんだろうと、1年に3回くらい思います。

<2009-7-25>
 僕は、よく動くベースが大好きです。
 佐野元春の「I'm in Blue」のベースなんか、たまらなく好き。
 決して自己主張しすぎているわけでもなく、「解ってくれる人は解ってくれるはず」という、ちょうどいい空気感がたまりません。

<2009-7-24>
 本当に怖いのは、スコーンと入ってしまうハイキックではなく、じわじわ効いてくるローキックなのだと思う、今日この頃です。
 いや、格闘技だけじゃなく、何でもね。
 スコーン、じゃなくて、じわじわ、が怖いです。

<2009-7-23>
 さだまさしがテレビ番組でこんなことを言っていました。
 「手紙と言うのは、『書いている間、私はあなたのことをずっと想っていました』、ということ。だから手紙は、時間のプレゼントなんです」
 素敵な考え方だなぁと思いました。

<2009-7-22>
 以前、びっくりドンキーでトイレに行ったところ、便器の上に英語の張り紙がしてありました。
 「Please stand closer. Your TOMAHAWK is not so long as you wish.」
 僕は笑いをかみ殺しながら、一歩前に体を寄せました。
 相手を持ち上げ、落とし、笑わせ、そしてお願いすると言う、心理誘導としては絶妙な、そして非常に洒落た注意書きだと思いました。

<2009-7-21>
 「悪そうな奴は大体友達」
 これ以上、頭の悪そうな歌詞って、他にないと思います。
 大体て……。

<2009-7-20>
 ブルーベリーを収穫しました。
 写真の品種は、ティフブルー、パウダーブルー、バルドウィンです。
 栽培を始めた頃は、品種ごとの味の違いなど、ほとんど判らなかったのですが、最近ようやく「利きブルーベリー」ができるようになってきました。
 完熟して最高の状態では、ティフブルーが一番美味しいです。
 しかし、ティフブルーは完熟していないと酸味が残り、完熟しているかどうかの判断が難しい。
 パウダーブルーは、そこまで気を使わなくても、平均点が高い感じ。
 バルドウィンは、粒が大きいので、食べ応えがあります。
 うちではまだ小苗なのですが、今年初めて、デライトという品種を食べる機会がありました。
 デライトは大粒で、他のブルーベリーにはないような、爽やかさがあり、とても美味しかったです。
 今までは、ガーデンブルーという品種が、大粒で甘くて、平均点も高く、お気に入りの品種だったのですが、デライトはガーデンブルーを越えた気がします。
 僕は品種オタクなので、今年も懲りずに、新しくメンデイトという品種を購入しました。
 こちらはまだまだ幼苗で、食べられるまではあと2年くらいかかりそうですが、良品種な予感がしています。
 ブルーベリーは名前の通り、青い実なのですが、品種によっては黒に近い実をつけるものもあります。
 ラビットアイ系の中の、「フロリダ系」と呼ばれる品種たちが黒いのですが、ガーデンブルーもメンデイトもフロリダ系です。
 一般に、フロリダ系の黒い実は、「綺麗じゃない」という理由でマーケットの評価は低いようですが、とにかく糖度が高く、適当に収穫しても当たり外れが少ないので、僕は大好きです。
 見た目も大事だけれど、やっぱり美味しいかどうかが一番大切だと思う。
 そして、黒い実も、ブルーベリーのイメージから外れているだけで、僕はとても綺麗だと思います。 

<2009-7-19>
 夕方、ベランダに出てみると、虹が出ていました。
 こんなにしっかりした虹を見たのは久しぶりです。
 東京に住んでいても、空だけは、自然のままなんだなぁと思いました。

<2009-7-18>
 5年前に購入した iRiverプリズム というMP3プレーヤーですが、本体は問題なく動くのですが、USBケーブルが断線してしまったらしく、曲を入れることができなくなってしまいました。
 まだまだ元気に動いているし、コードだけ購入すれば再び使えるのですが、容量が 256MB しかなく、最近はMP3プレーヤーも安くなったので、思い切って買い換えることにしました。
 購入したのは、Transcend の T.sonic 850 8GB です。
 「次に買うときは iPod にしよう」と思っていたのですが、同じ容量で値段が3倍近く違うし、wma形式のファイルが再生できないので、今回は Transcend にしてみました。
 昨日届いたのですが、これ、予想以上にしっかりと作られた製品です。
 iPodを使ったことがないので、iPodでは当たり前なのかもしれませんが、まず、液晶が綺麗。表示領域が広いので、曲を選ぶのも楽です。音楽以外にも、動画プレーヤー、フォトビューア、ボイスレコーダー、FMラジオとしても使えます。これが6,000円弱で買えるなんて、本当に技術の進歩には驚かされます。
 今回、機種を選ぶにあたり、唯一条件があって、それは曲中レジュームができることでした。
 ラジオ番組を聴くにはこの機能は必須なのですが、安いMP3プレーヤーにはこれができないものが多いのです。調べてはいたものの、実際に問題なくレジュームするのを確認してホッとしました。
 ちなみに、MP860という新型も発売されています。
 こちらは更に液晶が大きく、変換せずともいろいろな動画を再生でき、スピーカー内臓、そしてMicroSDカードスロットがついており、カード内のファイルを再生することも可能です。
 初めはこちらにしようと思っていたのですが、サイズが一回り大きいことと、よくよく考えれば、動画はそんなに観ないし、スピーカーもカードスロットも必要ないので、旧型にしました。
 この二日間、自分の好きな音楽をすべて持ち歩けて、聴きたいときにすぐに聴けるというのは、すごいことだなぁと感動しながら、懐かしい曲をたくさん聴いています。 

<2009-7-17>
 恋をしている人を観ていると、二種類の人がいることに気がつきます。
 相手のことが好きな人と、恋をしている自分が好きな人です。
 100%の憶測で物を言いますが、男性は前者が多く、女性は後者が多いように思います。
 憶測なので、反論されても困ります。(^^;;

<2009-7-16>
 皆さんは、嘘をつくことと、約束を破ることでは、どちらが罪が重い行為だと思いますか?
 もしかしたら、嘘をつく方がずっと悪くて、約束を破ることは仕方のない場合もある、と思っていらっしゃるのではないでしょうか?
 現実的に、嘘をつかれると、嘘をついた側の予想を遥かに超えて相手は傷つきますが、約束が破られたときは、そういった種類の傷つき方ではなく、どこかに不可抗力というか、諦めに似た感情があるように思います。よって、嘘の方が罪が思いと感じるのだと思います。
 「子供のための哲学対話」(永井均著 講談社)に、以下のようなやりとりが掲載されていました。少し長いですが、引用してみます。

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ぼく:うそをついたり約束をやぶったりすることは、やっぱりいけないことだよね?

ペネトレ:いいや、うそと約束はちがうよ。ぼくらは、概して人はうそをつかないって前提のもとで幕らしているけど、自分からすすんで「わたしはうそをつきません」って約束した人なんかいない。それに対して、約束をした人は、その約束をわざわざ自分でしたんだ。しないこともできたのにだよ。だから、うそをつくことが約束をやぶることとおなじことになるのは、法廷で音一誓したような場合だけなんだ。

ぼく:でも、約束だってやぶらなくちゃならないことがあるだろ? もっと急を要する重大なことが起こったりして。

ペネトレ:そりゃあ、もちろんさ。でもね、いったんした約束にはね、約束をした時点にはなかったような重大さがつけ加わってくるんだよ。たとえば、A君とBさんが三時半に駅の改札口で会う約束をしたとするよ。約束した時点では、時刻は四時でもかまわなかったし、場所は駅のホームでもよかったんだ。会う理由自体も、たいしたものじゃなかった。でも、その約束をしたあとでは、A君とBさんはその約束があることを前提としてすべての予定を立てなくてはならなくなるんだ。だから、どんなにくだらない用件だったとしても、すでにしてしまった約束というのは、そのことで重みを持ってくるんだよ。もし自分ひとりなら、もっと重要な用事ができたら、すぐに予定を変えればいいんだけど、人との約束がある場合はそうはいかなくなるんだ。相手のほうはもうすでに、自分のもっとだいじな用件よりもその約束のほうを優先してくれているかもしれないんだからね。

ぼく:じゃあ、よほどのことがないかぎり、約束をやぶってはいけないんだね?

ペネトレ:約束をやぶること自体が目的の場合は別だけどね。ぼくらはいろんなことについて自分から約束をするけど、約束は守るという約束なんて、自分からすすんでは、したことがないからね。そこまでくると、うその場合とおなじになるね。

ぼく:???
-----

 知らず知らずのうちに、人間は相手に対して、多くの「こうあるべきだ」というのを押し付けあっているように思います。
 友達だったらこうしてくれるはずだ、とか、家族なのだからこうしてくれるのは当たり前だ、とか、相手の了承もなく、それを求めるし、それを相手が叶えてくれないと、「ひどい!」となってしまう。
 だけれども、基本的に、相手が約束してくれたこと以外は、何も期待するべきではないと僕は思います。
 自分は自分のために生きるし、相手は相手のために生きる。利害が一致すれば、一緒に何かすることもあるかもしれませんし、一致しないのであれば、我慢する必要はない。
 冷たく響くかもしれませんが、これが人間関係の大原則で、それを理解している人同士の間にしか、心地よい人間関係は生まれないと思います。
 約束というのは、利害が一致した上でのことですから、それを破ってしまうと、相手に与えるがっかり感は、取り返しのつかないものになると思います。

<2009-7-15>
 実家のノートパソコンを起動しようとしたら、HDDを認識しておらず、立ち上がらなくなっていました。
 耳をすますと、「カラカラカラ」という不吉な音が聴こえています。完全にHDDが壊れたらしい。
 新しいHDDと交換することになったのですが、せっかく交換するのだからと、HDDではなく、最近安くなったSSDにすることにしました。
 IDE接続のSSDで、そこそこ速く、手ごろな値段の製品を探したところ、CFDの「CSSD-PM32NL」という製品を見つけ、早速購入し、OSをインストールしました。
 噂どおり、SSDは高速で、今までの遅さが何だったのかと思うほど、あっという間に起動します。
 起動後も、すべての動きがキビキビしており、「一度SSDを使ったらHDDには戻れない」という言葉の意味を、ひしひしと実感しました。
 今まで色々なパソコンで、CPU交換、HDD交換、メモリ増設、ビデオカード交換等のチューンアップをしてきましたが、ここまで圧倒的に体感速度が変化したのは初めてです。
 ベンチマークを取るまでもなく、唖然とする変化です。SSDの費用対効果の高さは異常です。
 動作が高速なのもさることながら、アクセス音が全くしないのも、予想以上に心地が良いです。CPUの負荷が低く、FANが止まっているときは、全くの無音になります。
 SSDはまだまだ、発展途上の製品ですので、これから更に高速に、そして大容量になっていくことでしょう。
 僕のノートのHDDもSSDにしちゃおうかな。 

<2009-7-13>
 以前、「形容矛盾」について書いたことがありますが、似たような概念に「二重形容」というのがあります。
 ネットを検索していたら、形容矛盾に勝るとも劣らず、面白い二重形容続出だったのでご紹介します。

「ラッシュアワー時」 二重形容って英語が混ざっている確率が高いと思います
「幼少からの幼馴染」
「今年入った新人刑事」
「確定的に明らか」
「ネオ・ニューミュージック」
「マネー資本主義」
「入梅突入」 これ、結構ツボでした
「新しいニューモデル」 「昨年のニューモデル」という形容矛盾とセットでどうぞ!
「間際でドタキャン」
「ダントツで一位」
「別人の人物」
「一番最低」 頭の悪さが滲み出ていて大好きです
「無駄に浪費」
「古い老木」
「NPO団体」
「松坂牛の牛タン」
「強く強か」
「輪をかけて最悪」 じゃあ最初の状態は最悪じゃないですね
「幻のレアカード」
「一般的なパンピー」 パンが二つ入っちゃった
「あとで後悔」
「変な違和感」
「CDディスク」
「真のリアルファイト」
「もう一度再インストール」 ってことは、2回目? 3回目?
「ある意図を持った主張」
「年寄りの老婆心」
「その場で付け焼刃」
「巧妙でトリッキーな裏技」
「不安感を感じる」 「頭痛が痛い」式の二重形容ですね

 形容矛盾は「一生懸命努力した結果のアホさ加減」が面白いですが、二重形容は「持って生まれたアホさ加減」が面白いですね。
 ところで、雪男のオスって、やはり二重形容なんですかね。

<2009-7-12>
 MXTVで放送している「松嶋X町山 未公開映画を観るTV」で、以前、「スーパー・ハイ・ミー」という映画を放送していました。
 この映画は、マクドナルドの商品だけを食べ続けたらどうなるかを実験したドキュメンタリー映画「スーパーサイズミー」のマリファナ版で、マリファナを30日間吸い続けたらどうなるかを実験したドキュメンタリー映画です。
 映画の内容はさておき、自ら実験台となったダグは、定期的に医師の診断を受け、マリファナの影響を記録するのですが、そのなかで、精神的な影響がでていないか、カウンセリングを受けるシーンが出てきます。
 カウンセリングを受けた後のダグが、こんなことを言います。

「だからカウンセリングは嫌いなんだ。
 "セッションの前に一服したいのかな?"とかさ。
 それに言い方がまわりくどい。
 "私がハイになる時は君にもなって欲しいと君が思ってることに気づいてほしいのかな"
 ワケわかんないよ」

 僕はこのシーンを観て、思わず笑ってしまいました。
 エリクソンの影響なのかどうかは解りませんが、何でもかんでも許容語で話さなければいけないという風潮が、もしかしたらアメリカのセラピストの間ではあるのかもしれませんね。
 ……と言いつつ、全然僕も人のことは言えなくて、↑この文章も、「もしかしたら」「かもしれない」と、逃げまくりなわけです。(^^;;
 翻訳物の文献を読むと、"私がハイになる時は君にもなって欲しいと君が思ってることに気づいてほしいのかな"的な訳文がたくさん出てきて、翻訳が悪いのか、それとも原文を読んだアメリカ人も同じ違和感を覚えるのか、ダグの言っている通り、言い方の回りくどさが尋常ではありません。
 抵抗を回避するための許容語が、逆に「あんたいったい何が言いたいんだよ!」と相手を苛立たせてしまったら、本末転倒です。

 なんでこんなことを書いたかと言うと、先日、ある方に、「あなたのしゃべり方はフワフワしている!」と指摘されたからです。
 そのときは「フワフワしていたらまずいのかな?」と心の中で思ったりもしたのですが、冷静に考えると、僕も知らないうちに、まわりくどい「セラピスト語」を話すようになってしまったのかもしれません。(あ、また「かもしれません」って言っちゃった)

 まぁ、僕が「セラピスト語」を話す理由は、エリクソンの影響もありますが、それだけではなく、心のどこかで、人は理解しあえない、と認めているからだと思います。(もう、面倒なのでツッコミません・笑)
 理解しあえなくても、相手がそう思っていること自体は尊重したいし、否定したくない。
 同じく、自分の意見も、理解してくれなくていいから、そのままで許して欲しい。
 そうなってくると、許容語を多用するしかなくなるわけです。

 「太陽が地球の周りを回っているのだ!」と主張する人に出会ったら、何が何でも地球の方が回っていることを理解させたいとは、僕は思いません。
 同じ信念体系を相手が持っているのなら、説明して理解してもらえる可能性もありますが、そうでない場合は、どんな武器を持ってしても、相手の考えを変えることなどできないからです。もちろん、もっと生死に関わるような、重大な意見の相違でしたら、出来る限り説明しようとするかもしれませんが、太陽と地球のどちらが回っていようと、その人との関係で何かが変わるわけではないし、自分の信じていることを、ひとつひとつ科学的に証明しろと言われたら、その場ではほとんどできないのではないかと思う。
 ですから、そこで相手の意見を正すよりは、「ふうん、あなたは太陽が地球を回っているって思っているんだね」と、それを真実だと認めないまでも否定しない、このようなしゃべり方をするしかないのではないかと思うのです。

 などと書きながらも、僕のことを知っている人は、「そうでもねぇよ」って思ってるかもしれない。
 以前、「ゲシュタルトの祈り」について書いたことがありますが、できるだけそんな風に、そのままの相手を尊重したいという意思はあって、それが中途半端にでてきて、時々フワフワして見える、というのが本当のところでしょうか。

 「直喩と暗喩」で書いたように、あえてズバッと言うこともあるのですが、この辺りのバランス感覚は難しいですね。
 もちろん、相手との信頼関係が進んでいって、小さな違いなんて何でもないとお互いが感じられる状態だったり、心底共感している場合などは、セラピスト語なんて不要です。

 僕は、人と人とが解り合うことよりも、解り合えないままで楽しくやっていける事の方が、ずっと大切だと思っています。

 あれ、もしかして、こういった文章自体がフワフワしているのかな?

<2009-7-11>
 「家族や友人たちと 並木道を歩くように 曲がり角を曲るように 僕らは何処へ行くのだろうかと 何度も口に出してみたり 熱心に考え 深夜に恋人のことを思って 誰かのために祈るような そんな気にもなるのか なんて考えたりするけど
 鳥肌が止まりません……。

<2009-7-10>
 今年の下半期は、椿鬼奴がプチブレイクするような予感がします。

<2009-7-9>
 野球用語(なのかな?)で「置きに行く」というのがありますが、最近はお笑いでもこの表現を使いますね。
 本来の「置きに行く」は、ストライクゾーンに入れることだけを考えて球威のない球を投げることを指すようですが、お笑いでは、大爆笑を狙ってすべるよりも、確実に中笑いを狙うことを指すようです。
 この「置きに行く」という概念、僕は結構好きです。
 野球やお笑いだけでなく、仕事や恋愛、趣味の世界においても、絶えず「置きに行く」ような生き方の人もいれば、フォアボールを恐れずに全力投球の人もいますね。
 僕は接客業をしているからかもしれませんが、自分が接客される場合、「あぁ、この人は置きに行っているな」と感じることがたまにあります。
 もちろん、無愛想な接客をされるよりは、置きに行った接客をされる方が良いですが、それでも無難な接客は、つまらないなぁと思う。
 何となくですが、あと10年くらいすると、この「置きに行く」は、口語として定着するような気がします。
 「修学旅行が奈良・京都って、置きに行ってるよねー」とか、「いくら彼にふられたからって、○○君とつきあうのは置きに行きすぎじゃない?」なんていう会話が、中学校の教室から聞こえてくる日も、遠くないのかもしれません。

<2009-7-4>
 毎年、「今年は」とか「今年こそ!」なんて思うのだけれど、気がつくと半年過ぎて、夏が終わり、代わり映えのないまま大晦日を迎えている気がします。
 それでも、全く変化がないわけではもちろんなくて、見えないところで、しっかりと変化は始まっていて、見える変化は、忘れた頃に、突然のように現れます。
 自分ではネガティブな性格だと思うこともありますが、次の半年で起こるかもしれない変化を、いつも期待しているのは、根っこの部分が楽観主義者だからかもしれません。
 こんな風に具体性のない文章を書くのは嫌いなのですが、今日はそういう気分です。

<2009-7-3>
 「ビジネスシーンで使いたい『新世紀エヴァンゲリオン』の名ゼリフランキング」一位は、「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」だそうです。
 僕が好きなのは、「冬月先生、後を頼みます」です。

<2009-7-1>
 オフコースに「老人のつぶやき」という曲があります。
 心が震えるような曲はたくさんありますが、これほど切なく、人生を考えてしまう曲はないのではないかと思います。
 初めて聴いたのは中学の頃なのですが、僕も死ぬ頃には、こんな風に人生を振り返るのだろうか、といつも思っていました。
 昔の知人とも離れ離れになって、連絡先も判らず、「もう死んでしまったかしら」なんて思うのかしら。
 老人になっても、「あの人に私の愛が伝えられなかった」ことを心残りに思うのかしら。
 もし僕が死んだら、お葬式にはこの曲を流して欲しいなぁと、中学の頃からずっと思っています。

<2009-6-29>
 何だか最近、アクセス数が多いなぁと思ったら、以前書いた「マイケルジャクソンの木登り」というエッセイが、yahooで「マイケルジャクソン 特番」と検索すると上位に表示されるからみたいです。
 特番の情報を期待していらした皆様、ごめんなさい。

<2009-6-28>
 こんな名前をつけられたら、もう太刀打ちできないなぁって感じることがあって、それを一番強く感じたのは、「メリル・ストリープ」です。
 メリル・ストリープ。
 彼女の外見とか、女優としての才能とかはともかく、これほど甘い名前って、他にありますか?
 メリル・ストリープと聞いて、何ともいえない、甘さを感じるのは、恐らく無意識的に喚起される、「メープルシロップ」の影響だと勝手に思っています。
 「小池栄子」って言われて、甘さは微塵も感じないもの。

<2009-6-27>
  

 江ノ電に乗って、鎌倉と江ノ島に行ってきました。
 紫陽花の季節だからか、土曜日だからか判りませんが、江ノ電も江ノ島も鎌倉も、観光客で溢れていました。
 海では、海開き前だと言うのに、すでに大勢の人たちが日焼けをしたり、子供たちが水遊びをしたりしていました。
 僕も足だけ海に入ってみましたが、思ったより海水は温かく、とても気持ちが良かったです。
 海に行ったの、何年ぶりだろう? もしかしたら、10年ぶりくらいかもしれません。

<2009-6-25>
 今まで宣伝していませんでしたが、来月より、催眠研究会の参加者をこちらのページでも募集することにしました。
 催眠研究会(Derren Brown研究会)は、毎月1回、当カウンセリングルームにてひっそりと開催しております。
 お茶を飲みながら、プロジェクターでDerrenの動画や、催眠関連の動画を観て、ここでは何が行なわれているのか、皆さんでお話しする、気楽な会です。
 次回は7月26日(日)です。
 どなたの参加も大歓迎! ご興味のある方はお気軽にご参加ください。
 詳しくは、こちらのページをご覧下さい。

<2009-6-22>
 先日、カウンセリングルームで「交渉人」という映画を数人の方と一緒に観ました。
 同僚の警官に、殺人と横領の濡れ衣を着せられ、無実を証明するために人質をとって立てこもった主人公のダニーが、面識のない交渉人のクリスに向かって言った台詞が、とても印象的でした。

 「仲間に裏切られたら、信用できるのは他人だけだ」

 苦しくて辛いときに、信用できる他人が近くにいたら、本当に救われるでしょうね。
 同じ中にいる人間には決して理解されないことも、何のしがらみもないが故、すっと理解し、共感し、時には力になってくれる……。
 友達になることは素敵なことですが、友達じゃないことも、同じ様に素敵なことだと思います。 

<2009-6-20>
 納豆と豆腐は、名前が逆の方が良かったのじゃないかと思います。
 納豆は豆が腐っているし、豆腐は箱に納まった豆なのですから。
 関係ないけど、これを書きながら「豆」という文字を何度も見つめていたら、ゲシュタルト崩壊して、ハングルに見えてきました。

<2009-6-18>
 以前ご紹介したとおり、ゆず(雑種猫・1歳・メス)には、「猫マフラー」という得意技があります。
 写真のように、持ち上げて首の周りに巻きつけると、そのままダラーンとマフラーのように体重をあずけてくれます。
 マロンに同じ事をしたら、体を緊張させたまま降りようとモゾモゾするので、どの猫でもできる技じゃないと勝手に思っているのですが、猫を飼っていらっしゃる皆様、いかがでしょうか。
 ゆずは脱力系猫で、抱っこしていても、膝の上でも、力の抜き方が半端なく、すごく重たく感じます。
 安心して力を抜いているかと思えば、何もしていないのに逃げ惑うこともあり、未だに僕のことを飼い主として認識しているのか、判らなくなるときがあります。

<2009-6-17>
 「すると川上の方から、大きな桃が、ドンブラコ、ドンブラコと流れてきました」
 桃太郎の中で、何の説明もなく「ドンブラコ」という言葉が使われていますが、この「ドンブラコ」、桃太郎以外で聞いたことがありません。
 この物語のためだけに、擬声語とはいえ、単語が存在していると言うのは、非常に贅沢な気がします。
 いや、それとも、僕らはもっと率先して、この「ドンブラコ」を日常生活に使っていくべきなのかもしれません。
 問題は、死ぬまでに一度でも、川上から大きな物体が流れてくるという状況に直面するかどうか、ですね。
 僕はいつか、誰かに「手遅れだよ」って言われたときに、佐野元春の「SOMEDAY」のように、口笛で答えてやろうと狙っているのですが、なかなかそういう状況は訪れません。
 口笛とドンブラコ……。
 ふたつの宿題を背負って、今日も生きています。 

<2009-6-6>
 先日、サンドイッチを食べながらホットコーヒーを飲んでいて、「あれ? これ、何か知ってる!」と思いました。
 僕は普段、コーヒーをあまり飲まないし、特に食事中に飲むことはないのですが、この組み合わせに、不思議な懐かしさを感じたのです。
 何でこんな懐かしい気持ちがするのかなぁと思ったら、子供の頃に読んだ、「サンタおじさんのいねむり」という絵本に、サンタおじさんがコーヒーを飲み、サンドイッチを食べるシーンが出てきたからだと気がつきました。
 僕はこの絵本が大好きで、子供の頃は何度も何度も読み返しました。
 Amazon で検索したら、今でも売っていたので、買って読み直してみたのですが、何であんなに好きだったのか、理由が判った気がします。
 この絵本は、非常にうまく子供の欲望を刺激しているのです。
 まずは色とりどりに包装されたプレゼントの山。
 美味しそうなサンドイッチ。
 寒い中で湯気を立てているコーヒー。
 そして雪。
 森の動物たち。
 クリスマスの夜……。
 「あなたはおなかがいっぱいになると、ねむくなるから、まちにつくまで サンドイッチ はたべてはだめですよ」というおくさんの忠告を、大人のサンタおじさんが破ってしまうというのも、子供心にスリリングでした。
 絵本って、だいたいは道徳的で、悪いことは悪役しかしないのだけれど、この絵本では主人公が、ついつい誘惑に負けてしまうところも人間的だったし、それが大惨事に繋がるわけでもなく、動物たちの優しさで全てがうまく行くのも、たまらなく好きだったのだと思います。
 村上春樹の「中国行きのスロウ・ボート」という短編集に、「午後の最後の芝生」という作品があります。
 主人公は、夏の暑い中、芝刈りのアルバイトをしているのだけれど、仕事に行くときに、ポットにアイスコーヒーを入れて持っていくんです。
 暑い日にポットの中の冷たいコーヒーを飲むのと、寒い雪の中でポットの温かいコーヒーを飲むのは、真逆ですが、もしかしたらこれは、村上春樹流の「サンタおじさんのいねむり」に対するオマージュなのかもしれない、なんて思いました。
 いや、そんなわけないんだけど。

<2009-6-3>
 使っていた電動歯ブラシが壊れてしまったので、新型に買い換えました。
 今回購入したのは、東レの超音波歯ブラシ「ウルティマUT-600」です。
 前回もウルティマの超音波歯ブラシを使っていたのですが、このシリーズを使うと、もう他の歯ブラシは使えません。
 電動歯ブラシにありがちな、力で磨くタイプの歯ブラシではなく、メインは超音波ですので、磨きすぎる心配もなく、それでいてしっかり歯垢が分解されて、歯がツルツルになります。
 この歯ブラシを使い始めてから、歯医者の検診でも、「よく磨けていますね」といつも褒められます。
 こちらの動画をご覧下さい。きっと東レに洗脳されるはずです。(^^)
 残念なことに、東レは現在発売されている商品を最後に、この業界から撤退するらしく、大手メーカーでは東レの他に超音波歯ブラシを作っているメーカーはないので(ライオンも出しているようですが、恐らく東レのOEMです)、今回購入した歯ブラシが壊れたら、残りの人生、どうやって歯を守っていけば良いのだろうと、今、真剣に悩んでいます。
 同じ様に、今後の歯ブラシライフに不安を抱えている人が、現在進行形で日本に何人いるかは判りませんが、ウルティマユーザーが東レの撤退を知ったら、僕のように衝撃を受ける人は多いと思います。
 とりあえず、ヨドバシカメラで交換用の替えブラシを、在庫ありったけ買ってきました。(^^;;

<2009-6-2>

 今年もラズベリーが赤くなり始めました。
 最近、雨が多かったせいか、生で食べると味はいまひとつだったので、ジャムにしてみました。程よい酸味でとても美味しかったです。
 ラズベリーは、前の年の春から成長した木に実をつけ、収穫した年の秋にかけて枯れていきます。
 よって、毎年春には地面から竹の子のように新しい木が生えてきます。
 世話はほとんど必要なく、唯一の作業が、収穫後の木を根元からばっさり切ることです。
 しばらくはラズベリー漬けの日々になりそう。
 もう一枚は、ブルーベリーの幼果です。これはバルドウィンという品種です。
 ブルーベリーは収穫まで、あと2ヶ月くらいはかかりそうです。はやく食べたい!

<2009-5-31>
 「リーズナブル」という言葉は激しく誤解されている、という話を以前書きましたが、同じ様に誤解されている言葉に、「ナイーブ」があると思います。
 日本語では、「傷つきやすくて繊細」みたいな意味で使われることが多いですが、本来の英語の Naive は、「単純で信じやすくて考えが甘くて世間知らずで騙されやすい」みたいな意味があります。
 僕はこの、「ナイーブ」という概念が大好きで、「こういった考え方はナイーブ過ぎるかもしれませんが……」などと会話の中でも使ってしまいます。そして大抵の相手は、ナイーブを「傷つきやすくて繊細」という意味でとらえるので、僕がそう言うと、理解しかねる、というような表情を一瞬浮かべます。
 だったら最初から「こういった考え方は単純すぎるかもしれませんが」とか、「甘い考えかもしれませんが」と言えば良いのだけれど、率先して、本来的な意味で「ナイーブ」を使い続ければ、いつか正確なナイーブさを、日本人も理解するのではないかと期待して、ついつい使ってしまうのは、僕がナイーブだからでしょうか。(^^;
 「ナイーブ」と同じ様に、「ビリーフシステム」という概念も好きです。日本語に訳すと、「信念体系」。
 どんな風に考えているか、感じているか、といったピンポイントの視点ではなく、どんなビリーフシステムを持っているのかという視点に立つと、細かい違いはどうでもよくなって、「仕方がないよね、ビリーフシステムが違うのだから」と、理解しあえないまでも許しあえるのではないかと期待しているのもまた、僕がナイーブだからかもしれません。(^^;;

<2009-5-29>
 毎月、月末に開催している、Derren Brown研究会の準備のため、彼の動画を見直しています。
 パフォーマンスのひとつ、「Chocolate Rolls」をずっと見ているのですが、まったく理屈が解りません。(^^;;
 恐らくこれは心理誘導とは関係なく、完全なマジックで、素人の僕がちょろっと見て、トリックが解るはずもないのですが、それにしても不思議です。
 Derren の主張通り、本当にサクラがいないのであれば、前回の研究会で見た、あの「SYSTEM」を使っているのでしょうか?
 一箇所、不自然だなぁと思ったのは、最初のチョコレートロールを取るシーンです。
 ひとり目は、左から2番目をとっています。その後、アングルが変わって誰がどれを取っているのか見えなくなるのですが、最後の人が取るシーンで、何故かないはずの左から2番目を取っているように見えるのです。しかも、場所が微妙に下にずれています。
 参加者が取っていくうちにずれていったことも考えられますが、最初の二人の取り方を見ると、それほどずれるとは思えません。トリックがあったとしたら、ここでしょうか。
 ただ、Derrenはこんなこともして見せているのですから、これくらいのことは何でもないのかもしれませんね。

 もし、Derren Brown研究会に参加してみたい!、という方がいらっしゃいましたら、「お問い合わせ」より、その旨、ご連絡下さい。研究会では、僕が通訳しますので、英語が苦手でも大丈夫です。
 催眠に興味のある方、初めての方、初心者の方、大歓迎です!

日 時 : 2009年5月31日(日)
時 間 : 13:30〜19:00 (開場 13:00)
場 所 : 当カウンセリングルーム
参加費 : 1,000円

 お申し込みは、31日の朝10時くらいまでならOKです!

<2009-5-26>
 今週末、「催眠体験会」を開催します。
 ゆったり、人工的なお昼寝をしにいらしてください。

<2009-5-18>
 「幸せなら態度で示そうよ」って、脅迫めいていてちょっと怖いです。
 自然に態度に出てこないのなら、幸せじゃないか、それとも、そういうタイプの人間ではないのですから、そっとしておいてあげて下さい。

<2009-5-14>
 調布の「千年ラーメン」に行ってきました。
 以前、近くに住んでいたときは、結構な頻度で行っていたのですが、引っ越してからは足が遠のき、それでも半年に一度くらいは行っています。
 有名店というわけでもなく、店内はいつもガラガラ。
 ネットの口コミ情報では、「不味い」という人が続出していますが、僕はここのラーメン、大好きです。
 店内に「3回食べてみてください。クセになります」みたいなことが書いてあって、僕も初めて食べたときは美味しいとは思わなかったのですが、確かに3回目くらいから美味しさが解ってきて、しばらくは中毒のように通っていました。
 一風堂や博多天神のような、極細めんの豚骨ラーメンで、ラーメン500円、替え玉50円、ニンニク20円。
 ニンニクを入れると、途端に味がまろやかになります。
 10年くらい前までは、ラーメンはそんなに好きではなくて、ラーメン通の人の話を聞いたり、ラーメンの特番を観たりしても、いまいちピンとこなかったのですが、ここのラーメンに出逢ってから、ラーメンが好きになりました。
 ネットで調べたりして、いろいろなお店に行き、いろいろなタイプのラーメンを食べましたが、最近思ったのは、他のラーメンと、豚骨ラーメンは別物だということです。それこそ、ラーメンと蕎麦くらい、違う食べ物のような気がします。
 そして、僕はラーメンが好きなのではなく、豚骨ラーメンが好きなのだと思います。

<2009-5-3>
 僕はデフラグが大好きです。
 Vistaのデフラグは、進行状況がグラフィカルに表示されないので好きではないのですが、Defraggler というフリーソフトを見つけてからは、必要以上にデフラグしています。
 このソフトは、断片化しているファイルだけを高速でデフラグできるし、空き容量の断片化を実行するとHDDの中もきれいになるので、とても気持ちが良いです。
 デフラグが好きっていう人、意外に多い気がします。
 多分、テトリスが好きな人は、デフラグが好きなんじゃないかな。

<2009-4-26>
 あるマジックの本で、著者が、「もし自分に超能力があったら、その超能力を使って手品をする」というようなことを書いていました。
 今日、カウンセリングルームで「Derren Brown研究会」というのを開催したのですが、僕はDerrenのパフォーマンスを見ていると、ときどきこの台詞を思い出します。
 Derren自身は、完全な超常現象否定派で、著書の中でも科学的に物事を見極めることを啓蒙していますし、テレビ番組でも、オカルトから脱洗脳するような内容のものを積極的に作っています。そして僕自身も、気がつけば彼の影響か、完全な超常現象否定派になっていきました。
 それにも関わらず、彼のパフォーマンスはどう捕らえれば良いのか悩むものが多いのも事実です。
 心理誘導にしては鮮やか過ぎるし、マジックにしては、ある意味、地味すぎる。(サクラがいれば簡単に再現できてしまう)
 彼のパフォーマンスは超常現象ではない、と解っていても、前述のマジシャンの言葉のように、「もしかして、彼には本当にそういう能力があるにもかかわらず、あえてオカルトを否定し、手品を装うことで煙に巻いているのではないか?」と、考えたくなる瞬間が、正直、あるのです。
 今日は皆さんと、「The System」という特番を観たのですが、まさしくその内容は、人はいかにして、妄想をいだくようになるか、というものでした。
 参加者の皆さんには、「お前は今日、何を観ていたのだ!」と怒られそうですが、この特番を観た後でさえ、Derrenは秘密のテクニック(もしくは能力)を持っているのではないか、という考えが、ときどき頭をよぎります。
 いや、本当にときどきだけどね。(^^;; 

<2009-4-24>
 明日の「催眠体験会」ですが、まだ残席があります。
 朝の10時くらいまででしたら、お申し込み可能ですので、突然暇な土曜日になってしまった皆様、雨で予定が流れてしまった皆様、是非、ご参加くださいね。(^^)

<2009-4-21>
 ガンダムも名台詞が多いですが、ナウシカも名台詞が多いです。

「行こう、ここもじき、腐海に沈む」(ユパ)
「汚れているのは土なんです!」(ナウシカ)
「今使わずにいつ使うのだ!」(クシャナ)
「腐ってやがる……。早すぎたんだ」(クロトワ)
「世界が燃えちまうわけだぜ」(クロトワ)
「あんなものにすがって生き延びてなんになろう」(大ババ様)

 あ、巨神兵登場前後の台詞ばかりだ。(^^;;

<2009-4-20>
 「仕事中に気持ちを盛り上げたい時のガンダムの名ゼリフランキング」ですが、ガンダムはすべてが名台詞なのではないかと思うくらい、台詞が素晴らしいですね。
 個人的には、

「こいつ……、動くぞ」(アムロ)
「まだだ、たかがメインカメラをやられただけだ!」(アムロ)
「貴様だって、ニュータイプだろうに!!」(アムロ)
「戦いは数だよ兄貴!」(ドズル)
「あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」(ジオング整備兵)
「戦いの中で戦いを忘れた」(ランバ・ラル)
「見えるぞ!私にも敵が見える!」(シャア)
「こういう時、臆病なくらいがちょうどいいのよね」 (カイ)
「慣れて行くのね…自分でもわかる…」(セイラ)

あたりも、気持ちが盛り上がります。

<2009-4-18>
 昨日に続き、言葉の響きについて。
 昔から、「たっぷり」という言葉が表す「たっぷり感」には感心します。一番最初に言った人、すごすぎ。
 同様に、「抜群」という言葉が表す「抜群感」も、なかなかなものだと思います。

<2009-4-17>
 「ハレンチ」は英語っぽいけど実は日本語で、「ジレンマ」は日本語っぽいけど実は英語なんですね。
 だから何?、って言われると困るのだけれど……。 

<2009-4-13>
 マジンガーZのリメイク(?)を観ました。
 まだ1話しか観ていないのですが、1話はダイジェストのような感じで、正直、よく解りませんでした。
 マジンガーZと言えば、出てくる造語に力がありますね。
 歌に出てくる「マジンゴー」もそうですし、「パイルダーオン」というのも、何だか知らないけれどすごくかっこいいです。
 世間に訴えるためには、意味はともかく、言葉の響きって、とても大切だと思います。

<2009-4-11>
 今日はカウンセリングルームで、「大江千里オフ会」を開催しました。
 大江千里の悲劇は、男性ファンがつかなかった(正確に言うと、男性ファンの数より圧倒的に女性ファンの方が多かった)ことにあると思います。
 実際、当たり前ですが彼は男性ですので、男性の気持ち(しかも、あまり格好良くない、ナイーブとはまた違う、ずるくてひ弱な気持ち)を歌った曲が多く、男性こそ本当に理解できるミュージシャンだと思うのです。歌詞は面白いし、情景描写も綺麗で、例えば「魚になりたい」なんて、何も起こらずにあれだけの曲を作れるなんて、天才だと思います。
 逆に、女性が聴いたら、理解したくもないであろう歌詞がときどき出てきます。
 そういうの、女性ファンはどういう気持ちで聴いているのだろうと、以前から気になっていて、今日、女性参加者の皆様に質問してみたのですが、どうも、曲を歌詞で聴いているわけではなく、メロディやアレンジ、そして大江千里と言うキャラクターを含め、パッケージで聴いていらっしゃるようです。
 よって、大江千里がやたらと心変わりする(もっというと、二股だったり、今の彼女がいるにも関わらず昔の彼女に未練があったり)曲を書いても、そういった意味ではひっかかりもなく、通り過ぎてしまう。
 JANUARY も MAN ON THE EARTH塩屋LOVE REVOLUTION も、本当に自分の彼がそれでいいわけ?って思うんだけれど、そもそもそこまで自分に当てはめて聴いてはいないのかもしれません。
 昼休みの公園で昔の彼女に会って、運命が回りだす音を何度も聞いてしまったり、何処かの人ごみで偶然変わった君に会いたかったり、街で見かけた細い肩を呼び止めることもせず、指が覚えた市外局番を何度もまわしては切るような、そんな男で本当にいいのか、と。渋滞のスクランブルで見覚えあるシャツを見つけても、やっぱり声もかけず、心の中で「時は戻せないけど変わらないで欲しい」、とわがまま言いますけど、よろしいのですか、と。彼女のことばかり気にしちゃ騒げませんが、何か問題でも?、と。引っ越すことも気づかずに、フェンス越しの女の子とゲーム楽しんじゃいますよ、と。
 僕は男だから、そういう気持ちは理解できますが、女性は本当に、そういった男性の姿に「素敵!」なんて思うのだろうか? 否、思うわけはなくて、やはりそれは、大江千里だから、なのでしょう。
 つまり、こんなことを書いたら女性ファンに怒られちゃいそうですが、彼のメッセージは、あれだけ洗練され、ある意味完成されていたにも関わらず、正しい受け取り手に届いていなかった、ということなのです。
 それこそ、尾崎豊や浜田省吾、佐野元春のように、熱狂的な男性ファンが多くついていれば、彼は今以上に評価されていたのではないかと思うのです。
 90年代の懐かしい映像を観て、普段はあまりそういうことは思わないのだけれど、もう一度、2000年になる前の、土曜日がずっと続いているような、あの時代に戻ってみたいと思いました。
 もう一度、VOCATION NO! って踊りたいなぁ、と。

<2009-4-10>
 今まで、当たり前のようにブラウザは IE を使っていたのですが、USBメモリに入れて使えるブラウザがあることを知り、Firefox と Google Chrome を試してみました。
 表示が速いこともさることながら、環境そのものをUSBメモリで持ち運べると言うのが大変便利だなぁと思いました。

<2009-4-9>
 「顔が好き」は名曲だと思います。
 昨日の日記じゃないけど、細切れに分解して理解しようとすると本質が見えなくなるんだなぁと、この曲を聴きながら思いました。

<2009-4-8>
 「奇跡のリンゴ」という本を読みました。
 農薬を使わずにリンゴを育てる、という、リンゴ農家にとっては「絶対不可能」なことに挑戦した木村秋則さんを取材したノンフィクションなのですが、木村さんや家族の生き様が壮絶で、読んでいて何度も目頭が熱くなりました。
 以下、本文からの引用です。

「木村が学者と百姓の違いをことさら強調するのは、皮肉でも謙遜でもなく、方法論の違いを言っているのだと思う。
 自然を細切れに分解して理解しようとするのが自然科学の、つまり学者の方法論だとするなら、自分がなすべきはその正反対のことだと木村は言いたいのだろう。
 自然は細切れになど出来ない。それは、木村があのドングリの木の根元で悟った重要な真理だった。自然の中に、孤立して生きている命など存在しない。自然をどれだけ精緻に分析しても、人はリンゴひとつ創造することは出来ないのだ。バラバラに切り離すのではなく、ひとつのつながりとして理解すること。科学者がひとつひとつの部品にまで分解してしまった自然ではなく、無数の命がつながり合い絡み合って存在している、生きた自然の全体と向き合うのが百姓の仕事なのだ。だから、百の仕事に通じなければならない。
 これは言葉で語るほど簡単なことではない。何かを理解するときに、物事を分析的に見るのは、人間の癖のようなものだからだ。だから木村も、リンゴの幹の導管をインクで染め、電気抵抗を計って、水分の移動量を分析したりする。ただ、彼はそういうことをして得た知識を、自分の直感によってリンゴの木の世話に結びつける。それが正しいか正しくないかは、一流の学術誌に掲載されるかどうかではなく、リンゴ畑の姿で、リンゴの木がどれだけ良い果実を実らせるかで決まる」

 読みながら、心の世界も全く同じだと思いました。
 細切れにする学者の方法論ではなく、ひとつのつながりとして理解すること。
 カウンセラーに求められているのは、そういうスキルなのではないかと思いました。 

<2009-4-7>
 バクは「夢を食べる動物」と言われていますが、なんて素敵な表現なんだと思います。

<2009-4-6>
 童謡「森の熊さん」に出てくる女の子の、「あら熊さん、ありがとう。お礼に歌いましょう」も自意識過剰ですが、「アルプスの少女ハイジ」の、「あの雲は何故、わたしを待ってるの」も、かなり自意識過剰です。
 自分中心に世界が回っていると思ったら、大間違いです。

<2009-3-15>
 アイロンは熱いという教育だけは、どの家庭でも成功していることが不思議でなりません。
 家電には、原理がなんとなく判るものと、全然判らないものがありますね。
 例えば石油ファンヒーターなんかは、石油を燃やして、その熱をファンの力で拡散しているんだなぁと、素人でも想像できます。
 一方、テレビが何故映るのかは、少し難しくて、電波に映像がのっているわけですが、どうやったら電波に映像がのるのかとか、そもそも電波ってなんなのかとか、理解しなければいけないことがファンヒーターに比べればとても多いです。
 これが携帯電話になると、更に難しくて、基本は電波に声がのっているのだろうけれど、大勢の人が使っているわけだから、周波数はどうなっているのかとか、さっぱり理解できません。
 技術が進歩すればするほど、原理がすぐには理解できない製品が増えていって、使用する方も、もはや理解することを諦めてしまっているように思います。
 原理が判るって、とっても大切なことです。
 原理が判るからこそ、うまく動かないときに何がいけないのか想像がつくし、間違った使用をして事故を起こすこともなくなります。
 アイロンというのは、ハイテクに汚染されずに残っている、数少ない牧歌的家電のひとつだと思いますが、このまま時代が進んで、「家電の原理が判らなくて当たり前」という時代がやってくると、原理を知ろうとする気持ちが衰えて、アイロンでさえ、どういう原理で皺をのばすのか、理解していない人が増えていくのかもしれません。
 よく判らないけれど、電源を入れて、布にアイロンを押し当てると皺がのびる、という理解をする人が出てくるのではないかと。
 つまり、「熱」が皺をのばすファクターであることが、理解の上で飛ばされる可能性がある。
 もちろん、使用する上で「熱」を感じるはずですから、使っている人は否が応でも原理を知ることになるのかもしれません。では、それをそばで見ている子供はどうでしょうか。
 アイロンが皺をのばすための機械であることは理解するでしょうが、それが熱せられた鉄によるのだということを知らないし、教えられても理解できず、興味も持たない。親も家電の原理なんて興味がないから、「熱いから触ったら駄目よ」的な、子供がすぐに忘れてしまうような形の命令しかできない。
 そうなると、アイロンで火傷をする子供も激増しそうですが、今のところ、そのような気配はありませんね。
 万引きは悪いことだとか、電車ではお年寄りに席を譲るべきだという教育には失敗しても、「アイロンは熱い」という教育だけは、どの家庭でも成功しているわけです。
 親の言うことを聞かない子供も、好奇心旺盛な子供も、反抗的な子供も、「アイロンは熱いから触ってはいけない」という親の命令だけは守っている。
 何でこんな話を書いているかと言うと、「電気アイロンでやけどをする事故が2003年度以降、5年間で165件発生しており、このうち77%は10歳未満のこどもである」というニュースを読んだからです。
 僕はこのニュースを読んで、小さな衝撃(形容矛盾・笑)を受けました。
 このニュースは恐らく、アイロンが意外に危険であるし、事故も多発しているのだ、ということを訴えたかったのだろうけれど、僕の受けた印象は、「たったそれだけ?」というものでした。
 5年間で165件ということは、1年間に33件です。1ヶ月では3人以下です。
 アイロンと言うのは恐らく、最も危険な家電だと思います。
 安全対策なしに、むき出しの高温の鉄板が立てかけてあるのですから。
 ちょろちょろ走り回る子供のいる中にそんな物が置いてあることを考えれば、この事故件数の少なさは、ほとんど奇跡にすら感じられます。
 「アイロンが熱い」教育成功の神秘は、「望遠鏡で太陽を見てはいけない」教育成功の神秘に匹敵するほど、不思議でならないのです。

<2009-3-8>
 僕はラジオを聴くのが大好きです。
 学生の頃から好きだったかというと、全然そんなことはなくて、突然ラジオに目覚めたのは2002年くらいだったと思う。
 好きな芸人のラジオを聴きたいなと思ったことがきっかけで、当時はMDに予約録音をして聴いていました。
 ただ、ラジカセでは予約が2件しかできなかったし、MDを入れ替えるのも管理するのも面倒だし、車の中でしか聴かなかったので、録音する番組は週に2つくらいでした。
 その後、テレビを簡単にレコーダーに保存できるように、ラジオももっと簡単に録音・管理できないかとネットで検索すると、フリーソフトでできそうだということが判明。使っていなかった古いパソコンをラジオサーバー用に仕立て上げ、ラジカセのヘッドフォン端子からパソコンのマイク端子にコードを繋ぎ、ラジオをパソコンで録音するようになりました。
 快適さは格段とアップし、録音した番組はいつでもパソコンで聴けるし、MP3プレーヤーに転送すれば、外でも、車の中でも聴くことができます。
 録音する番組も日ごとに増えて、毎週10時間分くらいの番組を録音するようになりました。(いくらどこでも聴けるからと言っても、この量は到底消費できる量ではなく、録画したテレビ番組がレコーダーのHDDに溜まっていくのと同じ様に、聴かない番組がパソコンの中にどんどん溜まっています。w)
 ラジオを好きなときに聴けるようになると、生活が少しだけ変化します。
 出かけるとき、車でも歩きでも、以前は音楽を聴いていましたが、今はもっぱら録音しておいたラジオを聴いています。
 番組はいくらでもありますから、飽きることもなく、思いがけない情報に出逢えたりして、移動中が楽しくなりました。

 ここ数年、USBに接続するラジオチューナーが発売されるようになりました。
 僕がラジオをパソコンで録音しようと思った当時は、そのような製品はほとんどなく、仕方なくラジカセを繋いでいましたが、その頃から、USBラジオチューナーがあって、直接予約録音ができたらさぞかし楽だろうなぁと思っていました。
 今は苦労して作ったシステム(というほどでもありませんが)が快適に番組を録音してくれていますので、改めて買おうとは思わなかったのですが、現状に不満がないわけではありません。何より、今のままでは場所がもったいないのです。ラジオ録音のためだけに、パソコン一台とラジカセを置かなければなりません。仕事用のパソコンで録音できれば良いのですが、マイク端子に入力している関係上、システムのボリュームを変化させるだけで、録音される音が割れたり小さくなったりしてしまいますし、録音中はパソコンから音が流れてしまいますので、兼用できないのです。また、新しい番組を予約するのも非常に面倒で、まずはラジカセの予約を行い、次に録音ソフトの予約、更には、タスクスケジューラでスリープから復帰するように設定する必要があります。ラジカセの予約件数は相変わらず少ないので、「毎日」のような設定をすることになり、予約したくない日や時間まで、ラジカセの電源が入り続けており、ちょっと気持ちが悪いし、自由度が低いのです。

 ものすごく前置きが長くなりましたが、先日、念願のUSBラジオチューナー、プリンストンPCA-RCUを購入しました。
 これがもう、今までの苦労が何だったのかと思うくらい快適で、パソコンのUSBに接続するだけで、ラジオが録音し放題なのです。
 「AMFMラジオ録音さん」と組み合わせると、まるでテレビのレコーダーのように、番組表をクリックするだけで予約が完了。タスクスケジューラでスケジュールしなくてもスリープから復帰可能ですし、録音中に音もなりません。これで古いパソコンとラジカセを片付けられます。
 これから更に快適なラジオライフがおくれると喜んでいたところ、「松本人志の放送室」が終了してしまうというニュースを聞き、とても残念です。松ちゃんの話はテレビで聞けるとしても、高須ちゃんとの会話を聞けなくなるのが寂しいなぁ。 

 ラジオの良さって、テレビと違い、何か作業しながらでも楽しめるところにあると思うんですよね。
 ラジオなんてほとんど聴かない、と言う人は多いと思いますが、移動中や仕事中に音楽を聴く習慣のある人は、USBラジオチューナーで新しい世界を開いてみてはいかがでしょうか。
 映像がないせいか、ラジオの中の世界はのんびり時間が流れており、人間味があります。
 誰がこの番組を聴いているんだろうって考えると、変な一体感みたいなものを感じて、それがまた、とても良いです。

<2009-3-4>
 直接暗示はすぐに解けるけれど、間接暗示に失敗はない、というような考えを持っている専門家は非常に多いですが、それは大きな間違いです。
 もし、催眠をどこかで習っている人で、先生がそう言っていたとしたら、その先生は催眠を全く理解していません。
 また、催眠療法を受けていて、セラピストがそういう説明をしていたとしたら、そのセラピストも催眠を全く理解していません。
 間接暗示だって場合によってはすぐに解けるし、直接暗示だって強力に作用することは多いです。
 きっと、直接暗示は失敗すると格好悪いし、解けたかどうかもはっきりしてしまうので、催眠が下手な専門家は使いたがらないし、それ故、生徒やクライアントにもそう説明するし、自分でも、その考えが正しいと信じたいのでしょう。

 そもそも、直接暗示と間接暗示って、何でしょうか?
 例えば相手にリラックスして欲しいとき、「3つ数えるとあなたはとてもリラックスします」というような言い回しで暗示する方法を、直接暗示と言います。「それは暗示ではなく、明示だ」と言う人もいますが、僕は明示と言うのは、「3つ数えたらリラックスしてください」というようなものだと思いますので、やはり、暗示と呼んでいいと思います。
 一方、「そう言えば先月、軽井沢に旅行へ行ったんですよ」と何気なしに、軽井沢の美味しい空気や、爽やかな風、青い空なんかの話をすることで、相手のリラックス感を喚起する方法を、間接暗示と言います。
 なるほど、確かに間接暗示の方がスマートですね。
 でも、軽井沢の話で相手が本当にリラックスするかどうかは未知数です。もし相手が、軽井沢に嫌な思い出があったとしたら逆効果ですから、間接暗示に失敗はない、と言う考え方はナイーブ過ぎます。そして仮に相手がリラックスしたところで、その状態がずっと続くわけでもありません。失敗が少なくリラックス出来たということは、他の間接暗示にも失敗が少なく反応してしまうということですから、当然、いつかは解けます。むしろ、そういった意味では、誘導した人が暗示を解くまでその状態が続く可能性がある直接暗示の方が、解けにくいとさえ、言えるのではないかと僕は思います。

 誰か好きな人に、その気持ちを伝えることを想像してみてください。
 直接暗示とは、目を見つめて「好きだよ」と告げるようなものです。
 一方、間接暗示とは、花を贈ったり、親切に接したりするようなものです。
 気持ちを伝える上で、どちらの方法がより優れていると思われますか?
 いくら言葉で「好きだよ」と告げられたところで、行動が伴っていなければ、気持ちは伝わりません。
 同様に、いくら行動で示したところで、「言わなくても解ってくれるはず」と何も告げないのは、独りよがりだと思います。その行動が的外れだという可能性だってありますし、やはり、はっきりと言葉で伝えてくれるのは嬉しいものです。
 好きな気持ちを直接的に伝える方が相手に伝わるのか、間接的に伝える方が伝わるのか、という議論は不毛ですよね。
 それは相手との関係にもよるし、タイミングにもよる。
 意外な優しさに心が揺れることもあれば、意外な告白にグッと来ることもあるのです。
 暗示もそれと全く同じことだと思います。

 間接暗示がもてはやされるようになった原因のひとつは、それがアメリカ由来だということもあると思います。
 アメリカ人は、日本人よりもストレートに感情を表現しますし、気持ちを伝え合います。気軽に「I Love You」が言えてしまうのです。ですから言葉はいつもインフレ気味。
 だからこそ、間接的な表現に影響されやすいのかもしれません。
 伝統的な催眠からエリクソンの催眠に急速にシフトして行った背景には、そのような国民性が大きく関係しているように思われますし、大きな効果を実際に生んでいるのも、国民性の影響は大きいと思います。
 一方、日本人は感情をなかなか表に出さないかわりに、行動から気持ちを読みあう民族です。それ故、普段から「I Love You」が言えない分、ここぞという時のストレートな表現が、驚くほどの効果を生むのかもしれません。
 間接暗示を無理に使ったところで、日本人はその意図を読み取ってしまう可能性がありますし、読み取れないまでも、不審に思う可能性もある。むしろはっきり伝えた方が安心する場合が多いのではないでしょうか。

 アメリカでは最先端だから、という理由だけで、日本人にそのまま有効だと考えるのは短絡的だと思います。
 エリクソンは僕も大好きですし、現代催眠もNLPも素晴らしい技術だと思いますが、そればかりをありがたがっている昨今の風潮は、何だか木を見て森を見ていないような気がしてなりません。
 まぁ、個人的には、みなさん、どんどん現代催眠に行っちゃってください、と思っています。伝統的な催眠や直接暗示は捨てちゃってください、と。
 ジャイアント馬場が、格闘技の隆盛をみて、「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」という名言を残したのと同じ様に、伝統的な催眠は僕が独占します。(^^)

<2009-2-27>
 明日の、催眠体験会ですが、あと1名参加できます。
 目を閉じて、ひたすら心の中を旅する1時間となります。
 ご興味のある方、是非ご参加ください!!

<2009-2-25>
 脳機能学者、苫米地英人氏の本は2冊しか読んだことがなかったのですが、Amazonの『努力はいらない! 「夢」実現脳の作り方』のカスタマーレビューがあまりにも良かったので、思わず注文してしまいました。
 苫米地氏と言えば、以前読んだ本の「気」についての考え方が、ちょっとトンデモ系な感じがして、それ以来避けていたのですが、最近の著書はどうなのか、とても楽しみです。
 それにしても、Amazonでカスタマーレビューにいいことが書いてあると、無性に欲しくなりますね。
 ある種、「友達のジョン話法」みたいな効果があるのでしょう。

<2009-2-20>
 ゆず(雑種猫・1歳・メス)は、ときどき写真のように、両手を広げてぺたーっとしていることがあります。
 カーペットの上でもぺたー。椅子の上でもぺたー。ベッドの上でもぺたー。
 最初はスフィンクスのように座っているのですが、気がつくとぺたーっとして、眠っていることもあれば、「つまんないなぁー」という顔をしていることもあります。
 マロンがぺたーっとしていることはほとんどないので、ゆずお得意のポーズなのかもしれません。
 ゆずにはもうひとつ、「猫マフラー」という得意技(?)があって、抱き上げて首の後ろにマフラーのように巻きつけると、そのままダラーンと体重を預けて、マフラーになってくれます。
 マロンも出来るかと思ってやってみたら、マロンは暴れて駄目でした。
 最近、ようやく自分で部屋のドアを両方向とも開けられるようになって、まだまだ成長中みたいです。

<2009-2-17>
 「R-1ぐらんぷり」を観ました。
 バカリズムは、「ネタ職人」の名の通り、無から有を作り出すような発想でとても面白かったです。
 あのまま優勝できなかったのは残念でした。
 個人的には今年のR-1には、ゴー☆ジャスが出るんじゃないかと期待していたのですけどね。 

<2009-2-16>
 2月28日(土)に、催眠体験会を行ないます。
 カウンセリングも、悩みに特化した暗示もありませんが、時間いっぱい、ひたすら心地の良い催眠状態を体験していただければと思っています。
 定員が少ないので、早い者勝ちです。
 お昼寝しにいらっしゃる感覚で、是非、いらしてください!

<2009-2-13>
 「とてもつもない日本のはっぱ隊」と言う動画を観ました。
 何故、世界中の人がこの歌を知っているのかとても不思議。
 そして、意味なんて解らないだろうに、みんなで踊っているのが更に不思議。
 久しぶりに観ましたが、笑いよりも、何故か胸が詰まって涙が……。

<2009-2-12>
 マイ・フレンド・ジョン テクニック(my friend John technique)のことを、何かの本で、「友達のジョン話法」と訳しているのを以前に読んだ気がして、以後、僕はこのテクニックのことを「友達のジョン話法」と呼んでいました。
 心理学用語でもコンピューター用語でもNLPの用語でもそうなのですが、僕は英語をそのままカタカナで表記している用語があまり好きではありません。日本語にはせっかく「漢字」という表意文字があるのですから、読むだけで内容を連想できる訳語があった方が、本を読むのでもひっかからずに済むと思っています。訳語を考えずに、そのままカタカナにしてしまうのは、ある意味、翻訳者の怠慢ではないかと。
 というわけで、「マイ・フレンド・ジョン テクニック」は、「友達のジョン話法」と呼んでいたのですが、googleで、「"友達のジョン話法"」と、ダブルクォーテーションつきで検索すると、うちのページしか表示されません。
 あれ? なんで??
 もしかしたら、どこかで読んだというのは勘違いで、勝手に自分で訳して使っていたのかな?
 でも確かに、エリクソン関係の本を読んでいて、「友達のジョン話法」っていう訳が出てきたと思うのだけれど……。
 どなたか、「友達のジョン話法」という訳語が出てくる本をご存知の方がいらっしゃいましたら、こっそり教えてください。
 関係ないけど、僕の友達のジョンが、一風堂のラーメンはとても美味しいと言っていました。(^^)

<2009-2-10>
 佐野元春がアンジャッシュのコントを見たら、「すれ違いのありふれたコメディ」って言いそうです。

<2009-2-7>
 「ありふれた奇跡」第五話を観ました。
 以前は否定的ダブルバインドを中心に、加奈のコミュニケーションや、それに対する翔太の反応について書きましたが、今回は、短い会話の中に、分離法、驚愕法、友達のジョン話法、治療的ダブルバインド、ドアインザフェイステクニックなど、多くのテクニックが凝縮されたシーンがありましたので、ご紹介したいと思います。

加奈 「気になってたの」
翔太 「何するか判らない人だな」
加奈 「謝った方がいいと思って」
翔太 「あのときの俺にとっては、あれがベストだった」
加奈 「でも、謝った方がいいと思った」
翔太 「解るけど……」
加奈 「片がつくことは、片をつけておきたいの」
翔太 「うん」
加奈 「片がつかないことがあるでしょう。片をつけたくても」
翔太 「うん」
加奈 「だから、片がつくことは片をつけておきたい」
翔太 「うん」
加奈 「そうじゃないと、ストレスでいつの間にかへたばってくる」

 これは、翔太の作業着が原因で言い合いになった喫茶店の店長に、加奈が謝罪した直後の会話です。
 翔太にしてみれば、加奈に登らされた梯子を外された格好ですから、多少は複雑な心境だったのでしょう。「あのときの俺にとっては、あれがベストだった」と、自分はそんな気にはなれないことを告げていますし、加奈が謝ったことについて、「解るけど(謝る必要なんかないのではないか)」と、納得していない様子です。
 加奈は「片がつくことは、片をつけておきたいの」と、自分の行動について説明しています。
 これは分離法の一種だと思います。
 分離法とは、本来、ひとつに見えているものを、あえて分離させることで、相手に受け入れやすくさせるテクニックです。
 第二話でも解説しましたが、例えば、相手の「気持ち」が自分の気持ちと違う場合に、気持ちが違うことは認めつつ、「でも本心はそうではないんじゃない?」と言うことで、「気持ち」と「本心」を分離し、例え「気持ち」は違っても、「本心」は私と同じ意見なのだ、と相手に認めさせるような方法です。
 つまり加奈は、店長に対する「悪かった」という気持ちもなければ、自分のしたことに対する後悔もないけれど、「(形だけ謝ることで)片がつく(=今後もこの店を利用できるようになる)ことは、片をつけておきたいの」です。
 謝ってはいるけれど、それは形だけのこと、片をつけただけのことなのだ、と。
 このように分離法を使われることで、翔太は加奈の行動に納得せざるを得ないのです。

 翔太は「うん」と納得しているのですから、この話はここで終わっても良かったはずですが、加奈は「片がつかないことがあるでしょう。片をつけたくても」と話を続けます。
 加奈はここで、「片がつかないことがある」とわざわざ強調することで、店長の話から、自分の中にある「片がつかないこと」に話をシフトしようとしています。しかし彼女は決して、自分からその「片がつかないこと」の話をしようとはしません。翔太の方からそれについて質問するのを、じっと待っています。
 一緒にいる人が、「最近寝てないんだぁ」「睡眠時間が足りないと、疲れるよね」「本当はゆっくり眠りたいんだけれど」などと言っていたら、「どうして眠れないの?」と質問すると思います。本当なら、自分から眠れない理由を話してくれればいいのですが、自分からは決して理由を言わず、ただ「理由を聞いて欲しい」オーラを出しまくる人は結構いますね。
 加奈もここで、それと同じことをしています。どうしてそんな回りくどいことをするのでしょうか。
 実は、「どちらがその話題を始めたのか」というのは、相手と自分の上下関係を決める上では、とても重要なことなのです。
 例えば、「自分の趣味」について話すとしても、自分から「私の趣味はね」と話し始めるのと、相手の「あなたの趣味は何ですか?」という質問を受けて答えるのでは、意味合いが全く違います。前者は相手の方が立場が上ですし、後者は自分の方が立場が上です。つまり、自分から話しはじめた方、もしくは、質問している方が、立場は下になるのです。逆に、話を聞かされる方、質問される方は、立場が上になります。
 初対面の相手といるとき、どちらも話しかけないで気まずく沈黙してしまうことがありますが、これは、緊張しているからだけでなく、上下関係がグレーな段階で、自分から話しかけることでわざわざ自分の立場を下げたくない、と無意識的に思っているからでもあります。
 加奈は翔太に、「片がつかないこと」について質問させることで、自分の立場を上に置こうとしています。
 この「立場が上」というのは、上になれば良いという単純なものではもちろんありません。愛する人と愛される人では、愛する人の方が立場は下ですが、愛する人の方が幸せな場合は多々あります。
 加奈は人と接するとき、自分の立場を上に置き、絶えず自分が状況をコントロールできないと、不安で仕方がないようです。

翔太 「何?」
加奈 「ん?」
翔太 「片がつかないことって」
加奈 「結婚したら……」
翔太 「結婚?」

 翔太は、加奈の思惑通り、片がつかないこととは何のことなのか、質問をします。
 この、加奈の「結婚したら……」ですが、驚愕法(混乱法)と呼んで良いと思います。
 驚愕法とは、びっくりすると頭が真っ白になり、一時的に周りの影響を受けやすくなるという人間の性質を利用した、暗示を入れる方法です。
 頭が真っ白になると、正常な状況判断ができず、次にどんな行動をすれば良いのか判らなくなってしまうことがあります。そんなときに、近くにその状況に飲まれていない人がいたら、自分の頭は使い物にならないわけですから、その人の頭(状況判断能力)をそのまま借りて、状況に対処しようとします。その人に対して無批判になるし、主導権をそっくり預けてしまいます。
 見知らぬ外国でトラブルに見舞われたら、現地に長く住んでいる友人の意見には何でも従います。オレオレ詐欺で、家族のふりをしている犯人の「事故をおこした」「警察に捕まった」という言葉を信じてパニックになったら、言う通りにお金を振り込んでしまいます。これらはすべて、主導権を相手に預けた結果です。
 ついこの前まで、加奈は翔太に対して「デートではなく会いたい」と、恋人になることを拒否していました。それが突然、恋人を通り越して結婚ですから、翔太は相当驚いたはずです。翔太の頭は一時的にオーバーロードし、立ち直るのに時間がかかります。そして加奈は、翔太の頭の復旧をまたずに、矢継ぎ早に次のしかけをしていくのです。翔太は加奈に、影響され、無批判になり、主導権を握られます。

加奈 「仮によ。仮に、誰かと結婚したら」
翔太 「うん」

 「仮に、誰かと結婚したら」という言い方は、友達のジョン話法(マイ・フレンド・ジョン テクニック=my friend John technique)の一種です。
 友達のジョン話法というのは、自分の意見を、まるで他人の意見や体験のように言うことで、相手に否定できなくさせるテクニックです。
 例えば、「○○さんって、歌が上手いよね」と言われたら、○○さんは謙遜して「そんなことないですよ」と否定することができます。しかし、「僕の友達のジョンが、○○さんは歌が上手いって、感心してたよ」と言われたら、○○さんはそれを否定することはできなくなります。○○さんを褒めているのは僕ではなく、ジョンなわけですから、否定のしようがないのです。
 ここで加奈が、「私と結婚したら……」という話をしたとしたら、翔太はその会話に、ストップをかけることも出来たはずです。結婚の話をする前に、この関係は一体何なのか、もう先に進んでも良いのか、その準備は加奈にできているのか、翔太には確認したいことがたくさんあるからです。
 しかし加奈は、「誰かと結婚したら」と仮定することで、これらの質問をすべて回避しています。そして、回避しつつも、自分と結婚することを翔太にイメージさせることで、それを暗示しているのです。

加奈 「子供、6人は多すぎる?」
翔太 「6人?」
加奈 「じゃあ、5人は?」
翔太 「5人て、そんな甲斐性、俺ないし」

 「子供、6人は多すぎる?」というのは、治療的ダブルバインドです。
 「結婚したら、子供は欲しい?」という質問だったら、翔太は、子供が欲しいのか、欲しくないのか、欲しいとしたら、何人欲しいのか、自分の思ったことを答えることができたと思います。
 しかし、「子供、6人は多すぎる?」という質問は、子供が欲しいか、欲しくないか、ではなく、6人は多いか少ないかを聞いていますので、子供を作ることが前提になっています。つまり、この質問に、YESと答えても、NOと答えても、翔太は子供が欲しいことを認めることになるのです。
 更に、「6人」というのは、ドアインザフェイステクニックにもなっています。
 ドアインザフェイステクニックとは、わざと大げさな提案をし、それを相手に否定させることで、相手に罪悪感を感じさせ、こちらの本当の要求を飲み込みやすくさせる方法です。
 それほど親しくない会社の同僚に、「どうしてもお金が必要だから、10万円貸して欲しい」と頼まれたとします。10万円はちょっと貸すことができない、と断った後、「ならば、5千円でもいいから貸して欲しい」と言われたら、さすがに2回連続では断りにくいですよね。そして、「5千円くらいなら」と貸してしまうのではないでしょうか。
 実際この後、翔太は「3人くらいなら何とか行けそうな気がする」と言っています。「でもこういうことは相手のある話だし、産むのは俺じゃないんだから、その人次第で、5人でも6人でもいい。子供、嫌じゃないし、俺は一人っ子で淋しかったから、子供は兄弟がいた方がいいと思ってる」と、子供を多く持つことに対し、積極的にさえなっているのです。

 加奈は子供を産むことができません。
 「罠にかけたようになって、ごめんなさい」と自分で認めているように、加奈は子供が産めないのに、「子供、6人は多すぎる?」と、翔太に鎌をかけていたのです。
 彼女は翔太に「子供がたくさん欲しい」と言わせることで、何がしたかったのでしょうか?
 この後のメールで加奈は、「子供を産めないこと、どうってことないって言ってくれたの、嬉しいけど、子供が好きで、5人でも6人でもいいとも言ったんですよ」と、翔太を責めています。でもこの主張は間違いです。翔太は自分の意思で「5人でも6人でもいい」と言ったわけではなく、加奈の誘導尋問でそう言わされたのです。そして、彼は一度も「子供が好き」とは言っていません。「子供、嫌じゃないし」と言ったのです。それがいつの間にか、加奈の中では「子供が好き」にすり替わっているのです。

 加奈は、そんな必要は全くないのに、わざわざ翔太に失言をさせて、それを責めることで、改めて二人の関係の主導権を握ろうとしているように思えます。
 もちろん、誘導尋問を潜り抜けて、「俺は子供なんて欲しくない」と翔太が答えることを、加奈は初めから期待していたのかもしれません。(ただ、これだけの心理誘導を使われては、例えその気がなくても、「いずれは子供が欲しい」くらいのことは言ってしまうと思います)
 もしかしたら加奈は、自分でも自分が何をしたいのか、何を求めているのか、判らないまま、結果的に翔太を翻弄しているのかもしれません。

 いずれにしても、興味深いのは、恋人ですらない二人が(事実はどうであれ、二人の間では、恋人ではないということになっています)、恋人になることや、結婚することを飛び越えて、子供のことでぎくしゃくしている、ということです。
 そして、この状況自体が、大きな意味での治療的ダブルバインドになっています。ふたりはすでに「きれいだとか、そういうこと言う付き合いじゃない友達」では決してありません。恋人かどうかなどはすでに話し合いの議題にもならず、結婚するかどうかを考えていく段階、いや、それさえ通り越して、「片をつけられない問題」に対し、ふたりでどう折り合いをつけて一緒に生きていくのかを考えていく段階に来ているのだという空気が、二人の間にはあって、翔太は好むと好まざるとに関わらず、この状況から逃げ出すことすらできなくなっているのです。
 この空気は、すべて加奈によって作られたものです。
 加奈はまるで、自分で勢力や行き先を決める事の出来ない台風のように、翔太を有無を言わせず巻き込み、進んでいるように見えます。
 観ていてちょっと恐ろしいのは、翔太のまっすぐな気持ちに比べると、いつまでたっても、加奈の気持ちは気まぐれに見えてしまうところです。
 そこに巻き込めるものがあったから巻き込んでみた、誰でも良かった、そんな雰囲気がいつまでも消えないのは、彼女の美しさ故でしょうか。
 加奈が、救いを求めているのは確かです。
 しかしこのままでは、こんなにも優しい翔太でさえ、加奈を救えないかもしれないし、加奈が救われないだけでなく、翔太まで一緒に落ちて行ってしまうのではないかと思いました。

 本来、この人生は、すべて自分のものです。
 どんな風に生きても自由。どんな風に生きなくても自由。
 やりたいことは何でもやっていいし、やりたくないことは、何もする必要はないはずです。
 それが解っていても、自分の人生が、多くのしがらみや、逃げ出せない状況、理由なく背負わされている義務で埋め尽くされており、身動きが取れない現実に、呆然とすることがあります。
 もし、そのような閉塞感を感じている方がいらっしゃったら、自分が誰かの無責任な台風に巻き込まれていないか、考えてみてください。
 子供の話が出た途端に、翔太と加奈の関係が、翔太の意思とは関係なく、何段階も先に勝手に進んでしまったのと同じ様に、誰かによって作られた状況が、自分の心に勝手に刷り込まれ、自由な行動や発想を奪い、自分を行きたくない場所に行かせ、やりたくないことをやらせ、あたかもそれを、自分で選んでいるかのように錯覚させる。
 そんなことが起こり得るのだということを、是非、覚えておいてください。

 どんなに心地よい関係においても、いつでも逃げ出せる「非常口」を作っておくことは、自分を守るために必要なことだと、僕は思っています。

<2009-2-6>
 「○○さんは、△△について、『□□モデル』という独自の理論を展開」みたいな文章をときどき読みますが、この「独自の理論を展開」という表現をするとき、ライターは、心のどこかで○○さんのことを、少しだけ馬鹿にしているというか、批判しているというか、上から目線なのではないかという気が、しないでもありません。
 「独自」というのは、悪意を感じるか感じないかの、ギリギリのラインだと思います。

<2009-2-4>
 「森の熊さん」を筆頭に、童謡には理不尽な歌が多いですが、「およげ!たいやきくん」もちょっと理解しがたい歌ですね。
 歌の最後で、この「たいやきくん」は、釣り上げられ、おじさんに食べられてしまいますが、これ、歌っているのは「たいやきくん」ですよね?
 「ぼくを うまそに たべたのさ」って、誰目線なんだろう?
 食べられちゃった後に、霊的な存在でこの曲を歌っているのでしょうか。

<2009-2-3>
 森を歩いていて、泉に間違ってPerfumeを落としてしまい、泉の精が現れて、「あなたの落としたのは、金の のっち ですか? それとも銀の かしゆか ですか?」って聞かれたら、「いいえ、私の落としたのは、普通の あ〜ちゃん です」と答える自信は、僕にはありません。(^^;;
 そうです。僕は断然、のっち派です。(^^)

<2009-2-2>
 眠るって、よく考えると、とても不思議なことですね。
 生まれたときから毎日寝ているので、当たり前のことのように感じますが、「数時間意識がなくなって、その間に仮想現実を体験している」というのは、言葉にすると、とてもオカルト的で非科学的に聞こえます。
 しかもそれを、自分の意思でコントロールすることすらできないのです。
 眠りと覚醒の境を見極めることすら、自分ではリアルタイムにできないのです。
 眠ると疲れが取れて元気が回復するというのも、お腹が減って食べ物を食べることに比べれば、メカニズムを直感的に理解しにくいです。
 夢を観る、というのもとても不思議。
 覚醒しているときは、「これは夢ではなくて、自分の人生だ」と断言できますが、夢の中でもなかなか「ははーん、この展開、これは夢だな」とは気づけませんから、夢を観ているときも、ほぼ、それが現実だと思っているわけです。
 僕は心のどこかで、いつかこの人生から目覚めて、本来の生活に戻る日が来るんじゃないかと、そんな気持ちになることがあります。

<2009-1-31>
 今日はカウンセリングルームで「Derren Brown研究会」というのを開催しました。
 Derrenのパフォーマンスだけでなく、「ありふれた奇跡」の加奈のコミュニケーションのとり方、Perfumeの「チョコレイト・ディスコ」のPV、40年間じゃんけん無敗のママのじゃんけんしている映像、怪しい(?)気の映像など、いろいろな動画を観ながら、それらに使われている心理誘導を、判る範囲で解説させていただきました。
 口で理屈を説明するのは簡単ですが、実際にそれらがどれくらい有効なのか、次回からは少しずつ、実験的なこともしていけたらと思っています。
 今日、一番びっくりしたのは、参加者のほとんどの方が、「気」がある、と信じていらっしゃったことです。
 僕自身、「気」の存在については、どうしても催眠的視点でみてしまうので、限りなく懐疑的なのですが、結論を急がず、もう少し、研究会で議論してみたいと思っています。
 参加者の皆様、お疲れ様でした。
 これに懲りず、また遊びに来てくださいね。(^^)

<2009-1-28>
 吉祥寺の楳図かずおさんの自宅が「景観を破壊する」という理由で訴えられていましたが、無事、楳図さん側の勝訴で終わったようです。
 実際に吉祥寺を散歩しているときに赤白の建物を見ましたが、とても素敵なおうちでした。
 建築中から近隣住民に建設の差し止めを求められたり、完成したら訴えられたりと、せっかくの新居なのに、楳図さんもさぞかし気分が悪かったろうと思います。
 大江千里の「AVEC」という曲の歌詞を思い出しました。

 リビアで午後 始まった戦争は
 争いじゃなく隔たりじゃない
 よりそえぬ無邪気さのせい

<2009-1-27>
 今日は、クライアントさんと約束した、一日プチ断食の日です。
 体の中の老廃物が少しでも出て行けばなぁと思っています。
 食を断つと、その分、頭の回転が良くなるという噂を聞きますし、以前断食したとき、言われてみればそんな気もしました。(暗示?)
 今回も、クリアな頭で新しい発想が生まれないかと、期待しています。

<2009-1-25>
 RGがHGの真似をして出てきたときは、全く面白いとは思いませんでした。
 しかしその後、ラジオで滝川クリステルのモノマネをしているのを聞いて、「もしかしたらこの人には才能があるのではないか?」と思い始め、先日のリンカーンの「歌舞伎あるある」では大笑いしてしまいました。
 どんなにすべっても、嫌われても、彼には稀にみる心臓の強さがあり、「継続は力なり」を体現している人だと思います。
 誰にも認められなくても、とりあえず3年くらいは続けてみてもいいんだと、とても励まされました。

<2009-1-22>
 「ありふれた奇跡」第二話を観ました。
 第一話(まだお読みでない方は、こちらからお読みください)を観たときは、加奈のダブルバインドぶりにただただ、圧倒されてしまいましたが、回が進むにつれ、少しずつ、加奈や翔太が育ってきた環境がはっきりしてきた感じがします。
 翔太の家庭は、翔太、お父さん、おじいちゃんの3人とも、お互いにとてもストレートなコミュニケーションの取り方をします。もちろん、分かり合えないこともあるし、隠していることもあるのだけれど、基本は本心をぶつけあっていて、ぶっきらぼうな中に、人の温かさを感じます。
 一方、加奈の家庭は、加奈、お母さん、お父さんの3人とも、お互いにストレートなコミュニケーションができません。本当は理解して欲しいのに、本心を隠し、一見スマートで、問わず語らず理解しあえている風を装いつつ、実は皆が孤独を感じている。何と言うか、温かい感じがあまりしません。
 加奈が対人関係において、無意識的に自分を優位に導こうとするのも、会話の主導権を握らずにはいられないのも、全然引くことができないのも、この家庭の中で生きていくための術なのかな、と思いました。
 このドラマはフィクションのはずですが、ここまで人間と、その環境と、人間関係を描ける山田太一の表現力には、本当に驚かされます。

 今回も当然のように、加奈は否定的ダブルバインドを連発します。
 一番象徴的なのが、「デートじゃなく会いたい」という発言です。
 デートの定義ってなんだろう、ということにもなるのですが、あまり難しいことは考えず、年頃の男女が、完全なプライベートで約束して会うのは、それが恋人同士だろうが、そうでなかろうが、僕はデートと呼んでいいと思うし、少なくとも、誰かがそれをしてデートと思っているのであれば、自分はそうは思っていなくても、認めてあげても良いように思います。
 恐らく翔太から観ても、周りの人から観ても、待ち合わせて、ふたりでコーヒーを飲もうとしているその姿は、デート以外の何ものでもないのではないかと思うのです。
 しかし加奈は、きっぱりと「デートなんてしていません」と、それがデートであることを否定します。これはデートじゃないし、デートなんてしたくない。だけれど、会いたいし、私に関心があるのなら、私と向き合って欲しい、と。
 翔太にしてみれば、加奈の要求通りに会えばデートをすることになるし、会わなければ相手の要求を否定することになります。どちらを選んでも、加奈に否定される(否定的ダブルバインド)わけです。

 前回は、加奈がいかに、否定的ダブルバインドを連発しているかをご紹介しました。
 今回は、否定的ダブルバインドに直面すると、人はどのような反応をするのか、見て行きたいと思います。
 基本的には、否定的ダブルバインドに直面すると、人間はどうにかして矛盾した状態から、矛盾を取り除こうとします。その過程で以下のようなことが起こります。
 注意していただきたいのは、以下の反応は、すべて無意識で行なわれ、意識的にはそれが、あたかも本心であるかのように感じられる、ということです。(それ故、洗脳が容易に起こるのです)

1.<両方の命令が矛盾しない状況に身を置こうとする>
 例えば上司が部下を昼食に誘っている所を想像してください。

上司 「今日はわしのおごりだ。何でも好きなもの食わせてやるぞ。何を食いたい?」
部下 「ありがとうございます。……それでは、お蕎麦でも」
上司 「蕎麦か。昨日食べたんだよな」
部下 「そうでしたか。それでは駅前の居酒屋のランチはいかがでしょう?」
上司 「せっかくわしがおごると言っているんだ。遠慮するな」
部下 「はぁ。それでは……」
上司 「天ぷらはどうだ。天ぷら」
部下 「天ぷら、いいですね!」

 一見、何の問題もない会話に聞こえますが、この上司の発言は否定的ダブルバインドです。「好きなもの選べ」と言いながらも、部下が何を選んでも、それを否定しています。発言と行動が矛盾しています。
 部下にとって、「好きなものを選べ」という命令に従いつつ、上司に否定されずにすむ唯一の方法は、「上司の勧めた物が好きなものになる」ということです。
 先ほども書きましたが、この反応は無意識的に起こります。ですからこの部下は、天ぷらを選んだ瞬間から、本心で「自分は初めから天ぷらが食べたかったのだ」と思い始めます。否定的ダブルバインドの怖いところは、まさにここなのです。
 逆に言うと、「何だよこの上司、矛盾したこと言いやがって」と心の中で反論しながら、「天ぷら、いいですね!」と愛想よく合わせただけだとしたら、「自分は初めから天ぷらが食べたかったのだ」と思い込むことはありません。しっかり逃げ出せる状況があるので、否定的ダブルバインドは成立していないのです。

2.<どちらかの命令が無効になる状況に身を置こうとする>
 今度は上司が部下に、「仕事で起こった出来事は、些細なことでも報告しろ!」と部下に命令したとします。
 部下は命令通り、些細な出来事、ひとつひとつを報告しに行くと、上司は「こんな簡単なこと、わざわざ報告するな!自分で処理しろ!」と怒り出しました。
 そこで部下は、今度は簡単な案件は報告せず、自分で処理を始めます。しばらくすると、上司が席を通りかかり、「何故報告しろといったのに報告に来ないんだ!」と、怒り出します。
 報告しろという命令と、報告するなという命令が、矛盾しながら同時に出されているわけです。
 この矛盾から解放されるには、そもそも報告するものがなければ良いわけです。つまり、仕事がなければ報告自体がなくなる。
 となると、部下は、「病気になって仕事から離れる」という選択肢を選ぶかもしれません。
 もちろん自分の意思で病気になるわけではありませんし、仮病でもありません。
 無意識が本当に自分を病気にすることで、上司の「仕事で起こった出来事は報告しろ!」という命令を無効にでき、「報告するな!」の命令には従うことが出来ます。矛盾はなくなるわけです。

3.<どちらかの命令にのみ従うことで判断することを放棄する>
 「愛している」と口では言う恋人が、頻繁に暴力を振るう場合を想像してください。
 言語的メッセージと、非言語的メッセージが矛盾しています。
 「愛している」という言語的メッセージに応えようと思えば、愛を返すことになりますし、暴力という非言語的なメッセージに応えようと思えば、恋人から離れることになりますが、ふたつを同時にすることはできません。そこで、自分にとってより都合の良いメッセージにだけ応え、あとは考えることを放棄してしまうことがあります。つまり、愛しているという言葉にのみ固執し、暴力については目をつぶってしまうわけです。

4.<正解が判らないために相手に服従しはじめる>
 夫婦間で、奥さんが理由も言わずに怒った態度をとっていたとします。旦那さんが「何を怒っているの? 何か悪いことしちゃったかな?」と聞いても、「怒っていない」の一点張りで、理由を教えてくれません。だけれど、彼女の怒った態度はエスカレートするばかり。
 怒っている事実を認めてくれないことには話し合いが始まりませんし、ご主人は、その怒りの原因が自分にあるのか、他にあるのかさえ判りません。
 そういった状況が続くと、ご主人は不安感が募っていきます。
 もし、奥さんに内緒にしていた後ろめたい思いがあれば、それがばれたのかもしれない、と不安になりますし、何も後ろめたいものがない場合、もしかしたらあれについて怒っているのではないか、これが嫌だったのではないか、などと、勘ぐりはじめます。
 そしてどちらにしても、奥さんの怒りに堪えられなくなった時点で、旦那さんは、心当たりのあることも、ないことも、白状し、謝りはじめます。もしかしたら奥さんの怒りと何の関係のないことにまで、許しを請うようになります。
 これは犯人に自白させるテクニックに通じるものがあるのですが、人間は、辛い状況から抜け出したいとき、抜け出す条件や、自分が何を求められているのか、判らなければ判らないほど、多くの情報を自ら与えようとする傾向にあるそうです。下手な鉄砲数打ちゃ当たる、という心理になるのかもしれません。

 話を加奈と翔太に戻しましょう。
 「デートじゃなく会いたい」と言われた翔太は、作業着で加奈に会うという行動に出ます。
 この行動には、上記の4つ、すべての側面があると思われます。
 作業着の自分を見せることで、(1)自分自身に対して「自分は加奈とデートできるような人間ではない」ということをはっきりさせ、「デートではなく会う」ことを可能にしようとしているのかもしれませんし、もしかしたら、(2)作業着の自分を加奈が見て、「会いたい」という気持ちがなくなることを期待していたのかもしれません。また、作業着とは直接関係はありませんが、(3)「会いたい」という命令に単純に従うことで、これがデートかどうかや、今後の二人の関係がどうなるかなどを考えることを放棄しているようにも見えます。更に、(4)本当は隠しておきたかった自分の職業を、自ら話し始めています。
 このときの台詞も観てみましょう。

翔太 「でも、おたく立派で、ご家族も華やかで」
加奈 「ちっとも」
翔太 「とても違いすぎて、勝負にならないと解って」
加奈 「何の勝負?」
翔太 「育ちとか、生活とか」
加奈 「違うといけない?」
翔太 「いや、だから、こうやって会うのはいいんだけれど」
加奈 「うん」
翔太 「きれいだとか、そういうこと言う付き合いじゃなくて、ただ、その、会うというか……」
加奈 「友達として?」
翔太 「あぁ、そう。そういうことなら、会ってもいいというか」
加奈 「そのつもりだけど」
翔太 「あは、もちろん」
加奈 「それ以上の感情は、まだ無理でしょう」
翔太 「あぁ、だから、その、まだとかいうこともなしで、ずっと、その……」
加奈 「友達で?」
翔太 「そう」

 短い会話ですが、興味深い点がいくつかあります。
 まず、加奈の発言に注目してください。一連の会話の中で、加奈が翔太に気持ちよく同意したのは、相槌のような「うん」1回きりです。後は全て、質問で返すか、否定で返すか、自分の意見を言っています。
 誰かに言葉を投げるとき、打ち返してくれることを期待することももちろんありますが、反対に、しっかりと受け止めて欲しいときも多いと思います。
 しかし加奈は、基本的にこの「受け止める」ということをしません。だから会話にちぐはぐな感じがあるし、相手は疲れていくのではないかと思います。
 そしてこの、「相手の言葉を受け止めない」会話術が、結果的に自分を優位な立場に導いてくれることを、どうも加奈は本能的に知っているようです。
 唯一「うん」と答えたのは、翔太の「会うのはいいんだけれど」という発言に対してのみです。
 これは一種の飴とムチで、何度も否定されたり、理解されなかったりを繰り返された後で、このようにポンと肯定されると、肯定された出来事だけが必要以上に特別に感じられるようになります。例えば美術の授業で絵を描いて、教師から散々駄目だしをされた後、「でもあなた、配色だけは悪くないわね」って褒められたら、その人の中に「自分は配色は上手いのだ」という価値観が植えつけられます。
 それと同じで、加奈は巧妙に、基本は相手を否定しつつ、自分にとって利益になることだけピンポイントで肯定することで、相手のその気持ちをより強固にしようとしています。

 この会話で面白いのは、加奈が言っていた「デートじゃなく会いたい」という提案に、翔太は、「じゃあそうしましょう」という感じではなく、「僕もそう思うようになりました」ということでもなく、「きれいだとか、そういうこと言う付き合いじゃなく、ただ、友達として会う。そういうことなら、会ってもいい」と、まるで自分発信の意見のように、加奈の発言がなかったかのごとく言っている、ということです。
 決して翔太は真似をしたとか、合わせたとかではないのです。元々翔太は、綺麗な加奈とデートできたことを喜んでいたし、それを望んでいたのですから。
 しかし加奈の否定的ダブルバインドによって、翔太はそういった考え方に「洗脳されてしまった」のです。
 蕎麦を食べたかったはずの部下が、上司の否定的ダブルバインドで、本当は天ぷらを食べたかったことに「気づいた」ように、まるでその発想が、自分の中から沸いて出てきたかのように感じているのです。

 加奈はここで、分離法も使っていますね。「それ以上の感情は、<まだ>無理でしょう」と言っています。<まだ>無理ということは、完全に無理ではなく、いつか可能になるかもしれない、という意味がありますね。
 これは否定的ダブルバインドでもあります。加奈は自分から、「デートはしたくない」と言い、翔太もそれに対してようやく「友達として会いたい」と応えてくれたのですから、本来ならば思い通りになったことを喜ぶべきです。しかし加奈は、友達関係を求めるようになった翔太に対し、「それ以上はまだ無理だ」と、必要のない否定で返しているのです。
 さらにこの発言は、治療的ダブルバインドでもあります。この発言を言い換えると、「(あなたには)それ以上の感情(があるけれど、私に)は、(それに応えることは)まだ無理」だ、ということです。加奈がそれ以上の感情に今はなれないことを語ることで、翔太の側には「それ以上の感情があること」が前提として刷り込まれているのです。

 このシーンの前に、この喫茶店に来たときの会話にも、いくつか加奈らしい心理誘導があったので、紹介したいと思います。

加奈 「すいません無理言って」
翔太 「ちっとも」
加奈 「5分前のつもりだったけど」
翔太 「7分前ですよ」
加奈 「コーヒー、もう半分」
翔太 「少し早くついて」

 加奈にとって、待ち合わせで相手よりも先に来る、ということは、精神的に優位に立つ上でとても大切なことなのでしょう。だからこそ、「5分前のつもりだったけど」と言うことで、自分は遅れてなんていないことを宣言しておく必要があったのだと思います。更に、「コーヒー、もう半分」という発言は、そんなに待たせてしまったことを申し訳なく思っているわけではなく、逆に、「あなたは私に会うことが待てなくて約束の時間よりもずっと早くついてしまったんですね」ということを指摘し、翔太が自分を思っているのだということを、刷り込んでいるのかもしれません。

加奈 「自分が死のうと思ってて、そんなことしますか?」
翔太 「するかも」
加奈 「するかもって、人間生きてなきゃいけないって思ったから、あの人とめたんじゃないんですか?」
翔太 「そう簡単でもないような」
加奈 「簡単じゃないんですか?」
翔太 「気持ちって、もう少しいろいろだから」
加奈 「気持ちはいろいろでも、本心はしたことで解るんじゃないですか?」

 最後の、「気持ちはいろいろでも、本心はしたことで解るんじゃないですか?」というのは、分離法ですね。
 「気持ち」は翔太の言う通り、複雑でいろいろかもしれないけれど、「本心」はそんなはずはない。そもそも、「気持ち」と「本心」の定義って何なのか、どういう風に違うのかも不明なのですが、とっさに分離法をされると、なかなか反論できません。
 加奈は、どうしても否定できないときに、分離法で逃げる傾向があるように思います。

翔太 「はっきり言います。本当の気持ちを、はっきり言います」
加奈 「いいの。本当のことなんか、いいの」

 解りやすいですね。(^^)
 散々、「本当のあなたはもっと熱い人のはずだ」と言って本心を求めていたにも関わらず、翔太がそれを言おうとすると「本当のことなんか、いいの」です。
 ナウシカなら、「どうしたんだろう、急に心を閉ざしてしまった……」って思ったかもしれません。

翔太 「俺は、今、はっきり、人生は素晴らしいと思ってます」
加奈 「嘘ばっかり」
翔太 「本当!中城さんと、こうして……」
加奈 「加奈でいいです」

 このタイミングで「加奈でいいです」は、普通あり得ないと思うんですよね。
 逆ならばあると思うのです。
 ずっと下の名前で呼んでいたのに、突然、上の名前に変えることで、ふたりの距離が開いてしまったことを表現するとか、「馴れ馴れしく下の名前で呼ばないでよ!」と怒るとか。
 でも加奈は、こんな感情的は会話の途中で、「中城さん」ではなく「加奈」と呼ぶように言っています。
 表面的には、「中城さん」なんて気を使ってくれなくて構わない、と言うことなのでしょうが、「下の名前で呼んでください」というのは、通常は仲が良くなった証拠です。この状況でそのようなメッセージを送る。やはり、これも否定的ダブルバインドです。
 翔太はこの場を沈めようとパニックになっていますので、この提案には反射的に従います。結果、彼の混乱はピークに達し、以後、4.<正解が判らないために相手に服従しはじめる>のように、翔太は加奈が言って欲しいだろうことは何でも口にしはじめます。
 個人的には、今回一番衝撃的だった台詞は、この「加奈でいいです」でした。素でやっているとしたら、末恐ろしいです。
 シャア・アズナブルなら、「このタイミングで呼び方を変更させたという事実は古今例がない」って言ったかもしれません。(すみません、アニメネタはこの辺でやめます。w)

翔太 「加奈さんと、こうしていることにびっくりしてます」
加奈 「どうして?」
翔太 「きれいで」
加奈 「急に、そんなこと言ったって」
翔太 「いや、ほんとに、きれいです」
加奈 「誤魔化さないで」
翔太 「今、こみ上げるように、この世は素晴らしいという気持ちが」
加奈 「慌てて、心にもないこと……」
翔太 「こんな綺麗な人と、俺は今、デートしてて」
加奈 「デートなんかしてません!」

 確かに「きれいで」は急な言葉かもしれませんが、それでも、僕は翔太は、誤魔化しているとは思わないし、慌ててはいるけれど、心にもないことを言っているとは思いません。すべて、本心でしょう。
 「気持ちって、もう少しいろいろだから」という先ほどの発言ももちろん、嘘ではないでしょうが、「こんな綺麗な人と、俺は今、デートしてて」「こみ上げるように、この世は素晴らしいという気持ちが」本当に沸いてきたのだと思います。
 そしてそれを、「デートなんかしてません!」、とばっさり切り捨てる加奈……。

 相手を操作する、という点からみれば、翔太は加奈の足元にも及びません。
 しかし、今回の話を見て、翔太の方が、人として加奈よりもずっとまともだと思いました。
 翔太は人の心の多様性を理解していますが、加奈は自分の感じていることが全てだと思っているような印象を受けました。
 ドラマの中だけでなく、実生活においても、それは言えることだと僕は思います。
 世の中には、人の心を操ることが、とても上手い人たちがいます。
 思い通りに人を楽しませたり、泣かせたり、好きにさせたり、動かしたり、利用したり、契約させたりすることができる人たちです。
 そのような人を見て、「人の気持ちを理解しているからこそ、ああいうことができるんだろうなぁ」って思うかもしれませんが、それは間違いです。
 人の心を操ることと、相手の気持ちを理解できること、そして心の仕組みを知っていることは、3つとも全くの別物なのです。
 宗教家が聖人なわけではなく、教師が人格者なわけではなく、心理学者が有能なCMプロデューサーなわけではありません。
 思い通りにあなたを楽しませてくれる人が、実はあなたの気持ちを全く理解していないという現実は、普通にあり得ます。

 ところで、デートの定義って、何でしょうね??

<2009-1-15>
 久しぶりに形容矛盾を見つけました。

 「2桁の九九」

<2009-1-13>
 童謡「ドレミの歌」は、2番のネタ切れ感が異常です。
 「ミ」と「ファ」と「ソ」と「シ」が1番とかぶっちゃってるし、「ラ」は誤魔化しちゃってるし、なんでこんなやっつけ仕事なんだろう?
 合わせるなら合わせる、変えるなら変えるで、もっとちゃんと考えようよ。
 そもそも、1番の、「ソは青い空」というのだって、ギリギリアウトだと思うんですよね。

<2009-1-12>
 フジテレビで放送が始まった「ありふれた奇跡」の第一話を観ました。
 仲間由紀恵が演じる中城加奈のコミュニケーションの仕方が、否定的ダブルバインドの連続で驚きました。
 心に傷を持っているらしい加瀬亮が演じる田崎翔太が、今後、彼女に惹かれ、自信をなくし、振り回されていくであろうことは、容易に想像がつきます。
 以下、加奈のダブルバインドが象徴的なワンシーン。

翔太「メールとか、教えてもらっていいですか?」
加奈「あぁ、メールねぇ……」
翔太「どうせ、しないと思うけど」
加奈「じゃあどうして?」
翔太「ただ、じゃあこれで、って言うよりいい様な気がして」
加奈「そっか」
翔太「いいの、終わり」
加奈「いいの?」
翔太「うん」
加奈「私が今、ちょっとためらったから、そう言ってる?」
翔太「そうかな」
加奈「プライド高いんだ」
翔太「気が弱いの。ビクビクしてる。いいのいいの、メール、いいです」

 加奈はこういったやり取りで、メールアドレスを教えることをためらうのですが、その後、駅で別れる際、「ちょっといいですか?」と翔太を止め、電車に乗らずにもう一駅、一緒に歩くことを提案します。

 加奈はメールアドレスを教えないことで翔太を否定しておきながら、「いいの、終わり」と言って諦めた翔太を、「いいの?」と言って逆に否定しています。そして「プライド高いんだ」と追い込みます。
 また、メールアドレスを教えないことで「あなたには興味がない」というメッセージを送りつつ、電車に乗らず歩くことを提案することで、「あなたともうちょっと一緒にいたい」という反対のメッセージを送っています。
 このように、矛盾する二つのメッセージを同時におくることを、否定的ダブルバインド、と呼びます。

 翔太が諦めた後の、「いいの?」という加奈の発言は、別の意味でもダブルバインドになっています。(治療的ダブルバインド)
 この「いいの?」は、「(あなたは私に興味があるのに、こんな簡単にメールアドレスをきくことを諦めて)いいの?」という意味であり、翔太が「いい」と答えても、「よくない」と答えても、どちらにしても、加奈に興味があることを彼は認めることになります。

 続きを観てみましょう。ふたりは線路沿いを歩きながら、こんな会話をします。

加奈「メールのアドレス、すぐ教えなかったのはね……」
翔太「当然ですよ」
加奈「なるべく教えないようにしてるから」
翔太「俺も、そうです」
加奈「嘘!」
翔太「どうして?」
加奈「すごく、積極的でしょ?」
翔太「俺が?」
加奈「あの時も、パッと走って止めたし、私さがして戻ったり、思ったことはどんどんやるタイプじゃない?」
翔太「そう見える?」
加奈「見えないけど」
翔太「ほら」
加奈「でも行動はそうよね。メールだってすぐきいちゃうし」
翔太「今日の俺、変なんだな。無理して正反対の人間やってるのかも」
加奈「どうして?」
翔太「どうしてかな」
加奈「私みたいに、暗い人間からみると、あぁ、こういう人がいるんだ、って」
翔太「そちらが、暗い人間?」
加奈「えぇ」
翔太「全然。それこそ全然そんな風には見えない」
加奈「でも、そうなの」

 メールアドレスを交換するシーンがなかったので不明ですが、「メールのアドレス、すぐ教えなかったのはね」と言っているところをみると、恐らくこの時点では、すでにメールアドレスの交換をしているのでしょう。
 ここで、「なるべく教えないようにしてるから」というのも、実に暗示的な言葉です。
 そう言うことで、「自分は簡単に心を許す人間ではない」ことを示唆しているのかもしれないし、「そういう自分がメールアドレスを教えたということは、あなたは特別なのだ」と言いたいのかもしれません。
 ここで注目していただきたいのは、あえてもう一度メールの話を持ち出すことで、加奈は「あなたが私を求めているのだ」と言うことを強調し、翔太との関係は、自分の方が優位であることを確認しているということです。

 人は、理由づけされると無批判になる、という性質があります。その理由が正しいかどうかは関係なく、「○○だから××」という構文自体が、人の心を動かすのです。これは、結合法と呼ばれる手法です。
 例えば子供に新聞をポストから取ってきて欲しいとき、「新聞をとってきてくれる?」と頼むよりも、「もう新聞が来ている時間だから、新聞をとってきてくれる?」と頼む方が、言うことを聞いてくれる確率は高くなります。新聞を取りに行かせるのだから、新聞は来ているのは当然のことですし、この理由は少しも子供が新聞を取りに行かなければならない理由にはなっていないのですが、それでも、そういう理由づけをされると、子供は嫌だとは言いにくくなります。
 「なるべく教えないようにしているから教えなかった」というのは、例えば「携帯を持っていないから」とか「今、恋人がいるから」という理由に比べれば、理由として全く説得力がありません。「教えないようにしている」というのは、加奈のさじ加減ひとつだからです。それでも、この発言で加奈は更に精神的に優位に立つことになります。

 一方の翔太は、「俺も、そうです」と、取ってつけたようなことを言いますが、説得力がありません。翔太は初めから、何度も加奈と背を並べられるように奮闘しているのですが、かわいそうに、加奈には全く歯が立ちません。
 加奈は「嘘!」と即座に翔太を否定します。
 自分がメールアドレスを教えないようにしているのは正しいが、翔太はそんなはずがない、と決めつけているのです。
 そしてその理由は、翔太が「すごく、積極的」だからです。何故積極的かと言うと、「私をさがして戻った」からです。
 ここでは2回、結合法が使われています。

「あなたは私をさがして戻ったから、積極的なのだ」
「あなたは積極的だから、メールアドレスを簡単に教える人間だ」

 翔太は加奈の、「あなたは積極的で、メールアドレスを簡単に教える人間だ」という決めつけを、否定しづらくなっています。そして加奈はサラッと「私をさがして戻った」ことを言うことで、もう一度、「あなたが私を求めているのだ」ということを強調しています。

 更に翔太が「そう見える?」とたずねると、今度は「見えないけど」と、加奈はあっさり否定します。否定的ダブルバインド炸裂です。
 そしてすかさず、「でも行動はそうよね」と続けます。
 これは分離法と呼ばれる手法で、翔太の「自分は積極的ではない」という主張を、「気持ちは積極的ではないけれど、行動は積極的だ」と分離することで、翔太の言い分を認めつつも、半分は自分の意見を認めさせているわけです。そしてここでも、「メールだってすぐきいちゃうし」と畳み掛けるように「あなたが私を求めているのだ」と言うこと強調しています。ある意味、追い込み暗示だと思います。

 それに対して翔太は、「今日の俺、変なんだな。無理して正反対の人間やってるのかも」と、再び取ってつけたようなことを言います。翔太は何とかして、加奈が作り出そうとしている、自分が加奈を求めている、という図式を崩そうとしています。行動が積極的だったのは、今日の自分が変なせいだし、それは本来の自分とは正反対の行動だったのだ、と。
 ここで加奈は、その言葉をそのまま受け取ることはせず、「どうして?」と問い詰めることで、翔太の主張を無効にしています。
 彼女は自分では結合法を連発し、逆に人の結合法には決して引っかからないのです。

 そして、加奈は自分のことを「暗い人間」だと言います。しかしこれも、ある意味、ダブルバインドです。
 何故なら、翔太が、「そちらが、暗い人間?」と驚いているように、外見からしても、性格からしても、加奈は全然暗い人間には見えないからです。言語的な主張と、非言語的な主張が矛盾しているのです。
 そもそも、暗い人間は、自ら「暗い人間」などと言うでしょうか? もちろん、時と場合によっては言うこともあるでしょうが、少なくとも、初対面の男女が水面下で駆け引きをしながら会話をしている状況においては、むしろ逆にとらえるべきでしょう。
 頼まれてもいないのに、自分で自分のことを「変わっている」という人ほど、驚くほど平凡な場合があります。予定があって忙しいという人は大して予定なんてないし、外見に自信がないという人は自信があるのです。良く見せようとして反対の事を言う場合もあれば、否定して欲しくて反対のことを言う場合もあります。
 加奈の場合、翔太が「全然。それこそ全然そんな風には見えない」と否定すると、「でも、そうなの」と、とても満足そうな顔をします。「暗い人間」という発言を、否定して欲しかったわけです。この辺りは、Noセット(相手にNoを連続して言わせることで、それを条件付ける手法。例えば、さんざんNoと言わせた後で、「だってあなたは私のこと嫌いなんでしょ!」と言うことで、惰性で相手に「そんなことはない!」と言わせるような手法)を使っているようにも感じられます。

 加奈の否定的ダブルバインドはその後も続きます。
 メールアドレスを聞いたのは翔太でしたが、それ以降、加奈の方から積極的にメールをし始めます。
 かと思えば、再会したときに、彼の発言は「知らない」と取り合わないし、提案はことごとく否定。翔太に興味があるはずなのに、決して自分からはそれを認めません。大事なことは翔太の方から言わせようと、Noセットを使いまくります。

 否定的ダブルバインドを繰り返されると、どう行動して良いのかが判らなくなります。
 相手の要求をのめば否定されるし、のまなくても否定されるわけですから、当然、自分の価値観に自信がなくなります。通常は、そのような態度を取る相手は不快ですから、自分の方から離れていくのですが、家族や会社の上司、そして自分の好きな異性など、逃げ出せない状況では、自分を守ることができず、混乱し、精神的にやわになって、最後には相手の望むものは何でも差し出すようになるのです。

 対人関係のハウツー本を読むと、ダブルバインドとして、治療的ダブルバインドが紹介されていることがあります。
 例えば誰かをデートに誘うとき、「ディズニーランドに行かない?」ではなく、「ディズニーランドとディズニーシーだったら、どっちに行きたい?」と質問するような手法です。そう質問することで、「デートをする」ことは前提となるので、相手はディズニーランドを選ぼうが、ディズニーシーを選ぼうが、こちらの要求を受け入れることになります。
 こんなに素晴らしいテクニックがあるのなら、何故世の中は、その本を読んだ人の思い通りになっていないのでしょうか? 何故、成功する確率はあがるにせよ、それでもうまく行かない場合があるのでしょうか?
 何故なら、それらのハウツー本には、ダブルバインドが成功する重要な条件が書いていないからです。
 その条件とは、上にも書いた「逃げ出せない状況」です。
 闇雲にダブルバインドを使っても、うまくは行かない。
 もちろん、うまく行く場合はありますが、もしかしたらそれは、「逃げ出せない状況」がすでに出来あがっていたからかもしれません。そしてその「逃げ出せない状況」というのは、永続的なものかもしれないし、一時的なものかもしれない。飲み会の席でダブルバインドがうまく行ったとしても、それは「逃げ出せない空気」がそこにあったからかも知れず、飲み会が終わってしまえば、その空気はなくなってしまうかもしれません。

 加奈は、否定的ダブルバインドや治療的ダブルバインド、結合法、分離法など、さまざまなテクニックを、恐らく無意識的に使っています。
 小悪魔、という言葉がありますが、まさしく加奈は小悪魔です。
 そして小悪魔が小悪魔たる所以は、決して無意識的に上記のテクニックを使っているからではありません。
 大前提として、外見が魅力的だから、なのです。
 魅力的だからこそ、相手のことを何も知る前に、翔太は「逃げ出せない状況」に追い込まれているし、逃げ出せないからこそ、加奈のテクニックがバシバシ決まっていく。
 この加奈の心理誘導は、翔太だけではなく、当然、翔太に感情移入する視聴者にも有効です。
 回が進むにつれ、そういった視聴者は加奈に、ある意味、洗脳され、このドラマから離れられなくなることでしょう。

 心理テクニックの本を読んでも、どんなセミナーに出席しても、ちっともうまくいかない人は、この「逃げ出せない空気」の重要性に気がついていないのではないかと思います。

<2009-1-11>
 料理の「さしすせそ」ですが、醤油あたりから雲行きが怪しくなります。

<2009-1-10>
 今日は催眠研究会の日でした。
 Derren Brownのパフォーマンスをいくつか観たのですが、初めてDerrenを観たある方が、「これはショー催眠ですよね?」という質問をされました。
 もちろん、バラエティですから、ショー催眠的なものなのですが、彼の質問の意図が判らなかったので、「ヤラセという意味でですか?」と聞くと、そうではなく、事前にカメラのまわっていないところで予備催眠があるのではないか、ということでした。
 テレビの催眠術では、誘導シーンはほとんど放送されないし、「事前に予備催眠を受けています」という説明がされることもありますから、「いわゆる催眠術」しか観たことがない人にとっては、当然の質問かもしれません。
 僕は彼の質問には、ふたつの大きな誤解があるのではないかと思いました。
 ひとつ目は、「暗示に反応するには催眠にかかる必要がある」という誤解です。そしてこの誤解には、「催眠誘導とは、時間のかかるものだ」「催眠状態とは、目がトローンとした、居眠りのような状態である」「こんなに簡単に暗示に反応するわけがない」という誤解も含まれていると思います。
 ふたつ目は、「催眠に入れば、どんな暗示にでも反応する」という誤解です。もちろん、彼は直接そう言った訳ではありませんが、言葉のニュアンスから、「予備催眠とは、事前に時間をかけて、誰かを操り人形にしておくこと」という前提が感じられました。だからこそ、予備催眠の終わっていない、ほとんど素の状態の人が容易に暗示に反応した様子を見て、驚いたのだろうし、これはガチではなく、何もかもがセットアップされたショー催眠だ、と思ったのでしょう。
 でもこれらふたつの考えは間違いです。
 Derrenのパフォーマンスは、カットされているシーンはあるにせよ(そしてそこで、会話的なアプローチがあるにせよ)、事前に予備催眠などしていません。ステージ催眠でさえ、したとしても、握手誘導をして終わりです。そして、いわゆる催眠術的なトランス抜きでも、十分に不思議な現象を起こしています。(もちろん、催眠とは関係のない、純粋なトリックもたくさんあります)
 「予備催眠」という考え方は、とてもテレビ的な考え方で、それ自体がひとつの暗示になっていると思います。
 つまり、テレビの催眠術のバラエティで、わざわざ事前に予備催眠をしていることを報告することは、「タレントが不思議な経験をしているのは十分な予備催眠があるからで、番組では予備催眠のシーンは省いているので視聴者は催眠にかかることはない」という暗示になっているわけです。予備催眠と言う名のブラックボックスがあって、それをテレビ局が見せるわけがないので、どうぞ皆さん、安心して催眠術バラエティを楽しんでください、ということなのでしょう。
 同様に、「この番組を観て、視聴者の皆様が催眠にかかることはありません」というテロップが流れることもありますが、こちらも視聴者が催眠にかからないための暗示です。
 予備催眠なんてなくても、テレビで放映されてしまっている誘導部分だけで、十分視聴者は催眠にかかりえます。また、一切誘導のシーンがなかったとしても、暗示に反応しているタレントを見るだけでも、被暗示性が高まって、同様のことが起こる可能性はあります。
 僕は決して、催眠状態なんてない、と言うつもりはありませんが、「入った」とか「落ちた」とか、催眠状態そのものにこだわっているうちは、催眠はうまくならないと思っています。
 催眠状態にならなくても人は暗示に反応するし、催眠状態になっても、反応しない暗示には反応しない。
 それだけのことなのです。

<2009-1-9>
 U字工事、栃木っぽいのはむしろ向かって左ですね。

<2009-1-6>
 「絹」とか「こし」というのは、人を悩ませますね。
 写真を現像しに行って、「光沢」と「絹目」という選択肢を提示されると、必要以上に悩んでしまいます。
 そんな選択肢がなければ、光沢で仕上がってきても、絹目で仕上がってきても何も感じないと思うのだけれど、選択肢を提示されるだけで、どちらが良いか考えなければいけないし、その選択に、必要のない責任感を覚え始めます。実際に写真が出来上がってきた後も、本当は光沢にするべきだったんじゃないか、などと考えてしまいます。
 和菓子を買いに行って、「つぶあん」と「こしあん」を選べるときにも、悩みます。誰かがお土産でお饅頭をくれて、それがつぶあんでもこしあんでもどっちでも良いのですが、いざ、自分で選択できるとなると、自分はどちらが好きなのか、行動で示さなければなりません。
 豆腐を買いに行って、「木綿」と「絹ごし」が並んでいるときも、やはり悩みます。料理に詳しければ、この場合は木綿、などと自動的に決められるのかもしれませんが、例えば子供の頃、親からおつかいを頼まれて、豆腐売り場で初めてそんな選択肢があることを知ったときには、どちらでも良いのか、間違った方を買ってしまうと怒られるのか、怒られないまでも「本当はあっちが良かったけれど、こっちでもいいわ」的な、感謝が取り消されるような結果になるのか、豆腐の前で途方に暮れてしまいました。
 もちろん、写真が趣味の人や、和菓子が好きな人や、料理が得意な人は、悩まないだろうし、そういった選択肢がないと困るのかもしれません。
 でも、そうでない人にとっては、こういった強制的な選択肢は、適当にすませられる人もいるでしょうが、苦痛な人も多いのではないかと思う。
 それこそ極端に言えば、全く何も知らないし、興味もないのに、今すぐ、テレビ中継で全世界に向けて、自分は「パナマ運河」が好きなのか、それとも「スエズ運河」が好きなのかを発表しなければならないような、そんな気持ちになるのです。

 選択する側も苦痛でしょうが、選択させる側も、同じ様に苦痛な場合もありますね。
 例えば、電気製品に詳しくない人に、「テレビを買いたい」と相談されて、液晶とプラズマの違いを説明するときなんかもそうです。「どっちがいいの?」って聞かれても、一長一短ですから、違いを説明して、どちらかを選んでもらう必要があります。そしてその重要な選択が、自分のつたない説明だけにかかっていると思うと、ヒヤヒヤします。「液晶は残像が気になる場合がある」とか、「プラズマは画面が焼けることがある」とか説明したところで、その意味を正確に相手が理解できるとは限りません。
 そして、自分がその選択に立ち会ったが故、その後も変な責任を背負わされる可能性があります。いや、もちろん、そんな必要はないのだけれど、自分の説明の結果、液晶テレビを買った人が、「やっぱりスポーツを見ると残像があるね」なんて、責めているわけでもなく、ボソッと言ったとしたら、やはり、責任を感じてしまう。
 選択肢がある、というのは、自由だし、幸せなことだと思いますが、もしかしたら、選択肢がない方がずっと自由だし、幸せなこともあるのかもしれないと思います。

<2009-1-2>
 冷蔵庫の卵の賞味期限が迫っていたので、クックパッドでレシピを検索し、ケーキを焼いてみました。
 僕は小学生の頃、お菓子作りが好きだった時期があり、ケーキやプリン、クッキーなどを良く作っていました。
 元々、何かを作ることが好きで、今はパソコンを作ったり、挿し木をしてブルーベリーの苗木を作ったりすることが好きですが、お菓子作りを覚えた頃は、「売っているお菓子が、家にある材料で自分で作れる!」という事が単純に嬉しくて、姉の持っていたお菓子作りの本を開いては、今日は何を作ろう、とワクワクしながらページをめくっていました。
 もちろん、「ぐりとぐら」の影響もあったと思います。
 あの絵本の中に出てくるスポンジケーキは、本当に美味しそうで、小さい頃から刷り込まれていたのだと思う。
 僕にとってお菓子作りは、プラモデルを作るのと何ら変わりませんでした。
 レシピ通りに分量を量り、粉をふるい、卵をかき混ぜ、オーブンで焼くだけで、望み通りのものができるのです。
 ほとんど、失敗らしい失敗もしたことはありませんでした。
 そしてもし失敗したとしたら、それは純粋に、読解力の問題でした。
 例えば、クッキーを作ったとき、「生地を耳たぶくらいの柔らかさになるまでこねる」とレシピにあったのですが、僕は自分の耳たぶを、それこそ腫れあがるまで触りながら、最後まで、本当にこの柔らかさでこねるのを終了して良いのかどうか、確信を持つことができませんでした。
 僕にとって、お菓子作りに必要なものは、決して才能ではなく、いかに指示通りに工程を終えていくことができるか、でした。
 ですから、大人ならば、行間を読んで、適当に済ませられるような部分も、死活問題のように感じられました。一歩間違えば、すべてがゴミになってしまうような、そんな緊張感を持っていつもお菓子を作っていました。だから「耳たぶのやわらかさ」という表現は僕にとっては曖昧すぎたし、一般家庭にないような材料や調理器具を要求するレシピを見つけると、そこから先には進めないような、何だか取り残された気分になりました。
 小学校4年生くらいのことだと思いますが、一度、近所の子供が誕生日だと言うことで、ケーキを焼いて持って行ったことがありました。
 僕がケーキを差し出して、「誕生日だからケーキを作ってきました」と言うと、その子のお母さんはとても驚いた顔をして、「ひとりで作ったの?」と言いました。僕は作業工程を思い出しました。材料を量ったのも、ふるいにかけたのも、混ぜたのも、泡立てたのも、飾り付けたのも、全部自分でしたが、ボールや量り、ふるいなどを用意してくれたのは母だったし、オーブンを温めておいてくれたのも母でした。
 だから素直に、「母が手伝ってくれました」と答えました。
 すると彼女は、「お母さんと一緒に作ったのね」と、すごくほっとした顔をして言いました。「すごく上手にできたわね。ありがとう」
 僕はその表情の変化を見て、子供ながら、この人は大きな勘違いをしている、と思いました。
 きっとこの人は、このケーキのほとんどはうちの母が作り、僕はただ、母の指示通りに、作られた「お手伝い」をいくつかしただけなのに、得意になって「自分で作った!」と言っている、と思っているのだろうなと思いました。そして、その虚栄心を尊重して、褒めてくれているのだろう、と。
 改めて、「そうじゃないんです、母はほとんど何もしてなくて、僕が全部作ったんです!」と弁解したい気持ちでしたが、うまく言えるわけもなく、お辞儀をしてそそくさと帰ったのを、覚えています。
 今日、久しぶりにケーキを焼いてみて、昔のようにできるかなぁと初めは不安だったのですが、難しいことは何もなく、やはり、レシピにあることを一行一行、忠実に行なうだけで、気がつくとオーブンからいい匂いが漂っていました。
 このケーキは、みかんの缶詰と桃の缶詰のケーキです。
 子供の頃、ケーキを焼いても、イチゴが家にあるはずもなく、かといって何も載せずに生クリームだけでは淋しいので、棚の奥で見つけたみかんや桃の缶詰を使っていました。冷静に考えれば、そんなケーキはケーキ屋さんでみたこともないし、みかんや桃が生クリームにそれほど合うとも思えないのですが、背に腹は変えられなかったのでしょう。それ以来、自分でケーキを作るとなると、みかんと桃が頭に浮かびます。
 久しぶりのみかんと桃のケーキは、懐かしく、とても美味しかったです。
 今度は、こちらも定番だった、キウイとチョコレートのケーキを復刻しようと思います。

<2009-1-1>
 あけましておめでとうございます。
 毎年大晦日の夜は、テレビを見ながら家で年を越し、そのまま寝てしまうのですが、今年は夜中に近所を散歩してみました。
 年末年始の、街がシーンとしていて、空気が張り詰めているような感じは、非日常的で、結構好きです。
 オリオン座がとてもきれいに見えていて、お寺や神社には、夜中なのに多くの人が集まっていました。
 家に帰り、ふと、自分が80歳になって、家族も友達も亡くなったり、遠く離れたりして、ひとりで大晦日の夜を過ごすことを想像してみました。
 誰もが、ひとりで生まれてきて、ひとりで死んでいくことは解っているつもりですが、それでも、大晦日だけは淋しいだろうなぁと思いました。
 そんな淋しさを、楽しめないまでも、ちゃんと味わえる人間になりたいです。 

催眠療法で癒しを体験してみる部屋