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ブログ 2011年

エッセイもお読みくださいね。

<2011-12-30>
 お風呂の中で、ふと思った事。
その1
 世の中には、奪う側の人と奪われる側の人がいる。
 「困ったときはお互い様」は、ただのきれいごと。奪う人は奪い続け、奪われる人は奪われ続けて、入れ替わることは決してない。
その2
 世の中の常識をひとつひとつ疑い始めると、こちらの世界に戻って来られなくなる。   

<2011-12-24>

 ボトルアクアリウムを作ってみました。
 100円ショップに売っていたキャンディー用のビンを使い、底床は、こちらも100円ショップで売っていたソイルを入れてみました。
 あとは余っていたウイローモスを石に巻きつけて入れ、ホームセンターで購入したマツモとアカヒレを入れました。
 初めてのチャレンジなので、エアレーションなしで本当に魚は大丈夫なのか、ろ過なしで水は濁らないのか、ヒーターなしで死んでしまわないか等、不安がたくさんありました。
 しかし、作成から2週間たちましたが、今のところ全く問題なく、アカヒレも元気に泳いでいます。
 メンテナンスは、週に一度、1/3くらいの水を交換しています。
 アカヒレは丈夫で、食欲も旺盛です。
 蓋を開けると、その音が餌の合図になっているようで、水面近くまで上がってきます。
 そして餌をあげると、あっという間に完食してしまいます。
 餌をあげすぎると水が汚れてよくないらしいのですが、一粒残らず食べてくれるので、餌が残って水が汚れる心配はしなくてもよさそうです。

<2011-12-7>
 4人の男性が仲の良いグループだったとします。
 4人には全員、つきあっている恋人がいて、今度お互いのパートナーを連れてバーベキューに行こうということになりました。
 8人でバーベキューをしてみると、女性同士もすぐに仲良くなりました。
 他人から見れば、4組のカップルで構成されたこの8人は、仲の良いグループに見えます。何の問題もありません。
 さて、この8人が、このような出会い方ではなく、まだ誰もつきあっていないうちに偶然に出会い、何となくグループになったとしましょう。
 そして出会った瞬間に、8人とも一目惚れをし、潜在的な4組のカップルが出来上がったとします。
 しかし、いくら一目惚れをしたからといって、翌日に4組のカップルが成立しているわけではありません。
 8人で仲良く時間を過ごしながらも、「自分が相手に気持ちを伝えることで、この和を乱してしまうのではないか?」、「もし上手くいかなかったら、せっかく仲良くなった他の6人とも気まずくなってしまうのではないか?」などと悩み、誰もがなかなか告白することができません。
 やがて時間が流れ、どうやら相手も自分を好きなのではないかと、全員が気づきはじめます。そして最初の1人が均衡状態を破り、めでたく1組目のカップルが成立します。残りの6人は、「先を越された」と思いつつ、大いに刺激され、自分はいつ気持ちを伝えようかと考えます。
 やがて2組目のカップルが成立します。残された4人は、だんだんと焦ってきます。
 しばらくして、3組目のカップルも成立します。
 さて、残された2人は、初めからお互いのことが好きでした。しかし、他の6人よりもちょっとだけ勇気がなかったために、今ではグループの中で、残りもの同士のような、逆に気まずい立場に立たされています。「お前らもつきあっちゃえよ」と、冷やかされて顔を真っ赤にしたりもします。
 お互い、余計に意識するようになり、ついには男の子が気持ちを伝えます。
 「初めから君のことが好きだったんだ」
 「私も初めから、あなたしか見えなかったわ」
 2人はめでたく、つきあうことになります。
 しかし、この「最後の2人」という状況が、関係に小さな影を落とします。
 他の6人は、決して口には出しませんが、心のどこかで「あの2人は仕方なく、残りもの同士でつきあったのだ」と思っているかもしれませんし、思っていなかったとしても、本人たちはそう思われているような後ろめたさを感じるかもしれません。
 また、本人たちもパートナーに対して、決して口には出しませんが、「この人は私しか残っていなかったので私で妥協したのだ」という思いがいつまでもついてまわるかもしれませんし、ケンカの際、つい「本当は私のことなんか好きじゃなかったんでしょ!」などと相手を責めてしまうかもしれません。そして相手が「そんなことはない」と否定しても、それを信じることができないかもしれません。
 彼女には、彼が他の3人よりも後に告白をしたという事実が、彼の迷いを表しているように感じられるのです。
 相手を好きになってから、その気持ちを伝えるまでのタイミングは人それぞれです。すぐに気持ちを伝える人もいれば、1年も2年も気持ちをあたためて、それから伝える人もいます。
 彼には彼のタイミングがありますので、決してそのタイミングが「迷い」を表しているわけではありませんし、他の6人がいない状況で2人が出会っていれば、彼女はそのタイミングが早いのか遅いのか、考えることもなかったでしょう。
 さて、ようやく4組のカップルが成立して、8人でバーベキューへ行きました。
 他人から見れば、4組のカップルで構成されたこの8人は、仲の良いグループに見えます。何の問題もありません。
 しかし、4人の男性グループがお互いのパートナーを連れて8人でバーベキューをしているのと、8人の男女のグループが、結果的に4組のカップルになってバーベキューをしているのでは、見た目は同じですが、やはり決定的に何かが違います。6人は最後の1組を少し下に見ているかもしれませんし、最後の1組はお互いの気持ちをどこか信じきることができません。
 どうでもいいことを長々と書きましたが、見た目が同じでも、順番が違うだけで、物事というのはまったく意味合いが違ってしまうのだと思います。そして、こういった誤解を解くことは、ほとんど不可能なのかもしれません。
 本当にそう思っているのに、状況が信憑性を失くすということが、世の中ではいくらでも起こるのです。

<2011-12-5>

 テレビ台の高さが低かったので、ホームセンターで木を買ってきて、一段高くしました。
 高くした分、下にスペースができたので、そこに水槽を置いて熱帯魚を飼うことにしました。
 今まで熱帯魚を飼ったことはなく、何を揃えたら良いのかもわからなかったので、「テトラ スマート熱帯魚飼育セットSP-17TF」を購入しました。
 17cm x 17cm x 17cm の小さな水槽で、ヒーターとフィルターがついています。
 台の下は暗かったので、クリップ式のLED照明も購入。
 あとはホームセンターで砂利、流木、ウィローモス、温度計などを購入して準備完了です。
 調べたところ、水槽を立ち上げてからすぐに魚を入れてはいけないらしく、水をキレイにしてくれるバクテリアが繁殖するまで、1週間は魚を入れずに放置するそうです。
 1週間たち、ネオンテトラ、レッドファイヤーシュリンプ、オトシンクルスを入れました。
 水槽の前で魚たちを見ていると、あっという間に時間が過ぎてしまいます。
 特にエビが、砂利や水草をツマツマしている様子は見ていて飽きません。

<2011-11-14>

 先日、デジカメを買いました。
 購入したのは、SONYの Cybershot WX10 です。
 以前のデジカメは7年前のものだったので、最近のデジカメの進化には驚きました。
 暗いところでも、フラッシュを使わずに手振れのない、綺麗な写真が撮れることにまずびっくり。
 ズーム倍率も高く、「オート」で撮ると、カメラが勝手に状況を判断してくれるのも便利。
 そしてこの大きさで、フルハイビジョンの動画が撮れるなんて……。
 昔のデジカメの動画は「おまけ」という感じでしたが、WX10はビデオカメラと言ってもよいくらい、ちゃんとした動画が撮れます。32GBのSDカードに4時間も撮れますので、旅行にはこれ1台持って行けば、写真も動画も十分そうです。
 今日はデジカメを持って、近所の深大寺に蕎麦を食べに行きました。
 天気もよく、ほんのり紅葉もはじまっていて、とても気持ちの良いお散歩ができました。

<2011-11-4>
 トランプで勝つために、いいカードを持っていることは大切ですが、持っているカードをいかに切るかは、もっと大切ですね。大富豪で負けた人が、「2」を使わずに持っているのをみると、そんなことを思います。
 人生もそれと同じで、自分の持っているカードの切り時、使い時を心得ている人こそ、勝つことができるし、せっかく切り札を持っているのに、使う勇気のない人は、結局なにも得られないのかもしれません。

<2011-10-27>
 気がつくと、もう、秋の虫は鳴いていないんですね。
 ついこの前までは、うるさいくらい鳴いていたのに。

<2011-10-20>
 「枚挙に暇がない」っていう表現、日本人っぽさ全開で大好きです。

<2011-10-7>
 モーツアルトを聴いていると、スクリーンに映し出された「善良な市民が、よく晴れた昼下がりに、穏やかなひとときを過ごしている様子」を、真っ暗な映画館で観ているような、そんな気持ちになります。

<2011-10-6>
 小沢健二の「恋しくて」。

 当時は歌詞の意味もよく考えずに聴いていましたが、いま聴くと、すごくよく解ります。
 生々しいし、胸につかえているし、だけどもう伝えられない気持ちが、年を重ねるごとに、どんどん増えていっている気がする。
 ある種類の思い出は、時間と共に忘れられていきますが、ある種類の思い出は、時間と共に鮮明になっていくんですよね。
 きっと、未消化のまま、心に蓋をして、先延ばししていた思いが、まるで定期預金が満期になったみたいに、返ってくるのだと思います。
 オザケンの曲は、洋楽のオマージュ(?)であることが多いのですが、この曲は The Bangles の「Manic Monday」が元ネタだと言われています。

 

 僕はこの動画で、はじめて動いているバングルスを観ました。
 しかし何だろう、このかっこ良さは。そしてこの、大人の色気は……。
 ボーカルのスザンナは52歳です。25年前のライブ映像を観ましたが、まるで別人のようで、今の方が何倍も素敵です。歌い方が違うせいか、別の曲のようにさえ聴こえます。
 村上春樹が、「魅力的な中年女性を見ることは、人生の喜びのひとつだ」みたいなことを言っていましたが、この映像を観て、あぁ、年を取るって、全然悪いことじゃないんだなぁと、心から思いました。

<2011-10-4>

 僕は雲を眺めるのが昔から好きでした。
 子供の頃、ベッドが窓側にあったので、ベッドに横になって、開け放った窓から何時間も雲を眺めることがありました。
 雲は、外にさえ出ればいつでも眺められる、一番近い大自然だと思います。
 いくら山が削られて、海が埋め立てられ、ビルが乱立しても、まだ空は手付かずで残されているんですね。
 これは昨日の夕方撮影した写真です。
 クッキリとした夏の雲は大好きですが、秋の夕暮れに浮かぶ、上は明るくて下は暗い、このような雲も大好きです。
 雲は芸術作品みたいに見えます。
 こんなに大きくて、こんなに綺麗で、しかも時間と共に変化する芸術作品が、毎日、どこにいても、無料で眺めることができるというのは、すごいことだと思うのだけれど、雲に魅せられている人たちがあまりにも少ないのが不思議でなりません。
 もっと、立ち止まって、ぼーっと空を見ている人を街中で見かけてもいいはずなのにって。

<2011-10-3>
 マルクス・アウレーリウスの「自省録」を読了しました。
 本書を要約すると、以下のようになると思います。

 「偶然に起こった出来事を認めよ。それは理由なく、ただ起こるのだ」
 「自分が幸せであろうと、不幸であろうと、大した意味はない。なぜならば、人生はあっという間に終わってしまうし、自分を覚えていた人たちの人生も、やがて終わってしまうからだ」
 「受け取り方次第で世の中はいかようにも変わる」
 「公益を求めよ」

 彼が国を治めていた頃のローマ市民が幸せだったかどうかは知りませんが、こんな人が治める国に暮らせたらなぁと思いました。

<2011-9-27>
 海外ドラマを観ていたら、「現代では、友達は財産ではなく、借金にしかならない」というセリフが出てきました。
 その人と付き合っていて、自分が得たものと失ったものを比べたら、そんな気持ちになることもあるのだろうなと思いました。
 ただ、友情とか愛情とは、失っても「失った」とは感じずに、喜んで失い続けることを言うのかもしれません。
 ですから、「借金だ」と感じているということは、すでにその相手は、自分にとって、本当の友達ではないのかもしれません。

<2011-9-22>
 先日、部屋の模様替えをした際、不要な物は思い切って捨てようと引き出しの整理をしていたら、小学校1年生のときに使っていたホッチキスの針の小箱が出てきました。(1ねん3くみ……と書いてありました)
 実に、33年前のホッチキスの針です。
 さすがに箱は汚れていましたが、中をあけてみると、肝心のホッチキスの針は錆びることもなく、とても綺麗な状態でした。
 おそらく僕の所有している最古の日用品だと思います。
 僕は今まで、7回引越しをしました。
 その度に不要な物は捨ててきたつもりですし、ホッチキスを使うことなどほとんどないので、33年前のホッチキスの針が、7回の引越しをくぐり抜けて今も引き出しの中に存在していることは、何だか奇跡のように感じました。
 小学校1年生のとき、まさかこのホッチキスの針を39歳になっても持っていることになるとは、夢にも思っていませんでした。
 もっと他に、取っておくべき物はたくさんあっただろうに、結局時間の荒波にもまれて残ったのは、コレだけです。
 子供の頃を振り返ると、大切な物を手に入れるたびに、「これは一生の宝物」的なことを思っていた気がします。
 大切だとか、大切ではないとかはあんまり関係なく、偶然の導きで残るものは残るし、残らないものは残らないのだと、強く感じました。 

<2011-9-14>
 今朝、柚子が亡くなりました。
 ここ数日、毎晩のように、今日が最後かもしれない、という気持ちで夜を過ごしました。
 日に日に動けなくなり、昨晩からは、前脚と首を少し動かすのがやっとという感じでした。
 呼吸が荒くなったり、浅くなったり、ときどき戻したりと、苦しみながらも夜が明け、今日も一日生きられるかもしれないと思った矢先、9時ごろに戻す気配があり、抱き上げて吐きやすい体勢に支えてあげたところ、辛そうな声をあげながら血を何度か吐き、そのまま息が絶えました。
 安らかな最後とは程遠い数日でしたので、柚子がやっと楽になったのを見て、よく頑張ったね、という気持ちで、涙が止まりませんでした。
 食べられなくなってから、そのことばかり気になって、どうにか食べさせなければ、飲ませなければと思っていましたが、今ふり返ると、柚子はこの1週間、ほとんど眠ることがありませんでした。普段は日中、ずっと寝ていることが多かったので、眠れないだけでも、相当つらかったのではないかと思います。
 庭に小さなお墓を作って柚子を入れたあとも、家中、いたるところに柚子との思い出があり、それを思い出すたび、号泣してしまいます。
 柚子と一緒に過ごしたこの4年間は、僕にとって、辛いことの多い4年間でした。
 投げ出したいような気持ちになることも何度もありました。
 そんな4年間、柚子は元気を振りまき、悲しんでいる僕を慰めてくれました。
 もしかしたら、柚子は天使だったのかもしれません。本当は普通の猫のようにもっと生きられたところを、惜しみなく自分の命を削って、僕を支えてくれていたのかもしれません。
 柚子は最後に、「もう私がいなくてもあなたは大丈夫だよ」というメッセージを残して、いってしまった気がします。
 今は頭の中が真っ白ですが、本当に辛いのはこれからなのかもしれません。
 柚子が幸せをくれた分、しっかり泣きたいと思っています。

<2011-9-12>
 我が家のキジ猫、柚子(メス・約4歳)が餌を食べなくなってから、1週間が経過しました。
 病院から帰ってきた後、一度は水を自分で飲むようになり、トイレにも自分で行けるまで持ち直したのですが、今朝から自分で立てなくなってしまいました。
 流動食や薬をあげても、すぐに全部戻してしまい、戻すたびに体力が奪われるようで、衰弱が進んでいます。
 今日は何回か、戻したものに血も混ざっているようで、お別れのときも近いのかもしれません。
 僕は心の奥底ではかなりの楽観論者で、目の前で今にも息を引き取りそうな柚子を見ていても、明日の朝には今まで通り、元気な姿に戻っているのではないかと、どこかで信じています。
 だから、元気のない柚子を見ていても、何かの間違いだという気がして、なかなか現実を受け止められません。
 流動食をあげなければと思うのですが、そのたびに苦しい思いをして戻すことを考えると、このまま安らかにいかせてあげたほうが柚子のためなのではないかという気もしますし、無理にでも口に入れて、1日でも延命させたい気もします。
 ぐったりしている柚子を撫でていると、もらってきたときからの思い出がよみがえってきて、馬鹿みたいに、もっとああしてあげればよかった、こうしてあげればよかったと、そんなことばかり考えています。

<2011-9-10>
 最近、自省することが多いので、勢いでマルクス・アウレーリウスの「自省録」を注文してみました。
〜〜〜
「このキュウリは苦い」
ならば捨てるがいい。

「道にイバラがある」
ならば避けるがいい。

それで充分だ。
「なぜこんなものが世の中にあるんだろう」などと付け加えるな。
〜〜〜
 届くのが楽しみです。

<2011-9-9>
 我が家のキジ猫、柚子(メス、もうすぐ4歳)が、日曜日あたりから元気がなくなり、月曜日からはパッタリと餌を食べなくなってしまいました。
 火曜日に動物病院へ連れて行き、一泊の入院をして調べてもらったところ、肝不全になっていました。
 病院で点滴をしてもらって、どうにか生きてはいますが、すっかり衰弱してしまい、先週まで走り回っていたのが嘘のように、一日中ぐったりとしています。
 もらった薬を一日に2回あげなければならないのですが、昨日はなかなかコツをつかめず、飲み薬をシリンジであげようとしても半分くらいは口の中に入らなかったり、吐き出してしまったりでした。
 しかし今朝は僕も慣れてきて、全量を飲ませることができました。
 ……が、その後、飲ませた薬を全部吐かれてしまいました。(; ;)
 餌を全く食べないため、流動食もシリンジであげているのですが、こちらも嫌がって十分な量をあげることができません。
 水も2、3口は飲むのですが、すぐに飲むのをやめてしまいます。
 このまま飲まず食わずが続くと、柚子の命はもう、長くはないのかもしれません。
 先住猫のマロンは、我が家にやってきたときにはすでに大人で年齢が判らず、それから7年経ちますので、おそらく10歳以上です。
 マロンは老齢ですし、ときどき餌を戻したり、便がゆるかったりすることがあったので、いつ具合が悪くなるか気を遣っていたし、ある程度の覚悟はできていました。
 しかし柚子はまだまだ若く、マロンよりもずっと元気で、良く食べ、良く遊び、良く眠り、健康すぎるような猫だったため、未だに目の前で衰弱している柚子が信じられません。
 柚子は生後2ヶ月くらいで我が家に来ました。
 もともとは、スーパーのゴミ箱に、紙袋に入れられて兄弟猫2匹と一緒に捨てられていたのを、ボランティアさんによって保護された猫です。
 保護されたとき、兄弟猫は2匹とも動いていたそうですが、柚子だけは意識がなく、ボランティアさんも「この子はダメかもしれない」と諦めていたそうです。
 しかししばらくして、息を吹き返し、次第に他の兄弟と同じように元気が戻ったそうです。
 すべては推測ですが、もしかしたら、柚子は生まれつき体が弱かったのかもしれません。
 食べられない状態がいつまで続くのか、そしていつまで生きられるのか、今は判りませんが、残された時間を大切にしたいと思っています。

<2011-9-8>

 この曲を聴くと、夏の終わりを感じます。
 そして、セットで「風の歌を聴け」を読みたくなります。
 「風の歌を聴け」で主人公がバスに乗って帰ってしまった次の週明けに、全然関係のない日本のどこかのプールサイドで、この曲にある物語が起こったのではないかと、そんな気がするのです。

<2011-9-6>
 ユーザー車検に行ってきました。
 今回で自分で車検を通すのは6度目。
 以前は検査コースで結構緊張したのですが、さすがに6回も行っていると慣れてきて、今日はあっという間に感じられました。
 車検が終わった後、近くにIKEAがあったので、用もないのに入ってみました。
 展示されているソファに座ったり、コーディネートされた部屋に入って本棚やキッチンを見たりして、最後はホットドックとソフトクリームを食べて帰ってきました。
 IKEAの客層は、どこかCOSTCOの客層と似ており、訳の解らない選民意識のようなオーラを誰もが撒き散らしているように感じました。(すみません、全部偏見です)
 こういった西洋礼賛的なお店、非日常的な感じがして嫌いではないのですが、行くと何故か、いつもは考えないようなことをたくさん考えてしまって、帰ってくるとどっと疲れます。(^^;;

<2011-8-30>
 夜中に食べるヨーグルトが、妙に美味しく感じられます。
 いや、夜中は何でも美味しいのだけれど。

<2011-8-28>
 突然起こる不幸はいくらでも想像ができますが、突然起こる幸福を想像するのは、ちょっと難しいですね。世の中には、幸福の種類よりも、不幸の種類の方が多いのかなぁ。

<2011-8-25>
 理性的な人は、理性的に間違ったことをする可能性があり、本能的な人は、本能的に正しい行いをする可能性があると思います。

<2011-8-22>
 「外で食べると美味しいね」という人がいますが、僕は逆で、外で食べると、食べ物の味が良く判らなくなります。
 バーベキューでもオープンテラスでもよいのですが、外で食事をすると、もうその雰囲気に圧倒されてしまって、意識がその圧倒的な非日常感に全部持っていかれて、食べ物の味なんて全部同じに感じてしまう。オージービーフも和牛も、違いなんてどうでもよくなってしまうのです。
 だから、それほど美味しくないものでも外で食べると味が誤魔化せるという意味なら、「外で食べると美味しいね」と言えなくもないですが、本当に美味しいものは、外ではなくて、気が散らない部屋の中でじっくりと味わいたい。
 例えば僕は、学生の頃、森高千里が好きでしたので、もし彼女とふたりで食事をすることになったとしたら、もうその空間にいるだけでいっぱいいっぱいで、とても食事の味まで意識できないと思う。彼女と二人でいることが楽しいのであって、何を食べるかなんて大した問題ではない。
 しかしだからといって、「森高千里と食べると美味しいね」にはなりません。
 僕にとって、外で食べるとは、そういう感覚です。あまりの非日常感に、味なんて飛んでしまうのです。
 外で食べると美味しいのではなくて、外で食べるという行為の特殊性にのまれているだけなんじゃないかなぁ。

<2011-8-21>
 マロンが喋る夢を見ました。
 以前、「あぼぼん」というチンチラ(小動物のほうです)を飼っていて、マロンが来たときはまだ生きていたのですが、夢の中のマロンは、「あぼ君、いないなー。いないなー」と言いながら、あぼぼんを探していました。
 夢から醒めた後も、マロンのかわいい声が耳に残り、ひとりで萌え死にしそうでした。

<2011-8-20>
 墾田永年私財法っていうかわいい制度(ひなの風)があれば、めちゃくちゃ利用するんだけどなぁ。

<2011-8-19>
 
問1:以下のような選択肢のアンケートをとる人は、世の中の仕組みを何もわかっていないと思う。

1. とてもそう思う
2. そう思う
3. どちらとも言えない
4. そう思わない
5. 全然そう思わない

<2011-8-18>
 わーい、ロペの新作!
 

<2011-8-17>
 海外ドラマを観ていたら、ある男の子が誕生日にサプライズパーティーをしてもらうシーンが出てきました。
 僕はサプライズパーティーをされたことはありませんが、されたら全然楽しめないタイプの人間だと思います。
 喜ばせるためとはいえ、パーティーまでの時間、嘘をつかれるのも嫌だし、周りの人たちが秘密を共有しているのも自分ひとりだけ仲間はずれな感じがするし、「祝う」という目的が、いつしか「誰かの誕生日を理由に盛り上がる」に変わってしまっている気もする。
 「サプライズ!!」と言われた瞬間に、そんな思いが頭の中を駆け巡ったら、とても複雑だし、準備をした分、参加者の「喜ぶ顔」の期待値も高まっているのに、それを超えたリアクションなんて、とてもできそうにありません。
 我ながら、つまらない人間だなぁ。(^^;;

<2011-8-16>
 恋愛の相談をメールで受けていて、何となく解ってきたことがあります。
 その人のことをもっと愛したいのならば、その人の悪いところを思い出せばいいのかもしれません。
 その人のことをもっと嫌いになりたいのならば、その人の良いところを思い出せばいいのかもしれません。
 逆じゃないからね。

<2011-8-7>
 「勝ち目のない戦い」でも場合によってはしなければなりませんが、「勝ちのない戦い」はしてはいけないと思います。
 勝ちのシナリオが描けないのだったら、失うばかりです。 

<2011-8-3>

 俳優の高岡蒼甫さんがフジテレビの韓流偏重を批判した結果、プロダクションを解雇された件が方々に波紋を呼んでいますが、この騒動について芸人のふかわりょうさんがラジオで語っていました。
 同じ音楽を流すのでも、CMとして流すのであれば視聴者はCMとして受け取る。
 しかし番組で「流行っている」という体で流してしまったら、視聴者はそれを事実として受け取ってしまう。
 今のテレビやメディアの問題を、的確に語っていると思いました。

<2011-7-25>

 今シーズンはじめて、ブルーベリーを収穫しました。
 今年は例年に比べると、何故か実のつき方が悪く、大収穫とまではいきませんが、しばらくは楽しませてくれそうです。
 ブルーベリーは、青くなってもまだ酸っぱいことがあり、青くなってから1週間くらいしてから収穫すると良いのですが、そうしていると鳥に食べられてしまいますし、どれが完熟で、どれが酸っぱいのか見分けるのも面倒なため、今回は青くなっている ものをすべて収穫しました。
 そして、酸っぱいのは食べたくなかったので、アイスクリームのトッピングにすることにしました。

 アイスクリームと一緒に食べると、適度な酸味がアイスクリームの甘みを引き立て、とても美味しいです。
 ちなみに今日収穫したのは、ホームベル、バルドウィン、パウダーブルーという品種です。

<2011-7-24>
 幸せを感じられないのは、「本当に不幸だから」だけではなく、「はっきり求めていないから」というパターンもあるように思います。
 「海外旅行へ行くことが何よりも幸せ」と思っている人は、海外旅行へ行けないと不幸ですが、行けば幸せです。
 しかし海外旅行に興味がない人は、たとえ海外旅行へ行けたとしても幸せを感じません。
 たくさん求める人にたくさん与えられるのは、与えられたと感じるチャンスが多いからなのかも。
 そして、何も求めない人には何も与えられないのだと思います。
 だって、実際に何を与えられても、「与えられた」って感じられないのですから。

<2011-7-12>
 奇をてらった人ばかりが集まったら、その中にいる普通の人も、「あいつは敢えて、普通にすることで奇をてらっているのだ」って思われるのかもしれません。

<2011-7-10>
 カウンセリングルームにおいてある冷蔵庫は、中古品の古いものなので、冷凍室にびっしりと霜がつきます。
 3月の計画停電のときに、霜取りをしたのですが、またついてきたので、今日も霜取りをしました。
 僕はこの、霜取りという作業が結構好きです。
 冷蔵庫の電源を抜いて、しばらく放っておいたあと、傷つけないように注意しながら、マイナスドライバーでグリグリと霜をつつくと、とても気持ちよく、パカっと取れるんです。
 一箇所どこかが取れると、あとは手でバリバリとはがしていくことができます。
 村上春樹の小説に、「クール」なものの例として、「年中霜取りをしなければならない冷蔵庫」がでてくるのですが、うちの冷蔵庫はまさにそれです。
 それがクールとどう関係があるのか、正直、よくわからないけれど。

<2011-7-7>
 今、日本に必要なのは、愚民の多数決ではなく、賢明な独裁者による独裁ではないかと、松本前復興相の映像を見て思いました。
 何だか、こんな人たちが国の中枢にいること自体、民主主義は間違っていたことの証拠なんじゃないかと思う。
 問題は、「賢明な独裁者」は得がたいということかなぁ。

<2011-7-1>
 今日は映画の日だったので、「アンダルシア」を観てきました。
 黒木メイサは相変わらず、時代の生んだ泡の匂いがしましたが、とても面白い映画でした。
 織田裕二はかっこいいし、ロペの新作も見られたし、テレビで観るのもいいけれど、やっぱり映画館はいいなぁと思いました。

<2011-6-30>
 デレク・ハートフィールドの「気分が良くて何が悪い?」は、是非読んでみたかったです。
 小説のタイトルとして、完璧だと思います。

<2011-6-28>
 もう、何をやってもうまくいかないんじゃないかと悲観的になる日が、年に2回くらいあるのですが、今日がそれです。
 気分転換してしまいたいけれど、それをしてしまっては、結局遠回りになってしまいそうな気がするので、先ほどから空間の一点をじっと見つめながら、「あー」とか「うー」と唸っています。(^^;;

<2011-6-27>
 ミニチュアダックスの迷い犬を見つける夢を見ました。
 とても人懐っこい犬で、撫でていると、とつぜん手を噛まれる夢でした。
 ……なんて書くと、心理学を勉強している人には、とても象徴的な夢みたいに受け取られそうですが、そうではなくて、それは柚子(ネコ)のせいです。
 柚子はときどき、人を起こそうとしてあまがみすることがあり、おそらく僕がぐっすり眠っているときに、「起きてくれ〜」と噛んだのでしょう。
 それでも僕は起きず、夢を見たのだと思います。
 最近、野良猫になつかれる夢や、知らない猫が家に入ってきてしまう夢などをよく見るのですが、そういうのはみんな、柚子のせいなのだと思います。

<2011-6-22>
 今日が1年で一番日が長いと言われると、「え? もう?」って思います。
 明日からは、どんなに暑くても、毎日日が短くなっていくというのは、少し寂しいですね。
 無限に長くなって、いつか夜がなくなってしまうのも困りますが、夏至も冬至も2ヶ月ずれていて、十分季節を感じた後だったら、このような寂しさは感じないのかもしれません。
 昨日、久しぶりに外食をしました。
 店の空調が故障中とのことで、外のテラス席を案内されました。
 食べ始めた頃はまだ明るかったのですが、だんだんと暗くなっていき、夜風も気持ちよく、外で食べているだけで、何だかリゾート地にいるような気分になりました。
 あまりにも雰囲気があったので、それに気持ちがのまれてしまい、料理の味に集中できないくらいでした。(^^;;

<2011-6-21>

 この曲をはじめて聴いたとき、冒頭の「街の歌が聴こえてきて」が、「街のウタガキ越えてきて」に聞こえました。
 街の中にある「ウタガキ」を、ぴょ―んと跳び越えて来たようなイメージでした。
 でも、「ウタガキ」って何だろう? 生垣的なものかな、なんて思ってました。
 今では、街の歌が聴こえてきたんだなってわかるのだけれど、それでもやっぱり、心の中では佐野元春がウタガキを越えてきます。

<2011-6-20>
 21世紀になんて、ならなければ良かったのに。

<2011-6-19>
 タレントのローラと友達で、一緒に時間を過ごしていたとしても、すごく一人ぼっちな感じがするんだろうな。

<2011-6-16>
 さんざん逃げまわるくせに、無理に捕まえて膝の上に載せると、妙に落ち着いてゴロゴロいいはじめる柚子(うちの猫です)に、愛されているのか、愛されていないのか悩む毎日です。
 今も膝の上で寝転び、ゴロゴロいいながら、ときどき僕の胸で爪とぎみたいにして登ろうとします。
 「柚子」と呼ぶと、声を出さずに口だけ広げて返事をします。
 こうやって甘えているかと思うと、膝からおろした瞬間に逃げてしまって2度と捕まえられなかったりするので、訳がわかりません。
 前にも書きましたが、柚子が人間の女の子だったとしたら、完全に振り回されて自分に自信をなくしていたと思います。(^^;;
 柚子が猫でよかった。笑

<2011-6-7>
 ずっと、あえてパグ犬を選ぶ人の気持ちが理解できませんでしたが、最近、パグ犬もありだな、と思うようになりました。
 少しずつ色んな意味が解りかけていますが、決して授業で教わったことではありません。

<2011-6-2>
 「さもなくば」という言葉は、もう銀行強盗するときくらいしか使えないのではないでしょうか。

<2011-5-25>
 昔は春は苦手な季節でしたが、今は春が一番好きな季節です。
 特に、梅雨前の今の時期が好き。
 蚊もほとんどいないし、昼間は暖かいし、夜は布団が気持ちが良いし、日は長いし、植物はめきめき成長するし、とにかく爽やか。
 夕暮れに、開けっ放しのお店から聞こえてくる人々の笑い声や食器の音を聞きながら吉祥寺の街を散歩するのが大好きです。
 夜になって、いせやで買った焼き鳥を食べながら、ひと気の少なくなった井の頭公園を散歩するのも大好きです。
 いつまでも手の届かない夢をみているような、そんな気持ちになります。

<2011-5-24>
 「お盆を頭の上に載せたまま、上を向くことはできない」という言葉が僕は大好きです。
 以前、約束を破ることについて考えていたとき、「教えて!goo」に投稿された「遅刻する人の心理は一体??」という質問を読みました。
 質問者は、「しょっちゅう遅刻する人の心理を教えて欲しい」と質問していました。
 様々な回答が寄せられる中、僕はある回答者の回答に驚愕しました。

 「会社の用事の時は待ち合わせの一時間以上前に着くように行動します、だって仕事だもん。……友人と遊ぶ時は別です。……遊びに行くのにそんな時間にキッチリしようだなんて思わないですし、キチキチにしてたら肩こりますし、休日くらいゆったり過ごしたいから。……私の友人は既に諦めてる感じです。プラス1時間は平気に待ってくれます。気長な友人で私は大好きです」

 何という自己中心! もう、理屈が無茶苦茶です。
 しかし、これを読んだ次の瞬間、「いや、この回答者の考え方は間違っていないのかも」と思い直しました。
 この回答を自己中心だと感じるのは、僕が時間は守るという生き方を選んでいるからに過ぎません。おそらく、日常的に遅刻をして、それを大して悪いことだと思っていない人は、この回答を読んでも「あー、わかるわかる!」と共感するだけで、決して無茶苦茶だとは思わないことでしょう。
 この回答者に論理的に間違いを認めさせることはおそらく不可能です。なぜなら、これは生き方の問題であり、善悪の問題ではないからです。この回答者は間違ってはいないのです。
 「休日くらいゆっくりしたいから遅刻しても良い」というのは論理が破綻しているように見えますが、「プラス1時間は平気に待ってくれる気長な友人」の登場で、論破する術が失われてしまいました。
 そしてこの回答者は、自己中心ですらないのかもしれません。もしかしたら、1時間は平気で待ってくれる気長な友人が、事情があって2時間遅れて、結果的に回答者が1時間待つことになったとしても、この回答者はまったく怒らないかもしれないからです。
 もし質問者が、遅刻する人の心理を知ることで、友人の遅刻を解決できるのではないかと考えていたとしたら、残念ながら諦めるしかなさそうです。
 質問者にできることは、友人の遅刻を毎回許してあげるか、自分も「休日くらいゆったり過ごし」て、待ち合わせ場所で待ったり、待たせたりという付き合いをするか、遅刻を許せないのならばその友人との関係を終わらせるかのいずれかだと思います。
 お盆を頭の上に載せたまま、上を向くことができないのと同じで、自分は変わらないまま、友人との関係を維持することはできないと思います。
 自分が変わるか、関係を終わらせるか、好きな方を選ぶしかありません。
 友人が時間を守ってくれれば一番いいですが、それは相手が勝手にやってくれることであり、こちらから強制することはできません。

 これ、遅刻がテーマですから、遅刻を許せない人も、遅刻してしまう人も両方います。遅刻を許せない人は許せない人同士で自然と仲良くなれば平和だし、遅刻する人は遅刻する人同士、のんびり生きていけば平和です。
 先ほども書きましたが、これは正しい、正しくないの問題ではなく、生き方の問題です。同じ生き方の人と仲良くすればそれで良いと思います。
 ちょっと怖いなぁと思ったのが、テーマが遅刻ではなく、他の何かで、同様にそれが生き方の問題で、さらに自分と同じ生き方をしている人がひとりもいなかった場合です。自分を変えない限り、誰とも仲良くすることができないとしたらこれは辛いだろうし、誰も自分の生き方を認めてくれないのも辛いだろうし、生き方の問題だと理解されずに間違っていると糾弾されたらやはり辛いだろうなぁと思います。
 ひとりぼっちで生きていく事を選ぶのか、我慢して生き方を変えて周りに合わせるのか……。
 僕はひとりぼっちで生きていくだろうと今は思いますが、もしかしたら淋しさには勝てないのかもしれません。

<2011-5-22>
 立場が偉い人ほど難しい言葉を使いたがりますが、大切なのは、簡単なことを非凡な言葉で語ることではなく、難解なことを平凡な言葉で語ることだと思います。
 ジョンレノンのイマジンが名曲なのは、難しいコードを使った技巧的な曲だからではなく、平凡なコードを使ったシンプルな曲だからです。
 難解なことを平凡な言葉で語れる人になりたいです。

<2011-5-21>
 カウンセリングルームにいらっしゃる方からときどき、あまりにも部屋が殺風景だというご意見を頂くことがあります。
 確かに殺風景な部屋で、ソファと机と椅子と電気スタンドくらいしかありません。
 「物があるから汚れるのだ」というのが、僕が人生の中で学んだ掃除哲学であり、余計なものは極力おかず、シンプルな部屋が好きなのでこのような部屋になったのですが、言われてみれば確かに少し淋しい。
 そこで、観葉植物をいくつか買ってきました。
 この部屋は日当たりも良くなく、使っていないときはほぼ真っ暗ですので、ちゃんと育ってくれるのか心配ではありますが、大事に育てていきたいと思います。
 これで少しは、カウンセリングルームっぽくなったかな。

<2011-5-20>
 解り合うことを諦めることが、真に解り合うことなのかも。

<2011-5-16>
 体を動かさないで考えてみてください。
 ヒジはアゴにつくでしょうか? つかないでしょうか?
 自分の体のことなのに、僕はそんなことさえ、実際に体を動かすまで確信を持って答えることができませんでした。
 エリクソンがクライアントの女の子に、「君は解決の方法をすでに知っている。ただ、知っている、ということを知らないだけだ」と言ったことがあります。
 頓知のような言葉ですが、「知っていることを知らない」からこそ、希望があるし、それを知らせることが、カウンセラーの仕事なのかなぁと思っています。
 ところで、「北海道」という単語を、上の唇と、下の唇をつけないようにしながら言ってみて下さい。
 そして今度は、普通に「北海道」と言ってみて下さい。(^^)

<2011-5-11>
 小学校1年生か2年生の頃のことです。
 算数の授業中、担任の高橋先生という初老の女性教師が、「算数は、位取りさえわかれば簡単です」と言いました。
 僕はその、「クライドリ」という耳慣れない言葉を聞いたとき、まったく意味がわかりませんでした。
 言葉の雰囲気から、そういった種類の鳥を想像し、鳥と算数にはどんな関係があるのだろうと思いました。
 その言葉の本当の意味を知ったのは、もっとずっと高学年になってからです。
 あぁ、あのとき高橋先生が言いたかったのは、数字の桁のことだったのか、と。
 意味はわかっても、今でも算数のことを思い出すと、「クライドリ」という名の鳥が心に浮かびます。
 イメージは年々変化し、最近では、「クライドリ」は、完全にフライにされています。
 想像の中の「クライドリ」のフライドチキン(ややこしいですね)は、とても美味しそうです。 

<2011-5-9>
 自分のこと以外は無関心な人が、結局は一番幸せなのかもしれません。
 他人の発言や行動に振り回されてしまう人は、自分の気持ちをコントロールしにくいので、幸せではないのでしょう。
 自分の世界があって、誰にも邪魔されずにその世界に没頭できる人が、一番幸せを感じられるのだと思います。
 他人は他人、自分は自分と、はっきり境界線を引き、干渉もしないし、干渉もさせないという生き方をしないと、嫌ったり、嫌われたりの人生になってしまいます。
 僕はパズルをしているときに安らぎを覚えるのですが、それはその間、他人を必要としていないし、必要とされてもいないからなのかもしれません。
 人はひとりでは生きていけないと言う人もいますが、他人と繋がっているからといって、それで何かが楽になるわけではないように思います。

<2011-5-6>
 ラジオを聴いていたら、こんなエピソードが紹介されていました。
 北野武さんがあるインタビュアーに、「武さんは暴力描写の多い映画をたくさん撮っていらっしゃいますが、世間への影響をどうお考えですか?」と質問を受けた際、武さんは「世界には感動的な映画はたくさんあるけど、それで世界は平和になったかい?」と答えたそうです。
 もう、かっこ良すぎ。

<2011-5-4>
 「これは当てられたバッターも痛いですけれど、当てたピッチャーも痛いですよ」と、野球中継の解説者が「上手いこと言ったった感」たっぷりで言うの、嫌いじゃありません。

<2011-5-2>
 どうでもいいことを憶測で書きます。
 僕は男ですから、男性が女性に惹かれる気持ちは理解できますが、いまいち、女性が男性に惹かれる気持ちが理解できません。
 もし、性別が女性と男性というふたつだけではなく、第三の性別があって、全部で3つだとしたら、男性は変わらずに女性に惹かれると思いますが、女性は男性ではなく、その第三の性別に惹かれるのではないかと思う。
 いや、全く何の根拠もないのだけれど、ふと、そんな気がしました。
 女性は選択肢が無いから、仕方なく男性を選んでいるのではないかと……。

<2011-4-30>
 子供のころ、写真は今よりもずっと価値がありました。
 旅行へ出かけるとき、フィルムを何本持っていくか悩み、シャッターを押すときに少し緊張し、現像が終わるのをワクワクしながら待ったものですが、デジカメが当たり前になってからは、それらすべてがなくなってしまいました。
 楽に写真が撮れるようになったから、それだけ写真を多く撮るようになったかといえば、僕の場合は全く逆で、フィルムを使っていたころの方がよっぽど写真を撮っていました。
 自分が努力をして得たものほど愛着が沸くのは当然で、簡単にできるようになるということは、本質的な情熱を失ってしまうことなのかもしれません。
 これほどネットが普及する前は、嘘か本当かわからないような話を聞くことが多く、そんなストーリーには力がありましたが、今では即座に検索することで、それが嘘か本当かある程度は判ってしまいます。
 図書館で調べたり、詳しい人に聞いたりというプロセスを経なければ見極められなかった真実が、自宅にいながら簡単に見極められるようになることで、なんだか真実の価値がどんどんなくなっていっているような気がします。
 壮大な間違いに、何年も気づかず、格闘し、最終的には完全に徒労に終わりながらも、その経験から得られるものは、決して小さくありません。
 簡単に真実に辿りついてしまい、あれもこれもわかった気でいることを危険だとは思いませんが、「だったら靴箱の中で生きていけばいいのに」、と思わないでもありません。
 便利になるということは、「楽」と引き換えに、「熱」を失うことなのでしょう。

<2011-4-26>
 あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのです。

<2011-4-22>
 相手がまったく迷っていなくて、さらに状況をコントロールできる立場にいるときには、それが正しいかどうかなどは大した問題ではなく、相手が心地よくその道を進めるようにする以外に、私たちに出来ることは何もないのではないかと、お風呂に入りながらふと、思いました。もしくは、喜んでその人から離れるかの、どちらかなのでしょう。
 もちろん、その決定が自分にも大きく影響するのならば、黙っていてはいけないこともありますが、自分に全然影響がないのであれば、やはり、背中を押すか、離れるかだと思います。
 そこで自分の正義を振りかざすことは、野暮です。

<2011-4-19>
 「フラッシュフォワード」というアメリカのドラマがあります。(現在、テレビ朝日にて放送中)
 全人類が、同時に2分17秒間、意識を失い、その間に半年後の自分の姿を見てしまうというドラマです。自分の未来を知ったある人たちはそれを成就させるために、ある人達はそれを阻止するために生きはじめます。
 そのドラマの中で、こんなセリフが出てきます。
 「あの事件以来、私たちは共通の話題を手に入れた。今では誰と会っても、『あなたはあのとき何を見ましたか?』という話題で会話が始まる」
 今回の地震で、このセリフを思い出しました。
 あの時、何をしていたのか。どんな風にあの夜を過ごしたのか。
 誰もが自分だけの体験を持っていて、それを聞きたいし、話したいという欲求があるように思います。

<2011-3-15>
 もう、これを国歌にするべき。
 

<2011-3-9>
 誰もが、「自分のしていることは間違っていない」と思って生きているんですよね。
 もちろん、僕もそう思って生きています。
 「悪いこと」だと知りながらそれをする人は、悪人に見えますが、少なくとも、思想と行動が一致している分、周りに与える被害は限定的なのかもしれません。
 しかし、「正義は勝つ!」と自分の正義をぐいぐい押し付けてくる人は、「わからずに間違ったことをしている」可能性があるため、たちが悪く、被害は食い止められずに拡大します。
 「間違っていない」と思って行動しているのですから、反省できないのです。
 「誰もが自分は正義だと思っている」という事実を認めると、相手に対して滅多なことは言えなくなりますし、無駄な争いは減るんじゃないかと思います。
 相手の信念を変えることはとても難しく、自分の信念も簡単には変わりませんから、そのままの相手を受け入れられるかどうかという、非常にシンプルな付き合い方になるのではないでしょうか。

<2011-3-7>
 突然雰囲気が変わったり、おしゃれになったりする人を見て、やれ高校デビューだ、大学デビューだと言う人がいますが、そんなに意地悪な言い方をしなくてもいいのに。。。

<2011-3-6>
 中学のときの同窓会に出席してきました。
 同窓会に出席するのは、卒業以来はじめてで、実に24年ぶりの再会です。
 僕の顔を見て、誰も判ってくれなかったらどうしようと少し不安だったのですが、みんな覚えていてくれてホッとしました。
 こういった会に出席すると、「○○に似てるよね」と言われることがあります。
 今日は「スパイダーマン2の悪役に似ている」と言われました。
 ピンと来なかったので、家について早速検索。「アルフレッド・モリーナ」という俳優さんですね。確かにちょっと似ているかも。
 久しぶりにあだ名で呼ばれて、今日は中学生の気分でした。

<2011-3-5>
 明石家さんまがテレビで、「"幸せ"っていう言葉は人間が作ったもので、元々ないもの。あの言葉をなくせば、みんなもっと落ち着いた生活になると思う」みたいなことを言っていました。
 とってもいい言葉だなぁと思いました。
 「幸せ」だけでなく、「愛」も「恋」も「正義」も、昔はともかく、今は広告屋が作っている架空の概念なのかもしれません。「これが幸せですよ、これが愛ですよ、恋ですよ、正義ですよ、みんなやってますよ、やらないのはおかしいですよ……」と。
 ありもしないものを「ある」と信じて、人はこんなにも振り回されているのでしょう。
 「そんなものは本当はどこにもないのだ」、という視点で自分の生き方を再確認すると、捨てていいものがたくさん見つかるのかもしれません。

<2011-2-20>
 誘惑するのは悪魔と相場が決まっていますが、もう少し、神も本気を出して人間を誘惑した方が良いと思います。

<2011-2-19>
 ウニが嫌いだと言うと、何でみんな、「それ、本当に美味しいウニを食べたことがないからだよ」って言うのでしょうか?
 他の食材を嫌いだと言ったときに、こんなややこしい思いをすることはありません。
 しかし、ウニが好きな人たちは、ウニが美味しいことを決して譲ろうとしません。
 「昔は嫌いだったけれど、一度北海道ですごく美味しいウニを食べてから、普通のウニも食べられるようになった」という摩訶不思議発言をする人もいます。
 ウニが嫌いな人って、本当に美味しいウニを食べたことがあるとかないとか、そういうレベルを超えて、もっと決定的に、ただ「ウニが嫌い」なのだと思うのだけれど、違うのかな。
 それとも、ウニが嫌いな人でも感じられるほど、美味しいウニというのは、まったく別物なのでしょうか? それだったらいっそ、紛らわしいから別の名前で呼んで欲しいです。
 そんなハードルのあげ方をされたら、美味しくても美味しくなくても、素直になれません。
 ウニが好きな人たちの想像力のなさは、一体どこからくるのでしょうか?

<2011-2-16>
 さんま御殿を観ていたら、出川哲郎が、「先輩・後輩に言いたくても言えない事」というお題で、後輩のナイツに「本当は俺の事、尊敬しているのかい?」と聞いていました。
 彼がこの質問をしたとき、見事だなぁと思いました。
 ナイツが「尊敬していない」と答えれば笑いになりますし、「本当は尊敬している」と答えれば、「俺をつぶす気か!」とつっこむことで、やはり笑いになります。
 どちらに転んでも笑いが起こるように、彼が状況をコントロールしていたのです。
 番組では、ナイツは「尊敬していない」と答え、出川は「違う違う違う、テレビ的なコメントとかじゃなくて、本当の本当を聞かせて欲しいの」と笑いをとっていました。
 その後、さんまが「お前は出川を本当に尊敬しているやろ」とスリムクラブにふったところ、スリムクラブは「はい」と答えてしまい、ここで出川は「俺をつぶす気か!」とつっこみ、やはり笑いをとっていました。
 彼の質問は、相手がどちらを答えても正解ですから、広義の意味での「肯定的ダブルバインド」だと思います。
 芸人さんはやっぱりすごいです。

<2011-2-15>
 僕はブラックマヨネーズの吉田が大好きです。
 芸人としてもそうですが、彼の一生懸命な姿勢が、胸を打つのです。
 そして彼の卑屈な言葉も、笑えるのだけれど、どこか本気が混じっている気がして、 ときどき切なくなったり、かわいそうになったりします。
 だから、このPVを観たとき、笑う前に、もらい泣きしてしまいました。
 それにしても、金魚は一体どこから??
 

<2011-2-8>
 優しさと誠実さ。
 どちらかひとつ選べというのなら、迷わず誠実さを選ぶべきです。
 優しさはときどき、ものすごく大きな幸せを与えてくれますが、基本的に気まぐれで、あてにはなりません。
 誠実さは、サプライズこそ苦手ですが、いつもそばにいてくれて、あてになります。
 若いうちは、優しさを選びたくなる気持ち、とっても良く解ります。
 ただ、年を重ねたときに、「優しいだけでは駄目なのだ」と気づいても遅いのです。

<2011-2-1>
 以前から何度も不可解な童謡について書いてきましたが、童謡「やぎさんゆうびん」に対するフラストレーションも相当なものです。そうです、黒やぎさんが、白やぎさんからきたお手紙を食べてしまい、仕方がなく、「さっきの手紙のご用事なあに?」と白やぎさんに手紙を送ると、今度は白やぎさんがその手紙を食べてしまう、という、あの歌です。
 いくつかの疑問が残りますが、まずはじめに理解ができないのは、「やぎたちはなぜ、そこまで飢えているのか?」ということです。そしてこの疑問は、「飢えているにもかかわらず、なぜ自分の書いた手紙は食べないのか?」というふたつ目の疑問にも繋がります。
 この童謡を聴くと、やぎたちは条件反射的に手紙を食べているように思えますが、そうではありません。彼らはしっかり、「これが誰から来た手紙か」を理解した上で食べているのです。確信犯です。
 そして、そもそもはじめの白やぎさんの手紙には何が書かれていたのでしょうか。
 真相は何もかも、闇の中なのです。
 今日は、童謡「クラリネットをこわしちゃった」で「パキャマラド」と歌いだす主人公の精神性について書こうと思っていたのですが、小説「ノルウェイの森」で、学生が「ギリシャ悲劇よりもっと深刻な問題が現在の世界を覆っているのだ」と語ったのと同じように、途中で、「クラリネットをこわしちゃった」よりもっと深刻な問題が「やぎさんゆうびん」を覆っていることに気がつきました。
 何も訴えかけてこないような、中身のない歌は現在でもたくさん作られています。いや、むしろ大量生産されていると言っても良いかも知れません。しかしそれでも、童謡の中にみられる理不尽さ、不可解さに比べれば、予測範囲内です。「あなたを愛している」という気持ちをメロディにのせて歌いたい気持ちは多少なりとも伝わってきますし、そうではなかったとしても、奇をてらいたい気持ちは理解できます。
 しかし、「クラリネットの音が出ない、怒られる、どうしよう」と、延々とメロディにのせて歌いたい気持ちは、僕には理解できません。
 もちろん、童謡の中にも優れたものはたくさんあります。例えば「アイスクリームの歌」です。この曲の完成度は非常に高い。もしかしたら数ある童謡の中で、一番文学的に優れているかもしれません。
 「僕は王子ではないけれど、アイスクリームをめしあがる」……哲学さえ感じます。
 「喉を音楽隊が通ります」……素晴らしすぎます。
 実際、彼はクラリネットをとても大切にしており、壊しはしませんでした。クラリネットは、ただ、「壊れた」のです。
 そして今日も、やぎたちは手紙を書きつづけ、食べつづけます。

<2011-1-30>
 遠い存在の方が仲良くいられることってあると思います。
 1年に数回、久しぶりに会うような関係が、一番長続きするし、適度な遠慮があり、お互い優しいままでいられるのかもしれません。
 そういった意味では、「親しい友達じゃない」ことって、それはそれで素敵なことなのではないでしょうか。
 友達は多くなくていい、というのが、今のところ、僕の持論です。
 80歳になったとき、「お茶でも飲みにいらっしゃいませんか?」って誘える相手が、ひとりかふたりいれば、それで十分なのではないかな。

<2011-1-29>
 「子犬のワルツ」を聴くと、心の中に、子犬が戯れている様子が浮かびます。
 しかしこれはショパンに、「子犬が戯れている様子を音楽で表現できるほどの才能」があったからではなく、この曲に「子犬のワルツ」というタイトルがついているからだと思います。
 仮にこの曲が、「イチョウのゆらめき」というタイトルだったとしたら、僕はこの曲を聴きながら、黄色く染まったたくさんのイチョウの葉が、風に飛ばされてゆらゆら舞い落ちている情景をイメージしたことでしょう。
 僕は「子犬のワルツ」を、ショパンの曲の中では一段下に見ているふしがありますが、それはこの曲のせいではなく、タイトルのせいです。この曲を聴くと、どうしても子犬が心に出てきてしまい、どこか「子供のための曲」と感じるのです。
 「黒鍵のエチュード」が好きなのは、きっとタイトルが「黒鍵のエチュード」だからです。「黒鍵のエチュード」が、仮に「子犬のワルツ」というタイトルだったとしたら、何の違和感もなく、やはり心の中に子犬が出てきて、何だか台無しです。

<2011-1-28>
 「意外」と「案外」では、「案外」の方がワンランク上の表現な気がします。
 村上ショージの言う、「案外ベンチじゃない?」
 いま思えば、哲学なのかもしれません。

<2011-1-27>
 この2月で、祖母が亡くなって10年になります。
 祖母は明治生まれ。祖父の仕事の関係で台湾に転勤後、祖父を兵隊にとられ、終戦間際には同じ日本人町の人たちと、集団自決する寸前まで追い込まれた、戦争に人生を狂わされた世代のひとりです。
 4人の子供と、11人の孫に恵まれ、祖父も終戦後、無事に帰ってきましたが、祖父に先立たれ、晩年は一人で多くの時間を過ごしました。
 亡くなるまでの1年ほどの間は、私は毎週1度、金曜日の夜に祖母を訪ね、一緒に食事をし、色々な話をしました。祖母はとても優しい人で、祖母と過ごした時間の中に、嫌な思い出はひとつもありません。私が子供の頃は遠くに住んでいましたし、自分がおばあちゃん子だという自覚もなく、孫の中で特別に可愛がられたわけでもありませんが、私は祖母が大好きでした。
 明治の女ですし、戦争で辛い思いをたくさんしてきた人なので、昭和生まれの私とは比べ物にならないくらい、芯の強さがあり、亡くなるその日まで、自分の脚でトイレに行ったほどです。物事の悪い面に目を向けても何も変わらないことを人生を通して学んできたのでしょう、基本的に弱音を言うことはありませんでした。
 それでも体が不自由になり、昼間は孤独と闘い、することも、するべきこともない日々が長く続くと、ときどき「はやく死にたい」と言うことがありました。祖父が亡くなってから15年も経っており、趣味だった庭仕事もできなくなり、ただ、庭を眺め、ときどき鳥がやってくるのをじっと待っているような、そんな毎日でした。
 子供たち(私の母とその兄弟)は、祖母がそんな弱音を言うと、「そんなこと言うものではない」と全力で励まし、長生きさせようとしていましたが、私は毎週祖母に会っていると、祖母の気持ちがとてもよくわかったので、祖母が「死にたい」と言うたびに、その気持ちを否定しないで、祖母の思いをすべて聞いていました。
 祖母が亡くなったとき、お葬式ではたくさん泣きましたが、それよりも、「おばあちゃん、良かったね」という気持ちの方がずっと大きく、大好きな人が死んでしまった喪失感は全く感じませんでした。祖母はその日に亡くなったわけではなく、1年間、会うたびに少しずつ、あちらの世界へ近づいていっているのを感じていましたので、私の中では、十分な準備ができていたのだと思います。
 祖母は几帳面で、日記をつけており、それとは別に、何かあるたびに、和歌を作っていました。お葬式の前日、記念になるものを作りたいと思い立ち、祖母の日記と和歌、そしてアルバムをあずかって、徹夜をして記念誌を作りました。
 先日、ふとしたきっかけで、10年ぶりにその記念誌を読み直しました。祖母は10年前に亡くなりましたが、その中ではまだ、元気に生きていました。私は読みながら、お葬式では感じなかった、大きな喪失感を覚え、何度も胸がつまりました。
 最期の1年間、十分、祖母の話を聞いてきたつもりでしたし、後悔はありません。それでも、1日でもいいから祖母が生き返って、もう一度お話ができたらどんなに素敵なんだろうと、そんなことを思いました。
 記念誌の中の一部をご紹介します。
 「一人暮らしの夕暮れ1」というタイトルがつけられている散文で、これは祖母が80歳のときに書かれたものです。(祖母は92歳で亡くなりました)

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「一人暮らしの夕暮れ1」  (昭和63年5月6日)

老いて一人暮らしの夕暮れ、大きな「クシャミ」が連続3回。
よい噂かな? 悪い噂かな? まあ、どちらでもかまわない。なぜなら……
この世で誰か私を話題にしていて呉れる人が居ると思っただけで、私は喜ぶのである。
今日もよく働いた。趣味に生きる毎日は素晴らしいことなり。
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<2011-1-26>
 人は正直であろうとしているときでさえ、事実を語るのではなく、信じていることを語るのであり、信じたいことを語るのだと思います。

<2011-1-22>
 「部屋とYシャツと私」は、ロマンスグレーのくだりから、我慢が出来なくなります。

<2011-1-21>
 頭が良くなるのは難しいですが、頭の良いふりをするのは、案外簡単な気がします。
 客観的っぽいことを言えば良いのではないでしょうか。
 「猫は4本脚の動物だけれど、4本脚の動物がすべて猫なわけではないでしょう」みたいに。
 あれ、やっぱり違うかな。(^^;;

<2011-1-19>
 僕は今、38歳です。
 自分より年下の人と話すときには、相手が自分より20歳上だと思って話すことがあります。つまり、58歳です。
 なぜそんなことをするかというと、年下にだって敬意を払わなければならないし、反対に若さに遠慮する必要もないからです。
 自分より年上の人と話すときには、相手が20歳下だと思って話すことがあります。18歳です。
 年上だからといって自分より可能性が残されていないと思ってはいけないし、反対に権威にたじろぐ必要もないからです。
 年老いた相手の姿や、若かったころの相手の姿を想像するだけで、相手に対する感じ方がガラッと変わることがあり、大抵は、とても優しい気持ちになります。

<2011-1-17>
 今日、マクドナルドで学んだこと。
 「混んでいるからといって、並ばなければ手に入らない」
 当たり前のことでも、こうやって文章にすると、格言みたいに聞こえるから不思議。

<2011-1-15>
 テレビでやっていた、Eaglesの番組があまりにも良かったので、3月に東京ドームで開催されるライブのチケットを買ってしまいました。
 去年、オザケンのライブを観たとき、もうこれ以上のライブを観ることは一生ないだろうと思っていましたが、1年も経たないうちにそれ以上を観られそうです。
 今でも、新しいアーティストを好きになることはありますが、若かった頃、のめりこむように聴いていた聴き方とは違います。今から大学に入学したところで、二十歳に戻れるわけではないのと同じで、心がやわらかかった頃のような聴き方は、もう二度とできないのでしょう。
 そう考えると、僕にとってEaglesは、観られる可能性のある、最後の大物かもしれません。
 現実のことは忘れて、非日常を楽しんできたいと思っています。
 

<2011-1-13>
 ファーストガンダムに、リンゴを買った連邦軍の兵士が、代金を払わないシーンがでてきます。
 お金を払ってくれるように懇願するリンゴ売りのおばさんに対し、兵士はお金を地面に投げます。
 お金を拾おうとするおばさん。
 するとアムロが叫びます。
 「やめろおばさん。拾っちゃ駄目だ!兵隊に拾ってもらうんだ!」
 その後、アムロは兵士にボコボコに殴られてしまうのですが、僕はこの、「拾っちゃ駄目だ!」というアムロの考え方は、結果はどうであれ、正しいと思いますし、例え痛い目にあっても、ここに踏みとどまれるかどうかで、人生が大きく変わってしまうような気がしています。
 目先のお金を拾うことは簡単ですが、それをしてしまっては、もう、後戻りができなくなってしまうのです。

<2011-1-7>
 「どこでもドア」はストレートな道具です。あったら欲しいなぁと思います。
 同じく、「タイムマシン」も「スモールライト」も、テクノロジーが進化した暁に人類が作ろうとするであろうことは、容易に想像できます。
 しかし、「ほんやくコンニャク」開発の経緯は、我々現代人の想像力を超えています。
 なぜ未来人は、語呂合わせの為だけに、わざわざ翻訳機をコンニャクにしてしまったのでしょうか?
 企画段階で「No!」と言える上司はいなかったのでしょうか?
 それともすべては、欲しい物は何でも手に入れてしまった後の、未来人のワルノリに過ぎないのでしょうか?
 「宝の地図探し機」はレーゾンデートルを見失っていますし、「魂いぶり出し機」にいたっては、怖すぎです。
 「売れるものなら、どんなものでも売る。それを支える、欲望……」
 浜田省吾の歌を、ふと、思い出しました。

 

<2011-1-5>
 「まったり」とか「ほっこり」という言葉が、何故か好きになれません。
 きっと、これらの言葉を好んで使う人たちに、偽善的な押し付けがましさを感じるからだと思います。
 こちらはこちらで、勝手にゆっくりしたり、癒されたりしていますから、どうかそっとしておいてください。

<2011-1-2>
 僕はお風呂に入ると、湯船からなかなか出ることができません。
 いろんな事をぼんやり考えていると、すぐに時間がたってしまうし、はやく出なくちゃって思うのだけれど、あと5分、あと5分と思っているうちに、気がつくと1時間くらいたっていることもあります。
 今日は、「過去の自分の人生の中で、ひとつだけ、あったことをなかったことにできるとしたら、何をなかったことにするか?」を考えていたら、全然答が出なくて、ずっと考えてしまいました。
 以前は、ひとつのことがなければ、それに関連することが全部なくなるわけだから、人生が全然変わってしまうと考えていましたが、改めて考えてみると、ひとつのことがなかったところで、結局は今の自分なのではないか、と思いました。
 どこまでいっても、そこには自分がいて、その自分を通して世界と接しているのですから、何が起こっても、起こらなくても、自然と同じところに流れ着くのかもしれません。
 お正月は時間があるので、反省ばかりしてしまいます。

催眠療法で癒しを体験してみる部屋