直喩と暗喩

例え話をするとき、直喩にするか、暗喩にするか、という選択があります。

直喩というのは、「○○は□□のようだ」と直接比較して例えることを言い、暗喩というのは、そのような対比形式で例えないで暗示的に訴える表現方法のことを言います。

ミルトンエリクソンは「心理療法とは何ですか?」とうい質問に対し、迷い馬の例え話をしました。

彼が子供のころ、一頭の馬が、鞍をつけたまま、道を歩いていたそうです。エリクソンはその馬が、誰の馬か、どこから来たのかを知りませんでしたが、馬にまたがり、その馬を持ち主のところまで送り届けました。持ち主は帰ってきた馬を見て非常に驚き、「どうしてうちの馬だとわかったのですか?」とエリクソンに質問しました。エリクソンはこう答えました。「もちろん、私はお宅を知りませんでした。でも、この馬は知っていました。私はただ、馬にまたがって、馬が道草を食べようと道から外れようとするたびに、馬を道に戻しただけです」

そしてエリクソンはこう続けました。「私は心理療法というのは、そのようなものだと思うよ」

このエリクソンの例え話は、暗喩ではなく直喩です。もし彼が、「心理療法とは何ですか?」という質問を受けていない場面で、誰かに心理療法を解らせようとこの話をし、更には、「心理療法というのは、そのようなものだと思うよ」とは結ばずに、ただの雑談のように話したとしたら、それは暗喩になると思います。

一般に、エリクソンの影響を受けた人々や心理療法家は、直喩よりも暗喩を使うべきだと考えているように思います。

確かに、直喩の場合はメッセージを理性が受け取るので、暗喩よりも抵抗を受けやすいことがあるのかもしれません。一方、暗喩の場合は、無意識に語りかけるので、抵抗を受けずに、相手が気がつかない間に相手の行動や気持ちにアプローチすることができるのかもしれません。

どちらを使うべきかはケースバイケースで、何が何でも暗喩を使うべきだとは思わないし、いつも直喩である必要もないと思いますが、僕はどちらかと言うと、直喩の方が好きです。何故かと言うと、暗喩というのは、相手に気づかれた場合、すべてが台無しになって、余計に相手が心を閉ざしてしまうことがあると思うからです。

暗喩はそれと気がつかれた時、強烈な嫌味に聞こえる場合があります。(もちろん、上手な暗喩は気がつかれてもそうは受け取られないのかもしれませんが)

また、日本人は、ただでさえ、言葉の裏を読む民族なので、せっかく無意識に投げかけた暗喩が、結局は理性で受け取られてしまうことが多いように思います。

暗喩が本当に効果を発揮するのは、子供だと思います。物語に散りばめられたメッセージは、自然に子供の心に吸収されていきますね。一方、大人は子供のように、物語をそのままで吸収する力が衰えている場合があるので、この人はこの話で何を言いたいのだろう?、などと考えてしまうことがあります。

相手が大人の場合、あえて直喩にすることで、逆にメッセージが受け取りやすくなるのではないかと僕は思っています。

催眠も同じです。

直接的な暗示をするか、間接的な暗示をするか。

指示的な誘導をするか、間接的な誘導をするか。

どちらも、後者の方が新しく、優れているとされている気がしますが、僕は意外に、前者の方が日本人には合っているのではないかと思っています。

人間って、制限されたり指示されたりするのが心地良いときがあると思うんです。

例えばワークショップなどでパートナーを決めるとき、僕は「自由に相手を決めて練習してください」と言われるよりも、「この列の人はこの列の人と組んでください」等、相手を強制的に決めてもらった方が、はるかに楽です。自由に相手を選べるということは、自分に合いそうな人、練習しやすそうな人を選べる可能性があるのですが、それを差し引いて考えても、決めてもらった方が楽です。

「あなたの手は上るかもしれないし、下がるかもしれませんし、そのままそこに留まるかもしれません」という言い回しは、一見、抵抗を受けず、失敗が少ないように聞こえますが、「どうしろって言うのよ!」とその言い方自体に反発を覚える人も少なくないし、「手が上がります」と断言してもらった方が気持ちよく反応できる人も、多いのではないかと思います。

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