不可解な童謡シリーズ

「どんぐり ころころ」
 童謡「どんぐり ころころ」で、調子よく一緒に遊んでいたくせに、突然、「やっぱりお山が恋しい」と泣いてドジョウを困らせるドングリのワガママぶりはどうなんでしょうか。
 ドングリを「坊ちゃん」などと呼び、親切にも遊んであげているドジョウの人生には何があったのかも気になりますし、「ドンブリコ」という意味不明な造語も、マジンガーZの主題歌に出てくる「マジンゴー」に匹敵するほど「?」です。

「おおブレネリ」
 「おおブレネリ」という歌がありますが、よく考えると訳の判らない歌です。
 「おうちはどこですか?」と聞かれたブレネリさんは、「スイッツァランドよ!」と頓珍漢な回答をし、相手は「いやいやそうじゃなくて、住んでいる家はどこなのよ?」と聞き返すこともせず、ふたりで陽気に、ヤーッホー!ホートランランラン!と踊りだすのです。
 童謡「どんぐりコロコロ」で、お池にはまって困っているどんぐりに対し、「坊ちゃん、一緒に遊びましょう!」とのんきなことを言い出すドジョウと、このブレネリさん。
 国は違えど、童謡の方法論は万国共通なのかもしれません。

「森の熊さん」
 童謡「森の熊さん」は、なぜか2番から雲行きが怪しくなります。

 「私にはその価値があるから」っていうコマーシャルがありますが、実際にそんな風に思っている女性って、案外多いように思う。
 「ごめんなさい、きれいで」と全身で言いながら歩いている女性を見ると、思わず道をあけてしまいます。
 童謡「森の熊さん」に出てくる女の子も、「あら熊さん、ありがとう。お礼に歌いましょう」と、自意識過剰な発言をしていますね。
 そういった意味では男性はみんな、本当のところ自分に自信がないんじゃないかな。
 いや、全部僕の偏見なんですけど……。

「アルプスの少女ハイジ」
 童謡「森の熊さん」に出てくる女の子の、「あら熊さん、ありがとう。お礼に歌いましょう」も自意識過剰ですが、「アルプスの少女ハイジ」の、「あの雲は何故、わたしを待ってるの」も、かなり自意識過剰です。
 自分中心に世界が回っていると思ったら、大間違いです。

「山寺の和尚さん」
 数ある童謡の中で、「森の熊さん」についで不可解なのは「山寺の和尚さん」ではないかと思います。
 この歌の不可解さは、3つの点に集約されます。
 1.和尚にとって鞠を蹴ることが日常的であるという設定。
 2.代用品を作ってまで鞠を蹴らなければならないという強迫観念。
 3.猫をかん袋に入れれば鞠の代わりになるという発想。
 童謡とはいえ、和尚という立派な身分のある大人が、「さて、暇だから鞠でも蹴るかな」と思っていることがまず理解できません。そして、鞠がないのならば諦めれば良いのに、鞠の代わりになるものを作ってでも蹴りたい衝動にかられているのも理解に苦しみます。更に、猫を袋に押し込めば鞠のようになるという発想はどこから生まれたのか、こちらも理解できません。袋につめれば鞠になりそうなものはいくらでもあるのに、何故に猫なのでしょうか。うちにも猫がいますが、袋に入れて蹴るというのはかなり残酷な行為です。
 そして一番不可解なのは、楽しげなメロディにのせてまで、何でこのような歌を歌わなければいけなかったのか、ということです。

「サッちゃん」
 童謡「サッちゃん」。
 1番と2番は、サチコって呼べないだとか、バナナは半分しか食べられないだとか、能天気なテイストの歌だったのに、3番の悲しさはガチ過ぎます。

「アルプス一万尺」
 童謡「アルプス一万尺」では、「アルペン踊りをさあ踊りましょ」と気軽に誘っていますが、誰もがアルペン踊りを知っていると思ったら大間違いです。
 ……っていうか、アルペン踊りって、一体??

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