キキ以前の村上春樹

学生のころ、村上春樹の小説が大好きでした。

それまで、音楽や美術が芸術というのは当たり前のように理解していましたが、文章が芸術になり得るということが、頭では理解できても、感覚的に理解できたことはありませんでした。

村上春樹を読む前は、遠藤周作が好きだったのですが、遠藤周作の場合は芸術というよりは、むしろ精密機械のような印象があり、小説というのは決して身近なものではなく、ある種の職人が、膨大な資料を調査し、取材した結果、紡ぎだされるもの、と思っていました。

初めて村上春樹の小説を読んだとき(デビュー作「風の歌を聴け」を読みました)、ストーリーではなく、文章で人を楽しませることができるのだと、大きな衝撃を受けました。

事実、「風の歌を聴け」にはストーリーらしいストーリーはなく、何も起こらず、登場人物には名前さえありません。不要な物はすべてそぎ落とされ、純粋に文章だけを楽しむという経験は初めてでした。

まるで音楽を聴くように、何度読み返しても楽しめるし、適当なページを開いて読み始めても楽しめました。

初期の村上作品には、一度読んだだけでしっかり心に根を下ろしてしまうような一文が溢れていました。

「カフカ的というよりはむしろカミュ的」、「私は貧弱な真実より華麗な虚偽を愛する」、「誰もが知っていることを小説に書いて、いったい何の意味がある?」、「髪が長くて下品な女の子なんて250人くらい知ってるわよ」等々。

残念ながら、最近の村上春樹の小説からは、初期の作品のような面白さを感じられません。小説を書くのにワープロ使うようになったからではないか、などとファンの間で言われることもありますが、僕は、「羊をめぐる冒険」に登場した耳のモデルをしているガールフレンドに、「ダンス・ダンス・ダンス」で「キキ」という名前をつけてしまったことが、そもそもの間違いだった気がしてなりません。

彼女は決して「キキ」なんかではないし、そこで緊張感が切れてしまったのか、今までの穴を埋めるかのように、登場人物に「ユミヨシさん」や「五反田君」等という名前が与えられ、ストーリーに事件が頻発するようになったのは、とても残念なことです。

僕としては、羊男は「あり」だけど、カーネルサンダースは「なし」なのです。

「ノルウェイの森」の「直子」や「キズキ」、「レイコさん」にも名前は与えられましたが、こちらはぎりぎり持ちこたえている感じがします。もともとの「蛍」は「キキ以前」の短編ですし、「ノルウェイの森」はその正常進化版という感じがします。(逆に、「ねじまき鳥クロニクル」は「ねじまき鳥と火曜日の女たち」の正常進化版にはなれませんでした)

何でこんなことを書いているかと言うと、秋になると、「ノルウェイの森」を読みたくなるからです。枯葉の舞っている道を、主人公と直子が歩いているシーンを、もう一度体感したくなるのです。

ちなみに、夏になると読みたくなるのは、「風の歌を聴け」と「午後の最後の芝生」です。

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