理解に対する幻想

 「もっと遊びたかったらしい」と、「もっと遊びたいらしかった」というのは、似たような文章ですが、意味が微妙に違いますね。
 外国人から、このふたつの文章の違いを説明して欲しいと言われても、すぐにパッと答えられる人は少ないのではないかと思います。
 一度、頭の中で解釈する時間が必要です。
 一方、感覚的には、文章を読んだ瞬間から違いを感じていますね。決して説明は出来ないかもしれないけれど、同じ意味でないことは解っています。また、そういった状況になれば、このふたつを完璧に使い分けることも出来ます。
 理解する能力と説明する能力って、本当は全く別の能力なのですが、「理解しているのならば説明できるはずだ」という幻想を多くの人たちが持っていることは、必要のない誤解や争いをうむ原因となっていると思います。「何でこんなことしたの!」と怒られたとき、例え正当な理由があったとしても、それを相手に伝えられなければ、「正当な理由もなく、そんなことをした」とみなされるわけですから。
 また、一般的に、説明する能力に長けている人ほど「理解している」と思われがちですが、それも幻想だと思います。説明できないけれど理解力に長けている人も、もちろんいます。5で理解したものを5で説明できる人と、10で理解しているのに1でしか説明できない人がいたとしたら、前者の方が理解していると思われるのは仕方のないことですが、本当にパフォーマンスを発揮できるのは、後者でしょう。
 何かを感じることと、それを言語化することは別なんですよね。愛情表現の下手な人が愛していないわけではないし、愛情表現の上手な人が愛しているわけでもありません。
 もしかしたら、理解力のある人は説明する必要なんてないからどんどん説明が下手になっていくし、理解力のない人は言葉で確認しないと理解できないのでどんどん説明がうまくなっていくのかな。
 さて、皆さんが冒頭のふたつの違いを説明するとしたら、どんな風に説明しますか?

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