ひとりごと
2007年 5〜8月

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<2007-8-31>
 以前も似たようなことを書きましたが、久しぶりに、Windows2000のマシンを触りました。
 しかもそのマシン、Windows2000時代にすでに時代遅れになっていた、CPUはPentium MMX 233MHz、メモリは64MB、HDDは2.1GBという、今からすれば超ロースペック。プリインストールOSはWindows98だったマシンに、無理やりWindows2000を入れたものです。
 ここここを見ているうちに、どこまでできるのか遊んでみたくなって引っ張り出してきました。
 で、早速不必要なサービスやデバイスをばんばん切り、設定をいじり倒し、最後にデフラグかけました。
 すると、「ぜんぜん使えるじゃん!」という驚きの結果に……。
 OSこそ違えど、今使っているパソコンとそれほど変わらない感覚で、普通に使えます。
 もちろん、素で入っているもの以外、常駐ソフトは一切無し。(ウイルスソフトもなし)
 「ネットは使わない」という前提で、WindowsのSPもパッチもあてませんでした。
 スタンドアローンで使うなら、セキュリティなんて必要ありません。
 ネットワークに繋がないのって、なんて素敵なんでしょう。
 OpenOfficeを入れて、ワープロ代わりには使えそうです。
 PRIDEで戦闘竜が豪快に勝利したときの名言、「相撲は強いんだよ!」と同じ語調で、「Windows2000は軽いんだよ!」と心の中で叫びました。

<2007-8-30>
 ここ数日、多忙にしており、皆様からのメールになかなかお返事を書くことが出来ません。
 もう少し、お待ち下さい。

<2007-8-29>
 猫じゃらしって、本当に猫は好きですね。
 うちのマロン、猫じゃらしを揺らすだけで狂ったように飛びついてきます。

<2007-8-28>
 忙しいって、良くないですね。
 やろうと思っていることが片付かないと、ついつい夜更かししてしまいますが、それが何日も続くと、元気がなくなります。
 時間の余裕は心の余裕と関係がありますね。

<2007-8-27>
 昨日セミナーが終わったばかりですが、「催眠のかけ方セミナー・中級編」の開催が正式に決定いたしました!
 初級編ではお伝えし切れなかったテクニックがまだまだありますので、続編を行います。
 日時は9月29日の午後1時より、場所は同じく、高円寺のスタジオKです。
 前回同様、ワーク中心のセミナーになります。
 くわしくはこちらをご覧下さい。
 皆様にお会いできることを、楽しみにしています。   

<2007-8-26>
 「催眠のかけ方セミナー・初級編」にご参加いただいた皆様、本日は本当にお疲れ様でした。
 こちらのリサーチ不足でまさか阿波踊りとかぶるとは思っていなかったのですが、どうにか2次会まで無事に開催できてホッとしています。
 今回、内容が多く、練習の時間が足りなかったこと、反省しています。次回からは、さらにワークの時間を増やそうと思います。(会場の温度ももう少しあげますね)
 「あるテクニック」はいかがでしたか?
 もしかしたら、今日の中で一番実践的なテクニックだったのではないかと思います。
 このテクニックは、是非、口外せず(笑)、自分だけの秘密のテクニックにして、コミュニケーションの武器として使ってくださいね。
 次回は9月29日の予定です。
 まだ、何も内容は決まっていません。
 今日の続きをするのか、それとも、全く違ったセミナーにするのか……。
 何かリクエストがあれば、是非、教えてください。
 皆様とお会いできて、本当に嬉しかったです!
 ありがとう。

<2007-8-25>
 いよいよ明日、久しぶりのセミナーです。
 催眠だけでなく、参加者の皆様には、びっくりするような「あるテクニック」をお教えします。
 実はそちらを教えることの方が、個人的には楽しみだったりして。(^^;;

<2007-8-24>
 今日は山梨の昇仙峡というところへ行って来ました。
 中央自動車道で行ったのですが、僕はサービスエリアやパーキングエリアが大好き。
 途中で寄った談合坂では、大した用も無いのに1時間近くウロウロしてしまいました。
 サービスエリアに寄ると、すごく旅行をしている気分になります。
 周りにいる人たちの半分以上は観光客で、彼らの放出するワクワクした空気が、そのままサービスエリア中に充満しています。
 そんな空気の中にいるだけで、僕の心も同調して、何だかワクワクしてきます。
 あの空気、空港にも充満していますね。
 でも食べ物やお湯と一緒で、こちらの体力が無かったり、空気の密度が濃すぎたりすると、サービスエリアにあたって(湯あたりの「あたる」です)、気分が悪くなったりもします。

<2007-8-23>
 書くことがないので、今日の日記。
 今日は朝から、セミナーのテキストを作って、プログラムを作って、アンケートを作って、お昼に天ぷらそばを食べて、夜にはラーメンズの動画を観ました。
 若干の夏休みモードです。

<2007-8-22>
 セミナーが行われる26日は、ちょうど高円寺で阿波踊りがあります。
 僕は実家が下高井戸で、下高井戸も何故か、夏には阿波踊りをするので、あのリズムを聴くと、妙にテンションがあがります。
 夜店もいっぱい出て、子供の頃は夏休みの楽しみでした。
 「踊る阿呆に観る阿呆、同じ阿呆なら踊りゃなそんそん」
 何だかこの発想は、聖書の中に出てくる「不正な管理人」のたとえ話に通じるところがあるような気がします。 

<2007-8-21>
 僕はよく、ボトル入りのガムを買うのですが、ボトルの中に、小さな付箋紙のような「捨て紙」が入っています。
 この捨て紙ですが、今まで一度も、足りたことがありません。
 いつも、まだガムが残っているのに、捨て紙の方がなくなってしまいます。
 捨て紙は毎回使っているわけではなく、例えばレシートにくるんで捨てたり、ちり紙に捨てたりもしますので、逆に「捨て紙があまる」のなら理解できるのです。
 また、たまたま足りないことがあった、というのなら、それもまた、首を傾げつつも、いずれ忘れてしまうことでしょう。
 でも、そうではない。
 毎回必ず足りないのです。
 それを見越して、なるべく使わないようにしても、それでも足りないのです。
 何故?
 お菓子メーカーは、ガムの数も把握せずに適当に捨て紙を入れているのでしょうか?
 それとも、ポケットの中のビスケットを叩くとビスケットが増えるように、深夜、僕の知らないところでガムが増殖しているのでしょうか?
 はたまた、捨て紙をこっそり盗んでいく人がいるのでしょうか?
 謎は深まるばかりです。

<2007-8-20>
 もうすぐ夏が終わりますね。
 僕は6月が終わったときに「今年も半分終わっちゃったよー」と焦ったりはしませんが、8月が終わると「あぁ、今年も3分の2が終わっちゃったんだな」と、しみじみ思います。
 気が早いですが、9月になると、もう、クリスマスや年末のことを考えます。

<2007-8-19>
 デフラグを実行すると、つい、ハードディスクが綺麗になっていく様子を、何分も飽きずに眺めてしまいます。
 結構、デフラグを眺めるのが好きな人って多いんじゃないかなぁ。

<2007-8-18>
 冷蔵庫が止まった後の静寂って不思議です。
 何も準備が出来ていないのに、いきなりステージに放り出されたような、そんな気分になります。

<2007-8-17>
 深夜に放送していた、「THE JAPANESE TRADITION〜日本の形〜」を観ました。
 外国人に日本の文化を紹介する(?)ショートフィルムなのですが、流しソーメンのくだりが最高!
 「ジャパニーズ・トラディション・シリーズ史上、最上級の謎が、白昼堂々あらわれました。竹製のウォータースライダーを移動する白く細いヌードルを箸で捕まえ、醤油につけて食べます。日本人の奇行です。何故こんな食べ方をするのか、謎です」

<2007-8-16>
 「子供のための哲学対話」(永井均著 講談社)を読み返しました。
 これ読んだの、結構前だったのですが、改めて、気づかされることがたくさんありました。
 今日、一番心に響いた言葉。

ペネトレ: 人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ。そして、友情って、本来、友だちなんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たないものなんじゃないかな?

 本当にその通りだと思います。
 寂しさを埋めあったり、束縛しあったりするのが友情じゃないですね。
 以前ご紹介した、「ゲシュタルトの祈り」にも通じるところがあると思いました。

<2007-8-15>
 今日もマシンセットアップの続きをしています。
 OSのインストールは無事に終了しましたが、前面パネルのヘッドフォン端子から音が鳴りません。
 ケースの端子の位置とマザーボードの端子の位置が違っており、現在悩み中……。

<2007-8-14>
 新作マシンのパーツ一式が届いて、早速組み立てましたが、流用したDVDドライブが古いせいか、OSのインストール途中でファイルを読み込んでくれません。
 いまどきFDによるBIOS更新なのですが、それもうまくいかず。(FDドライブも流用しているからそのせい?)
 また眠れない夜が続きそうです。

<2007-8-13>
 ゴールデンウィークとかお盆とか年末年始の、街の「よそゆき」の感じが好きです。

<2007-8-12>
 今日はブルーベリーの収穫をしました。
 ご覧の通り、大収穫!
 量ったところ、1.5kg ありました。
 ブルーベリーの栽培を本格的に始めてから、今年で3年になりますが、これだけの量がとれたのは初めてです。
 ちなみに、これは2本の木(ティフブルーとバルドウィンという品種)からの収穫です。
 毎日とまでは言いませんが、週に一度、これくらいの量がとれると、結構楽しめると思いました。
 小粒の実はジャムにしましたが、これがまた美味!
 アイスクリームにジャムをひとさじ、そして生の実をトッピングして食べると最高です。
 苦労がやっと報われた気持ちがしました。

<2007-8-11>
 1ヶ月くらい前から、初心に戻って毎日何か書こうと心に決めていました。
 義務感でやるものではない、と解ってはいるのですが、「何か書かなくちゃ」と頭をひねらせている時間が実は大切なのではないかと思う気持ちもあり、例え1行でも何か書こうと思っています。
 あぁ、でも今日は限界。
 何も出てこないのです。
 毎日書いていて気がついたのですが、生きていて何か刺激があったり、楽しかったり、そういうのがあると書けますが、単調な生活を続けていると、途端に書けなくなりますね。
 あと、疲れているときも書く気になりません。
 当たり前といえば、当たり前ですが。

<2007-8-10>
 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」公開まで、あと1ヶ月を切っているんですね。
 もっと話題になってもいいような気もするけれど、もうエヴァには神通力はないのかな?

<2007-8-9>
 Intel か AMD かで悩んでいたPC自作ですが、依頼主のコスト優先の一言で、AMDに決定しました。
 クロック的にはうちの Duron と変わらないAthlon64 がどれだけ速いのか、今からワクワクします。

<2007-8-8>
 今日は、グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学」の中で痺れた一節を引用します。

 人間はこれまで、たとえばキリスト教やテクノロジー信仰の中で「この世の楽園」の青写真を描き、手段を省みずにその実現を図るということを繰り返してきた。そしてそうした企ては、繰り返し悲劇のなかで挫折してきた。そのように進行してしまうプロセスの必然を、科学的に知ることが可能だとわたしは思う。その種の計画推進者は、ひとつの大事な点を忘れているのだ。それは、社会をいじる時の道具が、ハンマーでもドライバーでもなく、生身の人間だということである。ドライバーは、クサビ代わりに使ったとしても、たいした影響を受けるわけではないし、ハンマーの柄を挺子(てこ)として使っても、それでハンマーの性質が歪んだりするわけではない。しかし人間を道具として使うときには、学習という現象が避けがたく起こる。そして、人間が獲得する習慣は、彼を操作しようとするものが植えつける個々のふるまい方よりも、もっと細やかで、もっと深くしみ込んだものなのだ。

 催眠やNLPを勉強し、またそれを使用するとき、いつも心に覚えておきたい言葉です。

<2007-8-7>
 越後製菓の「ふんわり名人 きなこ餅」を初めて食べました。
 食べてびっくり! あり得ない食感、そして、きなこ餅そのままの味。
 超美味しいです。
 ランチパックの「キナコモチ」を食べたときも美味しさにびっくりしましたが、それ以来の衝撃です。
 意識したことはなかったけれど、僕はきなこ餅が好きなのかな?
 思い返せば子供の頃、キナコモチというアイスがあって、狂ったようにそればかり食べていた時期がありました。中にお餅が入っていて、すごく美味しかったのです。
 でも、本物のきなこ餅は、あれば食べるけれど、率先して「あー、きなこ餅たべたーい」というほど好きではありません。
 すぐ硬くなってしまうし、準備も大変だし、きなこは散るし……。
 きっと、手間のかかるきなこ餅をお手軽に……、という角度から責められると、僕は弱いのかもしれません。
 ふんわり名人、是非、皆さんもお試し下さい。 

<2007-8-6>
 「サルスベリ」という木があります。
 猿もすべって登れないことから、「サルスベリ」と名づけられたようですが、ということは、猿ありき、なんですね。
 言葉って不思議です。
 「猿」はどうして「猿」と呼ばれるようになったかは判りませんが、「サルスベリ」は、「猿」を「猿」と人が呼ぶようになった後に名づけられたわけです。
 ということは、しばらくの間は、「猿」は「猿」と呼ばれているのに、「サルスベリ」には名前が無かった時期があったということでしょう。
 そのときは本当に名前の無い木だったのかな。それとも、他の呼び名で呼ばれていたのでしょうか。
 「サルスベリ」だけでなく、「バフンウニ」とか「スッポンモドキ」とか「カニクイザル」って、なんだか自立を禁じられている気がします。

<2007-8-5>
 26日に予定している「催眠のかけ方セミナー」ですが、おかげさまで、残席あと4席となりました。
 ご希望の方は、お早めにお申し込みくださいね。(^^)
 (参加希望者の 1/3 弱が女性ですので、女性の皆様もお気軽にどうぞ!)

<2007-8-4>
 何故だか知らないけれど昔覚えた英熟語。
 "Step on the gas"
 意味:アクセルを踏み込む

<2007-8-3>
 年を取れば取るほどつくづく感じるのですが、何が正しいかなんて、現実社会では大した問題ではないですね。
 どれだけ愛されているかが問題なのだと思います。
 とても悲しいことだけれど。
 だって、愛は気紛れだから。

<2007-8-2>
 久しぶりに、PCを1台組み立てることになりました。
 PCの自作は、AthlonXP世代に作ったきりですので、最近のトレンドが解らず、いろいろ調べてみました。
 僕は昔から反Intelでしたので、AMDや、今は亡きCyrix、更にはIDTのCPUを使うことはあっても、IntelのCPUを購入したことはありませんでした。
 しかし、調べれば調べるほど、Core2DuoはPentium4世代とは比較にならないほど良いCPUみたいで、Athlon64 X2とどちらにすればいいか悩んでいます。
 最近PCを組んだ皆様、どうか僕の肩をポンと押してください。(^^)

<2007-8-1>
 「すべての催眠は自己催眠である」という言葉をよく聞きます。
 僕もずっと、そうだろうなぁと、何の疑いもなく信じてきました。
 だけど、ベイトソンのダブルバインド理論を読んでいて、もしかしたら、自己催眠を含め、「すべての催眠は他者催眠だ」ということもできるのではないかという気がしてきました。
 もし本当にすべての催眠が自己催眠なら、そもそも「自己」とか「他者」などという言葉をつける必要はないし、他者催眠なんて存在すらしないということになります。
(ちなみに、欧米では日本と違い、自己催眠と他者催眠を厳密に区別し、自律訓練法などの狭義の自己催眠は、催眠としては扱わないのが通例のようです)
 自己催眠の達人は、他者催眠と同じことを自分相手にやってのけます。
 このとき、心で起こっていることって、自分で自分に、催眠なり暗示なりをかけているわけだけれど、誰がかけているかといったら「もう一人の自分」がかけているわけで、このもう一人の自分をして「他者催眠」と呼べなくもないと思います。(例えば、目をつぶって自己催眠をするときに、自分のセラピストが話しかけてくるイメージで催眠に入る人がいたとしたら、それは他者催眠と呼べなくもない、という意味です)
 逆に、他者催眠で「手が固まる」という暗示に反応した場合、その人の心は、無意識的に手が固まる「努力」をしているのですが、本人はその努力を意識することができず、現象だけを見て「あ、固まった」とびっくりするわけです。しかしこの「固まる」現象を起こしているのは紛れもない本人なので、そういった意味では、「自己催眠」です。
 つまり、「自己催眠」という言葉が使われる場合は反応するプロセスをさしているし、「他者催眠」という言葉が使われる場合はその誘導における関係性をさしているのではないかな?
 全く違うもの(例えばチョコレートとカカオ豆)をさしているのに、種類の違い(例えばビターチョコレートとミルクチョコレート)のような言い回しをするので、わざわざ「すべての催眠は自己催眠である」などというフレーズが必要になってきたのではないでしょうか。
 まぁ、こういうのは言葉尻の問題で、大切なのは、「自己催眠も他者催眠も原理は同じ」ということですね。

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<2007-7-31>
 図書館で借りてきたグレゴリー・ベイトソン「精神の生態学」という本を読み始めました。
 第一篇の「メタローグ」は、父と娘の会話という形式で書かれており、すごく読みやすく、面白いのですが、その中の「ゲームすること、マジメであること」を読んで、うーん、と考えてしまいました。
 例えば、ときどき「恋愛をゲームだと思っている」的な表現を聞くことがありますが、「ゲームの恋愛」と「マジメな恋愛」って、どう違うのかな?
 恋愛でズルする人は、どっちなんだろう? マジメな恋愛をする人は、ゲームを楽しむ余裕なんてないからこそ、本気になって、ルールのことなんて構っていられなくなって、ズルをするのでしょうか? そして逆に、恋愛をゲームとして楽しんでいる人は、どこかゲームとしての余裕があるので、ズルをする必要なんてないのでしょうか?
 恋愛ゲームを本気で楽しんでいる人の「本気」と、マジメに本気の恋愛をしている人の「本気」は、どっちが「本気」なのでしょう?
 それとも、やっぱり恋愛をゲームだと思っているからこそ、ズルをするのかな? マジメな恋愛をする人は、ズルをすることなんて、考えもしないのかな?
 「恋愛をゲームだと思っている」と言い切ってしまう人に、すがすがしさ、潔さ、更にはある種の純粋さを感じ、「マジメな恋愛」をしているはずの人たちが比較的ドロドロしているように見えるのは、僕の認知に歪みがあるからなのだろうかと、本を読みながら思いました。

<2007-7-30>
 夜、調布にある「アジアンタイペイ」というお店に行きました。
 以前、一度だけ行ったことがあり、そのときに食べた「チーズナン」の味が忘れられなくて、もう一度食べたいと思っていました。
 早速注文して食べましたが、とっても美味!
 思っていたより量も多くて、食べきれず、もったいないので包んでもらって持って帰りました。

<2007-7-29>
 4年前に購入したノートPCのHDDが、ここ1年くらい、時々カラカラと嫌な音がしたり、起動に失敗したりと調子がよくありませんでした。
 購入後2年くらいは、頻繁に持ち歩いて使用していましたし、PCで作業する時間も長く、M/Bが死んで修理に出すことも一回、もういい加減寿命かなぁと思っていました。
 新しいノートPCの購入も考えたのですが、調べてみると、ノート用のHDDの値段がずいぶん安くなっており、新しいマシンを購入する前に、HDDを交換してみることにしました。
 分解して取り出したHDDと、新しいHDDをデスクトップPCにつなぎ、Drive Imageで環境移行を試みるも、CRCエラーというエラーが表示されて完了せず。そこで、SeagateのDiskWizardをダウンロードして再挑戦。やはり「クラスタが読み取れない」というエラーが表示されましたが、DiskWizardには「無視」という選択肢があったので、「無視」を選んで続行したところ、無事(?)環境移行が完了しました。
 新しいHDDをノートPCに取り付けて起動すると、ちゃんと起動しました。
 ついでにメモリも512MB(256MB x 2)だったものを、1枚を512MBに交換し、768MBに増設。更にページファイルの使用もやめてみました。
 すると、体感速度で2倍以上速くなり(実際に、HDDのアクセス速度はベンチマークでほとんどの値が2倍近くになっていました)、まったく別のPCのように快適になりました。(^^)
 新型HDDはアクセス音がほとんどせず、更には発熱も少ない感じで、失われたクラスタの内容は気になるものの、大満足の結果となりました。
 ビグザムひとつで戦況が変わると信じていたギレンに対してドズル中将の言った「戦いは数だよ、兄貴!」という言葉や、ナウシカがユパ様に言った、「汚れているのは土なんです!」という言葉同様、「マシン速度はメモリ量だよ、兄貴!」「遅いのはHDDなんです!」ということを改めて思わされた一日でした。

<2007-7-28>
 今年4月に開催した、「催眠療法体験セミナー」に参加してくださった方の声(アンケートの一部)を掲載いたしました。
 8月に開催する「催眠のかけ方セミナー」とは内容が違いますので、あまり参考にならないかもしれませんが、雰囲気だけでもつかんでいただければと思います。
 こちらです。

<2007-7-27>
 NLPに関して、こんなページを見つけました。
 僕はNLP原理主義者ではないし、常々、NLPの大風呂敷には辟易しているので、こういうページを読んで苛立ちを覚えることはなく、むしろスッキリしてしまいました。(^^;;
 もちろん、この人の言っているように、NLPがほとんど無益だとは、僕は思っていません。
 NLPが体系化したテクニックの中で、使えるものはいくつかあると思います。
 ただ、NLPerの犯した過ちのひとつは、人間の心を機械として扱おうとしたことだと思う。
 NLPerと話すたび、「人間がそんなに便利になれるはず、ない……」という、セイラさんの言葉を思い出します。

<2007-7-26>
 8月に、「催眠のかけ方セミナー」を行うことになりました。
 前回のセミナーで、意外にも、「催眠誘導を教えて欲しい」というリクエストが多かったので、初心者でもトランスに入れられるよう、ワークを中心としたセミナーにする予定です。
 催眠のかけ方を勉強したからと言って、日常生活ですぐに何かの役に立つわけではないかもしれませんが、コミュニケーションのベーシックスキルとして催眠の概念を学んでおくと、余計なトラブルを回避できたり、物事がスムースに運ぶようになるのではないかと思います。
 数学を学んでおくと、例えば加法定理が日常生活に役立つわけではありませんが、数学的思考、論理的思考が身につくことで、間接的に生きやすくなる、というのと似ているかもしれません。
 詳しくは、こちらをご覧下さい。
 ご興味のある方は、是非、いらしてくださいね。(^^)

<2007-7-25>
 密かに(?)実行していた、ビリーズブートキャンプですが、めでたく、7日間のプログラムを終了しました。
 結果は、体重 1kg 減、体脂肪率 2% 減、でした。
 始める前に、全身の写真を撮っておいたので、今日、終了後も写真を撮り、比べてみました。
 数値的に見ると、大して変わっていないけれど、写真で見ると、確かに痩せています。(痩せたのもそうだけど、筋肉がついた感じがします)
 食事制限をせずに、一週間で 1kg 痩せられれば上等だと思います。
 新兵は入隊後、6週間ブートキャンプを行うらしいので、僕もこの勢いで、がんばって6週間、続けてみたいと思います。
 「ブートキャンプは魂で行うんだ!」
 「イエッサー!」

<2007-7-24>
 更に昨日の続きです。
 こちらのページで、犬が哺乳類だと言う主張をしている人は、恐らく科学的な定義に基づいた話をしており、犬が哺乳類じゃないと言う主張をしている人は、そういった定義の存在自体に疑問を感じているし、「哺乳類としての犬はどうでも良くて、ただ犬について語りたい」のではないかと思います。だからこそ、話が噛み合わないし、議論に答えが出ないわけですね。
 例えば、年頃の女の子が、留学先で出逢ったアメリカ人男性(仮に、クリスと名づけます)をお母さんに紹介したとします。
 お母さんは、「でもアメリカ人って好戦的でしょ。だからお母さん、アメリカ人の恋人は反対よ」と答えます。
 そこで、その女の子とお母さんの間で、「アメリカ人は果たして好戦的かどうか」の議論が始まったとします。
 歴史を紐解けば、この議論はお母さんの方がはるかに優勢。
 クリスを認めて欲しい女の子は、だんだんと冷静さを失い、いわゆる「詭弁」を使い始めます。
 ここで考えていただきたいのですが、仮に議論はお母さんの勝利で、「アメリカ人は好戦的だ」ということを女の子が認めたとしても、それは何の意味もない、ということです。
 大切なのは、アメリカ人が好戦的かどうかではなく、クリスが好戦的かどうか、なのです。
 そもそも、アメリカ人が好戦的かどうかで議論が始まってしまったことに問題があり、女の子はそんな議論は全く興味がなく、仕方なく、その議論に参加せざるをえなかったわけです。
 こういったボタンのかけ違いが、不意に始まった議論には存在しているのではないでしょうか。
 論点が、初めからお互いにずれているのです。

 議論をするには、例えば総合格闘技と同じで、ルールが必要ですね。
 立ち技選手に有利なルールにするか、寝技選手に有利なルールにするかで、勝敗は変わってしまいます。
 今、一応、暗黙のルールとして存在しているのが、科学ですが、科学は真実であるべきです。いや、真実を科学と呼ぶべきなのかな。よく判らないけれど、今の科学が真実かといえば、それは誰にも判りません。「とりあえず、今のところは真実だとされている」程度です。例えば、ニュートン力学は、当時は科学であり、真実でしたが、相対性理論や量子力学によって、「絶対的な真実ではなく、ある条件における近似解に過ぎない」ことが判ってきました。
 思うに、「それは詭弁だ!」と言ってしまう人は、科学絶対主義者で、「それは詭弁だ!」と言われてしまう人は、科学のそういった不確かさを感じていて、それを真実として扱うことに、若干の気恥ずかしさを感じているのかもしれません。
 つまり、詭弁を言う人は、一応、科学と言うルールに従って議論をしては見るものの、そのルールの有効性自体を信じていないので、平気で反則をするし、それを間違ってもいないと思っているのかも。
 総合格闘技において、立ち技有利のルールの下で試合をして寝技系選手が負けたとしても、寝技系選手のファンは、「あのルールでは勝てるわけが無い」と負けを認めないのと同じことが、多くの不毛な議論の中にはあるような気がします。
 もし、本当に相手のことを負かしたいのであれば、例えば自分が立ち技系で、相手が寝技系だとしたら、あえて寝技ルールで勝利するしかないのかもしれませんね。

<2007-7-23>
 昨日、詭弁について書きましたが、こんなページを教えてもらいました。
 これ、なかなか面白いですね。(^^)
 僕の意見の述べ方が、詭弁だと感じた人がいたということは、ここにあるような話し方を僕はしていると感じているのでしょう。
 ここの例は極端だとしても、僕は基本的に、定義というのが苦手で、嫌いです。だから、こういう反論をしたい人の気持ちが、解らないでもありません。
 定義と言うのは、便宜的で、実用的であれば、それでいいと思っています。
 突き詰めていけばいくほど、科学的になろうとすればするほど、本質が見えなくなる可能性があるからです。
 例えば「愛」の定義なんて、はじめた途端に、愛なんてどこかに吹き飛んでしまいます。
 「だいたいの感じ」でいいんじゃないかな。
 定義をして、一般論で論じると言うことは、公平な判断や、自由な発想を奪う危険性があるのではないかと思っています。
 犬が哺乳類かどうかの例を読んでいて、以前読んだ、「子供のための哲学対話」(永井均著 講談社)を思い出しました。
 お気に入りのくだりがありますので、一部、転載いたします。

ペネトレ: クジラは魚のように見えるけど、本当は哺乳類で魚じゃないって話、聞いたことある?
    僕: もちろんあるよ。クジラは魚のようにえらじゃなくて肺で呼吸するし、魚のように卵の形で子供を産むんじゃなくて、クジラの形で産むんだよ。(略)だから、クジラは魚のように見えるけど、本当は哺乳類で、魚類じゃないんだよね。
ペネトレ: でも、その逆のことも言えるんじゃない?
    僕: 逆?
ペネトレ: つまり、そういう点ではクジラはどうしても哺乳類のように思えちゃうけど、肝心な外形や生活環境が魚みたいだから、本当は魚なんだって言ったら?
    僕: なんで外形や生活環境の方が肝心なのさ?
ペネトレ: そんなら、なんで内部の仕組みの方が肝心なのさ?
    僕: だって外形の方が大事なら、本物と見分けがつかないようなにせもののダイヤモンドは、本物のダイヤモンドだ、ってことになっちゃうよ!
ペネトレ: そうなんじゃない? とくに宝石なんて、見かけの美しさこそが一番肝心なんだから、内部構造は全然違うけど、一番肝心な見かけが同じだから、本当はダイヤモンドなんだ、って言えると思うよ。
    僕: そんなの、なんかおかしいよ。
ペネトレ: それは君が科学に洗脳されているからだよ。科学って言うよりももっと根本的なある種のものの見方にだな。見かけや外形の奥に隠れいているものこそが、その物の本当の姿である、っていうような。
    僕: そうじゃないの?
ペネトレ: それは、ひょっとしたら奥にあるものを知っている人が知らない人たちに対して権力を持つために作り出した作り話だったんじゃないかな? みんな、うまくだまされちゃったのかもしれないよ。
    僕: まさか!
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ペネトレ: 世の中のいろんなことにはね、公式の答えというものが用意されているんだ。世の中をこのままちゃんと維持していくためには、どうしてもみんなにそう信じてもらわなくちゃ困るってことなんだよ。そういうものを、少しも疑わずに信じられる人の方が、うまく、楽しく生きていけるんだけどね。
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ペネトレ: 困っている人や苦しんでいる人を、やたらに助けちゃいけないよ。そのとき限りの単純な困り方の場合ならいいよ。例えばけがをしたとか財布を落としたとかね。でももっと深くて重い苦しみを味わっている人を助けるには、きみ自身がその人の苦しみと同じだけ深く重くならなくちゃならないんだ。そんなことは、めったやたらにできることじゃないし、できたとしたら、きみの精神に破壊的な影響を与えることになるんだ。もし、きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それと同じ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことができる可能性がある。そう言う場合だけ、相手が助けてもらったことに気がつかないような助け方ができるからね。

<2007-7-22>
 詭弁って、なんですかねー。
 「それは詭弁だ」と責められることがありますが、もし詭弁だったら、簡単に矛盾点が見つかって、そんな風に責めるまでもなく、論破できると思うんだけれど、違うのかな。
 それとも詭弁と言うのは、核爆弾みたいに、それまでの戦況とは関係なく、すべてを終わらせてしまう、卑怯なやり方のことを言うのかな?
 理屈は通っていて、反論できないけれど、それでも間違っている考え方のことなのでしょうか。
 でも、もしそんな方法があるのだったら、卑怯かどうかなんて考えないで、みんな使いまくると思うんです。つまり、世の中は詭弁で満ち溢れてしまうのではないか、と。しかし実際には、自分と意見が違う場合に、そんなに見事に言いくるめられることって少ないですよね。詭弁を使うのにも才能や技術が必要と言う事なのでしょうか?
 そんなことを考えていると、「それは詭弁だ」という言葉の意味が良く判らなくなります。
 恐らくこのセリフを言う人は、「それは卑怯だ」的な、相手を非難する意味で言っていると思うのだけれど、詭弁って、何でいけないんだろう?
 本人にしてみれば、「あぁ、これ、詭弁になってるな」なんて自覚はないわけだし(ある人もいるのかな?)、詭弁だと言われても、何がいけないのかも解らなければ、どうやめればいいのかも解らないと思うんです。
 相手の意見が受け入れられないし、かといって、反論もできないときの、マジックワードが「それは詭弁だ!」なのではないでしょうか。
 僕は「詭弁」という言葉の意味がよく解らないからかもしれませんが、「それは詭弁だよ」というようなことを言ったことは一度もありません。 僕にとっては、詭弁かどうかよりも、合理的かどうかが重要なので、合理的な詭弁(?)には、無批判にぐるぐるまかれちゃうタイプです。(^^;
 多分、僕が「それは詭弁だ」と言われてしまう理由は、意識的にも無意識的にも、例え話(メタファー)を使って話すことがあるからだと思います。
 例え話をしてしまうと、今度はその例え話が適切かどうかで議論になることがあり、いつの間にか、何を議論していたのか解らなくなってしまったり、いつまでも議論が進まなくなってしまうので、その例え話をして、詭弁と思われてしまうのかもしれません。
 また、例え話は、概念的な話を、現実的な理解に結びつける力があるので、何かを説明するときには有効だと思いますが、自分の意見と違うときに、相手が例え話を出してきて、一見、相手の意見が正しく見えてしまい、自分も効果的な反論が思い浮かばなかったときに、「それは詭弁だ!」と言うと、とりあえず相手に反論することができる、ということなのかもしれません。
 この文章自体、大いなる詭弁なのかな。(^^;

<2007-7-21>
 僕はずーっと、大団円のことを、大円団だと思っていました。
 (IMEで変換できなくて、初めて気がつきました)
 何でだろう? 読み間違い? 聞き間違い?
 正解を知った今でも、大円団の方が、何かしっくり来ます。
 Googleで調べたところ、同じく、大円団だと思っている人が多かったです。
 もしかしたら、国民の2割くらいは、大円団だと思っているんじゃないでしょうか。

<2007-7-20>
 おいでイスタンブール
 うらまないのがルール

<2007-7-19>
 肉まんに段ボールが入っていたニュースがねつ造だったと、中国のテレビ局が認めたそうです。
 マスコミの伝える情報が全て正しいわけではないので、鵜呑みにしないで裏を取る努力が視聴者にも問われているのは承知していますし、別の側面から見たり、情報の中に隠されている「嘘」を見抜く能力(例えば、アンケート調査の結果が使われている場合はその母集団が適切なのかどうか、等)も大切だと思います。
 しかし、今回のような報道から真実を見抜くことは、一般的な視聴者にはほぼ無理なのではないかと思うのです。
 実際に中国に行って現物を見てくるとか、段ボールと劇薬を使って味や危険性を再現してみるとかすれば、真実が見えてくる可能性はありますが、すべてのニュースをそのような姿勢で検証することは現実的ではありませんし、だからと言って、検証できないものは基本的に信じない、となると、ニュースを見る意味がほとんどなくなります。
 このニュースを聞いて、「突拍子もないところで相手が本気で騙そうとしている場合、防ぎようがないんだな」と改めて思わされました。
 政府やマスコミによるマインドコントロールって、きっとすごく簡単なのだと思います。
 実際に、庶民の価値観のある部分(大部分?)は、確実にマインドコントロールによる作り物なのでしょう。
 果たして、それに気づいてフリーマインドを手に入れることが幸せなのか、気づかずに与えられた価値観で生きていくことが幸せなのか……。
 映画「マトリックス」を見たとき、それがいくらコンピュータによる作り物だとしても、何も知らずにその世界で生き続けた方がずっと楽なんじゃないかと思いました。
 でもそういう考えこそ、飼い慣らされた人間の発想なのかもしれません。

<2007-7-18>
 圧倒的に、YES!

<2007-7-17>
 「悪いプロレスラーは膝ばかり痛める。
 もっと悪いプロレスラーは膝さえ痛めない」

(注:元ネタは、村上春樹「風の歌を聴け」です。ちょっと深いでしょ。)

<2007-7-16>
 数年前、「夢見工房」というおもちゃを買いました。
 見たい夢を見ることができるというその機械、期待していたのですが、結局見たい夢は見られませんでした。
 でも、本当に、確実に見たい夢を見られる機械が発売されたら、国が滅びてしまうのかもしれませんね。
 働くのもバカらしくなって、国中が惰眠をむさぼるようになってしまいそう。

<2007-7-15>
 以前、叔父が、お酒の席でこんなことを言っていました。
「上に立つ人間には二つの条件がある。ひとつは、人を使うことが上手い、ということ。もうひとつは、汚れる仕事を率先してできる、ということ」
 叔父は小型ビデオカメラの製造メーカーの社長をしており、恐らくこれは、たくさんの経営者を観てきた中から学んだことなのでしょう。
 人を使うのが上手い、というのは、人を信頼して任せられる度量のことかもしれませんし、相手を褒めながら上手く動かすテクニックなのかもしれません。その仕事に一番適しているのは誰なのか、部下の素質を見抜く能力も必要でしょう。いずれにせよ、一番大切なのは、普段から部下の模範となる生き方ができているか、ということだと思います。これは次の「汚れる仕事」の話とも関係しますが、大変なことは全部部下にやらせて、手柄だけ独り占めするような上司では、部下もついてはいかないでしょう。「この人のためなら」という気持ちを部下が持っているかどうかが問われるのではないかと思います。
 汚れる仕事を率先してできるかどうか、というのは、文字通りですね。どんなに偉くなっても、手の汚れる仕事、大変な仕事、面倒くさい仕事、格好悪い仕事、誰でも出来るような仕事を率先して自分からやることで、部下がついて来るのではないかと思います。
 この叔父の言葉は、僕の心に暗示的に染み込み、以来、人の上に立つかどうかとは関係なく、僕は出来る限り、このふたつを実践するよう、生きてきました。(もちろん、まだまだ完全には出来ていませんが)
 また、人を判断するときも、この二つの条件は、無意識的に結構大きな判断材料となっている気がします。
 先日のセミナーのとき、セミナー終了後に、二人の参加者が、ゴミの片付けを手伝ってくれました。
 お金を払って参加されたのですから、そんなことをする必要は全くないのに、吉祥寺の街の中、一緒に大きなゴミ袋を持って歩いてくれました。
 僕はその優しさが本当に嬉しくて、あぁ、このふたりは、きっと成功する人だろうな、と思いました。
 この場をお借りして、本当にありがとうございました。

<2007-7-14>
 「基本的に人間が好き」(以下、人間愛、と名付けます)、とか、「嫌い」、って、子供のころに形成されて、あとはどれだけテクニックを学ぼうが、洗脳されようが、変わらない気がします。
 それは、コミュニケーション能力とは全く別物じゃないかと。
 先天的、といってもいいかもしれない。ピアニストにとっての手の大きさと同じで、努力でどうこうできるものじゃない。
コミュニケーションがうまいとか、初対面が苦じゃない、場を盛り上げることが出来る、すぐに恋人を作ることが出来る、リーダーシップをとれる、人前で話すことが得意、等々の能力とは別物で、本当に切羽詰ったときや、逆にふとした瞬間に、「人間愛」が試されるように思います。
 催眠を勉強しよう、心理学を勉強しよう、なんていう人間は、多かれ少なかれ、この人間愛が足りないからこそ、テクニックでどうにかしたいと言う幻想からその道に入っていくんじゃないでしょうか。(ごめんなさい、全部偏見です)
 もちろん、僕も、人間愛が足りないグループのひとりです。
 だから時々、素でものすごく人間愛にあふれている人を見ると、溜め息混じりに羨ましく思います。

<2007-7-13>
 たくさんひどいことされて、解ってもらえなくて、ひどく悔しくて、自分のこれからが全く見えなくなってしまった、そんなときに、まるでおとぎ話みたいな理想の相手が偶然目の前に現れて、「忘れちゃいなよ。ぜーんぶ、忘れちゃいなよ」って、目を覗き込みながら、にっこり笑って言ってくれたら、そして、手を差し伸べて、「ねぇ、行こうよ」って、ぐいぐい手を引っ張って、自分の全く知らない世界に連れて行ってくれたら、心の中のぐちゃぐちゃが全部なくなって、人生が一瞬でキラキラ輝き出すのかもしれないなぁと、昨日はそんなことを書きたかったんだと思います。

<2007-7-12>
 「理想の女性は?」と聞かれると、無意識的に一番最初に名前が出てきてしまうのが、森高千里です。
 もちろん、頭の中で急いでその名前をかき消して、誰が理想かなぁと考え直すのですが、この条件反射はもしかしたら、一生治らないのかもしれません。若い頃の刷り込みって怖いですね。
 僕等の世代の男性は、多かれ少なかれ、森高が好きなんじゃないかと思うのだけれど、いかがでしょう?
 子供の頃って、それこそ松田聖子とか、小泉今日子とか、菊池桃子とか、解りやすいアイドルがいっぱいいたけれど、ちょうど僕等が二十歳前後の頃(15年位前)は、アイドル冬の時代でした。そんな中、ひとりフリフリの服を着て、「17歳」を歌う彼女の姿は、他を寄せ付けない、圧倒的な存在感があり、非常に完成されていました。これ以上、というのが想像できないくらい、完成されていました。
 全ての女性が目指している先は、結局、森高千里なのではないか、いや、むしろ森高千里であるべきなんじゃないか……。結構本気でそう思っていました。(きゃー。石を投げないでー)
 今、森高なみに存在感のあるアイドルって全然いませんね。
 もしかしたら彼女は、アイドルがアイドルらしく生きていた時代の、最後のひとりなのかもしれません。
 本当はもっと他の事を書くつもだったのだけれど、ついつい話が脱線してしまいました。
 続きは明日にでも。

<2007-7-11>
 「オートマティックな恋だけれど、誰にも Yes No 言わせないぜ」 スターダスト・キッズ 〜 佐野元春

 この、「誰にも Yes No 言わせないぜ」というの、下半期の僕のテーマにしようと思います。
 前から解っていたことですが、人は誰でも、自分の価値観に合っている意見を「合理的」だと思い、価値観に合わないものを「非合理的」と思っています。だから、議論をしても最終的には解り合えません。
 だったら、議論する必要ってないのかもしれない、と思いました。
 「解り合えるかも」という幻想を抱えて、結果的にずいぶん、人とぶつかってきましたが、「議論モード」に入ってしまうと、そこから抜け出せなくなってしまいますね。
 議論して、お互いに嫌な気持ちになるのだったら、相手の考えに反論しないで、見かけだけでもそのまま 100% 認めてあげる。それでもかわせないときは、「ふうん、そんな風に考えているんだねー」と、流してしまったほうが良い。
 そのかわり、相手が自分の考えに反論しているときは、受け入れるのではなくて(受け入れると、言っている事とやっている事が違ってしまいますので)、「誰にも Yes No 言わせないぜ」という姿勢でのぞみたいと思います。
 「まぁ、今はやりたいようにやらせてよ」って。
 それでも否定されたら、心を閉ざすしかないのかな。
 こんな生き方をしていると、無反省な人間になってしまいそうですが、誰にも Yes No 言わせないで先に進んで、失敗してしまったら、そのときちゃんと反省する人間になれれば、それで良いんじゃないかと思います。

<2007-7-10>
 人間が死んだ後、天国も地獄もないかわりに、猫の世界に行かなければならなかったら……、と時々考えます。
 猫が言葉を話し、超ハイテクな世界を築いていて、そのかわりに人間は言葉をなくし、猫に飼われている「飼い人間」として生きていくか、「野良人間」として生きていかなければならない世界。
 飼い人間は猫の都合で爪を抜かれたり去勢手術されたりしながらも、毎日カリカリに乾燥されたヒューマンフードを与えられて、それなりに安全に暮らしていけます。
 野良人間は、ゴミをあさり、セミや鳥を捕まえたりしてどうにか飢えをしのぎますが、それでも毎年、多くの野良人間が冬を越せずにひっそり死んでいきます。縄張り争いで怪我をすることもしょっちゅう……。もちろん、優しい猫のおばさんがエサをくれたりもするし、公園でのんびり日向ぼっこを楽しむことも出来るし、基本的には「飼い人間」と違い、自由恋愛し放題です。
 でも、どちらにしても、気まぐれな猫たちのせいで、アウシュビッツのような「保健所」に連れて行かれて処分される可能性は否めませんし、場合によっては三味線の皮にされてしまう危険性もあります。
 そう、死後に待っている猫の世界というのは、非常にシビアな世界なのです。
 何でこんなことを考えるかと言うと、我が家の雑種猫「マロン」がもし、その猫の世界の住人で、その猫の世界に僕が紛れ込んだとしたら、果たしてマロンは僕のことを思い出し、「人間の世界にいたときには世話になったなぁ」と、僕のことを家に迎え入れてくれるのかどうか、とても気になるからです。
 僕はマロンが大好きで、もちろんいじめたりはしません。傍目には、マロンはとても幸せに生きています。
 でも、マロンが本当に幸せかどうか、それはマロンにならないと判りません。
 室内で飼っていますので、マロンからしてみれば、幽閉されているわけです。エサはブランドが変わることはあっても、ペレットか缶詰。猫の仲間と遊ぶことも出来ないし、ひとりで過ごす時間も短くありません。思い切り遊ぶことも出来なければ、刺激もありません。
 「今度は私が面倒見てあげるからね」って優しく言ってくれるのか、それとも、「コイツ、ひどい飼い主だったからな」と受け入れてくれないのか……。
 そんなことを考えていると、途端に自信がなくなってしまうのです。

<2007-7-6>
 この季節、日没の前後、あたりはほんのり暗いけれどまだ明るくて、空は真っ青じゃないけれどぼんやり青くて、ぽっかり浮かんでいる雲に夕日のなごりが反射して、薄いオレンジやピンクに染まっているのを観ると、あぁ、俺、何やってんだろうなぁって思います。
 夏の曇って、大好きだけれど大嫌い。

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<2007-6-15>
 「ガリレオの遺伝子」という番組を観ました。
 「地底人は存在する!」というような、なかなか世間では取り上げてもらえない仮説を紹介する番組で、面白く見終わりました。
 この番組で紹介された仮説の中で、僕が一番「ありえねぇ〜」と思ったのは、「みんなでジャンプして地球の軌道を太陽から離して温暖化を阻止しよう」というものです。こんなの、高校の物理を理解していたらあり得ないことくらい、何で解らないんだろう?
 きっと、大きなハンマーでガツーンと地球を叩いたら、少し太陽との距離が離れる、というイメージなんだろうけれど、実際には、着地の瞬間の衝撃でそうなるのではなく、ジャンプして人が宙に浮いた状態こそ、地球が太陽と離されています。キャスターつきの椅子に乗った人同士が、手を合わせて「えいや!」とお互いに押すと、2人とも動きますよね。あれと同じです。
 「じゃあ、1億人がそれをしたら、やっぱり地球は太陽から離れるんじゃないか!」と思う人もいるかもしれませんが、残念ながら、その1億人と地球は万有引力で引き合っていますから、その引力で戻されて、着地したときには、また同じ位置に戻ってしまうんですね。
 キャスターつきの椅子の例で言えば、その2人がゴムで結ばれている場合、ある距離まで離れると、今度はゴムの力で引き寄せられて、最後はお互いにまた同じ場所まで戻されるのと同じです。
 仮に、本当に地球を太陽から離したいのであれば、朝、太陽に向かって重い物をどんどんロケットで発射するしかありません。ピストルを発射したときに反動を手に感じるのと同じ方法で、ロケット発射の力を利用すれば、軌道をずらすことができるかも?(そんな単純には行かないかな)
 「誰でも死者と会話できる」というのも、少なくともこの実験では何の証明にもならないと思いました。何人もの人が死んだ人を感じていましたが、人間はいくらでもこういった幻覚を体験します。番組を観ながら、僕はもっとはっきりと見たり聞いたりするのかと予想していたくらいです。鏡、そして15W程度の暗い電球、というのがポイントですね。死者と話す気満々で来て、このセッティングだったら、十分トランスに入ってしまうと思う。
 オーラの写真を撮っていた人も、カメラに特殊な仕掛けがしているという段階で(しかも、その内容は秘密、という段階で)、まったく信憑性がなくなります。
 むしろ、地底人とか、宇宙人との交換留学生とかの方が、あって欲しいです。もう観ていてワクワクしてしまいました。
 地球に帰りたくない、と言って残ったふたりの気持ち、なんだかよく解ります。(^^)
 (6/17(日) 14:25-16:20 日本テレビ系列で再放送があるようです)

<2007-6-13>
 Show. Don't tell.

<2007-6-11>
 村上春樹の小説「羊をめぐる冒険」で、耳のモデルをしている女の子が、主人公と初めてデートをしたとき、こんなことを言うくだりがあります。

「私は初対面の人に会うと、十分間しゃべってもううことにするの。そして相手のしゃべった内容とは正反対の観点から相手を捉えることにしてるの」

 主人公の「僕」は、この種あかしを聞く前に、彼女から「十分間話して」と言われ、自分のことを9分27秒話し、最後にこうまとめていました。

「ずっと退屈な人生だったし、これからだって同じさ。でもそれが気に入らないというわけでもない。要するに仕方ないことなんだよ」

 彼女は種あかしをした後、こう続けます。

「その方法をあなたにあてはめるてみると、こうなると思うの。つまり、あなたの人生が退屈なんじゃなくて、退屈な人生を求めているのがあなたなんじゃないかってね。それは間違っている?」

 主人公の「僕」は、君の言うとおりかもしれない、と答えます。

 僕も彼女のやり方はとても的を得ているのではないかと思います。
 初対面の相手が、こちらが聞いてもいない自分のことを熱心に話している場合、大抵の場合は自分はそうではないからこそ、理想の自分、なりたい自分をあたかも本当のように話す傾向にあるのではないでしょうか。(「甘いレモンの論理」と通じるところがあるのかもしれません)
 もちろん、だからといって相手に「あなたがこう言っているという事は、実はそうではないからではないですか?」等と言うのは野暮です。意識レベルではそう思っていないからこそ、そう発言しているのですから。
 客観的にこの判断が正しいかどうかは、相手に確認する必要も、周りに確認する必要もなく、その相手と付き合うためのひとつのヒントとして、心の隅に閉まっておけば、あるいは役に立つときが来るのかもしれません。
 僕は、むしろこの方法は、他人に対してではなく、自分自身を知るために使ってみると、多くの気づきがあるのではないかと思っています。
 初対面の人とあったとき、もしくは、初対面ではなくても、自分のことを解って欲しくて話しているとき、相手に聞かれていないことを「私はこういう人間です」と自ら話した場合は、本当の自分はそれとは正反対だと考えても良いのではないかと。
 自分や周りにとって当たり前のことは、わざわざ話題に出したりしません。
 本当のお金持ちが、自分はお金持ちだ、などと言わないのと同じです。
 「低レベルのすすめ」でも以前書きましたが、証明できないけどそう思いたいことだからこそ、わざわざ口に出すのです。

 今日、初対面の人と何人かでお会いしたのですが、自分を紹介するとき、普段は思ってもいないことを事実のように言っている自分がいました。あぁ、僕はこう思われたいんだなぁって、帰りの電車の中で、反省と、納得と、驚きと、ちょっとだけどうでもいい気持ちで思いました。

<2007-6-9>
 先週くらいから、ラズベリーの収穫が始まりました。
 毎日、お茶碗一杯くらいの収穫があります。
 何の世話をしなくても、毎年春から夏にかけて、地面からニョキニョキと新梢(サッカーと呼びます)が生えてきて、翌年にはこのようにたくさんの実をつけてくれます。
 今、実のついている木は、どのみち枯れてしまうので、収穫が終わったあとに、根元からばっさり切ってしまいます。
 この写真では見えないですが、すでに地面からは、来年用サッカーが10本近く出てきています。
 ラズベリーは1年で成木になるので管理が楽で、収量も多く、安定して美味しい(完熟具合がひと目で判る)ので、家庭向きの果樹だと思います。
 しっかり根域を制限しないと、あちこちにサッカーが発生し、増えすぎてしまうことと、大株になり、サッカーで更新するので植木鉢での栽培が難しいことが欠点でしょうか。

 ブルーベリーの収穫も始まっています。
 こちらは、ハイブッシュ系のパトリオットと言う品種です。
 去年購入し、今年初めての収穫でしたが、大粒ですごくフレッシュな味わい。美味しいです。
 ハイブッシュ系は一般に早生で、他の品種もポツポツ色づき始めています。

 最後の写真は、ラビットアイ系のブライトウェルという品種です。
 ラビットアイ系は晩成で、7月下旬頃から収穫がはじまります。
 去年一年で木が大きく育ったので、今年はご覧のように、びっしりと幼果がついています。
 収穫が楽しみです。

<2007-6-7>
 みなさん、ゴミの分別、リサイクルはちゃんとしていますか?
 ペットボトルやコンビニ弁当の容器は燃えないゴミじゃなくて、プラの日に分けてだしていますか?
 もし、ちゃんと分けている人がいたら、その人は環境破壊に加担していますから、すぐにリサイクルをやめて、何でもかんでもじゃんじゃん燃えるゴミに捨てちゃってください。
 昨日までは、ゴミの仕分けをきちんとしない人をみると、「自分だけよければそれでいいのか!」と、ちょっと嫌な気持ちになっていましたが、今日を境に、そういう人たちはなんて地球に優しい人たちだったんだろうと、僕は考えを改めることにしました。
 というのも、ミランカで「博士も知らないニッポンのウラ」という番組を観たからです。
 ゲストに、「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」の著者、武田邦彦氏を迎え、リサイクルのもたらす害、環境問題の嘘が次々に明らかにされていきます。
 本当に目から鱗が落ちっぱなし。
 実は僕は大学時代、同じ学科の中に環境工学の研究室があり、いくつか授業をとっていました。
 その中で、分別リサイクルが自己満足以外のなにものでもないことを勉強したのですが、そうは言っても、ダイオキシンは怖いし、自分だけ分別を拒否できないし、なんか良いことをしている気もして、普通にゴミは分別していました。
 でも、本気で明日から、地球のために、気づかれない範囲で、生ゴミにプラスチックを混ぜようと思っています。
 この番組は今なら無料ですから、是非、観てください。前半と後半がありますが、時間のない人は前半だけでも観てください。
 ペットボトルはリサイクルするべきじゃないし、地球が温暖化しても陸地は水没しないし、ダイオキシンは醤油なみに無害です。
 リサイクルをすればするほど、水質汚染が広がり、化石燃料が無駄遣いされ、税金が高くなります。
 武田氏の意見に100%賛成なわけでもないし、疑問に思う点もありますが、少なくとも、プラスチックの回収に関しては、即刻やめるべきだと思いました。

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<2007-5-28>
 言葉より行動。
 その人が何を言っているかは大した問題ではないですね。
 その人が何をしているかが問題です。
 言葉では何でも言えるけれど、行動には本心が表れます。
 善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切上げて、僕も善い人間にならなくちゃ。 

<2007-5-23>
 超能力と技術(科学でも良いです)の線引きってどこなんだろうって思います。
 僕は基本的には、超能力否定派で、もしそれが実在するならば、それはすでに超能力ではない、と思っています。例え、理屈は証明できなくても、自在に再現可能であるべきだ、と。
 例えば、飛行機が飛ぶ原理は、未だに完全には解明されていないのですが、飛行現象は超常現象ではありません。それと同じで、どんな条件でも完璧に再現可能な超能力者が現れたら、それは既に超能力ではなく、ただ単に、科学が追いついていないだけだと考えます。
 先日、中国の超能力者が、何時間もかけて、折りたたまれた紙に書かれた文字(漢字!)を透視していました。僕はそれを見て、「何かトリックがあるはず」と思いました。つまり、科学的にあり得ないと思ったのです。
 一方、フォトリーディングという技術を持っている人がいます。フォトリーディングとは、文字を文字として認識するのではなく、映像として覚えてしまう技術です。 Derren Brown がこのフォトリーディングを使って、分厚い辞書の内容をすべて覚えてしまうというパフォーマンスをするのですが、僕はこれを見て、「超能力だ」とか、「トリックがあるはずだ」とは思いませんでした。科学的にあり得ることだと思ったからです。
 その中国の超能力者が、本当に3時間くらいかければ目の前の紙の中に書かれた「漢字」を完全に透視できたとしても、20分ほどで辞書を全部覚えてしまった Derren の能力の方がよっぽどすごいし、優れた能力だと個人的には思います。
 もちろん、Derren のパフォーマンスにも、何かトリックがあったのかもしれません。
 しかし、ポイントは、「フォトリーディングは起こりうる」と僕の心が捉えたと言う事。そして、「透視はあり得ない」と僕の心が捉えたと言う事です。この差はいったい、何なのか?
 20分で辞書を全部覚えてしまうと言うのは、1枚1枚ページをめくって、心に焼き付けていけば、訓練によっては出来うるのではないかと僕は思ったわけです。
 それでは、辞書の1ページを、3秒で覚えてしまうパフォーマンスを見たら、僕はそれを「いや、あり得ない、それはトリックだ」と思うでしょうか? いや、思わないでしょう。それもあり得る、と思うと思います。
 では、1秒では? ……やはり、あり得ると思う。
 じゃあ、0.1秒では?
 Derren が、目の前を一瞬で通過した辞書の1ページを、全部完璧に覚えてしまったら、その現象を信じるでしょうか?
 多分僕はそこで初めて、「それはトリックに違いない」と思うと思います。
 そんな一瞬で、人間の目が物体を認識できるわけがないから、トリックのはずだ、と。
 では、中間の、0.5秒では? 0.3秒では? 0.8秒では?
 そんなことを考えていたら、途端に自分の考えに自信が持てなくなりました。
 僕は無根拠に線引きをしている。
 一体、正しい線はどこに引くべきなのだろうか?、と。
 当たり前なのだけれど、結局、超能力かどうか(というか、僕の場合はトリックがあるかどうか)、認めるか認めないかの判定って、ものすごく主観的なものなのだと思いました。
 目の研究とか、脳が認識する原理などを研究している人からすれば、僕の、1秒は認めるが0.1秒は認めない、という主観は素人考えで、トリック(超能力)か現実かの境界線を、僕とは違ったところに引く可能性が高いのです。
 もし、会話というのが、無根拠な主観のキャッチボールだとしたら、何と恐ろしい世界に生きているのだろうと思いました。
 トリックか、超能力か、という問題を隣に置いておいたとしても、そうなのですから。

<2007-5-14>
 「大切なことは、病から癒えることではなく、病みつついかに生きるか、だ」
 これも僕が大好きなリフレーミングのひとつです。
 「癒えるか癒えないか」というフレームで見るのではなく、「そのままの自分でいかに生きるか」というフレームで物事を考えることは、大切な第一歩だと思います。

<2007-5-13>
 NLP用語に、「リフレーミング」という言葉があります。
 文字通り、見ているフレームを変えることで、問題に対してアプローチすることを指す言葉です。
 このリフレーミングですが、物事の良い面を見ようとか、ネガティブに考えていることをポジティブに考えてみよう、という意味では決してないと僕は思っています。
 例えば、ある出来事を「それは自分にとって-1だ」と評価しているとして、それを「いや、+1だ」と評価しなおすことがリフレーミングでは「ありません」。
 これだと、数値という「同じフレーム」で判断しているから、リフレームされていないのです。
 では、リフレーミングとは何かというと、「-1」を、「数値というフレーム」ではなく、「文字列というフレーム」や、「図形というフレーム」、「画数というフレーム」といった違ったフレームで認識しなおす作業だと僕は思います。
 例えば、「ノルウェイの森」という小説の中に、緑という女の子が、「人生はビスケットの缶だ」と言うくだりがあります。
 このビスケットの缶の中には、好きなビスケットも、嫌いなビスケットも入っています。
 その中からたまたま、嫌いなビスケットをひとつ取り出してしまったとして、食べるとまずいのだけれど、がんばって美味しいと思い込むことがリフレーミングでは「ありません」。
 そうではなくて、嫌いなものは嫌いなまま、「ビスケットの缶の中に入っている嫌いなビスケットの数は決まっている。今、ひとつ食べたと言う事は、確実にそれがひとつ減ったと言う事だ。今後、嫌いなビスケットが続くかもしれないけれど、それが続けば続くほど、嫌いなビスケットはなくなり、あとには好きなビスケットだけが残る」という、好きか嫌いかとは違ったフレームで見つめなおすことで楽になることが、リフレーミングだと思います。
 決して良い面を見よう、うまいことを言おう、というのがリフレーミングではないのです。(それが無意味だと言っているわけではありません)
 ちなみに、このビスケットの缶(人生のメタファーになっています)の話、僕は大好きです。

<2007-5-12>
 今日、初めて英語で催眠誘導をしました。
 今まで、日本語の出来る外国人を日本語で誘導したことは何度かありましたが、英語での誘導は全く初めて。
 上手くいくのかドキドキしましたが、結果は大成功でした。
 思うに、僕のカタコトの英語がかえって良かったのではないかと思います。
 カタコトだと、相手は何を言っているのだろうと必死に僕の言葉に集中します。
 また、意味が判らない部分、曖昧な部分は、「きっと私はこうなるのだろう」、と勝手に頭の中で補完していきますので、理想的な「暗示」が入るのだと思います。 
 その人も非常に楽しんでくださったので、僕も非常に楽しかったです。

<2007-5-1>
 たまたまつけたテレビで流れていた、森進一の歌う「時代」に、ちょっと感動してしまいました。

 ♪ だから今日はくよくよしないで
   今日の風に吹かれましょう

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