ひとりごと
2013年 1〜 6月

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<2013-6-28>
 「人の心を操る技術」の、3回目の増刷が決まりました。
 前回の増刷がかなりの冊数で、しばらく増刷はないだろうと思っていたので、連絡を受けたときは、「寝耳にアクア」(川越シェフ風)でした。(^^;;
 去年の今頃、原稿の修正に追われていたことを、とても懐かしく思います。
 今回も、前回以上の冊数を刷っていただけることになり、彩図社さんには感謝の気持ちでいっぱいです。

<2013-6-18>
 最近、「電子点灯管」なる製品があることを初めて知りました。
 早速買ってみたら、嘘みたいに蛍光灯がパッとつきます。
 今までの、スイッチを入れたときの「チカチカチカ」っていうのが全くありません。
 しかも、寿命は通常の点灯管の20倍。
 おそらく一生取り替える必要がないし、点灯時のエミッターの消耗が防げるので、蛍光灯自体の寿命も延びるそうです。
 もっと早く「電子点灯管」の存在を知っていたならば、だんだんと蛍光灯がつきが悪くなって、暗闇で過ごす時間が長くなることもなかったし、蛍光灯や点灯管を交換する頻度もずっと少なかったんですね。
 情報を知っているだけで、人生は楽になることがあるのだと思ったら、少し怖くなりました。
 僕は未だに、何を知らないのだろう……。

<2013-6-11>
 節電を意識するようになって、情報番組などで「電化製品は電源を切るだけではダメ。コンセントを抜かないと節電にならない」という言葉を聞くたびに、「でも……」という気持ちになっていました。
 多くの家電にはリモコンがあったり、タイマーがついていたりするので、コンセントを抜くことで待機電力をカットできるのは理解できますが、それをしてしまっては本末転倒な気がしたのです。
 また、そのような情報番組や、実際にコンセントを抜いてエコに励んでいらっしゃる人の話を聞くと、電源を切っているときに全く何もしていない(物理的に電源を切るようなタイプの)電化製品まで「コンセントは抜くべき!」と言っていることが多く、それで節電になる理屈が良く解りません。
 かといって「それ、意味ないんじゃない?」とツッコミたくても、オーブントースターのような、一見、単純な構造に見えるような電化製品も、最近のものは、もしかしたら中にコンピュータが入っていて、使っていないときに最適化処理かなにかしている可能性もあるし(あるわけないか)、「地球のために!」と、せっせとコンセントを抜いて回っている人たちの行動を、証拠もなく「無意味だ!」と決め付けてしまうのも、蜂の巣にされそうで怖いです。
 また、確かにアダプタで動いているような家電は、電源をオフにしていてもアダプタで電力を消費し続けている可能性はあります。
 そこで、待機電力を使っていなさそうな電化製品でもコンセントは抜くべきなのか、そして、待機電力を使い続けることはそんなに悪なのか、はっきりさせるために、「ワットモニター TAP-TST8」を買ってみました。アマゾンで2,000円ほどでした。
 これは、コンセントと家電の間に挟むように接続することで、0.1w 単位で、リアルタイムにその家電の消費電力が表示されるという製品です。
 早速、家中の家電の消費電力を片っ端から計測してみました。
 まず、待機電力を使っている製品ですが、10年以上前の電子レンジの待機電力が3wでした。リモコンがあるわけでもなく、時計がついているわけでもなく、使っていないときに、液晶に「0」と表示されているだけなのに、なぜこんなに電力を使い続けているのか、謎です。
 ちなみに、ざっくりとした計算ですが、消費電力1wを1年間使い続けると、電気代は約200円になります。
 ということで、この電子レンジは、使わなくても、1年間に600円も電気代がかかることになります。
 同様に、10年以上前に購入し、テレビを買い換えたときに接続したまま、ほとんど使っていないVHSのビデオデッキの待機電力は4wでした。
 最近の家電ほど待機電力は少なくなっているようで、アナログ時代に使っていたDVDレコーダーは1.2w、サラウンドシステムは1.4wでした。
 これだけで、合計10wですから、待機電力はひとつでは大したことがないように見えても、数があるとそれなりに大きくなりますね。
 ただ、不思議なことに、リモコンで電源を入れることができる(つまり、待機電力を消費している)扇風機を計測したところ、なんと0.0wと表示されました。
 リモコンで反応しているのですから、消費電力が0wということはあり得ないのですが、おそらく0.1w未満なのでしょう。
 なんだ、やればできるじゃん。
 私の使っているデスクトップパソコンは、スリープ状態で3w、シャットダウンすると2w。シャットダウンするなら、電源タップのスイッチも切るべきですね。
 そして、気になっていた電源を入れたり切ったりするだけの単純な家電の消費電力ですが、私の予想はいい意味でも悪い意味でも裏切られました。
 水槽用のLEDライトを計測したところ、なんと、電源を切った状態でも1w消費しているではないですか!
 何故? これ、物理スイッチじゃないの?
 パソコンにつけているアクティブスピーカー(コンセント仕様)も同じように、電源を切った状態で1wと表示されます。
 ということは、当然洗濯機なんかも消費してますよね、と思って洗濯機を計測すると、なんと0w。もう、わけが解りません。
 オーブントースターは、安定の0w。これは予想通りです。
 アダプタで電力を供給している家電は、電源を切っていてもアダプタが電力を消費し続けるものと思っていましたが、電子ピアノを計測してみると、なんと0w。
 かと思えば、USBアダプタ(Princeton製)は0.4wも消費しています。
 もしかして、メーカーによって違うのかなぁと、デジカメの付属品だったSONY製のUSBアダプタを計測したところ、こちらは0w。
 これらの結果から、以下の結論に達しました。
  1.待機電力は馬鹿にならない。
  2.電源を切っているときに何もしていない家電も、待機電力を消費し続けている可能性がある。
  3.アダプタだからといって、絶えず電力を消費しているわけではない。しっかりとした製品は、待機電力0wである。
 早速、100円ショップで節電コンセントを買ってきて、水槽のLEDライトと、電子レンジにつけました。そして、ビデオデッキ、DVDレコーダー、サラウンドシステムのコンセントは抜きました。パソコンのスピーカーも、ヘッドフォンを使うことが多いので外しました。
 これだけで、年間約2,000円の節約になります。1年で、ワットモニターの元がとれた。(^^)
 せっかくなので、カウンセリングルームにもワットモニターを持っていきました。
 カウンセリングルームで、使っていないときもコンセントを刺しっぱなしにしているのは、ADSLモデムとコンポくらいです。
 ADSLモデムを計測したところ、7wでした。なんとなく、常時接続しておいた方が良いのかなぁと思ってそうしていましたが、パソコンを起動していないときに繋がっている必要はないので、パソコンをつないでいるOAタップに接続し、パソコンの電源を切るときに一緒に通電が止まるようにしました。
 さて、次はコンポです。こちらも10年近く前に買ったものですが、電源を切っているときは時計が表示されている(バックライトもついていない)だけですし、あとはリモコンの待受けをしているだけですので、多くても3w程度だろうと思っていました。
 そして計測してみると……、ビックリ! なんと、16wも消費されていたのです。
 嘘でしょ、と思って電源を入れてみると、それでも16w。電源のオンオフは全く意味がないみたい。
 たかがコンポの待機電力が16wというのは考えにくいので、もしかしたらどこか壊れているのかもしれません。
 このコンポは、パソコンを使っているときにスピーカー代わりに使用しています。
 使っていないときならばOAタップにつないで、パソコンの電源と連動させれば節電できますが、音を聞くために、パソコンの使用中、ずっと16wもの電力を使っているのが、なんだかすごくもったいないような気がして、パソコン用のスピーカーを買うことにしました。
 調べたところ、ロジクールの「Z120BW」という スピーカーが方々で絶賛されていたので、こちらを買ってみようと思います。電源がUSBですので、これならば、最大でも2wくらいでしょう。
 軽い気持ちで購入したワットモニターですが、普段は見えない電力が見えるだけで、ここまで節電意識に火がつくとは思っていませんでした。

<2013-5-28>
 髪を切ろうと決めた日は、いつでも、火曜日の午後。

 愛を許すものと勘違いした所から、EPOの誤謬は始まった気がします。

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<2013-4-15>
 「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ」
 最近の村上作品から、このような名文が生まれてこないのは、何とも残念なことだと思います。
 最新刊、読んでないけど。

<2013-4-12>

 こんなに明るい曲なのに、この「旅」って、もしかしたら「死」のことなのかもしれないと思ったら、何だか急に胸が一杯になって、悲しくなってしまった。

 「遠くから届く宇宙の光 街中でつづいてく暮らし
 ぼくらの住むこの世界では 旅に出る理由があり
 誰もみな手をふっては しばし別れる」

<2013-4-10>

 先月、このブログで「3年前から育てている柿に今年も花芽がついていない」と書きましたが、私の勘違いだったようです。
 プルーンやブルーベリーは、芽吹く前から、花芽と葉芽の違いがはっきりと判り、葉と同時に蕾が膨らみ始め(もしくは花が先に咲き)ますので、芽吹いた段階で蕾がなければ、その年は花が咲きません。
 私は柿も同じだと思っており、芽吹いたときにすべてが葉だったので、「あぁ、今年も花は咲かないのだなぁ」と思っていました。
 しかし、どうやら柿は、葉や茎が先に伸び、その葉の根元に蕾がつくようです。
 このような蕾がいくつもついていますので、うまく受粉して、すべて生理落果しなければ、3年越しで今年は柿を食べられるのかもしれません。

<2013-4-9>
 「地球に生まれてよかったー!」は織田裕二の言葉ですが、私は時々、「僕はきっと、この星が好きじゃないんだなぁ」って思うことがあります。
 寒すぎるし、暑すぎるし、人間は不完全すぎる。
 でも、「逆襲のシャア」のアムロみたいに、急ぎすぎず、絶望もせず、明日も生きてみようと思います。

<2013-4-7>
 テレビを見ていたら、アントニオ猪木さんがこんなようなことを言っていました。
 「『この中で運のいい人、手をあげて』って言うと、恥ずかしそうに数人が手をあげるだけで、ほとんどの人は手をあげない。でも、こういうときに手をあげられるような人間にならないと、運は強くならない」
 本当にそうだなぁと思いました。
 私は、運などというものは、信じていません。この世の中に、運のいい人などいませんし、運の悪い人もいません。
 しかし、良いことばかり起こる人生や、悪いことばかり起こる人生があるかと聞かれたら、間違いなく、それらはあります。
 ですから、良いことばかり起こる人生を歩んでいる人は、「自分は運がいい」と感じるだろうし、周りも「あの人は運がいい」と思うことでしょう。
 そういった意味では、運は存在すると言ってもよいのかもしれませんが、それは決して運ではないのです。
 運を自分に引き寄せることなど不可能ですが、「運」を観察しようと思ったら、いつでも、簡単に出来ます。
 例えば、1024人の人が、じゃんけんトーナメントをしたとしましょう。(じゃんけんの勝率は、純粋に50%と仮定します)
 1回戦目で負けてしまった人を集めて、同時にビリ決定戦も行います。
 そうすると、10回勝ち続けてこのトーナメントに優勝する人と、10回負け続けてビリになる人が、必ずひとりずつ出てきます。
 このトーナメントを観戦している人からすれば、10連勝した人がいることは不思議でも何でもありません。そういうルールだったからです。
 しかし、優勝者にしてみれば、10回も連続でじゃんけんに勝てるなんて、「今日はとっても運が良かった」と感じるはずです。
 途中から負ける気がしなくなったかもしれませんし、その感覚通り、本当に優勝してしまったわけです。
 反対に、10連敗してビリになってしまった人は、「今日はなんてついていない日なんだ」と感じるかもしれません。
 でもそれは、本当は運ではありません。ただ、確率の1パターンを偶然に経験しただけです。
 もちろん、10連勝して「運がいい」と感じている人に向かって、「それは運ではない」などと言う必要は全くありません。
 本人がそう感じ、気分が良いのですから、その邪魔をするのは野暮です。
 運など存在しません。しかし人は、どうしようもなく、運を感じることがあります。
 そしてその運は、自己申告です。
 周りから見れば不幸にしか見えない人が「自分は運がいい」と感じていることもあれば、逆もあります。
 「感じた者勝ち」です。
 だとしたら、自分の「幸運」にひとつでも多く気づいて、「自分は運がいい」と感じる人生を送ったほうが、ずっと幸せなのではないでしょうか。
 私たちは、すでに多くの「幸運」を、偶然に受け取っています。
 例えば、日本に生まれたことに対して、「当たり前」というシールを貼っていたとしたら、「幸運」というシールに張り替えても良いと、私は思います。
 何の努力をしたわけでもなく、何か実力があったわけでもなく、自分で選んだわけでもなく、私たちは日本に生まれました。
 もっと貧しい国や、もっと危険な国に生まれる可能性はあったのですから、世界的に見れば、日本に生まれたことを「幸運」と呼んでも良いでしょう。(もちろん、もっと「幸運」と思える国が他にあったとしても、です)
 また、この時代に生まれたことも、「幸運」と思って良いかもしれません。
 今日、ご飯を食べられたこと、今夜、屋根のある場所で眠れること、今、インターネットを使えていること、それらも決して「当たり前」ではありません。
 「この時代の日本に生まれ、毎日食べるものにも、住む場所にも困らず、インターネットを使いこなせる環境も能力もある」ということは、自分にとっては当たり前すぎていちいち「幸運」とは感じないかもしれませんが、それだけでも、人類が誕生してから今日まで、この星に生まれたすべての人の人生の中では、間違いなく「超幸運」なグループに分類されるし、そこに自分が入っていることに、もっと驚いてよいのかもしれません。
 それは奇跡的で、全くの偶然で、そうじゃない可能性の方がずっと大きかったはずです。
 私は運など信じません。
 しかし、それでも無限にある確率の中で、幸せな側にある1パターンをここまで生きてこられたことについては、当たり前だと思っていないし、「自分は運がいい」と感じても良いのではないかと思っています。 

<2013-4-4>
 コーヒーゼリーって、外国にないの?
 

<2013-4-3>
 最近、やたらとホームページ制作会社から、営業の電話がかかってきます。
 未だに、私のように手作りで、素人丸出しなホームページで営業している所は少ないので、格好のターゲットなのでしょう。
 しかし、私はふたつの理由で、すべてお断りしています。
 ひとつ目は、私のホームページでは、「電話は予約や緊急連絡用」と明記してありますし、セールスはお問い合わせフォームを使うように誘導しているのですが、それを読まずに電話をかけてきている、ということです。
 今後、もしお世話になるとしても、このような注意書きをしっかり読むことのできない人に、お仕事をお願いしたいとは思いません。
 ふたつ目は、どなたも「ホームページのデザインを変更することで、集客力がアップします!」とおっしゃるのですが、この発言に矛盾を感じるからです。
 当然、電話をかけてきている制作会社も、自社のホームページは自社で開発しているはずです。そして、その「デザイン」とやらで、「集客力がアップ」しているはずです。
 集客力があるのに、なぜ、わざわざ電話で営業をしているのでしょうか?
 十分にホームページで集客できているのなら、見ず知らずの人に電話営業など、しなくて良いはずです。
 こんな電話をかけているということ自体、ホームページで集客ができていない証拠なのではないでしょうか。
 電話で営業をしなければならないほど仕事がないのですから、当然なのかもしれませんが、こういった会社の営業マンは、大抵、ものすごく営業が下手です。
 「デザインを変えませんか?」という営業自体、「あなたのホームページのデザインはダサいですよ」と言っているようなものですから、それが事実だとしても、気分が良いものではありません。
 また、最初から「集客に困っている」ことを前提としています。
 私は、この「ダサい」ホームページで、全く集客には困っていませんので、「困っているみたいだから助けてやるよ」というスタンスで話されると、「終了〜」って思います。
 私だけでなく、自営業の皆さんは、こういった営業電話がかかってきて、鬱陶しい思いをされているのだろうなと思います。
 これは私の感じ方かもしれませんが、どうも電話営業をしてくる人は、「契約が取れて当たり前。契約が取れないのは、客の心が頑なだから」と思っているような気がします。どなたも態度が大きいし、「結構です」とこちらが言った途端に、何も言わずに電話を切る方も大勢います。話が進まないことに、営業さんもイライラしているのです。
 こういった電話営業は、社会悪なんじゃないかと思う。誰も得しないどころか、お互いに不愉快な思いをするだけです。
 「営業をする」ということは、言い方を変えれば、何も困っていない人(求めていない人)を、困らせる(求めさせる)という作業です。
 「あなたは困っているはずだからこれを使え」と命令することが、いかに滑稽なことか、気づけないからこそ、下手な営業を続けているのでしょう。
 営業したいなら、命令する前に、しっかり困らせないと、ね!

<2013-4-2>
 宇宙戦艦ヤマトのリメイク作品「宇宙戦艦ヤマト2199」が、4/7より、TBS系列で放送されます。
 公式ページの「メカニック」を見たのですが、「ブラックタイガー」や「コスモタイガー」が登場せずに「コスモファルコン」になっていたり、ガミラス艦が数種類あったりと、オリジナル要素も数多くあるようで、今からとても楽しみです。 

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<2013-3-30>
 オセロの中島知子さんが、「洗脳騒動」についてインタビューを受け、現在の心境を語りましたが、その件でTBSテレビ「アッコにおまかせ!」のスタッフさんから電話があり、取材を受けました。
 取材された内容が実際にオンエアで使われるかは判りませんが、この件は、今度の日曜日に放送されるようです。
 中島さんは「洗脳されていない」と言っていましたが、実際に洗脳されている人は、「自分は洗脳されている」などと言いませんし、洗脳から解かれたとしたら、「私は洗脳されていた」と冷静に認識できるはずですので、中島さんは間違いなく、洗脳されていたし、今でも洗脳されたままなのではないかと思いました。
 もちろん、広義の意味においては、人は誰でも、いろいろなものに洗脳されていますし、洗脳されていることにも気づかず、なかなか洗脳から抜け出せもしません。
 カルト教団やオカルト愛好家に限らず、意識的にも無意識的にも、洗脳的なコミュニケーションを仕掛けてくる人はどこにでもいますし、私たちは日常的に、そのようなコミュニケーションに対して、無防備に、簡単に洗脳されてしまいます。(詳しくは、拙著「人の心を操る技術」をお読みください)
 洗脳は珍しいことではないし、すべてが害になるわけでもありませんが、社会生活を送るのに支障が出るほど相手に影響を受け、行動を支配されると、「あの人は洗脳されている!」と意識されるようになるのだと思います。
 中島さんの話から、「占い師」がどのように中島さんをコントロールしていたのか、多くのヒントが隠されていました。
 ひとつだけ例をあげて、解説したいと思います。

質問者:「部屋からピンクの家具が運び出されてましたけども、あれも全部言われて買ったんだって伝わっていたんですが……」
  中島:「家具のセンスがあまりなくて、だけど家具が好きなんです。それで買うときに『ピンクどう思います? かわいくないっすか?』って、『あ、かわいいんじゃない? でもこれ高くない?』って言われても、自分がかわいいと思ったらやっぱり『よし!』って買うほうなんで」
(中略)
質問者:「貯金も本当に切り崩してなくなってた?」
  中島:「ないです。自分で貯金は率先してなくしてたんで、引越しもそうですし、家具も服もすべて」

 まず、中島さんが「家具のセンスがない」と自分で思っており、わざわざ「ピンクどう思います?」と占い師に相談しているところから、中島さんと占い師の関係性が読み取れると思います。
 洗脳する際、相手の自信を失くさせるのはとても有効です。自信がないからこそ、その人の言うことにしがみつきたくなるからです。そのため、組織的に洗脳を行う集団においては、まずは相手の人格を徹底的に攻撃し、相手を否定します。
 中島さんが家具のセンスに自信を持てなくなっているのは、占い師によってセンスを否定され続けたからなのかもしれません。
 彼女は家具を買うときにさえ、自分では決められず、それが可愛いのかどうか、占い師に聞かずにはいられなかったのです。
 そして、「あ、かわいいんじゃない? でもこれ高くない?」という何気ない言葉が、占い師の洗脳の手口だったのではないかと思います。
 この、「あ、かわいいんじゃない? でもこれ高くない?」という言葉は、中島さんには、ふたつの矛盾した命令となって聞こえたはずです。

命令1:「これはかわいいので、買わなければいけない」
命令2:「これは高いので、買ってはいけない」

 中島さんは、このピンクの家具を買わなければ、命令1に従わないことになりますし、買えば、命令2に従わないことになります。
 洗脳というのは、逃げられない関係の相手から、矛盾した命令を投げられたときに起こります。
 その矛盾を、矛盾ではなくそうとして自分を変える行為が、洗脳の原動力なのです。
 それでは、中島さんは、これらの矛盾を解消するために、どのように自分を変えたのでしょうか?
 「貯金を率先してなくす、という生き方を自分はしているのだ」と信じることで、占い師の矛盾から逃れたのです。
 こう信じることで、命令2が、「これは高いが、自分は貯金を率先してなくしたいので、買っても良い」に変わったわけです。
 この一言だけで、中島さんが散財するようになったとは思いませんが、占い師は、普段からこのような矛盾した命令を中島さんに投げ続けることで、彼女をコントロールしていたのではないかと思われます。
 ついでに中島さんは、初めはピンクがかわいいかどうか自信がなかったにも関わらず、占い師に「かわいいんじゃない?」と言われた後、「自分がかわいいと思ったらやっぱり『よし!』って買うほうなんで」と、まるで「自分は最初からかわいいと思っていたし、他人の意見など関係ない」と言わんばかりの発言をしています。これは最初の「家具のセンスがあまりなくて」という発言と矛盾しています。本当は占い師に背中を押されたのに、本人はそれが、初めから自分の意見だったと認識しているわけです。これも洗脳の影響でしょう。

 自分が矛盾してしまったとき、その矛盾を相手に納得させようとして、人は嘘をつきます。
 デートの時間に遅れてしまったとき、嘘の言い訳をする人がいますが、これは普段送っている「あなたを愛しています」というメッセージと、デートに遅れることで送ってしまった「あなたは大切ではありません」という矛盾したメッセージを取り繕うためです。「○○の理由で遅れたのですから、あなたが大切ではないわけではありません」ということです。
 反対に、自分にとって逃げられない関係にある人(家族、恋人、友人、上司、等)が矛盾しているとき、その矛盾を、自ら納得のできるように再解釈しようとして、人は洗脳されていきます。
 デートの時間に相手が遅れてきたとき、相手が遅れてしまった理由を説明する前から、「仕事で疲れていたのかな」とか、「オシャレに時間がかかったのかな」などと自分に言い聞かせることがありますが、そうすることで、「あなたは大切ではないから遅れた」という可能性を考えないようにしているのです。 

 洗脳されている人の話を聞いていると、支離滅裂に聞こえることがありますが、それは決して言い逃れようとして嘘をついているからではなく、自分がさらされている圧倒的な矛盾から逃れようとして、必死にあがいている結果です。矛盾を「矛盾ではない」と解釈するには無理があるため、その無理が、支離滅裂な言葉となって出てくるのです。

<2013-3-29>

 5年ぶりに携帯を変えました。
 2008年より使っていた前の携帯が壊れたわけではないのですが、バッテリーパックが若干膨らんでおり、電池の持ちが少し悪くなった気がしたのと、ガラケーが絶滅してしまう前に、1台確保しておきたかったのが理由です。
 はい、今更ガラケーです。はい、何故かピンクです。
 私は大抵、家かカウンセリングルームにいる生活なので、外でネットをする機会がそもそもないため、高い料金を払ってまでスマホにする理由がないのです。
 ピンクなのは、在庫がこれしかなかったからです。(^^;;
 ガラケーは電池の持ちが良いし、私はケータイでメールをしないので、基本料金は980円で済むし、小さくて軽いし、シンプルだし、ワンセグも観られるし、私は断然ガラケー派です。
 しかし、何となくこのまま行くと、近い将来、ガラケーの新機種が出なくなって、誰もが強制的にスマホを使わされる日が来るような気がして怖いです。

<2013-3-28>
 ある考えに取り付かれて、それを元に行動を起こしている人に対して、いくらその「考え」が合理的に間違っていて、十分にその間違いを証明するための証拠が揃っていたとしても、そしてその証明をその人が理解したとしても、それでその「考え」を捨てるかと言ったらそうではなく、逆に、証明された分だけ、その「考え」にさらに執着するようになります。
 すでに行動を起こしていると言うことは、その「考え」を「間違いだった」と認めることは、今までしてきた行動をすべて否定することに繋がるからだと思います。
 おそらく人間は、「自分のしてきた行動はすべて正しい」という前提の下に生きています。よって、よほどその行動によって生じた損害が大きく、許容できないところに来るまで、自分の行動を「間違いだった」とは認められないのでしょう。
 科学の実験であれば、その「考え」が正しかったのかどうか、実験結果を見ればすぐに明らかになります。しかし日常生活における行動の積み重ねは、はっきりとそれが「正しい」とか「間違っている」と結果が出るものばかりではありませんし、何が原因でその結果が出ているのかも断言できるわけではありません。
 ですから、カルト教団にはまっている人や、オカルトを信じて疑わない人に対して、その「考え」を捨てさせるために、合理的に間違いを指摘したとしても、役には立ちません。
 今までしてきた行動がその「考え」を強化しているわけですから、まずはその「行動」を変えさせる必要があるのです。
 もちろん、誰かの行動を強制することは簡単ではありません。ですから、自分に被害がないのであれば、例えその人が、その間違った「考え」のせいで自分を不幸にしていたり、周りにいる(自分には関係のない)人たちを不幸にしていたとしても、むやみに関わることは、「おせっかい」にしかならないのかもしれません。
 逆に、誰かに、ある「考え」を植えつけたいのであれば、理屈を並べるよりも、実際に行動させた方が確実です。
 行動させ、書かせ、口で告白させることで、思想を決定することができるのです。
 間違った穴を掘りつづけて、いつまでも水が出てこないのを傍から見ているだけならば、「そこまで掘って出ないのだから、違う場所を掘りなおした方が早い」と簡単に言うことができますが、もし私が汗を流してそこまで掘っていたとしたら、「あともう少しだけ」と言いながら、きっといつまでも間違った穴を掘りつづけてしまうと思います。
 自分が今まで何をしてきたとしても、現実が「No」と言っているのであれば、それに従うことのできる人間になりたいです。

<2013-3-27>
 「ポリタン」のつく単語って、「コスモポリタン」と「ナポリタン」以外にあるかなぁと思って検索したら、「ポリンタンク」って出てきた。

<2013-3-25>
 暖かくなって、一斉にブルーベリーや柿、プルーンから葉が出てきました。
 ブルーベリーは花芽もたくさんついていて、今年は当たり年かもしれません。
 一方、3年前から育てている柿は、木は大きく成長しているのですが、今年も花芽はついていない感じ。
 去年も「今年は花が咲くかな?」と期待していたのですが、花は咲きませんでした。
 桃栗3年柿8年、と言いますから、あと5年くらいは実をつけないのかもしれません。
 以前、プルーンを育てていて、何年たっても、木は大きくなるのですが、実をつけませんでした。
 場所もとるし、ブルーベリーを植える場所も確保したかったので、しびれをきらして実家の庭に植え替えました。
 実家でも、数年は花を咲かせなかったのですが、3年位前からたくさん実をつけるようになりました。
 あまりにもその実が美味しかったので、自分でも育てたくなり、2年前、もう一度苗を買って、場所がないので鉢で育てています。(馬鹿ですね)
 果樹を育てていて、ある種の忍耐力がついたような気がします。
 初心者の頃は、「今年こそ!」という気持ちが強くて、春に花が咲かないと、1年を棒にふったような気持ちにもなりました。
 しかし今では、「枯れなければ、いつか必ず実をつける」と経験から知りましたので、焦る気持ちがなくなりました。
 ……と言いつつも、やはり収穫の喜びを味わいたいので、今年ももう少ししたら、ミニトマトの苗を買ってこようと思っています。 

<2013-3-22>
 ラジオを聴いていたら、「有名なパワースポットほど、集まっている人の邪念でいっぱい」みたいな話をしていて、笑ってしまいました。

<2013-3-19>
 毎年、春から寒くなる頃まで、用事のない夜はジョギングをしています。
 しかし、去年、一昨年と、本を出版することで頭が一杯で、走る気持ちになれませんでした。
 今年こそ、暖かくなったら再開しようと思っていて、今日からスタートしました。
 久しぶりのジョギング、全然走れませんでした。(^^;
 以前は、走ろうと思えば1時間でも走れたのですが、今日は走り初めて数分で息が切れ、さすがに体がなまっているのを感じました。
 思い起こせば、ジョギングを始めたころも、少し走るだけで辛くなり、長い距離は走れませんでした。
 これから少しずつ体を鍛えて、昔みたいに走れるようになりたいと思っています。

<2013-3-18>
 昨日、録画したまま観ていなかった「トイ・ストーリー3」を観ました。
 私はこのシリーズが大好きなのですが、観ると間違いなく、泣いてしまうので、観たいという気持ちと、今は悲しい気持ちになりたくないという気持ちがぶつかって、なかなか観る気になれませんでした。
 ようやく重い腰を(?)あげて観たのですが、案の定、最初から最後まで胸が一杯で、何度も目頭が熱くなりました。
 もちろん、不快な悲しさではなく、感動の涙です。それでも、非常にシステマティックに、ある意味暴力的に感動させられた感じで、今日も今まで、余韻をひきずったまま、なんだかブルーです。
 「トイ・ストーリー2」を観たときは、バズが登場してひとことしゃべっただけで、もう涙が滲んでいたくらい、このシリーズには弱いのです。
 ブルズアイがウッディについていこうとして、それをウッディに止められるシーンを、今、思い出して、また悲しくなってしまいました。(^^;;
 ハッピーエンドだからいいじゃないかと思ったりもするのですが、こんな気持ちから離れられないのは、人生にはこういった別れや困難がいくらでもあるし、そんな状況から、いつも映画のように上手く逃れられるわけでもないので、「ならばどうすればよいのだろう?」と、心のどこかでずっと考えてしまっているからだと思います。

<2013-3-17>
 「ノルウェイの森」の一番の悲劇は、突撃隊が突然いなくなってしまったことだと思います。
 夏休みに、突撃隊に何があったのかは語られていませんが、地図を作りたがっていた突撃隊が、志半ばで大学を辞めてしまったということは、相当の理由があったのでしょう。
 病的なきれい好きで、周りからは笑いものにされ、海岸線の変化だとか、新しいトンネルの開通にしか興味がなかった彼の人生から、「地図を作る」という夢が奪われてしまったことは、私には「ギリシャ悲劇よりもっと深刻な問題」に感じます。
 突撃隊は、村上春樹によって誕生し、村上春樹によって殺されました。
 物語を紡ぐためとはいえ、突撃隊はこんな風に殺されるべきではなかったし、村上春樹的な雰囲気作りのために利用されるべきではなかった。
 ラジオ体操をしていて、跳躍のところに来ると、いつも突撃隊のことを思い出し、少しだけ悲しい気持ちになります。

<2013-3-16>
 桜が開花したということで、川本真琴の「桜」。
 

<2013-3-15>
 「いつやるか。今でしょ」というCMがありますが、こんなに短い言葉の中に、いくつもの心理誘導が埋め込まれています。
 「いつやるか」は、肯定的ダブルバインドになっています。
 この質問は、やることが前提になっているため、どう答えても、やることは認めることになります。
 そして、「今でしょ」は、分離法です。
 「今」を分離することで、実際に行動を起こすように相手を誘導しています。
 「引越しを手伝って」と言うと、相手は面倒に感じて断られてしまう可能性もありますが、「ひとりでは動かせないから、テレビを運ぶのだけ手伝って」と言えば、手伝ってくれる可能性はぐっと高くなります。
 それと同じ効果が、この「今でしょ」にはあります。
 また、この「いつやるか。今でしょ」には、連結法的な効果もあります。
 つまり「いつかやるのなら、今やりましょうよ」ということです。
 ただ「今やりましょうよ」と言うよりも、「○○だから□□」という構文に当てはめることで、○○が□□をするための理由のように響き、相手は否定しづらくなります。
 さらに、「今でしょ」は、付加疑問文にも聞こえます。
 これを聞いて、「そうか、いつかやるのなら、今か」と思った人は、決して「今やりなさい」と命令されたわけではなく、自分の意志でそれを決めたことになりますので、より抵抗が少なくなります。
 もともとこのCMは、予備校のCMです。(後にトヨタが、「いつ買うか。今でしょ」というCMを作っています)
 受験生は、「いつやるか」を勉強のこととして捉えますが、何気なくテレビから「いつやるか」という問いを投げかけられると、受験生ではない人も、数々の「やりたいこと」「やらなければいけないこと」について考えさせられます。
 このフレーズが耳に残るのは、誰の耳にも暗示的に響き、「行動を起こさなければいけない」という気持ちにさせるからだと思います。

<2013-3-14>
 「諦めたらそこで終わり」と言いますが、いつまでも諦めなかったら、人生がそこで止まってしまいます。
 潔く諦めることは、諦めないで続けることよりも勇気が必要な場合があるし、諦めたからこそ始まることだってあると思う。
 私は、大きな夢を持って、それを追い求めることを良しとする風潮が大嫌いです。

<2013-3-13>
 今日は強風が吹き荒れていましたが、心の中で、「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界」って思ったのは、僕だけではないはずです。

<2013-3-12>
 一番カッコイイ戦艦は、アンドロメダだと思います。

<2013-3-11>
 「ちはやふる」を観ていると、何故かずっと胸がいっぱいで、少しのことでウルウルしてしまうのはどうしてなんだろう?

<2013-3-10>
 昨日の続きです。
 「嫌いの反対は無関心」とは、どういう意味なのだろうとずっと考えていたのですが、今朝、顔を洗いながら、すんなりと理解ができました。
 つまり、「好かれるよりも、無関心でいてもらったほうが良いこともある」という意味なんじゃないかな。
 「好き」と「嫌い」は、心の中で同じような現象が起こっていると書きましたが、ということは、「嫌い」が何かのきっかけで「好き」になることがあり得るのと同じで、「好き」が何かのきっかけで「嫌い」になることも、大いにあり得るわけです。
 好きだからこそ、小さなことが許せなかったり、気になったりして、反動で嫌いになってしまう。
 大して話したこともない人を大嫌いになることよりも、すごく仲の良かった人が、何かのきっかけで大嫌いになることの方が、もしかしたら多いのかもしれません。
 ですから、誰かとの関係を長く続けたいのならば、下手に好かれて、仲良くなって、たくさんの時間を一緒に過ごすよりも、適度に付き合って、お互いに良い意味で無関心でいる方が、いつまでも嫌いにならずに、そして嫌われずに済むのかなぁって思います。
 その人がいなくても全然構わない、という関係が、もしかしたら、一番長続きする関係なのかもしれない。
 関係を維持する必要も、関係を切る必要もないので、自然に接することができるのでしょう。
 何だかとっても皮肉ですが、「嫌い」と同じように、「好き」という感情も、相手との関係を壊してしまうことがあるのだと思います。

<2013-3-9>
 「好き(愛情)の反対は嫌い(憎悪)ではなく、無関心」と言ったのはマザーテレサですが、確かに激しい愛情と、激しい憎悪は、心の中で同じ現象が起こっていると思います。
 一日中その人のことが頭から離れなかったり、相手がどう思っているのかが気になったり、相手を思い通りにしたかったり……。
 「好きの反対は無関心」、「好きと嫌いは同じ現象」が両方とも真だと仮定すれば、「嫌いの反対は無関心」ということも言えると思います。
 でも、「好きの反対は無関心」というのは、すごく共感できるのですが、「嫌いの反対は無関心」というのは、何だか上手くイメージが出来ません。
 「好きの反対は無関心」という言葉には、「嫌われる方が、無関心でいられるよりまだまし」という意味が言外にあるように思います。 
 「嫌いの反対は無関心」の場合、言外にはどういう意味があるのだろう?
 どんな状況のときに使うべきなのでしょう?
 「好きな人が全く自分のことに関心を持ってくれないと」悩んでいる人に対して、「それって、嫌われてはいないってことじゃん!」って言ったら、果たして慰めになるのだろうか?

<2013-3-8>
 地球上で、一番怖い形をした生物は、カマキリだと思います。
 だって、生まれながらにして両手にカマを持っているんですよ。

<2013-3-7>
 「キッスは嫌と言っても反対の意味よ」って聖子ちゃんが歌っているからといって、迂闊に信じてはいけません。

 

<2013-3-4>
 「人の心を操る技術」のアマゾンでのランキングが、今日も急上昇していました。
 昨日、メンタリストDaiGoさんの出演されたテレビ番組で、「メンタリズムの罠 TRICKS of the MIND」の著者であるダレン・ブラウン(Derren Brown)の名前が出たようで、その影響みたいです。
 私がダレン・ブラウンのことを知ったのは、6年前、偶然にYoutubeで、こちらの動画を観たのがきっかけです。

 

 街行く人を呼びとめ、道を聞くふりをしながら、時計や携帯、家の鍵を取ってしまうというパフォーマンスなのですが、これだけ短い時間の中で、いくつもの心理誘導が詰め込まれており、しかもそれが自然で、とても衝撃を受けました。
 こんなに印象的なパフォーマンスを、彼はNLPや心理学の教科書に出てくるような、基本的なテクニックをただ組み合わせただけで行っていたのです。
 当時、私は深いトランスに入れるような、伝統的な催眠は得意でしたが、このような日常的なコミュニケーションで行う誘導は、理屈は知っていても、あくまで催眠の補助的な手段として使うのみでした。
 また、現代催眠の父と呼ばれたミルトン・エリクソンが、握手するだけで相手をトランスに入れてしまったというような逸話は多く知っていましたが、映像で観ても、それほどインパクトのあるものではありませんでした。
 ですから、ダレン・ブラウンの動画を観て、彼のパフォーマンスにのめりこんで行きました。
 「人は信じたいものを信じる」という言葉の通り、私はダレンのパフォーマンスを「催眠」だと信じたかったし、心理テクニックの組み合わせでそこまで実現できると信じたかったので、初めからマジックとしては見ていませんでした。彼自身がパフォーマンスの冒頭で、「このパフォーマンスは、マジック、暗示、心理学、誤認誘導、ショーマンシップを使って行われています」と明言しているにもかかわらず、です。
 マジシャンが見れば、簡単に「このタネ、知ってるよ」と気づけるような、古典的なパフォーマンスさえ、「どこで誘導しているのだろう?」という視点で見ていました。
 そして実際に、いくつかのパフォーマンスを再現できないかと、試したりもするようになりました。
 彼のパフォーマンスは、年を重ねるごとにスケールが大きくなっていき、とても個人で再現できるものではなくなっていきました。
 また、私のようなナイーブな人間でも、さすがに何度も見ているうちに、これは心理テクニックだけでは再現不可能だろうと気づくようになりました。ときどき開催していたダレン・ブラウン研究会でのディスカッションや、知り合いになったマジシャンの方に教えてもらって、マジックの部分を知るようにもなりました。
 そうなってくると、もうすべてはマジックに見えてしまうのですが、例えば先ほどご紹介した、時計などを取ってしまうパフォーマンスは心理テクニックではなく、マジックだとしたら、これはもう「サクラ」しかあり得ないということになります。
 しかしダレンはインタビューで「サクラを使うことはマジシャンとして超えてはいけないラインだ」と言っていますし、パフォーマンスの冒頭でも、はっきりと「サクラは使っていません」と明言しています。(それを信じるかどうかという問題もあるのですが、本当にサクラを使っているとしたら、これほど面白くないパフォーマンスもありませんので、私はサクラについては、彼の言葉を信じています。しかしそれも、彼のトリックかもしれません)
 この辺りがダレンの面白さで、マジックを観るときには「マジシャンが失敗するはずがない」と思って安心して観ていられるのですが、ダレンの場合は、ガチで誘導している部分が(それほど多くないかもしれませんが)あるので、絶えず「本当に上手くいくのだろうか?」という緊張感があり、さらに引き込まれるのです。
 そして、初期のパフォーマンスにおいて、実際にダレンは何回か失敗していますし、そのシーンも番組で流しており、ときには困り、ときには恥ずかしそうにし、ときには悔しがっています。
 それらも含めて、信憑性を高めるための誤認誘導の可能性もありますが、ダレンの魅力は、パフォーマンスを通して、自分の価値観が激しく揺さぶられるところなのだと思います。そして視聴者は、否が応でも、自分の立場をはっきりさせる必要があります。心理テクニックとしてみるのか、マジックとしてみるのか、演者をサクラとしてみるのか、それらをどこで線引するのか。
 「メンタリズムの罠 TRICKS of the MIND」を、私は以前、英語で読みました。
 ダレンはこの本の中で、とても正直に自分の考え方や自分の目的を書いています。
 これだけ自分で「魔法」を演じながら、それらに騙されないようにと啓蒙しています。
 メンタリストDaiGoさんの登場で「メンタリズム」という言葉が知られるようになりましたが、DaiGoさんのパフォーマンスに興味を持たれた方には、是非、ダレンも知ってもらいたいなぁと思っています。
 ちなみに、「人の心を操る技術」にも、ダレン・ブラウンの使っているテクニックがいくつか登場します。
 マジックではなく、ガチの心理誘導ですので、日常生活で使えば、コミュニケーションが少しだけ楽になるかもしれません。

<2013-3-3>
 私は2月生まれなので、1月、4月だけでなく、2月や3月も、「新しい1年のはじまり」という感じがします。
 ですから、4月に入るまでは、何となく気持ちが落ち着きません。
 そして、4月に入っても、ゴールデンウイークまでは慌しく過ぎてしまって、5月、6月でようやく落ち着いたと思ったら、もう1年は半分終了です。
 夏至を過ぎると、日は毎日短くなっていくので、心の隅で、年末へのカウントダウンが始まった気になります。
 8月は、みんな「夏休み」という雰囲気があって、時間がゆっくり流れますが、9月以降、祭日が多いせいか、時間の流れが早くなり、11月に入って暖房を入れるようになると、「今年ももう終わってしまうんだなぁ」と、しみじみ思います。
 こう考えると、1年って、本当にあっという間なんですね。
 以前、ラジオでダウンタウンの松ちゃんが、「3月なのに寒い」という人に対して、「3月は元々寒いから!去年の3月の寒さを何故忘れるんだ」みたいなことを言っていました。
 それと同じように、「1年って早い」と感じるというのは、そもそもの認識が間違っているのかもしれません。
 誰も、「1分って早いよね」などという感想を持たないのと同じで、1年というのは元々短いものなのかも。

<2013-3-2>
 「ウイスキーが、お好きでしょ♪」っていうCMを見ると、何だか、失ったものの大きさみたいなものを感じます。

<2013-3-1>
 子供の頃、テレビで催眠術の特番を見ていると、テレビに映されている演者が、何もないスタジオで、完全に別の世界にいるように振舞っているのが、不思議で仕方がありませんでした。
 催眠を勉強するようになって、「人間にとっての現実は、物理的な体験だけでなく、ほとんどは心の中で作られるものなのだ」、ということを意識するようになっても、どこかで、「それは理屈で、それでも目の前の触れる世界が現実だよね」と思っていました。
 心の世界を変えてしまうような暗示は、被催眠性の高い人にしか入らないと思っていた時期がありましたし、「暗示に反応する」というのは特殊な現象で、簡単なものではないと感じていました。
 しかし次第に、被催眠性の高さに関係なく、「どうしようもなく人間は、すぐに心の中の現実を書き換え、それに従って体が反応し、行動してしまう生き物なのだ」と思うようになりました。
 例えば、毎回宝くじを買っているあなたの家族が、抽選日の夜に電話をかけてきて、興奮気味に「1等が当たった!」と告げたとしたら、そしてその言葉を疑うだけの理由が何もなかったとしたら、あなたも興奮するかもしれません。「もし、何か買ってくれることになったら、何を買ってもらおう?」などと考え始めるかもしれません。
 この反応は、目の前で1億円の札束(もしくは1億円の残高のある通帳)を見せられたときと、本質的には同じものです。
 情報を信じたことで、目の前の世界は何も変わっていないのに、「家族が宝くじを当てた現実」を体験してしまいました。
 1億円の札束と、「1等が当たった」という音声情報(それが事実か嘘かにかかわらず)が、心の中では、ほぼ同じように扱われたのです。
 「何を当たり前のことをコイツは書いているのだ」と思われるかもしれませんが、催眠でしていることはこれと同じなのです。
 ハワイを楽しむためには、ハワイに行く必要はありません。「自分は今、ハワイにいるのだ」と信じることさえできればいい、ということです。
 幸せになるためには、物理的に幸せな状況に身を置く必要はありません。「自分は幸せだ」と信じることさえできればいい、ということです。
 「信じる」とは、決して「思い込む」ことではありません。そして、努力で出来ることでもありません。
 「自分は今、ハワイにいるのだ」と信じようとしても、上手くは行きません。なぜなら、そう信じようとしていること自体が、「自分は実際にはハワイにいないのだ」と認める行為だからです。
 「信じる」ことが自分で出来ないのと同じように、「信じない」ことも自分では出来ません。
 「コーヒーを飲むと眠れなくなる」と信じている人は、ついコーヒーを夜に飲んでしまうと、本当に眠ることができません。「コーヒーを飲むと眠れないのが科学的事実」だから眠れないのではなくて、「コーヒーを飲むと眠れないと信じている」から眠れないのです。(ちなみに私は、コーヒーを飲んでも、関係なく眠れます)
 ここでいくら「コーヒーと不眠には因果関係などない」とその人を説得したところで、その人は信じることができません。それは、その人にとっては「コーヒーを飲んでも眠れる」と信じようとする試みですから、上手くは行かないのです。
 私は決して、「目の前の、手で触れられるものだけが現実だ」と言いたいわけではありません。「当たり前だと信じていることは、本当に事実かどうかなどわからないのだから、すべて疑ってかかるべきだ」と言いたいわけでもありません。
 おそらく、あなたの信じている「事実」は、すべて本物です。そして例え、それが誰かの嘘だったり、あなたの勘違いだったり、間違いだったとしても、あなたはそれを知ることができないし、指摘されてもなかなか受け入れられないので、やはり、あなたにとっては、すべてが「現実」です。
 そしてその「現実」によって、あなたは世界を感じています。
 その世界が心地よいものならば、そのままでいいと思います。
 しかし、もしそれが心地よいものでないのであれば、「実際にそれが目の前で起こるまでは保留にしておく」というのも、ひとつの方法です。
 いつも理不尽なことをいう嫌な上司がいたとして、家に帰ってからもずっと、「あぁ、明日もあの上司に理不尽なことを言われるのか」と悩み続ける人と、実際に明日、理不尽なことを言われるまで、そのことをすっかり忘れている人とでは、状況は同じでも、経験する「現実」は違います。前者は、心の中で「理不尽」な現実を、明日になる前から感じ続けているのです。
 もちろん、「明日もあの上司に理不尽なことを言われるのか」と悩むからこそ、状況を変えようとして頑張れるし、対処法が見つかるのかもしれません。それを忘れている人や、気持ちの切り替えの早い人が、将来、より幸せになっているとも限りません。
 ただ、あれもこれも、まだ何も起こっていないうちから悩みすぎていては、心は押しつぶされてしまいます。
 今、この瞬間、肉体的に痛くなくて、苦しくなくて、お腹もすいていなくて、物理的には何も起こっていないとしたら、それ以上感じていることは、信じることであなたが作り出した「現実」です。
 その現実が楽しくないのであれば、思い切ってそれらを無視したところで、誰も困りません。
 自分の生きる世界は、自分で決めてよいのです。 

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<2013-2-11>
 「人の心を操る技術」 ですが、いくつかのブログで紹介されたことがきっかけで、アマゾンの在庫がなくなってしまいました。
 現在、書店だけではなく、ファミリーマートなどの一部コンビニでも販売されているようですので、書店で見つからなければ、コンビニも探してみてください。 

<2013-1-19>
 今は学校で、鎌倉幕府は1192年ではなく、1185年から始まったと教えるそうです。
 「いい国つくろう、鎌倉幕府」ではなく、「いい箱つくろう、鎌倉幕府」って語呂合わせするのかな?
 冥王星が惑星ではなくなったときにも思いましたが、こんな風に、常識だと思っていたものが覆されると、長い間、間違いを真実だと信じていたという事実に、何とも言えない居心地の悪さを感じます。
 勘違いとか、勉強不足が原因で間違いに気づくのならば構わないのですが、「やっぱりあれナシ。こっちにして!」みたいな訂正のされ方をされると、大げさな言い方をすれば、人生の一部分を奪われたような、そんな気持ちになるのです。
 頭では、「自分の信じているものが間違っている可能性はいくらでもあるのだ」と認めつつも、同時に「間違っているわけがない」と思っているからこそ信じているわけで、間違いが訂正されたときに、その間違いに固執せずに受け入れることって、案外難しい。
 鎌倉幕府や冥王星ならば、自分の人生にそれほど影響があるわけではないので、受け入れることは容易いのですが、その知識の上に人生を築き上げてきた場合、専門化の研究によって、それらが全部出鱈目だったことが証明されたとしても、簡単に認めることなんてできません。
 結局、老いとは「間違いを認められないこと」だし、若さとは「間違いを認められる柔軟性を持っていること」なのだと思います。

<2013-1-12>

 「あのこが急になぜか きれいになったのは
 あなたとこんなふうに 会ってるからなのね」

 「まちぶせ」って、改めて聞くと、ちょっと怖い。(^^;;
 この怖さは、「真珠のピアス」に通じるものがあります。

<2013-1-5>
 HDDの中に眠っていた、戦艦大和のドキュメンタリーを観ました。
 「今の人たちは、簡単に、無謀な戦争だった、無謀な作戦だった、なんて言うけどねぇ……」
 90歳を過ぎた元乗組員のそんな言葉に、考えさせられました。
 結果が出てから、「あれは間違いだった」というのは誰にでも出来ます。
 過去の失敗を振り返ったときに、「失敗したけれど、あれが自分のベストだった」と思えるかどうかって、とても大切な気がします。
 次に同じことが起こったときに、失敗を繰り返さないために、学ぶことは必要です。
 しかし、それでも避けられない、予想外の出来事というのはいくらでも起こりうるし、何が起こっても、どんな結果になっても、後悔しないように、「これが自分に出来るベストなのだ」と自覚を持って生きることが出来たらと思います。
 インタビューに答えていた多くの老人が、大和の沈没から生き残れたことを喜ぶよりも、むしろ後ろめたく思いながら戦後を生きてきたこと、自分は死に損ないだという意識を持っていることが切なかったです。
 「戦友の死を無駄死にだと思いたくない。お国のために立派に死んでいった、国の誉れだと、思いませんか?」
 インタビュアーに対して、逆にそう尋ねた老人。
 彼の心の中では、戦争が終わることは決してないのかもしれません。

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