ひとりごと
2007年 1〜4月

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<2007-4-26>
 毎年春になると、桜より楽しみにしているのが、ナガミノヒナゲシの花です。
 そう、あの、アグネスが歌っていたヒナゲシです。
 ここ数年で急速に増殖している帰化雑草なのですが、とにかくオレンジ色の花が綺麗。
 道を自転車で走っていると、あっちにも、こっちにも咲いています。
 こんな花です。
 綺麗な雑草選手権があったら、間違いなく1位だと思うのだけれど、いかがでしょうか。 

<2007-4-23>
 あなたは茂作さんではないですか?(英訳)

<2007-4-20>
 「アメトーーク」のドラえもん芸人を観ていたら、不覚にも、何度もウルウルしてしまいました。
 「さよならドラえもん」、「帰って来たドラえもん」、「おばあちゃんの思い出」の3本は、戦争映画を観るときのような心構えがないと観られないくらい、強烈に感情を揺さぶられます。

<2007-4-17>
 毎日がエブリディ、という言葉、嫌いじゃないです。

<2007-4-16>
 催眠をなかなか実感できない人がいます。
 手を固める暗示をしても開いてしまい、手が上がる暗示をしても、動きません。
 何故かというと、これらは自分でも意思の力で出来てしまうからです。いまいち、暗示の力なのか、自分の意思なのかの区別ができず、逆に抵抗してしまうのだと思います。手を握ったり開いたり、上に持ち上げたりというコントロールに慣れすぎているのです。
 そういう方にお勧めなのは、手の痺れを感じる方法です。
 両手を膝の上に置いて、目を閉じてください。
 次に、肺の中にいっぱい空気を吸い込み、これ以上入らないところまで吸ったら、ゆっくりと、全部吐き出してください。
 この深呼吸を3回繰り返します。
 終わったら、自然な呼吸に戻し、目を閉じたまま、両手に意識を向けます。
 そして、右の手のひらと、左の手のひらの、どちらが先にピリピリ痺れてくるかを、感じてみてください。
 ちょうど、長時間正座をした後の足の痺れのような、力が抜けたような、重いような、モヤモヤするような、ピリピリするような、そんな感覚を感じてください。
 感じ始めると、その感覚はどんどん大きくなっていきます。
 普通は自分の意思で手を痺れさせることなんて出来ませんよね。
 もし、この練習で手の痺れをはっきり感じたら、あなたは暗示にかかっているのです。
 痺れが弱い人も、毎日練習することで、瞬時にピリピリ感を感じられるようになっていきます。
 それが何かの役に立つわけではもちろんありませんが、無意識が反応してくれる感覚を知ることで、被催眠性は確実に高くなります。

<2007-4-11>
 NLPや現代催眠をまとめた英語サイトを発見して以来、ずっと読んでいます。
 http://www.nlpweekly.com/
 こちらなのですが、これだけ充実したサイトが無料で提供されているとは驚きです。何と言うか、アメリカの底力みたいなものを感じました。
 すごく面白くて、辞書を引きながら読んでいますが、この調子で行くと、NLPだけではなくて、英語も身につきそうです。(^^) 

<2007-4-7>
 催眠療法体験セミナーにご参加いただいた皆さん、本当にお疲れ様でした。
 おひとりおひとりと十分にお話しすることは出来ませんでしたが、お会いできてとても嬉しかったです。(^^)
 今回は初回と言う事もあり、少し気合を入れすぎて話が長くなってしまいましたし、実際にやってみて、こうすればもっと良かったと、気づく部分もたくさんありました。また、皆様からいただいたアンケートを読みながら、アイデアをたくさんいただきました。次回は更に良いセミナーになることと思います。
 個人的には、トランプのカードはもう少し多くの人があたると思っていたのでちょっと残念。
 逆に、初回の青いカードは、ほとんどの人があたってびっくりでした。
 更に、催眠の中で涙を流している方が多くいらっしゃったのも、印象的でした。
 今日、知らない人ばかりの環境で、なかなか手を上げて質問することが出来なかったと思います。
 セミナーで解らなかったこと、聞いて欲しかったこと、言いたいこと、ご感想など、是非、メールにて教えてください。
 今夜は、「雨乞い師」の話を少しだけ思い出してから寝てくださいね。
 本日はありがとうございました。

<2007-4-6>
 いよいよ明日、催眠療法体験セミナーを開催いたします。
 今回はただの催眠体験にとどまらず、なぜ暗示に人は反応するのか、体験しながら理解するための楽しいデモをたくさん用意しました。
 セミナーに参加するとき、参加する前はワクワクしているのに、終わってみれば何も残っていないことがありますが、今回は何か一つでも変化を感じていただけるよう、いろいろな「仕掛け」がありますので、参加者の皆さんはぜひ、楽しみにしていてください。
 まだ、若干席が残っていますので、参加ご希望の方は、明日の朝までにお申し込みください。席を確保してお返事します。
 持ち物がいろいろありますが、忘れないように。
 そして、今夜はたっぷり寝てください。
 お会いできることを楽しみにしています。(^^) 

<2007-4-4>
 「餅」の食感から「もちもちしている」という表現が生まれたのか、それとも「もちもちしている」から「餅」という名前がついたのか……。
 ラジオのネタに、思わず考え込んでしまいました。

<2007-4-3>
 Derren Brown という人を知っていますか?
 心理学を駆使した手品を行うパフォーマーなのですが、見たこともないマジック(?)の連続です。
 中には完全なマジック(メンタルマジックでもない)もたくさんあるようですが、多くはNLPや現代催眠を駆使したパフォーマンスだと思います。

http://www.channel4.com/entertainment/tv/microsites/M/mindcontrol/video/index.html

 例えばこの一番上の、「Are you feeling sleepy?」を見ていただきたいのですが、女性が電話を取ってしばらくすると、完全に寝てしまいます。右にある、種明かしのコーナーには、混乱技法を使っていると書いてありました。
 「Silent responses」では、ある人に、心の中で5つのことを思ってもらい、そのうちのひとつは嘘を思ってもらいます。そしてその嘘が何番目なのかを当てる、ということをしています。見ていると、あぁ、これが嘘だな、と判るのですが、NLPの本だけではなかなかイメージがつかめなかったことを、実際の映像で見せてもらった感じで、非常に勉強になります。
 「Seeing the future」では、初対面の相手のことをずばずば当てていきます。(コールドリーディング)
 一番下の「Illusion or miracle?」では、いわゆる催眠誘導なしに、痛みの幻覚を作り出しています。
 Youtubeで"Derren Brown"で検索すると、このようなビデオがたくさんヒットします。本の中でしか知らなかったエリクソンの散りばめ話法の実演が見られたり、電車の中の人の記憶を一時的に消したり、握手誘導で道行く人をトランスに入れたりと、「現代催眠とはこうやって使うのだ」というDerrenの強烈なメッセージを感じました。
 よくビデオを見ていると、ミラーリング、イエスセット、混乱、パターン介入、散りばめ等、実に合理的に、見事に使っています。
 僕は今まで、どこかで、現代催眠の力を信じていませんでした。そんなにうまくいくのか、と。ローリスクローリターンな気がしていましたし、実際に達人レベルの実演をみたこともありませんでした。もちろん、現代催眠の考え方を僕も使いますが、それはあくまで、打率を上げるための保守的な使い方にすぎませんでした。
 「相手に気づかれることなく」「トランスに入れることなく」というのが現代催眠の売り言葉ですが、逆に言うと、相手に(結果を)気づいてもらえるような暗示はできないからではないか、本当はトランスに入れることができないからではないか、とさえ思っていました。
 しかし、Derrenのビデオを見て、完全に考え方が変わりました。
 現代催眠だってハイリスクハイリターンだし、全然保守的ではなく、深いトランスに入れることさえするようです。
 もちろん、この人のレベルに達するには、もしかしたら古典催眠の達人になるよりもずっと難しいのかもしれません。そういった意味では、古典催眠の方法論が現代催眠によってすでに駆逐されているとは全然思いませんし、古典催眠には、古典催眠の良さがあります。場合によっては現代催眠よりもずっと確実なのです。
 しかしそれでも、これらのビデオを見て、もっとNLPや現代催眠を勉強したいと、気持ちを新たにしました。

 以下、老婆心ながら……。
 はじめにも書いたとおり、彼のパフォーマンスのすべてが心理誘導ではなく、ただの手品もたくさん混ざっています。
当然、失敗したシーンはカットされていることが多いので(電車の中で記憶を消すビデオでは、失敗シーンがきちんと収録されていました)、誰に対しても100%できるわけでもないでしょう。 更に、広義の意味でも狭義の意味でもヤラセもあるかもしれません。
 また、中には倫理的ではないパフォーマンスもたくさんありました。まったく許可なしに素人相手にやっているとしたら、これはほとんど、心理的レイプではないか、というものもありました。そういうのは、見ていて気分の良いものではありません。

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<2007-3-30>
 君たちがいて、僕がいる……。
 よく考えると、深い言葉です。

<2007-3-29>
 夜桜を見ようと、近所をドライブしてきました。
 今日はとても暖かかったので、一気に桜も咲いたようです。
 何でもない道に、こうやって桜がたくさん咲いているのを見ると、とても贅沢だなぁって思います。
 僕は全体を眺める桜も好きですが、近づいて観察するのも好きです。
 桜ってとても不思議で、近づいてみると、太い幹の途中で枝も出さずにいきなり花がごてっと咲いていたりするんですよね。我が家のプルーンは、申し訳程度にしか花を咲かせないので、桜のように大盤振る舞いで花芽をつけ、咲き乱れる木をみると、何だかありがたい気持ちになります。
 さあて、桜の次は、ブルーベリーです!

<2007-3-22>
 最近、にわかに人気がでてきたムーディ勝山。
 初めて「右から来たものを左へ受け流すの歌」を聴いたときには、しばらく笑いが止まりませんでした。こういった爆発的な、そしてとても新鮮な感じの笑いは、そうそう体験できるわけではありません。僕にとっては、バカリズムの「トツギーノ」を見たとき以来の衝撃でした。
 「笑い」というのに公式があるとしたら(もちろんあります)、彼のネタは忠実にその公式を利用しているように思います。心の中の気持ちの変化がしっかり計算されていて、笑いが心地よいのです。
 もちろん、いつかは飽きられてしまうタイプのネタなのかもしれませんが、誰かを皮肉るわけでもなく、あるあるネタでも自虐ネタでもなく、あれだけ内容のないもので爆笑をとれるのは偉大です。

<2007-3-19>
 高校1年の頃、偶然知り合ったふたつ上の他校の先輩が、自分の同級生についてこんな風に言っていました。
「うちのクラスはレベルが低すぎて話せるやつがいない。中学のときのクラスメートはすごいやつらばかりで、毎日レベルの高い話をしていた。今のクラスの連中は中学のときの俺たちよりもレベルが低い」
 僕は彼がそう言うのを、話を遮らずに黙って聞いていましたが、聞き終わって、その歪んだ選民意識に、何とも嫌な気持ちになりました。
 「レベル」という定量的に測定不可能な尺度で人を判断していることが納得できなかったし、たとえそれが彼にとっての事実であったとしても、「あいつらはレベルが低い」と言葉にしてしまう行為は、非常に恥ずかしい行為のような気がしたのです。
 実際、彼はそれをすいた電車の中で、大声で話していたのですが、僕は周りの大人たちがこの発言を聞いて「わ、この高校生恥ずかしい」と心の中で思っているのではないかとヒヤヒヤしていました。
 そもそも、レベルって何だよ、と僕は思いました。
 彼が、「うちのクラスはみんな下品で話せるやつがいない」と言ったならまだ良かったのです。もちろんこの「下品だ」というのも主観ですが、言われている側には努力の余地があるからです。
 仮に彼が僕に向かって、「君は下品だから話したくない」と言ったとしたら、僕は僕なりの品の良さを追及することができるかもしれない。
 しかし、「君はレベルが低いから話したくない」と言われたら、僕はどうしたらいいのか判らないのです。品の良さを追求するより、レベルの高さを追求する方がずっと難しい。
 もちろん彼は僕に対して「レベルが低い」と言った訳ではありませんが、こんな風に嫌な思い出として残っているのは、いつしか僕も「レベルが低い」とばっさり切られるんじゃないかと、無意識的に感じていたからだと思います。
 それ以来、僕はこの「レベルが低い」という形容が大嫌いで、平気で「あいつはレベルが低い」とか、「あそこはレベルが低い」と言ってしまう人とは、仲良くなれないなぁって思います。まず、謙虚じゃないですよ。根拠なく自分を上に置いている。もし根拠があるなら、そんな曖昧な言葉を使うべきではないんです。自分の感じている優位性を理論的に、定量的に説明すればいい。それができないのであれば、わざわざ自分を上に置くのではなく、自分の優位性を歴史が証明するまで、黙ってみていればそれでいいんです。
 僕は松本人志が好きですが、彼が「俺の笑いが通じないのは、俺の笑いのレベルが高すぎて視聴者が理解できないからだ。早く視聴者にこのレベルまで上がってきて欲しい」というようなことをラジオで言っているのを聞くたび、笑いを「レベル」というエンプティーワードで測ろうとしていることにがっかりします。
 本当に視聴者のお笑いレベルが低いのであれば、それを高くするために、何を勉強すれば良いのか、何を訓練すれば良いのか、勉強でも訓練でもなければ、じゃあ何をすれば良いのか、はたまた、お笑いレベルは持って生まれたものだから、もう遅いのか、嘆く前にはっきりして欲しいのです。
 「レベルが低い」と言い放つのは、自己満足に他なりません。
 もしかしたらこの言葉を使いたがる人は、怖いのかもしれません。自分より下にいるはずの人が自分を追い越していくことが怖いのかもしれないし、実は自分は大したことがないという現実が明らかになるのが怖いのかもしれません。
 不必要なプラス思考は、時に、不必要なマイナス思考よりもずっと害をなすのと同じで、自分はレベルが高いと思っている人ばかりが住んでいる国があったら、その国は、レベルが低いと思っている人ばかりが住んでいる国よりも、ずっとずっと住みにくい国なんじゃないかと思います。

<2007-3-14>
 ふと、心の中に、オフコースの「YES-YES-YES」の一節が浮かびました。
 僕は小学生でオフコースを好きになってから、ずーっと男目線で曲を聴いていました。
 だから「YES-YES-YES」のような女性に語りかけるタイプの曲は、どうもピンと来ませんでした。むしろ、「ワインの匂い」のような、物語性のある曲を好みました。
 でもふと、「YES-YES-YES」を思い出し、自分が女性で、誰かがこんなことを言ってくれたら、なんて素敵なんだろうと思いました。顔が全然タイプではなくても、自分が弱っているときに真顔でこんなこと言われたら、それだけで運命的な恋に落ちてしまうだろうなと。オフコースに熱狂的な女性ファンが多かったのが、今更ながら理解できた気がしました。
 当たり前だけれど、本当に僕が女性に生まれていたら、ずっと違った人生だったのだと思います。

 ♪ 振り返らないで 今 君は素敵だよ
   僕のゆくところへ あなたを連れてゆくよ
   "手を離さないで"

<2007-3-9>
 4月7日(土)の催眠体験セミナーですが、皆様のおかげで、定員の半数近くが既に埋まってしまいました。
 ご希望の方は、お早めにお申し込みくださいね!

<2007-3-6>
 最近、週末のみセッションを行っているため、なかなかご希望通りにセッションをお受けすることが難しくなっています。
 そこで、催眠体験セミナーを開催いたします!
 セミナーと言っても、通常のセッションと同じく、丁寧に催眠誘導をしていきますので、初めての方も、催眠療法や癒しを体験できることと思います。
 ご興味のある方は、是非、いらしてくださいね。
 定員があまり多くありませんので、お早めに!!

<2007-3-4>
 某催眠セミナーで、飛び入りで誘導をしてきました。
 多くの人を一度に誘導すると、聞く人によって心の中で体験することは様々です。
 手が重くなる人、軽くなる人、すぐに寝てしまう人、心の中で空を飛んでしまう人……。
 終わった後に皆さんの感想を伺うと、改めて、心って不思議だなぁと思います。
 これだけ人によって受け方が違うのだから、普段、会話が成立しているのが奇跡のようにも思うし、逆に、どこまでこちらのイメージ通りに伝わっているのかが心配にもなります。
 僕たちが出来ることは、解り合う事では決してなく、思いを可能性のある言葉に載せて、飛ばし合うことだけなのかもしれません。
 だからこそ、あぁ、本当にこの人は理解してくれたんだ、って実感できると嬉しくなるんですよね。
 「人が真実しか語らなくなったら、真実の価値なんてなくなってしまう」と誰かの小説にありましたが、その通りだと思います。

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<2007-2-22>
 「ゲシュタルトの祈り」という詩をご存知でしょうか?
 僕は学生時代にこの詩をどこかで聞き、ものすごーく影響されました。

私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

 誰かのために生きる必要はないし、誰かを自分のために縛り付けるのは、間違ったことだと思います。
 たまたま同じ道を歩いているときは素晴らしい一時を分かち合い、やがてお互いの道がわかれたときには、ただそれに従う。
 ちょっと寂しい気もするけど、そんな風に生きれたらって思います。

<2007-2-21>
 またまた美味しいコンビニグルメを見つけました。
 オリジナル商品ではありませんが、ヤマザキ「ランチパック」シリーズの、「キナコモチ」です。
 耳を取った食パン2枚に、お餅(求肥)とキナコクリームが挟んであります。
 モチモチした食感がとても美味!
 マイナー商品なのか、なかなか売っている所がありませんが、見つけたら是非食べてみてください!

<2007-2-13>
 Don't think. Feel !!

<2007-2-12>
 テレビでウッチャンがお勧めしていた、ampm の「フレッシュチーズめいっぱい」というのを食べてみました。
 確かにひとりでは食べきれない量でしたが、すごく美味しかったです。
 ついでにダウンタウンの松ちゃんがラジオでお勧めしていた、セブンイレブンの「もちもちお好み焼きパン」というのも食べてみました。こちらも不思議な食感で美味しかったです。
 コンビニのオリジナル商品もあなどれませんね。
 まだ食べていない方は、是非チャレンジしてみてください。

<2007-2-2>
 はじめ、Aだと思っていたことが、だんだん、いや、やはりBだ、と思い始め、うん、やっぱりBだよって思って生きていくのですが、いろんなことを経験して、あぁ、やっぱりAなのかもしれないなぁ、って思うことがあります。(うーん、我ながら、解りにくい文章ですね)
 例えば、子供の頃、お金があれば何でも買えるから、お金が一番大切、と思ったとします。(A)
 しかし思春期になり、いや、お金で買えないものもある。お金がすべてじゃない、と理想に目覚め、考え方が変わります。(B)
 そのまま理想まっしぐらに行けば良いのですが、年を重ね、夢と愛だけではどうにもならない状況を経験するうちに、お金が全てじゃないなんて簡単に言えないな、と思い直します。(A')
 このような現象を、「思考のブーメラン現象」と呼びます。(勝手に名づけちゃった!)
 人は長い人生の中、頻繁にこれを繰り返しているのではないでしょうか。
 仲が良かった人と何かがきっかけで疎遠になり、だけどどこかでばったり会って、再び前以上に仲良くなったり、好きだった音楽を次第に「こんなのもう古い」と聴かなくなるのだけれど、何年かたって、ラジオから流れてきたその曲を聴いて、昔は気がつかなかった良さに気づき、もっと好きになったり、戦争はいけないと教育された子供が、大人になると正義を守るための戦争を容認し、やがて戦争の不条理性、残酷性を知ることで心から戦争に反対するようになったり……。
 思考のブーメラン現象のポイントはふたつあり、

1.はじめのAと、終わりのA'は、同じAでも質が違うということ。(当然、A'の方は、経験に裏付けられており、本物です)
2.第一印象や直感というのは、その人にとってみれば正しいことが多い。

ということです。
 一度考えがBに行くのは、Aであることのを確認作業なのかもしれませんし、老人になって童心に返るのも、人がときどきデジャヴを経験するのも、思考のブーメラン現象と関係があるのかもしれません。
 AとBという対立概念があり、自分はBだと思っているとき、それをAだと言っている人がいると、若いなぁとか、子供だなぁと感じます。しかし、もしかしたらその人は、すでにA'の域に達しているのかもしれない。
 また、自分と同じ意見の人がいたところで、それは自分が未だに人生経験が浅いが故に<たまたま>意見が合っているだけなのかもしれない。
 そう考えると、人と接するときに必要なのは、意見が合うかどうかでは全然なくて、立ち位置を確認することなのかもしれません。
 今は意見が合わなくても、ブーメランはやがて返ってくるのかもしれないのですから。

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<2007-1-29>
 ラジオで おぎやはぎ が、「もし生き物がすべて同じ大きさなら、最強の生き物はなんだろう?」という話をしていました。
 例えば、人間もライオンもアリもみんな2mだったとしたら、何が一番強いのでしょうか?
 ラジオでは、カマキリではないかということで話がまとまっていました。
 確かに、生き物の中であれだけ露骨に武器を持っているのはカマキリだけです。
 でも僕は、カマキリは違うと思います。
 カマキリはお腹の辺りがフニャフニャだし、いくら2mになったところで、あのカマでサイや白熊の皮膚にダメージを与えられるとは思えません。
 となると、スズメバチ辺りが最強かな。

<2007-1-12>
(昨日の続きです)
 この都市伝説を検証するのは簡単です。
 ラピュタを1度も観たことのない人に、幻のエンディングや検証のことを何も告げずに観てもらうのです。
 そしてしばらくしてからもう1度観てもらい、何か気がついた点はないか、話を聞きます。
 千人単位でこの検証をすることができれば、何人かは「幻のエンディング」を観るのではないかと思います。

<2007-1-11>
(9日の続きです)
 僕はこの都市伝説は、集団催眠現象の典型ではないかと考えています。
 映画を観る、という行為は、広義の意味での催眠状態に人を導きます。
 催眠誘導の方法のひとつに、ブレイド法といって、光源などの一点を凝視させる方法がありますが、テレビや映画を観ているときの集中状態はこれに近く、例えばテレビを観ていて時間が経つのがはやく感じたり、お風呂の水を止め忘れたり、誰かの呼びかけが聞こえなかったりするのは、変性意識状態ゆえの現象です。
 また、ラピュタには浮遊シーンが多く描かれており、この「浮かぶ」というイメージが更にトランスを深くしているのではないかと思われます。(余談ですが、空を飛ぶ夢というのは明晰夢 ― 夢の中で「これは夢だ」と気がつき、夢の内容をある程度コントロールできる夢 ― と関係があります。明晰夢もまた、変性意識状態のひとつです)
 そして催眠状態が深くなったところで、映画の中の映像やセリフ、音楽が暗示的な作用をし、多くの人たちに同様の体験(この場合は、パズーがシータの故郷に訪れるシーンを観るという体験)をさせたのではないでしょうか。
 例えば、パズーの「見たいんだ、シータの生まれた古い家や谷やヤク達を」という言葉は、いずれそうなることを暗示していますし、エンディングに流れる「君をのせて」の「さあ出掛けよう」は訪問を、「君を隠して」はシータとの離別を暗示していたのかもしれません。
 「確かに観た」と証言する人の中に、「うちにビデオが残っているはず」とおっしゃり、見直したところ、「あるはずのそのシーンがなかった」、と書いていらっしゃる人がいました。また、ほとんどの人が、1度目でこのエンディングを観ており、2度目で「あれ? エンディングが違う……」と感じていらっしゃいます。仮にテレビでそのエンディングが放送されたとしても、人によって時期がバラバラ。もし、そのエンディングが何回か放送されていたとしたら、2回観たことがある人がいても良いはずですが、僕の確認した限り、そういった人はひとりもいらっしゃいませんでした。
 何が言いたいかというと、1度目に観たときはトランスに入りやすく、暗示的要素に反応した人も、2度目は理性の働きが強く、「この後は○○になるんだよね」という確認作業を無意識的にしながら観ているため、暗示に反応しなかったのではないかと思うのです。
 というわけで、僕はこの都市伝説は、「集団催眠説」が正解なのではないかと考えています。
 ガセネタとして扱っているサイトには、偽の記憶のせいだというニュアンスの説明がありましたが、偽の記憶というのは、実際には見ていないものを、記憶の混乱などで「見た」と錯覚している状態です。それに対して、幻のエンディングを観た人たちは、記憶違いをしているのではなく、「実際に催眠の中でそのエンディングを観た」のですから、偽の記憶とは別物なのです。
 その人にとっての事実というのは客観的なものではなく、主観的なものです。言葉にすると当たり前ですが、ラピュタの都市伝説を調べていて、僕は何とも言えない、恐怖に似た気持ちになりました。
 僕の生きている現実は、周りの人たちと同じ現実なのか?
 頭では「そうではない可能性がある」と解っていても、無意識では「現実はひとつ」と何の疑いもなく思っていました。
 だからこそ、この都市伝説を通して、その無意識が揺さぶられ、何とも言えない気持ちになったのだと思います。
 正午は午前12時? 午後12時? でも似たようなことを書きましたが、僕が怖かったのは、事実というのはひとりひとり違うのだということをまざまざと見せつけられたからでは決してなく、それでも何の問題もなく世界が動いているから、なんです。

<2007-1-9>
 「天空の城ラピュタ」には、幻のエンディングがある、という都市伝説があります。
 テレビ放送の際、劇場版のエンディングとは違い、パズーがシータの故郷に訪れ、握手して別れるという、別バージョンのエンディングが一度だけ放送された、というものです。検索エンジンで、「ラピュタ 幻のエンディング」で検索いただくと、検証サイトがゴロゴロヒットします。例えばこちら
 この噂が他の都市伝説に比べて特徴的なのは、多くの都市伝説が「友達の友達」的なところを出所としており、実際に目撃した人の話を聞くことが滅多にないのに対し、「私も覚えている!」という証言者が非常に多くいる点です。例えばこちらこちら
 一方、制作元のスタジオジブリは、この噂を公式に否定しており、こちらのサイトでは完全なガセネタとして扱われています。
 これらは一体何を表しているのでしょうか?
 これだけ多くの人が「見た」と証言しているにもかかわらず、そのビデオ1本出てこないのです。
 証拠が出てこないということは、物理的に幻のエンディングが放送された可能性はゼロに近いのではないかと僕は思います。
 ただ、そうなると多くの人が体験した別バージョンのエンディングは何だったのか……。
 この都市伝説にも多くの説があります。小説版ラピュタ混同説。未来少年コナン混同説。子供の空想説。
 しかし、どれも決定打にかけます。小説版を読んでいる人は少数でしょうし、いくら同じ宮崎作品だからといって、多くの人が同時にこのような勘違いをするとは考えにくいです。また、証言者の中にはそのエンディングを見た時点ですでに大人だった人も多く、「子供は想像力が豊かだから……」と片付けてしまうには無理があると思います。
 やはり幻のエンディングは本当に存在するのでしょうか?
 本当はこの話、一気に書いてしまおうと思ったのですが、長くなりそうなので、続きは明日以降、書きたいと思います。

<2007-1-1>
 あけましておめでとうございます。
 昨年は個人的にはあまり良い年ではありませんでしたが、何だか今年は良い年になるような気がしています。
 もう十分、受けるべきものは受けたんじゃないか、と。(^^;;
 そうそう、今年の予言(?)をひとつだけしておきます。
 今年は、ぐっさんの相方の平畠がブレークします!

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