ひとりごと
2010年 1〜4月

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<2010-4-30>
 「完全熟睡マニュアル」に付属しているCDの試聴版をYoutubeにアップしました。
 「どんなCDか聞いてみたい!」という方は、是非アクセスしてみてください。
 こちらでも聞けます。

<2010-4-29>
 以前、記憶術を習得したことがあります。
 別にどこかのセミナーへ行ったわけではなく、Derren Brownの本にやり方が書いてあって、その通りにやったら、10分もかからずにマスターすることができました。
 こちらの動画を見つけて、僕も見ながら一緒に覚えてみたのですが、参加者が単語を言い終わった時点(6:00)で、すでに覚え終わりました。
 あっているかどうか紙に書き出し、講師の方が覚えている映像を見ながら答あわせをしましたが、「乾電池」を「電池」と覚えてしまった以外は、すべて正解でした。
 でもこれ、どうなんだろう? すごいのかな?
 本気で覚えようと思えば、記憶術なんて知らない人でも、ひとりひとりが単語を言っている時間で、十分に覚えられるのではないだろうか?
 おまけにその後、もう一回、はじめから単語を繰り返しているのですから、順不同でよければ、かなりの単語が頭に入っているのではないかと思います。
 もちろん、この講師の方は、単語の順番も覚えているし、何番がどの単語かも一緒に覚えているので、ただ20個の単語を覚えるよりもずっと難しいことをしているのは事実です。
 「記憶術」を知らない方で、10分ほど時間のある方、この動画の1:00〜8:21までをご覧になり、順番はどうでもいいので、何個くらい覚えられるか、チャレンジしてみていただけないでしょうか? (この講師の方がやっていらっしゃるとおり、書いたりしないで、耳で聞くだけで覚えてみてください)
 終わったら、実際に紙に書き出して、答あわせをしてみてください。
 結果を、お問い合わせより教えてくださると、非常に嬉しいです!

<2010-4-27>
 先週、K株式会社の社内セミナーに講師として招かれ、「サイコロジカル・コミュニケーション・セミナー」と題し、3時間ほど、実践的な心理テクニックを中心にお話させて頂きました。
 そのときいただいたアンケートをまとめましたので、ご興味のある方はご覧ください。こちらです。

<2010-4-26>
 先日、ダイエットでセッションにいらした方からその後の経過をメールでいただき、掲載許可をいただきましたので、体験談としてご紹介いたします。

---ここから---
その後の経過をご報告したいと思います。
先週は、木曜日から土曜日まで珍しく外食が続いてしまいました。(しかも、アルコールも少々…。)
外食が続くと1、2キロ簡単に増えてしまいますが、なんと、マイナス0.8でした。

セッションを受けた日は、その後、友人との集まりがあり、たい焼きやらチョコレートケーキやらいろいろ差し入れがありました。
いつもなら、いの一番に手にする私ですが、まったく受け付けず、他の人たちが美味しそうに食べてるのを見ても何とも思いませんでした。
そんな私をみて皆、気味悪がってます(苦笑)。

スーパーやコンビニにも行きましたが、いつも最初と最後に行くお菓子コーナーも素通りです。ほんとに不思議です。足が向かないのです。
今まで、お菓子類でいかにお金を使ってたか痛感してます。

この4日間で甘いものは…アイスクリーム1個です。
このアイスクリームは、ずーーっと前から食べたくて、探してもなかなか見つからなかったものです。たまたま見かけたときに、先生に錆を取ってもらった心の天秤をかけ、「このアイスを食べる。」にグッと傾いたので美味しく頂きました。

食事に関しても、半分とはいきませんが8割方で自然に箸をおくことができます。
残ってても、まったく気になりません。
昨日は、お姑さんとの外食でした。残すことを極端に嫌がるお義母様です。
案の定、私のお皿を見て、お叱りを受けました。
でも、いつにない少し強い口調で、きっぱりとお断りすることができました。
凄く、嬉しかったです。
何が嬉しいのか、自分で気づいたことがあります。

私は、嫌なことを嫌とはっきり言えない。
頼まれたことをみんな引き受けてしまう。
相手を喜ばせる返事をしてしまう。
でも、後でいつも後悔してる。
「どうして、あんなこと言ってしまったのだろう…。」と。

だから、勇気をだしてきっぱり断ることが出来て嬉しかったです。

ダイエットのために先生のところを尋ねましたが、自分のことをさらに好きになる術を教わったような、そんな気持ちになれて感謝です。

冷たい雨が降る中、初めて降りた駅で凄く緊張し、少し躊躇い・後悔もありました。今は違う意味での後悔です。
(良く言われてることかと思いますが、)もっと早く先生のところを訪ねておけばよかったです。
また、よろしくお願いします。
---ここまで---

<2010-4-21>
 本日21日の読売新聞に、「完全熟睡マニュアル」の広告が掲載されています。
 前回、広告を出していただいたときもそうでしたが、早速、Amazonの在庫がなくなってしまいました。
 やっぱり新聞広告の威力って、すごいです。(もともと在庫が少なかったせいもあるかもしれませんが)
 せっかくランキングがあがるチャンスなのに、在庫がなくなってしまったのはちょっと残念ですが、その分、リアル書店での売り上げが伸びてくれることを願っています。
 楽天ブックスboopleビーケーワン紀伊国屋 BookWebセブンネットショッピングTSUTAYA onlineHMVでは、まだ在庫があります。
 明日22日と24日にも、読売新聞の西日本版と大阪版で広告が掲載されます。
 3ヶ月連続で広告を出していただいて、出版元のこう書房さんには、頭があがりません。

<2010-4-20>
 今週、「完全熟睡マニュアル」の広告が読売新聞に掲載されます!
 以前はサンヤツでしたが、今回は「5段2分の1」のスペースに、岡野雅行さんの「俺の感性が羅針盤だ!」と一緒です。
 掲載日は、以下のとおりです。

・ 4月21日(水)…読売新聞<東日本版>
・ 4月22日(木)…読売新聞<西日本版/大阪版を除く>
・ 4月24日(土)…読売新聞<大阪版>

 2面か3面の下に掲載されますので、読売新聞をお読みの方は、ぜひ探してみてくださいね。

<2010-4-17>
 今日、久しぶりにホームセンターへ行きました。
 予定はなかったのだけれど、外の園芸コーナーを見ていたらたまらなくなって、「アイコ」というミニトマトの苗と、「次郎」という柿の苗を買ってしまいました。
 ミニトマトの魅力は、小さかった苗が、太陽の光を浴びてグングン成長するところにあります。
 文字通り、日に日に大きくなるのがわかります。
 そして、食べきれないくらい収穫できます。
 普通のトマトやナス、キュウリ、ピーマンなんかも育てたことがありますが、ミニトマトが一番簡単で、たくさん収穫できるので、ミニトマト大好きです。
 柿の苗を買ったのは初めてです。
 秋になると、いたるところで、柿の実が鈴なりになっているのを見るので、いつか育ててみたいと思っていました。
 今回は植木鉢栽培の予定なので、収穫までたどり着けるかどうか判りませんが、柿の葉の天ぷらくらいは食べれるのではないかと楽しみにしています。
 ちなみに、トマトのわき芽も、天ぷらにするととっても美味です!

<2010-4-16>
 恋愛の兆候って、「その人の顔をはっきりと思い出せない」ことじゃないでしょうか。

<2010-4-15>
 ときどき、わざと相手に試練を与えて、相手の思いを試す人がいますが、そういうのは激しく間違っていると思います。
 試さなければならないということは、本当の「その人」を好きなのではなくて、この世には存在しない幻想を追いかけているに過ぎないのです。
 相手を試して、相手が自分の思い通りの行動をしてくれないからと、ショックを受けたり、「見損なった」などと言う人は、恐ろしいほど自分勝手で、自分を相手より上に置いており、そんなことをしているうちは、いつまでたっても幸せにはなれません。もちろん、相手を責める資格など、これっぽっちもありません。
 恋愛でも、他の人間関係でもそうですが、もしうまくいっていないとしたら、その半分は自分の責任です。
 例え、100%相手が悪かったとしても、そんな相手を選んだという意味で、やっぱり半分は自分の責任です。

<2010-4-13>
 先日セッションにいらした方に、「日本テレビの羽鳥アナに似ていますね」と言われました。
 僕は比較的、「○○に似てる」と言われることが多く、人によってその「○○」が違うし、全然自分ではそう思わないことが多いので、あまり本気にしないのですが、別々の人から同じ人に似ていると言われると、「そうなのかな?」と思い始めます。
 で、実は羽鳥アナも、以前ほかの人から言われたことがあったので、今回ようやく(?)、「似てるのかも?」と思うことにしました。
 羽鳥アナ、僕は好きなので、すごく嬉しかったです。(^^)

<2010-4-7>
 本を出版したことがきっかけだと思いますが、ここ数ヶ月、読みたい本がたくさんあり、休みの日は本ばかり読んでいます。
 今日読んだ本は、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」です。
 映画「トイ・ストーリー」を観たときも、エンタテインメントとして完璧だと思いましたが、この「もしドラ」も、最初から最後まで、完璧なエンタテインメントだと思います。
 読みながら、徐々に何故か胸が一杯になっていき、半分を過ぎた頃から「あれ、やばいな。このままだと、泣くな」という気配が止まらず、新キャプテンが決まったところで我慢ができなくなり、残りは涙をぬぐいながら読みました。クライマックスは本当に苦しいくらいでした。
 物語がハッピーエンドであることも、彼女がああなってしまうことも、どの部員がどう活躍するかも、ほとんど予想できたことですし、リアリティとはかけ離れた「御伽噺」であることも承知の上なのですが、そんなことはお構いなしに、圧倒的に感動しました。
 感動というと、悲しかったり、かわいそうだったりで「泣かせる」手法もありますが、「もしドラ」の感動はそういった種類の感動ではなく、爽やかで、みんな頑張っていて、一生懸命で、運命もそれに答えてくれて大成功するという、そういった種類の感動でした。
 事実、何で高校生が甲子園を目指しているだけでこんなに泣けるのか、自分でも良く解らないし、もしかしたら自分についている涙のスイッチが間違っているのではないかと、多少不安にもなりましたが、こんなに泣いた小説は初めてです。
 映画化でも、アニメ化でも、ドラマ化でもいいから、今度は映像でこの話を観たいです。
 ご覧の通り、表紙で敬遠される方もいらっしゃると思いますが、この本、売れているだけの理由があると思います。
 ドラッカーの「マネジメント」は読んだことはありませんし、期待もしていなかったのですが、所々に登場するドラッカーの引用は素晴らしく、経営者でなくても、それこそ人と関わる全ての状況で生かせるものだと感じました。

<2010-4-6>
 吉祥寺の丸井に、啓文堂書店がリニューアルオープンしたので行ってきました。
 早速「完全熟睡マニュアル」を探したところ、ビジネス書の棚に平積みで置いてありました。
 出版してから早2ヶ月。
 まだまだこうやって平積みで販売していただいているのを見ると、著者としては本当に嬉しい限りです。
 今、話題の「FREE」や、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」のすぐ近くにあって、「何故ビジネス書のところに??」という疑問はさておき、多くの人の目に付きそうな場所で、それも嬉しかったです。
 数は多くありませんが、ネット上のいくつかのブログでも、読者の方がレビューを書いてくださっており、CDをお聞きになって、「最後まで聞けない」、「本当に癒される」と感想を書かれているのを読むと、お役に立ててよかったと、心から思います。
 ちなみに、三鷹の啓文堂書店にも、平積みではありませんが、在庫がありました。
 また、1ヶ月前に行ったときには、府中の啓文堂書店にも平積みされていました。

 今日は天気が良く、井の頭公園はお花見に来た人たちでいっぱいでした。
 平日だというのに、駅周辺も、さらに井の頭公園に向かう細い道も、人で溢れ、非常に活気がありました。
 僕は、井の頭公園や、通り沿いの、毎日がお祭り騒ぎな感じが大好きです。
 帰りに、富士そばで、500円の「ミニヒレカツ丼セット」を「かけそば」でいただき、帰ってきました。
 とても良い、春の一日でした。

<2010-4-5>
 新雪の上を歩くとき、「高村光太郎状態」って思っている人はいるのだろうなぁと、Googleで「高村光太郎状態」を検索したところ、本当に何人かいて、びっくりしました。

 「道程」 高村光太郎
  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ
  父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守ることをせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため

<2010-4-2>
 小学校低学年の頃(火を使った料理などとてもできなかった頃)に、子供ながら「料理っぽいこと」がふたつありました。
 ひとつは、トーストです。
 トースターにパンを入れて、焼きあがったトーストにマーガリンを塗り、ジャムを塗ってジャムパンを作ることは、「食材から食べられる状態にした」という、ある種の達成感がありました。
 もうひとつは、バターご飯です。(僕の中では、決して「バターライス」ではなく、「バターご飯」なのです)
 バターご飯は、熱々のご飯に、バターをひとかけら落とし、ご飯の熱で溶けたバターをご飯によく混ぜ、その上から醤油をかけて、さらに混ぜたものです。
 卵かけご飯も好きでしたが、こちらは、「卵を親の許可なく使ってはいけない」という思いがあり、また、うまく卵を割ることも子供の頃はできませんでしたので、自分で作るとなると、やっぱりバターご飯でした。
 子供の頃は、このバターご飯が大好きでした。
 ふりかけをかける感覚で、バターご飯を作っていました。
 ただの白いご飯が、ちょっとした作業でこんなにも美味しい物に変身するのがたまりませんでした。
 例えおかずがなくても、ご飯さえあれば、誰にも頼らずにお腹を満たせるのだ、という安心感も、今思えば、たまらなかったのだと思います。
 しかし、次第にバターご飯は食べなくなりました。理由はよく覚えていませんが、一緒になってバターご飯を食べていた姉たちが、やがて中学生になり、我が家から「バターご飯ブーム」が過ぎ去っていったのが一番大きかったと思います。バターご飯は、どこか「子供の食べ物」という意識が僕にも家族にもありました。いつまでもそんな物を食べているのが、だんだんと格好悪く感じるようになったのです。
 大学に入って自炊するようになると、「気がつくと食べるものがない」ことが結構あり、そんなときには「バターライス」を食べることはありました。
 バターライスとは、バターご飯と材料は同じですが、作り方が違います。フライパンで炒めるのです。
 冷ご飯が残っていて、おかずがない、という状況が結構あったので、フライパンで炒めながらバターも溶かして混ぜてしまうというのは、非常に合理的に思えました。また、お茶碗の中でバターを溶かして混ぜるというのは、やはり子供じみていて、良い大人がすることではないように思えました。
 バターライスも美味しかったし、材料が一緒だという事実から、それ以来、僕の中では、バターライス=バターご飯、という図式が定着していきました。
 そして月日は流れ、気がつけば、僕は25年くらい、「本当の」バターご飯を食べることもなく過ごしてきました。
 先日、SUBWAYの話を書きましたが、同じラジオで、「熱々のご飯にバターを落として、醤油をちゃちゃっとかけて食べるの、うまいよなー」という話をしていました。
 それを聞いた途端、無性にバターご飯を食べたくなり、早速残っていたご飯を電子レンジで温めて、バターご飯を作り、食べてみました。
 「うまっ!」
 こんなに美味しかったっけ?、と疑問に思うほど、美味しかったです。
 そして、僕は大きな誤解をしていたことに、初めて気がつきました。
 バターライスとバターご飯は、材料は同じでも、全くの別物なのです。
 バターご飯から漂うバターのクリーミーな風味も、ご飯の柔らかさも、バターライスにはありません。
 バターライスはなんか雑。バターご飯はちょっと繊細。
 何でこんなに美味しいものを、長い間、忘れていたのだろうと、後悔さえしました。
 バターご飯はカロリー高そうだし、栄養もなさそうだし、未だに良い大人が喜んで食べるべき食べ物ではないような気もしますが、そんなことはこの際、関係ありません。
 美味しすぎるのです。
 厚切りの食パンに、バターを塗って食べるのも美味しいですが、ご飯とバターと醤油の奏でるハーモニーも、シンプルな中に深みがあり、決して負けてはいないと思いました。
 あぁ、夜中だけど、今から食べてしまおうかな。

<2010-4-1>
 今日はエイプリルフール。
 自分に、幸せな嘘をいっぱいつこうと思います。

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<2010-3-27>
 「青春のリグレット」という松任谷由実の書いた曲があります。
 元々は、麗美のためにユーミンが書いた曲ですが、後にユーミン自身も歌っています。
 (僕は松任谷由実バージョンよりも、麗美バージョンの方が、歌もアレンジも圧倒的に好き)
 こんな歌詞です。

  笑って話せるね
  そのうちにって 握手した
  彼のシャツの色が まぎれた人混み
  バスは煙残し
  小さく咳きこんだら
  目の前がにじんだ黄昏

  あなたが本気で見た夢を
  はぐらかしたのが苦しいの
  
  私を許さないで 憎んでも覚えてて
  今では痛みだけが 真心のシルエット

  ほんの三月前は 指絡めた交差点
  今も横を歩く気がする   
  
  夏のバカンスを胸に秘め
  普通に結婚してゆくの
  
  私を許さないで 憎んでも覚えてて
  今でもあなただけが 青春のリグレット

  私を許さないで 憎んでも覚えてて
  今では痛みだけが 真心のシルエット

  笑って話せるの それはなんて哀しい
  だってせいいっぱい愛した あなたを愛した

 この曲の凄みは、何と言っても、「私を許さないで 憎んでも覚えてて」でしょう。
 僕の義理の兄はアメリカ人なのですが、この歌詞を聴いたとき、「憎んでいても覚えていて欲しい、という感覚は全く理解できない。日本人ならではの発想なのではないか?」と言っていました。
 当時、僕は高校生だったのですが、そこまで意味を深く考えて聴いていませんでしたので、彼の言っている意味がピンと来ませんでした。でも今になって改めて聴くと、僕にもこの発想は理解できません。
 日本人ならではの発想というより、女性ならではの発想なのかな?

 この歌詞を良く読むと、どうも悪いのは、断然、彼女の方ですね。
 勝手な推測ですが、彼女は結婚が決まっているにも関わらず、この「あなた」を愛して、夏の間に「バカンス」を楽しみ、彼が彼女との未来を「夢」見はじめても、自分は結婚が決まっているのでその夢を「はぐらかし」、結局は彼とは別れるのです。

 「笑って話せるね」
 「そのうちに……」

 という会話を残して。
 そして彼女は、おそらく「せいいっぱい愛した」わけでもない相手と、「普通に」結婚していくのです。
 別れて3ヶ月くらいのときは、彼と「指」を「絡めた交差点」で彼を思い出し、切ない気持ちになったりもしました。
 しかし時が流れ、いつか、約束の「そのうち」がやってくるのかもしれない。
 彼と「笑って」話すことができるまでの関係になっている自分。
 自分のことを許さないで欲しい。憎んでいてもいいから、覚えておいて欲しいとまで思った彼と、笑って話している。
 「それは」憎まれているよりも、「なんて哀しい」。何故なら、「せいいっぱい愛し」ていたのだから。

 これだけ短い文章の中に、しっかりとドラマを描くことができるユーミンの才能に脱帽ですが、それよりなにより、このドラマには救いがないですね。
 決して運命に逆らおうとしないで「せいいっぱい愛した」と哀しさに浸るだけの彼女と、そんな彼女を「笑って話せるね」と大人の対応で手放す彼、そして彼女の「夏のバカンス」のことなど何も知らないで結婚生活を送る彼女の夫。
 誰も救われない。
 でも、こういった「誰も救われない」曲が、人を共感させるのかもしれません。

 最後になりましたが、女性の皆様、この「私を許さないで 憎んでも覚えてて」という気持ち、理解できますか?

<2010-3-26>
 今日はSUBWAYの日で、サンドイッチが全品290円でしたので、夕食はSUBWAYにしました。
 以前はSUBWAYに、苦手意識がありました。
 パンや野菜、ドレッシングを選べる自由さが、逆に面倒くさく感じていたのです。
 特に後ろに人が並んでいるとゆっくり選べないし、そんな慌しい状態で下した自分の選択のせいで、せっかくのサンドイッチが実力以下の不味いサンドイッチになってしまうのではないかという不安が絶えずつきまとい、色々と考えると疲れてしまいました。
 ですから、生まれてから去年まで、僕は2回しかSUBWAYに行ったことがありませんでした。
 しかし、あるラジオ番組で、「SUBWAY選手権」が行なわれたのを聞いて、俄然、再チャレンジしたくなりました。
 その番組では、出演者が各々、SUBWAYでサンドイッチを自分なりのセンスで注文し、誰のサンドイッチが一番美味しかったかを競うもので、聞いているだけで美味しそうで仕方がありませんでした。
 自分ではまず頼まないであろう、「ハニーオーツ」というパンを選ぶ人もいれば、「何故そのサンドイッチにバジルマヨネーズ??」という人もいました。
 しかし、できあがったどのサンドイッチも、審査員は「美味しい!」と大絶賛。
 それを聞いて、「あぁ、どんな組み合わせを選ぼうとも、基本は美味しいのだな」と確信し、それを聞いた翌日、何年かぶりにSUBWAYに行ってみたのです。
 ラジオで出演者が自由に注文していたのを真似て、守りに入らず、ホワイト以外のパンを選び、トーストし、アグレッシブにトッピングを追加し、野菜を増量し、ドレッシングを「オススメ」以外で選んでみたのですが、あれだけ苦手意識があったこの作業が、実に楽しく、いざ食べるときの「答え合わせ」の感覚もたまりませんでした。「今度はパンをトーストしないのを食べてみよう」とか、「トッピングのクリームタイプのチーズは外せないな」とか、「ドレッシングは○○も合いそうだな」などと考えながら食べるのが、とても楽しいのです。
 その日、3月26日はSUBWAYの日だということを知り、「次回はSUBWAYの日に行こう!」と決めていました。
 今日は新発売の「炭火焼カルビ&チーズ」と、せっかくなので普段は一番高い「ローストビーフ」をベースに注文してみました。
 「炭火焼カルビ&チーズ」は美味しくないわけがない組み合わせで、「ローストビーフ」は「これぞサンドイッチ!」という味。
 ふたつも食べたのでお腹一杯。
 幸せな夜でした。

<2010-3-24>
 今日、雨の中、桜が咲いているのを見つけました。
 ということで、「」です。
 「桜」とタイトルについてる曲の中で、これが一番好き。

 ♪神様は創りかけて やめてしまった こんな気持ちわかんない ぜんぜん♪

 川本真琴の曲の中には「神様」がよく出てくるのだけれど、彼女の神観は、そこらへんのゴスペルにかぶれたキリスト教徒たちよりもずっとマトモだと思います。

<2010-3-23>
 宮崎駿が、部下のスタッフを怒るときに使うセリフの中で、本当に怒ったときしか使わず、ジブリスタッフの間では、「これが出たらヤバイ」とされているっぽいセリフ。

 「もういい。君にトトロは見えないよ」

 おぎやはぎ「メガネびいき」より

<2010-3-22>
 本日、某カラオケオフ会に参加しました。
 僕は普段はほとんどカラオケに行かないので、カラオケに行くと、他では感じることのない、特殊な気持ちになることがあります。
 楽しいのだけれど、切ないような、取り残されたような、それでいて温かいような……。
 今まで、なんでそんな気持ちになるのか、深く理由を考えたことはなかったのですが、今日、その理由が判りました。
 それはあの、カラオケ映像のせいです。
 歌詞の裏で延々と繰り広げられているカラオケ映像を、気がつくと僕は食い入るように観ていることがあって、その映像の世界に入ってしまうのだと思います。
 カラオケ映像は、大抵は低予算で、安直で、間に合わせで、役者さんもスタッフも、誰もがやっつけ仕事という、シワ寄せの結晶のようなシロモノです。良いものを作っても評価されるわけではないし、おそらく良いものを求められているわけでもないので、当然といえば当然かもしれません。
 それでもカラオケ映像の世界には、妙な魅力があるのです。

 カラオケ映像の世界では、誰もが基本的に美男美女です。しかし、良い感じに(?)等身大でもあります。テレビドラマのような、「手の届かない人たちの作り物の日常」ではなく、それこそ、隣の部屋を開けたらこの人たちがマイクを持って歌っているのではないかと思わせるような、そんなリアリティがあります。
 そして彼らはみんな一生懸命です。一生懸命バイトをしたり、夢を追いかけたり、恋をしたりしています。失敗して怒られても決してへこたれませんし、事実、彼らはしょっちゅう失敗します。
 カラオケ映像の世界では、頻繁に男女がぶつかって、物が落とされます。今日みていただけでも、リンゴ、オレンジ、種(!)、手帳、教科書が落とされました。
 ぶつかると、彼らは簡単に恋に落ちます。ひとりで部屋にいるときなど、回想シーンでぶつかったところが何度も映し出されます。再会を夢みて同じ場所に行って、結局は会えずに肩を落としたりもします。
 そしてもちろん、思いがけないところで2人は再会します。再会すると、2人の仲は急接近。めでたしめでたし、なのです。
 カラオケ映像の世界では、頻繁に三角関係に陥ります。
 彼が他の人といるところを目撃して悩む女の子もいれば、2人の男の子からチヤホヤされて、その2人の男の子も「良いライバル」みたいな感じで、3人で非常に仲良く青春を謳歌しちゃう場合もあります。
 カラオケ映像の世界では、電子メールよりも手紙をしたためることをよしとする傾向があります。
 カラオケ映像の世界では、法に触れるか触れないかのスレスレのところで、誰もが待ち伏せをします。
 カラオケ映像の世界では、あり得ないことも起こります。
 地下室に女の子が拉致され、ロープで縛られているところを、ピストルを持った男の子が助けに行くこともあります。
 女の子が待ち伏せをしていて、突然現れたかと思うと男の子の腕に手錠をかけ、手錠の反対側を自分の腕にかけて、鍵は彼の見ている前で飲み込んでしまい、そのまま彼をデートにつれ回したりもします。
 ものすごくかわいい女子高校生が、勇気を出して同級生の男の子に手紙を渡すと、その男の子(大した男ではありません)はそれを読みもせず、その場に捨てて過ぎ去るという、「何やってんだよ、おい」ということも起こります。

 ラジオ(特にラジオドラマ)を聞くと、映像がない分、頭の中で映像を補完して「現実」を作りますので、余計にリアルに感じることがありますが、カラオケ映像はセリフがない分、同じように、どんな会話が行なわれているのか、頭の中で補完していきます。解釈は人それぞれ。そのプロセスが、テレビドラマでは感じる事のできない没入感を生み出しているのかもしれません。
 5分前後の中に、ちゃんとストーリーがあって、まるで短編映画を観ているような気にもなるし、「え? 終わっちゃうの? 続きは??」という気分にさえなります。

 カラオケ映像の世界には、いくら安直でも、ご都合主義的でも、そこには確かに、青春があるのです。
 誰もが経験する可能性があった青春……。
 こんなにも、カラオケ映像の世界にはまってしまったのは、そんな青春を、僕は決して経験することができなかったのだと感じるからだと思います。
 冷静に考えると、あり得ない映像のオンパレードなのですが、カラオケ映像には、「こういうの、みんな経験してますけど」的な説得力がどこかにあるのです。

 今日みた映像の中で、一番きゅんときたのは、中学生くらいの男女の映像です。
 男の子は、好きな女の子にラブレターを書くのですが、なかなか渡すことができません。
 何度も待ち伏せしてチャンスをうかがうのですが、いざ渡そうとすると、勇気が出なくて渡せない。
 しかし、これじゃあいけないと、男の子は意を決して、彼女に手紙を渡しに行きます。
 すると、道の影から突然、相手の女の子が現れます。そして、「これ読んでください」という感じで頭を下げながら両手を差し出して、なんと彼女の方から彼に手紙を渡したのです。女の子は手紙を渡すと、恥ずかしさのあまり走っていなくなってしまいます。
 突然のことに、しばし呆然とする男の子。
 彼女からもらった手紙と、自分の書いた手紙を見比べています。
 そして彼は走って彼女を追いかけます。追いつくと、自分の手紙を彼女に渡し、「実は僕も手紙を渡しに行く所だったんだよ」的な表情を浮かべます。
 幸せそうに見つめあう二人。
 次のシーンで、2人は初めてのデートで海沿いの岩の上に座っています。
 男の子は女の子の手を握りたいのだけれど、手紙を渡せなかったときと同じように、握ろうとしては躊躇しています。
 だけど勇気を振り絞って、彼女の手に自分の手を重ねます。
 彼女は彼の方を向いて、優しく微笑みます。
 そして最後のシーンでは、2人はしっかり手を繋いで海岸沿いを歩くのです。
 おわり。
 あぁ、こんな幸せなことってあるでしょうか? まるで夢のよう。
 こういう青春を、一度でいいから経験してみたかったです。

 カラオケボックスで感じる「あの」気持ちは、そんな、失われた青春に焦がれる気持ちなのかもしれません。
 自分の中で、確かにひとつの時代が終わってしまったのだという現実を、まざまざと見せつけられた気がします。

<2010-3-20>
 マロン、それドロップやない。

<2010-3-19>
 今年、小沢健二が何年かぶりにライブをします。
 チケットの先行発売があって、抽選に当たった人だけがチケットを購入できるのですが、中野サンプラザのチケットは落選してしまい、がっかりしていました。
 その後、NHKホールでの追加公演が発表になり、今度こそと応募したところ、見事当選!
 オザケンのライブは初めて観にいくので、今からとっても楽しみです。
 あの、異常なほどの多幸感を生で味わってきます。

<2010-3-17>
 「逆光」って、写真を撮るときと、車に乗っていたり景色を見ていたりするときでは、意味が反対ですね。
 本来なら、写真を撮るときの意味が本当の「逆光」なのだろうけれど、一般的には、「まぶしい」みたいな意味で使う人の方が多いように思います。
 ……と、ここまで書いて、自分が激しく間違っていることにようやく気がつきました。
 意味が違うのではなくて、僕の視点が間違っているのですね。
 「写真を撮るとき」と自分で書いておきながら、僕は「写真を撮られるとき」のイメージを頭の中に描いていました。
 つまり、自分の背中側に太陽がある状況を、本来の「逆光」だと思っていたのです。
 思えば、昔からそうでした。
 何でなんだろう?
 自分ではあんまり「逆光」という言葉を使うことはなくて、カメラをこちらに向けている人が、「あぁ、これだと逆光だなぁ」とか言っているのを聞くことのほうが多かったからかなぁ。
 言葉を正確に理解していないのって、改めて、致命的だと思います。
 以前、派遣で働いていたときに、「出社時間は5分単位で記入。5分未満の端数は切り捨て」と指示を受けて、例えば9時7分に出社した際、切り捨てだからと、「9時5分」と書いて提出して注意を受けたことがあります。
 考えてみれば、「9時10分」と書くべきなのは当然なのですが、僕は「切り捨て」という言葉から、数学的に切り捨ててしまったのです。
 人間は言葉でコミュニケーションをとることが多いですが、その言葉が、自分で意図したとおりに伝わっているのか、そして、相手が意図したとおりに受け取っているのかは、全く保証がないわけで、思った以上に誰とも理解しあっていないのだろうなぁと、年を重ねるごとに思わされます。

<2010-3-15>
 今日から、ラジオがパソコンで聴けるようになります!
 AMラジオもネット経由で、クリアな音質で聴くことができます。
 早速聴いてみましたが、今まで雑音交じりの放送を必死で聴いていたのがなんだったんだというくらい、簡単で、キレイに聴くことができました。
 パソコンがあれば聴けますので、ラジオを普段聴く人も、聴かない人も、是非、お試しください。(^^)
 http://www.radiko.jp/
 地域制限があるようで、聴けない方もいらっしゃるようですし、今日から試験放送開始ということで、サーバーがかなり混みあっているらしく、繋がらないかもしれませんが、そんな場合は、直接リンクで聴けるかもしれません。
 例えば、TBSラジオでしたら、こちら。「選局」タブから、他の局も聴くことができます。
 このサイトは、「ラジコ」と呼ぶらしい。
 ラジオ(ラジ男)に対して、ラジコ(ラジ子)という噂です。

<2010-3-14>
 「出入り禁止」という言葉がありますが、別に「出」は禁止しなくてもいいんじゃないかと思います。
 「入り禁止」で十分じゃないかな。
 いや、むしろ、「出」は禁止したら駄目なのではないでしょうか。
 本当にどうでもいいことなんだけれど。

<2010-3-13>
 記憶がないという感覚は、不思議ですね。
 生まれてから今日までは、部分的には記憶がありますが、当然、生まれる前の記憶はありません。
 「気がついたら、いた」という感覚。
 はじまりを覚えているわけでもない。
 そして、昔の自分を思うとき、もちろん、同じ自分なのだけれど、本当に同一人物なのかも、怪しいような気がしてくる。
 それは性格が変わったからかもしれないけれど、自分があの場所に属していたのだとか、あんなことをやっていたのだということが、本当に自分のことなのか、よく解らなくなる。まるで、中の人が変わったみたい。
 ということは、20年後の自分は、もはや今の自分ではないのかもしれない。
 今の自分は知らないうちにゆっくりと死んでいって、新しい自分に変わっているのかもしれません。
 生まれる前を覚えていないのと同じで、死んだあとのことも、当然認識できませんね。
 よく、亡くなった人に、「安らかにお眠りください」と声をかけますが、本人はその「安らかさ」さえ、感じられない。
 痛かったり、苦しかったり、淋しかったり、辛かったりする人が、それらから「死ぬ」ことで解放されたところで、解放されたことを知ることもできないのは、なんだか非常に残念な気がします。
 数日でもいいから、「あぁ、楽になったなぁ」って感じてから、意識がなくなったら、少しは救われるのに。
 自分にとっては、生まれるということは、世界がはじまるということで、死ぬということは、世界が終わるということだと思います。
 生きるというのは、ほんの数十年、世界をのぞいてみることに過ぎないのでしょう。
 そう思ったら、そこでどんな経験をしようと、大した違いはないような気がしてきた。
 お金持ちになったり、成功したり、愛されたりしないと意味がないという風潮は、本当に疲れますね。
 意味があってもなくてもいいじゃないですか。まぁ、お茶でも飲みましょうよ。

<2010-3-11>
 転調する曲って、大好きです。
 長調から短調へ転調する曲はちょっと淋しくなるのですが、短調から長調への爆発力はたまりません。
 前者は「キャンディキャンディ」の「ひとりぼっちでいる〜と〜」で、後者は「バビル2世」の「か〜いちょ〜ロプロス〜」です。

<2010-3-9>
 0歳と5歳は違う気がして、5歳と10歳も、10歳と15歳も、15歳と20歳も全然違う気がしますが、20歳と25歳にはあまり違いを感じません。
 25歳と30歳も、それほど違うとは感じない。
 だけど、30歳と35歳はやはり違う気がして、35歳と40歳も違う。
 しかし、40歳と45歳はあまり違いを感じない。
 だけどやっぱり、45歳と50歳は違う。
 50歳と55歳も違うけれど、55歳と60歳はそれほど違いを感じない。
 法則性がありそうで、なさそうな、不思議な午後です。

<2010-3-8>
 先日、「アバター」をTOHOシネマズに観に行ったのですが、その際、はじまる前に、「紙兎ロペ」というショートムービーが流れました。
 これがとっても面白くて、検索したところ、youtube にもいくつかあがっているのを発見!
 この、気の抜けた感じがたまりません。
 やっぱりモデルはDAIGOなのかな?
 観たことがない方は、こちらから。

<2010-3-7>
 信じられないことや嬉しいことがあると、「夢じゃないよね?」と、頬をつねるシーンをテレビなどで観ることがありますが、「夢の中で頬をつねる」ことが、子供の頃の僕の望みでした。
 というのも、子供の頃、アニメなどでそういったシーンを観るたびに、自分もやってみたいのと同時に、「これにはどういう意味があるんだろう?」と思っていたからです。
 起きているときに、「これは夢なのではないか?」と思ったことなど、一度もありません。
 「これは決して夢ではなく、現実である」と、ハッキリと判ります。
 それでは、夢の中ではどうかというと、夢を見ているときも、「ははーん、これは夢だな」なんて思うことはあまりなくて、大抵は現実だと思っています。(ちなみに、夢の中で「これは夢だ」と気付く夢を、「明晰夢」と呼びます。比較したわけではないけれど、僕は「夢の中で頬をつねりたい願望」が強かったせいか、人より明晰夢をよく見ている方だと思います)
 つまり、現実でも、夢の中でも、どちらも僕は「現実だ」と思っているわけです。
 ということは、「本当に」今こうやって文章を打っているのが現実だと言えるのかどうか……。
 夢の中だって、「これが現実だ」と思っているわけですから、どんなに「でもこっちの方がずっとリアルに感じる!」と言った所で、まったく説得力がありません。夢の中で、「でもこれが夢のはずがない!」と思う可能性だってありますし、実際、僕は夢の中で、「これが夢だったら良かったのに……」と思ったことが何度もあります。
 しかし、例えそうだとしても、やはり、今こうやって文章を打っているのは現実です。夢ではありません。
 それは何故か? 何で、そんなにハッキリと言えるのか?
 何故なら、記憶が連続しているからです。
 昨日と今日は連続している。昨日だけじゃなくて、1週間前、1ヶ月前、1年前、10年前からこの人生は連続していて、その結果として今日があることを、認識できるからです。
 夢の世界はそうではありません。
 夢の世界は、ただ、「現在」があるだけです。
 何だかよく解らないけれど、自分が試験を受けなければならない学生だったりして、どうしてその学校を選んだのかなど、全く理由も知らないし、準備だって全くできたいないのに、圧倒的な現実感だけがあって、試験から逃れることができなかったりします。冷静に考えればそんなことはあり得ないのに、夢の中では、いきなりそのシーンに放り込まれても、大抵は疑問も持たずに受け入れてしまうのです。

 子供の頃、どうして「夢の中で頬をつねりたい願望」があったのかというと、頬をつねる目的が、子供心に、よく解らなかったからです。

1.夢の中だと、頬をつねっても痛くないはずだから、痛ければ現実、痛くなければ夢、という意味で頬をつねるのか。
2.それとも、頬をつねって痛いと目が覚めるので、目が覚めなければ現実、目が覚めれば夢、という意味でつねるのか。

 夢というのはリアルなので、「痛みを感じない以外は、現実と区別ができない」という前提があるのであれば、1.が正解でしょう。
 そして、「痛みが夢から脱出するためのトリガーとなる」のでしたら、2.が正解になります。
 子供の頃、それこそ毎晩のように、「今日こそ夢の中で頬をつねってやろう」と思って寝ていました。
 だけれど、それに成功したことは一度もありませんでした。
 どうしてそこまで熱心に、夢の中で頬をつねることを求めていたのか、自分でもよく判りませんが、夢の中で頬をつねることができてはじめて、テレビに出てくる、「夢じゃないかしら?」と頬をつねるシーンはリアリティを持つし、自分だって、信じられないことが起こったときに、堂々と頬をつねっても良いような気がしたのだと思います。
 これには複線があります。
 子供の頃、同じくテレビなどで、自然の中で「空気が美味しい!」と言っている人をみて、「自然の中ではこういう風に言うんだな」って思ったことがあります。そこで、旅行で山へ連れて行ってもらったときに、「空気が美味しい!」と大きな声で言ったことがあるんです。
 すると、周りで聞いていた大人たちは大爆笑。
 僕はすごく恥ずかしくなって、「間違ったことを言ってしまったのだ」と思いました。
 笑っている大人たちは、「お前に空気の何が解るのだ」と言う目をしていましたし、実際に空気が美味しい感覚など、僕は全く感じていませんでした。僕はただ、テレビで聞いたそのセリフを言ってみたくて、そのチャンスを淡々とねらっていただけなのです。
 完全にそれを見透かされた気がしました。
 その経験があったので、軽々しく、信じられないことが起こったときに、「夢じゃないかしら?」と頬をつねるわけにはいかない。頬をつねることが本当に有効なのだということを確認してから実践したい、と思っていたのです。

 余談ですが、高校の頃、友達が「夢は白黒だ」というのを聞いて、びっくりしたことがあります。
 そんなことは考えたこともなかったし、当たり前のように、現実がカラーなのと同じように、夢もカラーだと僕は思い込んでいました。
 しかしそう言われると、全く確信が持てませんでした。
 「じゃあ、夢の中で何色の何を見たことがある?」と聞かれても、僕は答えることができなかったのです。
 そこで、その日からしばらく、夢は白黒かどうかを検証しようと意識して寝るようにしました。
 なかなか結果は出ませんでしたが、ある日、夢の中に、当時流行していたMA-1というジャケットの裏地のオレンジ色がくっきりと出てきました。
 そして僕は、「僕の夢はカラーなのだ」と確信したのです。
 話を元に戻します。
 夢の中で頬をつねることは中々できませんでしたが、次第にいくつかのことに気がつくようになりました。
 それは、「夢の中では痛みを感じる」ということ、そして、「痛みを感じても目が覚めるわけではない」、ということです。
 そして、先ほど書きましたとおり、僕は時々、夢の中で「これは夢だな」と気付くようにもなりました。
 気付けたのだから、そのまま頬をつねれば良いのだけれど、そこまでは何故か気が回りません。
 さらに、「これは夢だな」と気がつくと、何故かすぐに目が覚めてしまうのです。
 「目覚める直前だからこそ、それが夢だと気付くことができた」のか、それとも、「夢だと気付くことが、夢から脱出するトリガーになっていた」のか、それさえ僕には解りませんでした。

 さて、長々と書いてきましたが、実は昨日、ものすごくリアルに、「夢の中で頬をつねる」という経験をすることができました。(何年越しなんだろう。笑)
 昨日、少し嫌な夢を見ていて、あまりの理不尽さに、「あぁ、これは夢だな」と気がついたんです。
 いつもだと、その状態は長く続かないのですが、昨日は珍しく、いつまでたっても目覚めず、一生懸命自分で起きようともしたのですが、起きることができませんでした。非常にリアルで、非常に夢の状態が安定している感じがして、どうすれば夢の世界から逃げることができるのだろうと、だんだんと焦ってきました。
 映画「マトリックス」で、それが仮想現実だと解っていても、自由にこちらの世界に戻れないのと同じような、そんな感覚でした。
 そんな中、痛ければ起きられるのではないかと思い、頬を叩いたり、つねったりしてみたのです。
 そして、頬にははっきりと痛みを感じたけれど、起きることはできませんでした。
 「夢の中で頬をつねると痛いし、起きることもできないんだな。この方法は、全くの無意味なんだな」と、夢の中で思ったのを覚えています。
 で、何故だか解らないのですが、「自分が寝ているはずの部屋やベッドを思い出すことができれば起きられる」ということが解ったのです。(夢の中では、そういうことは、ただ、「解る」のです)
 そこで、「昨日はどこで寝たっけ?」と考えるのですが、それが思い出せない。自分がどんな家に住んでいて、どんな部屋で寝ているのか、全く出てこない。
 何度も「こんな感じの部屋かな?」と想像して、その部屋のベッドからガバッと起きるところを想像するのです。そう想像すると、実際にその想像した部屋で起きることができるのだけれど、起きたところもまだ夢の中。「違う、この部屋じゃない」となるのです。
 最終的に、昔住んでいたアパートの部屋をハッキリと思い出すことができて(自分は昨日、その部屋で寝たのだと思っていました)、その部屋で起きるところを想像したところ、目が覚めました。
 目が覚めて、自分の部屋をみて、「あぁ、間違った部屋を想像してたんだ」と思いました。間違ったけれど、起きられてよかった、と。

 夢と解っていながら、ここまで目覚めることができなかったのは、はじめての経験です。
 もし、毎晩眠ると、昨日の夢の続きを見るとしたら、これが現実か夢かなど、大した問題ではなくなるのだろうなぁと、目が覚めてから思いました。
 これだけリアルな夢や、目覚められない夢を見るのであれば、今後、「夢の連作」を見る可能性も十分にあるし、そんなことを考えると、ちょっとだけ怖くなりました。

<2010-3-6>
 これを観ていたら、よく解らないけれど、あぁ、生きるってこういうことなんだなぁ、と思いました。

<2010-3-5>
 「完全熟睡マニュアル」ご購入者の皆様に、感謝の気持ちを込めて、もれなくプレゼントを差しあげます。
 これからご購入される方はこちら、すでにご購入いただいた方はこちらをクリックしてください。

<2010-3-4>
 先日放送された「トリビアの泉」にて、「ご飯に一番良く合うスナック菓子は何か?」、というネタが放送されていました。
 第一位が、ポテトチップスのガーリック味だったので、「本当にお菓子で飯が食べられるのかな?」と思いつつも、早速買ってきて試してみました。
 炊き立ての白米の上に、ポテトチップスガーリック味を細かくつぶし、ふりかけのようにかけて食べてみましたが、美味しかったです。(^^)
 もう、おかずが決められない日はこれで良いんじゃないかと思うくらい。
 買ってきてまで試す必要はありませんが、もし、たまたまポテトチップスガーリック味が手元にある方は、お試しください。
 僕は、好きでした。

<2010-3-3>
 3D映画の「アバター」を観に行きました。
 3Dには方式がいくつかあるらしく、IMAX方式が一番良いらしいのですが、川崎まで行く元気がなく、近場の府中に行きました。府中はXpanD方式でした。
 「映画を観にいく」という気持ちよりも、「3D映画を体験しにいく」という気持ちの方が強かったため、映画が始まると、まるでディズニーランドのアトラクションにいるようで、ストーリーを追いつつも、奥の映像と手前の映像に視点を動かしたり、メガネを外してぼやけた映像を確認したり、いろいろなことを意識しながら観ました。
 他の方式を知らないのですが、XpanDは暗かったです。
 メガネを外して映像を観ると、ぼやけているのは別として、すごく明るくて綺麗な映像なのに、メガネをかけるとその良さが半減します。
 これだったら、2Dでも良いので、明るい映像で観た方が良いのかも?、なんて思いました。
 また、XpanDは、電子シャッターで右目の映像と左目の映像を切り替える方式のため、コマ数が足りていない感じがしました。
 2Dの映画なら、多少カクカクしていても、それが映画っぽさでもあり、違和感はないのですが、3Dは非常にリアルなため、コマ数が足りないと世界が破綻する感じがします。
 ゆっくりなシーンでは入り込めるのに、動きが早くなると映像がついていかなくて、「もっとちゃんと観たい!」と思わされます。
 いろいろ書きましたが、それでも、3Dの説得力というか、迫力は圧倒的で、それは今までの映画にはない経験でした。
 映画というメディアは十分洗脳的ですが、3Dにすることで、没入感が増し、更に洗脳的になるように思いました。
 「アバター」のストーリーは、どこかで観たようなアイデア満載でしたし、ご都合主義過ぎではありましたが、ちゃんとハッピーエンドで良かったです。
 何となく、「段数伊豆売るブス」じゃなかった、「ダンス・ウイズ・ウルブス」を彷彿とさせましたが、あちらは結末が悲しかったので、娯楽映画はこれで良いのだと思います。
 そうそう、僕はいつも、映画は字幕派なのですが、3D映画は字幕を追っていては楽しめないと思い、吹き替えで観ました。
 これは大正解だったと思います。
 途中、吹き替え版でも字幕が出るシーンがあるのですが、字幕を読んでいると、映像を観る余裕がなくなります。
 特に3Dの字幕は、字幕が浮いているように見えるので、一瞬、焦点を合わせる時間が必要な感じがしました。
 全編字幕だったら、きつかっただろうなぁと思います。
 これから観られる方は、吹き替え版がオススメです。
 映画の後、府中の啓文堂で、「完全熟睡マニュアル」を探したら、平積みで置いてあるのを発見。
 自分の本が並んでいるのを見るのは、やっぱり嬉しいです。
 今日は深大寺のだるま市だったので、帰りに深大寺によって、お蕎麦を食べて帰ってきました。
 家についてお茶を飲んだら、激しい睡魔に襲われて、気がついたらウトウトと1時間も寝てしまいました。
 何だか密度の濃い一日でした。

<2010-3-2>
 尾崎豊の「ドーナツショップ」という曲の中に、

「コンクリートの街並みが、さみしいんだよ、って、うつむいた」

という歌詞が出てくるのですが、僕はずっと、

「コンクリートの街並みが、斬新だよ、って、うつむいた」

だと思っていました。
 田舎暮らしをしていた人が東京に出てきて、土も緑もない街の中で、「むしろ斬新!」って、感心している歌なのかなぁって。
 そんなわけ、ないのだけれど。

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<2010-2-24>
 「死なないぞダイエット」という本を読みました。
 この本は、いかに内臓脂肪を溜め込むことが体に良くないか、突然死や、死なないまでも、人工透析の辛さなどが豊富なデータとともに書かれており、心臓病や脳卒中、糖尿病についてよく知らない人にとっては、かなり衝撃的な内容になっています。
 そして、働き盛りのお父さんが、大切な家族を残してそんな突然死で「死なない」ために、どうやったらダイエットできるのか、合理的な方法論が記されています。
 今までの「食べたいけれど我慢する」「面倒だけれど運動する」という、我慢を前提としたダイエットではなく、毎日体重計にのって「体重が減る」という喜びをモチベーションに、楽しみながら、ゆっくりと、自然に、我慢なく、確実に痩せられる、非常に完成されたダイエット方法だと思いました。
 この「計るだけダイエット」は、当然ですが、計るだけでは痩せません。計ることで、意識的にも無意識的にも、食生活が変わり、運動量が増えることで痩せていくのです。
 本書の最初から最後までのすべてが、効果的な「暗示」になっており、無意識にも訴えるという意味においては、催眠的なダイエット方法だと思いました。
 「食べる」喜びを、「体重が減る」喜びにすりかえるわけですから、毎日の体重の変化に気付けることが必要条件になります。
 「計るだけダイエット」を実験した100人中、失敗した17人は、すべて、アナログ式の体重計を使っていたそうです。アナログ式だと、数値で体重が出ませんので、なかなか減った実感が沸きません。
 同様に、デジタル式でも、200g や 500g 単位の体重計ですと、例え 50g 減っていたとしても、気がつけないので、「体重が減った喜び」を感じることができません。
 ということで、著者は、50g や、最低でも 100g 単位で測定できる体重計を推奨しています。
 うちの体重計も 200g 単位でしたので、早速 50g 単位の体重計を探したのですが、これがなかなかないんですよね。
 ようやく見つけたのが、TANITA の「BC-306-PR」。
 少し高いですが、毎日の測定結果が自動で記録されてグラフ表示ができたり、体重のほかに、体脂肪率、基礎代謝量、BMI、内臓脂肪レベル、筋肉量、体内年齢、推定骨量、体水分率が量れたり、表示部が取り外せて手元で確認できたりと、至れり尽くせりです。
 早速注文してみました。

<2010-2-21>
 いよいよ来週の日曜日、「催眠研究会」が開催されます。
 「研究会」なんて言うと、とても難しそうに聞こえるかもしれませんが、参加者のほとんどが初心者の方で、お茶を飲み、お菓子をつまみながら、いろいろなお話をしています。
 Derren Brown という、イギリスの心理誘導を中心としたマジシャンの動画をプロジェクターで観ながら、何が起こっているのかを(解る範囲で)私が解説したり、皆さんで考えたりするのが中心です。
 マジシャンの動画ですので、どうしてもエンターテインメントより、マジックよりの内容ですが、その分、わかりやすく、興味深いものが多いです。
 また、人に影響を与えるコミュニケーション方法なども、動画の合間にお話していますので、もしかしたら、お仕事やプライベートに何かヒントになることがあるかもしれません。
 参加費の1,000円は、あくまで茶菓代、資料代ですので、この会に関しては、仕事ではなく、私も趣味として行なっています。
 ご興味のある方は、一度どんな感じが、のぞいてみてください。

 ネット書店から在庫が消えていた「完全熟睡マニュアル」ですが、Amazon セブンネットショッピング 以外は、在庫が回復しています。
 ただ、広告のおかげで出版元に注文が殺到したらしく、現在、出版元の在庫がなくなってしまったそうです。(それ故、Amazon の納期がかなり遅くなっています)
 ビーケーワン などの他のネット書店ではまだ在庫がありますので、ご興味のある方は、なくならないうちにどうぞ!
 紀伊国屋やジュンク堂などの大型書店では、今はまだ在庫があるようですが、初刷数が少なかったせいもあり、一度品切れすると、入手困難になる可能性もございますので、こちらも、ご興味のある方は是非。

<2010-2-18>
 いまいち、どう使えば良いのか理解しないまま、twitterをはじめてみました。
 今のところ、有名人のつぶやきを読んだり、ほとんど誰も誰も読んでいないのに、ときどきぼそっとつぶやいたりしています。

 昨日新聞広告の載った「完全熟睡マニュアル」ですが、Amazon楽天ブックスboopleに続き、セブンネットショッピングTSUTAYA onlineでも在庫がなくなってしまいました。
 これが、連邦軍のモビルスーツの威力……、ではなくて、読売新聞のサンヤツの威力なのか……、とびっくりです。在庫って、最初はどれくらいあったんだろう??
 まだ、ビーケーワン紀伊国屋 BookWebHMVには在庫があるようです。
 なくならないうちに、是非!

<2010-2-17>
 本日、2月17日の読売新聞の朝刊、1面に、「完全熟睡マニュアル」の広告が掲載されています。
 全国紙に広告を出していただいて、出版元のこう書房さんには本当に感謝しています。
 このスタイルの広告は、サンヤツと呼ばれるそうです。新聞の縦3段を使い、横は8等分したサイズなので、サンヤツ。
 新聞の広告って、一体どれくらい宣伝効果があるのだろうと、昔から興味があったので、これから数日、売れ行きをチェックしてみようと思います。
 広告の効果か、早速、Amazon楽天ブックスboopleでは在庫がなくなってしまいました。
 ビーケーワン紀伊国屋 BookWebセブンネットショッピングTSUTAYA onlineHMVでは、まだ在庫がございますので、お早めに……。
 下記、2/10、2/5のブログにもございます通り、大型書店でも購入可能ですので、書店にお立ち寄りの際は、どんな本か手にとってご覧くださいね! 

<2010-2-15>
 誰々の為、と平気で言ってしまう人は、偽善の匂いがプンプンします。僕はそういう人を信じません。
 「人の為」と書いて「偽」と読むのは、「信者」と書いて「儲かる」と読むのと同じくらい、深いなぁと思います。
 もちろん、結果的に人の為になることは素晴らしいことですが、そのときに「人の為にやっているんだ」という意識が少しでもあるのであれば、やめてしまえ、と思う。
 「情けは人の為ならず」という言葉を、「情けは人の為にならない」と誤解している人がいますが、なんとも押し付けがましい誤解です。この言葉には、本来、「情けは人の為ではなく、いずれは巡って自分に返ってくるのであるから、誰にでも親切にしておいた方が良い」という意味があります。「すべては自分の為なんだ」、という認識こそ必要なんですね。
 したいからそれをしている……。幸せに生きるために必要なことは、それ以上でもそれ以下でもありません。
 自分が何かを選択し、実行していて、何故それをしているのかと問われたときに、「自分がしたいからだ」といつも答えられる人は幸せです。
 「本当はしたくないけれど、自分がしないと○○さんが困るから……」などと言っている人は、「人の為」という言葉を使って自分の人生から逃げているだけです。
 自分の為に生きられない人は、いつまでたっても幸せになれません。
 「あなたのために○○したのに……」なんて言われたら、言われた方も重いです。頼んでないです。責任なんてとれません。
 「喜ぶ顔がみたい……」という理由で淡い期待をする程度がちょうどいい。間違っても「喜ぶ顔」を強要してはいけない。
 こんなことを書いていると、ずいぶん偏狭だと思われるかもしれませんし、全人類が「自分の為」だけに生きたら、大変なことになるのではないかと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それでも、「人の為」という考え方は、「○○しなければならない」という考え方と並ぶ、二大悪のひとつだと思います。
 自分の為だけに生きる、ということは、決して利己的に生きなさい、という意味ではありません。
 自分のした選択に、すべて責任を負う、という意味です。「人の為」という言葉で逃げずに、自分の人生と向き合う、ということです。
 誰もが自分の為だけに生きるようになったら、もしかしたら、今よりもずっと生きにくい世の中になるかもしれません。
 けれども、それから20年くらい経ったころには、今よりも何倍も生きやすい世界に変わっているのではないかと、僕は思っています。

<2010-2-14>
 先日、初代タイガーマスク、佐山サトルさんの道場へ遊びに行きました。
 佐山さんは格闘技だけではなく、催眠も非常に熱心に研究されていらっしゃり、2年前から交流を持たせていただいています。
 僕はプロレス黄金期に小学生でしたので、タイガーマスクの衝撃は今でもハッキリと覚えています。(休み時間になると、友達と一生懸命ローリングソバットの練習をしたものです)
 その佐山さんと、個人的にお会いしたり、一緒にお食事をしたりするようになるとは、本当に夢にも思っていませんでした。
 総合格闘技を日本で作り上げた、ファンにとっては雲の上のお方ですので、失礼があってはいけないと、初めてお会いしたときには緊張していたのですが、佐山さんの素敵な笑顔を拝見した途端に、その緊張も吹き飛びました。
 佐山さんはお話が非常に面白くて、絶えず相手を笑わせ、楽しませてくれます。その冗談は、ときどき子供のように無邪気で、周りを否が応でも和ませてしまいます。
 また、非常に聞き上手でもいらっしゃって、佐山さんとお話していると、まるで自分が面白いお話をしているのではないかと錯覚してしまうほど、全身で聞いてくださいます。
 偶然にも、佐山さんも2月に本を出版されると言うことで、一冊プレゼントしてくださいました。
 「佐山原理 新生武士道真陰」というタイトルで、「格闘技とは?」、「武士道とは?」について、佐山さんの熱い思いが語られています。
 早速読ませていただきましたが、素晴らしい本です!
 特に第一章では、今、なぜ武士道が必要なのかが、歴史を踏まえながらやさしく解説されてあり、何度もうなずきながら読みました。
 日ごろ、心で感じていても、うまく言葉にならなかった思いを、佐山さんが痛快に語ってくださり、同時に、深く考えさせられました。
 武士道について書かれている本ですが、闘い(これは格闘という意味だけではなく、護身や、精神的な意味も含めて)における、トランス(催眠)の役割や、戦闘生理学は非常に興味深く、内観法や呼吸法、自己催眠法についても言及されていらっしゃり、とても勉強になりました。
 また、第七章では、掣圏真陰流の技術が解説されていて、こちらも格闘技ファンとしては、かなり面白かったです。今まで、いろいろな格闘技を観てきましたが、掣圏道のルールは非常に明確で、思想も合理的であり、はやく試合を観たいと思いました。
 文章だけでなく、付属のDVDでは、内観法や呼吸法、催眠法を佐山さんが映像を通して解説してくださり、また掣圏真陰流の技術も、実際に映像で観ることができます。
 護身術についての解説もあり、これはとても参考になりました。いざ、誰かに襲われたときに、対処法を知っているのと知らないのでは大違いですから、早速練習してみたいと思いました。
 格闘技ファンも、催眠に興味のある人も、日本の行く末を案じている人も、是非読んでいただきたい一冊です。 

<2010-2-10>
 今日はお茶の水へ行く用事があったので、ついでに新宿、神保町、お茶の水で本屋さん巡りをして、「完全熟睡マニュアル」が売られているかどうか、チェックしてきました。
 (しつこくてごめんなさい)

 まずは、新宿にある、BOOK1st新宿店から。この本屋さん、初めて行きましたが、大きくて綺麗で見やすくて、とても良い本屋さんですね。
 新宿西口の地下道を高層ビル群の方に向かって歩くと、スバルビルの「新宿の目」のすぐ先にあります。
 Dゾーン53番の、生活実用売場、家庭の医学コーナー、症状別治療のところに置いてありました。

 続いて、ルミネ1の中にある、BOOK1stルミネ新宿1店。
 生活実用売場、家庭の医学コーナー、家庭の医学その他のところに置いてありました。

 同じく、ルミネ2の中にある、BOOK1stルミネ新宿2店。
 ビジネス・法経売場、ビジネススキル、自己啓発コーナー、自己啓発のところに置いてありました。

 神保町にある三省堂書店神保町本店では、2階6列B家庭医学、棚番号06B-03に置いてありました。

 最後に、お茶の水駅前にある、丸善でも見つけました。

 新宿、神保町、お茶の水にお立ち寄りの際は、探してみてくださいね!
 この本が青色なのは、元ヤクルトの捕手、古田選手のキャッチャーミットが青いことからヒントを得ました。
 写真をみて、なんとなく、目だっている感じがしませんか?

<2010-2-8>
 「ゲシュタルト崩壊」という言葉を何度も読み直してみても、決してゲシュタルト崩壊しないのは、気のせいでしょうか?

<2010-2-5>
 今日は休みだったので、午後から新宿へ出かけて、「完全熟睡マニュアル」がどこで売られているのか、本屋めぐりをしてきました。
 というのも、近所の駅の本屋さんでは見つけることができなかったからです。

 まずは紀伊国屋新宿本店。
 1階の「新刊」コーナーをさがしたところ、1F-D22で見つけました。

 6階の「家庭医学」6F-D14にも置いてありました。

 続いて向かいのジュンク堂書店。
 こちらは、8階の「心の病気」8F-20にありました。

 高島屋の中にある、紀伊国屋新宿南店では、2階の「家庭医学2」2F/13-02にありました。

 最後に、小田急デパートの中にある三省堂では、「健康」B01-03にありました。

 小さな書店ではなかなか見つけられませんが、今日行った限りでは、大型書店にはすべて置いてあり、ホッとしました。
 「いつか本をだしたいなぁ」と昔から思っていましたが、そんなときはいつも、「本を出したら自分の本が売られているのを見るために、本屋さんをまわってしまうだろうなぁ」と思っていました。
 今日、実際にそれをやってみて、ようやく、「本を出したのだ」という実感が沸いてきました。(なんだか素人感丸出しですみません。。。)
 そして、「本が売られているのを見つけたら、小躍りくらいしちゃうんだろうなぁ」とも思っていましたが、もういい大人なので、小躍りはできませんでした。(^^;;
 新宿にお出かけの際には、是非、書店に立ち寄って、パラパラとページをめくっていただければ幸いです。
 いつごろまで新刊扱いで、このように平積みにしてもらえるのか判りませんが、少なくとも1週間くらいは、こんな風に並んでいると思います。

<2010-2-3>
 この度、こう書房さんより、「完全熟睡マニュアル」という本を出版することになりました。
 僕は高校生の頃、しばらく日記をつけていたことがあります。
 ある日の日記に、将来かなえたい夢を書いたことがありました。
 確か10個くらいの夢を書いたと思います。
 当時は何気なく書いた夢だったのですが、例えば、「タイピングができるようになりたい」と書きました。この夢は、大学卒業後にすぐにかないました。就職先の会社の新人研修でタイピングがあり、ほんの数日練習しただけで、キーボードを見なくても叩けるようになったのです。
 また、僕は中学くらいから近眼でメガネをかけていたので、「目が良くなりたい」とも書きました。そのときは、視力回復の訓練などをして、いつか視力を回復させたいという意味で書いたのですが、現実的に考えればそれは本当に「夢」でした。しかしこの夢も、2年前、レーシックの手術を受けることで現実となりました。裸眼で遠くのものが見えているというのは、20年近くメガネなしでは見えなかった経験からすれば、信じられないことで、未だに良く見えることが「夢」のようです。
 そしてその夢のリストに、「自分で書いた本を出版したい」とも書いていました。
 この夢は、ずいぶん前に、もうかなうことはないだろうなぁ、と諦めていたし、最近ではそんなことを書いたことさえ、忘れていました。
 ですから今回、自分で書いたものが出版されることになり、嬉しい以前に、信じられないという思いです。
 この本は、不眠に悩む皆様が、自己催眠を使って眠れるようになるための本です。文章だけでなく、付属CDには、催眠誘導がそのまま収録されていますので、聞くだけで催眠を体験できるようになっています。
 また、催眠の原理やイメージ方法なども簡潔にまとめてありますので、催眠の入門書としてもお読みいただければと思っています。
 詳しい内容については、こちらをご覧ください。
 今は、ひとりでも多くの方に読んでいただきたいなぁという思いで一杯です。

<2010-2-1>
 親知らずを抜いてきました。
 2003年に左上を抜いたのですが、今回は右上。
 前回抜いたときには右上は生えていなかったのに、去年あたりから生えてきて、磨きにくいので抜くことにしました。
 親知らずが大変なのって、下の場合なんですね。
 今回も前回同様、簡単に抜けて、腫れもありませんでした。

<< ひとりごと目次

<2010-1-30>
 「坂」のイントネーションはどちらが正しいのか、未だに良く判りません。
 「あの坂をのぼって……」というときの「坂」は、「坂田」の「坂」なのか、「坂本」の「坂」なのか……。

<2010-1-29>
 「そういう意味で言ったんじゃないんだよ」と弁解する人のうち、おそらく半分くらいは、本当はそういう意味で言っています。

<2010-1-26>
 先日セッションにいらっしゃった方から、メールをいただき、掲載許可をいただきましたので、体験談としてご紹介いたします。

---ここから---
セッション後、一週間が経ちましたが、あれからパチンコを
一切やっておりませんし、「やりたい・やらなくちゃ」と言う思いも
嘘のように私の心(意識)からなくなっています!

一週間前に受けたセッションを振り返ると、
先生が、ゆっくりと時間をかけてヒアリングをして下さり、
じっくりと親身に私の話に耳を傾けて頂き、「パチンコ依存症」と言う、
情けなくて誰にも打ち明けられずにいた悩みを聞いて頂いただけでも
精神的には随分と楽になり、リラックスしてセッションを受ける事が出来ました。

セッション中は、先生の心地良い声と誘導に安らぎを感じ始め、
その安らぎが全身に満ち溢れるのを実感出来、体が今にも浮いてしまいそうな…
そんな気持ちの良い感覚がずっと続いていました。

先生の誘導の中で、「解放される」を言う言葉を聞いた時、
「これで私は解放されるんだ」と言う、心からの安堵感が込み上げ、
同時に涙が溢れたのを覚えています。

そ その時は「ギャンブルから解放される」と言う意味での安堵感に思っ
ていましたが、 セッション後、先生のおっしゃって下さった、
私はお金への執着からギャンブル依存症になったのではなく、
夢追い半ばで断念してしまった事への後悔や未練…或る意味で「負け犬」的な
劣等感からギャンブル依存症になり、それから「解放される」事を心が望んでいて、
心が先生の言葉に感涙していたと言う事に気づかされました。

その心の劣等感を、ヒアリングの中で先生に見抜いて頂き、
誘導で解き放ってくれた事に本当に感謝しております。

セッション後、変わった事は、勿論
「パチンコに興味・関心がなくなり、やりたいと思わなくなったこと」
ですが、他にも
「自分自身を否定する心の言葉が格段に減ったこと」
「精神的に何事も前向きになった(ストレスを感じなくなった)こと」
「ギャンブル以外に意識や関心が向くようになったこと」
です。

セッション後2,3日は、やはり「パチンコやりたいなぁ」と言う思いが
込み上げて来ました。以前の私なら、そう思ったら絶対行かないと
イライラして何も手につかない状態でしたし、「行っちゃダメ!」と言う
思いが余計にパチンコに駆り立てましたが、セッション後は、
「パチンコたりやいなぁ」と思うのと同時に「パチンコ、やりたいならやっても
いいけど、お金も時間も、もっと他に使う事あるんじゃない?」と言う
声が聞こえてきて、「そうだよね」と素直に納得出来る自分が居ました。

カウンセリング中に、先生から「人はやっちゃダメだと言われると、それを
やりたくなる」と言う心理をお伺いし、それを誘導の中に組み込んで頂いた
のでしょうか…(誘導が余りに心地良かったので、誘導の言葉を断片的にしか
思い出せなくて済みません)パチンコをやりたいと思う自分は否定せずに、
かつ、疑問附で問いかけられると、本当に自分にそれが必要か否かを吟味する猶予が
出来るので、冷静に判断する事が出来て、結果、パチンコに行きたいと言う
思いは消えていきました。こうした心と感情の会話を繰り返すうちに、
「パチンコに行きたい」とさえ思わなくなり、他の物事に関心を持つように
なりました。

セッション後、今日が始めての休日だったのですが、以前の私は
必ずパチンコ店に入り浸っていたのですが、今日はパチンコの事を思う事すらなく、
時間を自分の為に使って、とても充実した休日を過ごす事が出来ました。

休日を、こんなに穏やかに過ごしたのは何年振りになるのか…

桜井先生の催眠療法をHPを通して2年も前から知っていたのに、
何故もっと早くに桜井先生の元に行かなかったのか…知った時に
先生の元を訪れていたら、何年もギャンブル依存症にもがき、無駄な
お金と時間を失う事もなかったのに…と、悔やまれてなりません。

そして、1回のセッションでここまで改善してくれた先生の素晴らしさと
温厚な人柄に、本当に言葉では言い表せない位に心から感謝しています。
---ここまで---

<2010-1-25>
 僕は格闘技は見るばかりの素人なので、的外れな意見かもしれませんが、計量って、なんで前日に行なうのでしょうか?
 本来、階級って、同じ体重の人同士が戦うためにあるわけですよね?
 ということは、ゴング直前に計量するのが本来の姿なのだと思います。
 計量後に体重を戻して、実際には階級以上の体重で戦うのは、おかしいのではないでしょうか。
 そうなってくると、いかに1日で体重を増やすか、という、格闘技とは関係のないテクニックも勝敗に影響するようになると思います。
 もちろん、減量している状態で試合をするのは危険だという意見もあるでしょうが、それは相手も同じ条件なわけですし、それを考慮して事前に体重は落としておくべきでしょう。また、最悪計量をパスできなくて、試合が中止になる可能性もありますが、それも直前計量というシステムに変更されれば、選手はプロなのですから、きっちり体重を合わせてくると思います。
 格闘技は体重が重い方が有利だというのはわかりますが、だからといって、減量してまで、なるべく下の階級で戦うというのは、どこか間違っている気がします。何と言うか、そこまでして結果を求めるのは、格闘技の精神と矛盾するのではないかと。
 そもそも、階級を体重でわけるのは何故なんでしょう?
 体重じゃなくて、身長で階級をわければ、減量などしなくて済むし、いくら重い方が有利だからと言っても、無限に体重を増やしはしないでしょう。自ずとベスト体重と言うのが見えてくると思いますし、結局は同じような体重で戦うことになると思います。もし、そうならないとしたら、それは選手のイデオロギーの違いになってくるのでしょう。
 また、リーチで階級をわけても良いと思います。リーチでわければ、ずっと公平になる気がする。だって、届かないって致命的だもの。
 格闘技に詳しい方、正解を教えてください!

<2010-1-24>
 「根拠レス」って、もっと使われても良い言い回しだと思います。
 それとも、すでに死語なのだろうか。

<2010-1-23>
 元気でなくたっていいじゃない。

<2010-1-21>
 以前から一度行ってみたいと思っていた、世田谷にある等々力渓谷へ行ってきました。
 空気がとても澄んでいて、あたりは静かで、平日のせいか、人も少なく、心地よい散歩を楽しむことができました。
 湧き水をくめるポイントがあって、持参したペットボトルに入れて歩きながら飲みました。
 階段の上は都会なのに、渓谷におりると自然が広がっており、自分が23区内にいるのだということがにわかには信じられないほど、良い雰囲気です。
 この近くに住んでいたら、毎日散歩に来てしまうだろうな。
 湧水はないけれど、井の頭公園付近の玉川上水沿いの道も、同じように自然の中を歩くことができます。
 一度もしっかり歩いたことがないので、今度は玉川上水を歩いてみようと思いました。

<2010-1-20>
 勝手にしなよ

♪君みたいな女の子と長い間 つきあってると
 こっちは まるでソクラテスみたいな
 哲学者に なっちまうぜ
 バーガンディ・ワイン スキャンダル サキソフォン
 淋しい目をしたウエイトレス
 ここには あの娘の目の色 変えるものでいっぱい

 高校の頃、初めてこの曲を聴きました。
 大人になったら、ガールフレンドに向かって「君みたいな女のこと長い間つきあってると、こっちはまるでソクラテスみたいな哲学者になっちまうぜ」なんて言ったりするのかなぁと漠然と思っていたし、そういうことがサラッと言えるのが大人なのかもしれないとも思っていました。
 もちろん、大人になってもそんなセリフを言う機会はとうとう訪れませんでした。

♪いつか君に しゃべった事かもしれない
 愛して 生きて だけど いつでも君は自由さ
 Do Do Do What you like
 Do what you like and
 You can go anywhere

 どんなときでも、「いつでも君は自由さ」と言える人になりたいです。

<2010-1-17>
 キンモクセイを好きになったきっかけは、ラジオでした。
 ラジオCMで、「同じ空の下で」が流れているのを聴いて、「この曲を聴いてみたい!」と思ったのです。
 すぐにアルバムを買って、ライブを観にいきました。
 「さがみはら風っ子祭り」にも行きました。
 歌謡曲風アレンジ、レトロな雰囲気、そしてしっかりとした音楽テクニックは、すべて心地よく、どこか懐かしくもあり、子供の頃の日曜の午後のような気持ちにさせてくれました。
 熱狂的なファンというわけではありませんので、つい最近まで、キンモクセイが2年前に活動を休止していたのを知りませんでした。
 もっと評価されても良かったバンドだと思います。
 アーティストとして売っていくには、野心がなさ過ぎるし、人が良すぎたのかなぁ。
 ただ良い音楽を作れば売れるわけではないんですよね。
 本当に残念です。

<2010-1-16>
 僕はシャンプーやハミガキなどにはこだわりはなく、いつもドラッグストアで安売りしているものを、適当に購入します。
 今日、シャンプーがなくなったので、新しいのに代えたのですが、一度も使ったことのない銘柄でした。
 普段は洗髪後の髪の匂いなど全く意識しませんが、シャンプーを交換した日だけは、新しい匂いに馴染むまで時間がかかります。
 自分の髪の毛なのに、他人の髪の毛のように感じます。
 すごくいい匂いに感じて、自分が自分でないみたい。
 これから毎日この匂いなんだなぁって思うとウキウキするのですが、不思議なもので、数日すると全く匂いを感じられなくなります。
 慣れてしまうんでしょうね。
 シャンプーはいつもボトルで購入するので、このウキウキした感覚はしょっちゅう感じられるわけではありません。
 今日はその感覚を満喫したいと思います。

<2010-1-13>
 「恋人募集中!」というようなことを、言ったり書いたりしてしまう人がいますが、これはギリギリセーフな言い回しだと思います。
 言っている本人は、ちょっと気の利いたことを言っているつもりなのだろうし、そういうことをサラッと言えてしまう自分が好きなのかもしれないし、冗談っぽく言いながらも、半分くらいは本気を混ぜているのかもしれません。
 店に貼ってある「アルバイト募集中」の看板を見て、「働いてみようかな」と思う人はいたとしても、「恋人募集中」だからと、「じゃあ告白してみようかな」と気軽に思う人がいるとは思えませんが、少なくとも自分はフリーなのだということを宣言することはできますし、「偶然に」その人のことを好きな人がいたとしたら、肩を押すことにはなるかもしれない。
 そしてそこからは、「募集中です」、「はい、応募します!」みたいなふざけたノリではなくて、普通に気持ちを伝えるのだろうし、それで断られたとしても、「募集中って言ったじゃないか!」などとナンセンスな切れ方をする人はいるはずもありません。大体、アルバイトだって、面接で落ちることはあるのですから。
 今日、ラジオを聴いていたら、CMの中である男性アイドル(ミュージシャン?)が、本気なのか、言わされているのか、「誕生日プレゼントは365日受け付けています!」と、「気の利いたことを言っている」体で言っていました。
 僕はその言い回しを聴いて、理由は良く判らないけれど、大脳基底核(?)が「アウト!」と叫んでいるのを感じました。
 「恋人募集中」と言う人は、自分の言っている意味を理解しているし、どんな結果が起こりえるのかも理解しているし、それをどこかで期待している可能性もあります。
 しかし、「誕生日プレゼント365日受付中」と言う人は、自分が何を言っているのか全然理解していないし、どんな結果が起こりえるのかを考えてもいないし、それを期待さえしていないのです。完全な「ノリ」です。いや、もしかしたら、すごくカジュアルに、物欲の延長で「何か貰えればラッキー」程度は思っているのかもしれませんが、それがやがてどんな事態を招くのかは、やはり全く考えていないと思う。
 だって良く考えてみてください。
 「誕生日プレゼント365日受付中!」って深く考えずに言ったのがきっかけで、全然関係のない日に誰かから「誕生日プレゼント」という名目で、何の役に立ちそうもないファンシーな小物をもらったところを。
 少しの迷いもなく、誕生日と同じテンションで「ありがとう!」って言えますか?
 「何歳になったの?」、「どんな年にしたい?」といった、儀式的な質問に、誕生日でもないのにしっかり答えてあげることはできますか?
 面倒くさいなぁって思ったりしませんか?
 誕生日プレゼントをくれた人に対して、「この人、本気にしちゃったよ」と、冗談が通じない人間を見るような目で見たりしませんか?
 もちろん、中には「冗談で言ったのに本当にプレゼントをくれた!」と嬉しい気持ちになる人もいるでしょう。
 しかしそんな喜びも、少しずつ「誕生日でもないのに誕生日プレゼントを買わせてしまった」という罪悪感にかき消されていきます。
 多くの人にとってその体験は、「嬉しい!」「ありがとう!」よりも前に、「困ったな」「恥ずかしいこと言っちゃったな」という気持ちが先に浮かんでくる出来事になるのです。
 あんなに良い関係だったのに、それをきっかけに、全然嫌いじゃないにも関わらず、関係がギクシャクしてしまうかもしれません。
 こういうのは考えすぎかもしれないし、僕の心が偏狭だからかもしれませんが、「あー、この人、何も考えずにこういうこと言っているんだろうなぁ」って感じることがときどきあって、今日もまさに、そういう瞬間でした。
 誕生日プレゼントは、「その日」だからこそ、「覚えていてくれたんだ!」という喜びがあるのだと思います。

<2010-1-10>
 最近、「誤訳御免!!」というサイトを知り、読んでいます。
 日本の文化やアニメ等を、外国人がどう思っているのか、その反応をまとめてあるサイトで、これがとても面白いのです。
 日本人にとっては当たり前な事柄を、面白がっている人たちがいるというのは、日本人として、何だか嬉しく思いました。
 どうも、これらの掲示板に書き込みをしている外国人は、日本のアニメやマンガが好きなようで、それ故、「アニメの中と同じような学生生活が本当にあるのだ!」というのが驚きのようです。
 例えば、「日本の高校生が体育祭で競い合う映像の海外反応【YOUTUBE動画】」や「日本の高校生が教室でお弁当を食べる映像の海外反応【YOUTUBE動画】」では、「うわ〜、何かとっても漫画っぽいわぁ」、「彼らが学校の屋上で弁当を食べてる所が観てみたいな」という感想が書き込まれています。
 また、「日本のハイテクトイレ(ウォシュレット)の海外反応」は、そこまで驚くことなのかなぁと思いましたが、外国人にとっては「操作パネルを開いて更に多くのボタンが出てきたときは発狂しそうになったぜ」ということなのでしょう。

<2010-1-2>
 あけましておめでとうございます。
 毎年、年末年始は大好きで、非日常的な気分を満喫するのですが、この年末年始は、秘密の(?)プロジェクトのために、ほぼ毎晩徹夜しており、まったく正月気分を味わえません。
 正月だけは、街の雰囲気も違うので、否が応でも実感させられると思っていたのですが、家に閉じこもり、テレビもつけないと、普段となんら変わらない日々を味わえるのだなぁと、ちょっとした発見でした。
 2週間遅れくらいで、社会がとっくに動き出した頃に、ひとりでお正月をしようと思っています。

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