ひとりごと
2009年 5〜8月

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<2009-8-30>
 世の中には、二種類の人がいると思います。
 そんな必要はないのに、自分を安く売る人と、そんな価値はないのに、自分を高く売る人です。
 自分を安く売りすぎると病気になるし、自分を高く売りすぎると孤独になるのかもしれません。

<2009-8-29>
 お台場にガンダムを観にいきました。
 原寸大の迫力は想像以上で、ガンダム世代にはたまらないひとときでした。
 ガンダムの大きさもさることながら、これを立ったまま収容できたホワイトベースは、どんだけでかい船なんだと思わされました。
 手のひらに乗ったセイラさんも、あの高さでは、さぞ怖かったでしょう。
 途中で、首が動いて、ミストが噴射されるデモンストレーションがありました。ただ左右に首が動いただけなのに、公園中から「うぉー!!!」という歓声が沸きあがりました。
 せっかくここまで作ったのだから、首だけではなくて、せめてもう少し動いてくれたら……、と期待してしまいましたが、「今はこれが精一杯」(by ルパン三世)なのかもしれません。
 20年後の、50周年記念では、歩くガンダムが見られることを夢みて、会場を後にしました。
 あ、何だか小学生の夏休みの日記みたいな文章だ。(^^;;

<2009-8-28>
 連日の歌ネタですみません。
 加藤いづみの歌う「太陽が呼んでいる」。
 サモンナイトというゲームの歌らしいのですが、そんなことは全然知らず、加藤いづみの歌ということで好きになりました。
 彼女の歌声は、瑞々しいという表現がぴったりだと思います。新鮮なフルーツみたいな声。
 オープニングのアコギも最高! アルペジオもエレキの速弾きもいいけれど、やっぱりギターはこうやってジャカジャカ鳴らして欲しいのです。
 そしてそして、この、青臭いけれど、もう一度信じてみようと思わせる歌詞は素晴らし過ぎます。
 共感できる現実なんて歌わなくたって構わない。圧倒的なユートピアに、ただただ巻き込まれて、何だか知らないけれど、「そうだよ!」と膝を叩きたくなるのです。
 初めて聴いたのが夏だったので、夏になると聴きたくなる曲です。
 ドライブしながら歌っていると、倦怠感が吹き飛んでいきます。

♪求めたいだけじゃ始まらない。行動を起こせばいい。
 一筋の日射しは、氷の世界、溶かすきっかけだから。
 自分がどう映ろうとも進むしかない場面で、ためらえばすべて、無意味なcollageさ。

 本当にその通りです。

<2009-8-27>
 ロックンロール・ナイト
 高校生のときは何となく聞き流していた曲ですが、この年になって改めて聴くと、名曲ですね。
 「ずっとさっきから街路樹に車をとめて」あたりからの畳み掛けるような詩の流れが、心にぐさぐさきます。
 sleep tight って、いい表現ですね。 

<2009-8-26>
 勝ち組、という言葉がありますが、最近、「人生に勝つ」って何なのかなぁって思います。
 僕はブルーベリー栽培が趣味で、もし、栽培方法に勝ち負けがあるとしたら、恐らく、「毎年たくさん収穫できる」ことこそ、勝ちの栽培方法なのだと思います。
 それでは同様に、「勝ちの生き方」って何なのか?
 真っ先に思い浮かぶのが、お金です。人よりも、より多くの収入や財産があること。そして、できれば人よりも楽にそれを得ていること。
 でもこれは違う気がする。一通りの贅沢をしたら、それ以上はお金ではどうしようもないものにぶつかる気がするんです。まぁ、僕はそこまでお金がないので、お金持ちの本当の気持ちは解りませんが。
 となると、やりがいをお金の上に載せてやる必要がありますね。
 仕事が楽しくて楽しくて仕方がなくて、それでいて多くの収入があったら勝ちなのかな。
 でも、それだけでもきっと駄目です。
 健康だって必要だし、愛してくれる相手も必要かもしれない。もちろん、自分が愛を注げる対象も必要だし、その関係を維持するための、持って生まれた優しさみたいなものも必要なのかもしれない。
 そんなこと言い出したら、何でもかんでも得ていなければ、勝ち組じゃないことになって、ブルーベリー栽培のような「毎年たくさん収穫できれば勝ち」みたいな、単純な図式は得られません。
 結局は、生きている意味や目的が解らないと、勝とうにも、勝てないのかもしれませんね。
 ということは、夢があって、その夢を実現できた人が勝ちなのかな。
 うーん、何だか漠然としている。ぼんやりとしている。ぼんやりとした不安がある。
 文明が発達する以前の、ただ、食べることや、生き延びることだけを目的に生きていた時代の方が、「勝ちの生き方」はシンプルだったのかもしれません。
 「お腹いっぱい食べたら勝ち」、「長生きしたら勝ち」なのですから。
 出口が見えないままこの文章を書き始めましたが、やっぱり出口は見つかりませんでした。(^^;;

<2009-8-23>
 初めてこれを観たとき、笑い死ぬかと思いました。 We can not sleep without you. ナニ? クドイテルノソレ?
 今、ある資料を作っていて、その関係で催眠の歴史についてまとめているのですが、メスメルの主張していた動物磁気の存在が、ルイ16世の調査委員会によって否定された10年後にペリーが生まれ、ブレイドが「磁気術」を「催眠」と命名した10年後に、ペリーが黒船を率いて浦賀に来ているのですね。
 ペリーが生まれた翌年にブレイドが生まれ、ペリーが亡くなった2年後にブレイドが亡くなっていますから、ふたりはほぼ、同世代を生きたことになります。
 こうやって歴史を並べると、すべては繋がっているんだなぁ、と思ったり、思わなかったりします。

<2009-8-21>
 流しそうめんって、日本人の僕から見ても、何が楽しいのか、何が美味しいのか、何が風流なのか、涼なのか、粋なのか、趣なのか、さっぱり理解できません。
 スイカ割りは理解できます。確かに叩き割られたスイカは食べにくかったりしますが、何より楽しいです。
 わんこそばだって、旅の解放感でチャレンジしちゃうかもしれません。
 しかし、流しそうめんだけは全くやってみたいとは思えない。

 流す人の苦労、下流の人への気遣い、衛生面に対する若干の不安、最後の人の全部取らなければならないという責任感、食事中に水が流しっぱなしになることへの罪悪感……。
 これだけの犠牲を払っていったい何が得られるというのでしょうか。

 そもそも、僕はそうめんが大嫌い。味も単調だし、どれだけ食べれば食事を終わりにして良いのか不明だし、食べた気しないし、かといってお腹いっぱい食べたいとも思えません。おまけに、あのミカンは何ですか。

 日本人の僕でさえそうなのだから、外国人が流しそうめんを見たら、これが何を意味しているのか、さっぱり理解が出来ないと思う。
 観光に来た外国人に、間違って流しそうめんの説明をしなければならない状況になったら、それはもう、拷問です。

「ナンデコンナタベカタヲシテイルノ? ナニヲヒョウゲンシヨウトシテイルノ? イカリ? カナシミ? ヨロコビ? キドアイラク?」

 きっと会話はちぐはぐなまま、お互いに、やっぱり世界はひとつになれないのだと、言い様のない徒労感を覚えることでしょう。
 いや、違うかな。日本贔屓の外国人は、「必勝」とか書いた鉢巻を頭に巻いて、キャッキャ喜びながら全力で流しそうめんを楽しんじゃうのかな。
 いずれにしても、流しそうめんは、三本の指に入る、日本人の奇行です。

<2009-8-19>
 僕はオアシズの大久保さんが結構好きです。
 最近は女芸人も多いですが、大久保さんは、何だか本物の匂いがする。
 テレビではすっかり観なくなりましたが、DonDokoDonの平畠も大好きです。
 ふたりとも好きな理由は同じで、地味だけれど、がんばっているところ。
 あ、ついでにレイザーラモンのRGも好きです。生きる強さを感じられるから。
 あとはやっぱり、椿鬼奴と増谷キートンですかね。
 平ちゃんは、いつかブレイク(再ブレイク?)するんじゃないかと何年も前から期待しているのだけれど、なかなかしませんね。

<2009-8-18>
 人間が誰かを嫌うときの理由って、もしかしたら半分くらいは同属嫌悪なのではないかと思います。
 はっきり物を言う人は、はっきり物を言う人が嫌いだったり、自己中心的な人は自己中心的な人が嫌いだったり、ケチな人はケチな人が嫌いだったり、怒りっぽい人は怒りっぽい人が嫌いだったり、好き嫌いが激しい人は好き嫌いが激しい人を嫌いだったり、ルーズな人はルーズな人が嫌いだったり、理屈っぽい人は理屈っぽい人が嫌いだったり、意見を曲げない人は意見を曲げない人が嫌いだったり、プライドが高い人はプライドが高い人が嫌いだったり、反省しない人は反省しない人が嫌いだったり、人の話を聞けない人は人の話を聞けない人が嫌いだったり……。
 もちろん、逆だからこそ頭にくることも多いとは思いますが、自分もそうだからこそ葛藤があって、その葛藤が余計に嫌悪感を増すこともあると思います。
 自分もそうだからこそ相手がそうしている理由が理解でき、理解できるからこそ頭にくるのかもしれません。
 催眠関連の本を読むと、ときどき、「無意識は自分と他人の区別が出来ない」というようなことが書かれていることがあります。
 つまり、誰かに対して怒りがあると、無意識はその対象を区別しないので、その怒りを自分に対しても向けてしまう、というのです。
 もしそれが正しいのであれば、自分に対する怒りが、そのまま他人に向かってしまうパターンがあってもおかしくないのかもしれません。

<2009-8-17>
 ポケットの中にはビスケットがひとつ。
 ポケットを叩くとビスケットはふたつ。
 ……という、叩いてみるたびビスケットが増える、「ふしぎなポケット」という童謡があります。
 「そんな不思議なポケットが欲しい」でこの歌は終わりますが、なんでこんな、どこにも行くあてのない歌を作ったんだろう?
 世の中にはもっと他に、歌うべきことがあるだろうに……。

<2009-8-16>

 有言実行ということで、浅草へ行ってきました。
 嘘のような快晴で日射しは強く、お盆ということでどこも人でいっぱい。
 東京に住んでいるのだから、わざわざこんな日に来なくてもよかったのだけれど、おかげで夏休み気分は満喫できました。
 網の目のように広がる路地を適当に入ると、古い土産物屋やマニアックな専門店が立ち並び、どこかとても遠いところに旅行に来たような気分になりました。
 以前、桧原村〜奥多摩湖までドライブへ行ったとき、あまりにも観光客が少なく、ほとんど誰も停めていない土産物屋の駐車場に車を停めると、店員の視線が一斉にこちらに向き、何も買わないで帰るのは許されないような、そんな緊張感のある場所ばかりでした。僕は基本的に、混んでいるところは好きではありませんが、観光地だけは別で、ある程度同じ目的の人が周りにいてくれないと、盛り上がるものも盛り上がれません。
 一度、空いているディズニーランドへ行ったことがあって、すぐに乗り物に乗れるのは良かったのですが、やはり、どこか寂しい感じがしました。
 観光って、人々が発散するレジャー感のようなものが充満していてはじめて、楽しめるのかもしれません。

<2009-8-15>
 カリオストロの城の主題歌「炎のたからもの」。
 今井美樹バージョンもあったなんて、知りませんでした。
 歌詞、メロディー、アレンジ、そして歌声。全てが合わさって、本当に芸術だなぁと思います。プロの仕事。
 超名曲です。
 土曜の夕暮れに、偶然車のラジオから流れてきたら、多分泣いちゃいます。

<2009-8-14>
 先日気がついた、本当にどうでも良いことなのですが、「ゴジャン」と声に出して言うと、自分では「ゴジャン」と言っているつもりなのに、耳からは「五時半」と聞こえます。
 もし、ちょうど5時半に、誰かに「今何時?」って聞かれたら、「ゴジャン」と答えてみてください。誰一人、「え? ゴジャンって何?」とは聞き返さず、「ありがとう」と言うと思います。
 今、この文章を読んで、何人かの人が、パソコンの前で何回も「ゴジャン」と声に出して言っていたり、会社や電車の中で声を出せず、はやく人目のないところで「ゴジャン」と言いたい熱にかられている人が、言いたくてウズウズしている様子を想像すると、何だかとても微笑ましい気持ちになります。(^^)

<2009-8-13>
 セミは、地中で7年間過ごし、成虫になってからは1週間で死んでしまうと言われています。
 それにしては、セミ、多すぎやしませんか?
 夏になると、毎日朝から晩まで鳴き続けているし、外に出れば、必ずどこかで出逢います。
 僕は散歩をしていてカブトムシを見つけたこともクワガタを見つけたこともありますが、毎年ではありませんし、必ずでもありません。
 他の昆虫の生態が良く解らないので、勝手に推測しますが、例えば他の昆虫は、卵から1年で成虫になると仮定すれば、セミの幼虫は地中に、単純計算で7倍いるということになります。更に、他の昆虫は夏の間は生き延びると仮定すれば、セミは1週間で死んでしまうわけですから、夏を4週間と見積もっても、セミの幼虫は更に4倍いるはずです。
 つまり、地中には、他の昆虫の幼虫に比べ、28倍のセミの幼虫がいることになります。
 例えば、1匹のコガネムシに対し、1匹のセミを見たとしても、その状況を生み出すためには、絶えず地中に、28倍のセミの幼虫がいた、ということになります。
 ときどき、ベランダにマロンを出していると、フラフラと迷い込んだセミをマロンが大喜びで捕まえて、部屋の中まで持っていき、食べるわけでもなく、両手で転がしたりして遊ぶことがあります。
 それを観るたびに、「1週間しか命がないのにかわいそうに……」と、罪悪感を感じ、マロンの隙を見ては捕まえて外に放してやるのですが、噛まれたり両手で叩かれたりして元気のなくなったセミは、そのまま飛ぶことも出来ず、土の上で死んで、アリの餌になってしまうことも少なくありません。7年間も地中で大空を飛ぶことを夢みながらようやく羽化し、1週間しか自由な時間はないというのに、餌に困っているわけでもない、飼い猫のおもちゃになって死んでしまうわけです。
 他の昆虫に対しては、ここまで感傷的な気分になることはないのですが、やはり、7年間とか、1週間とか、そういった数字が、セミに対する人間の感情を揺さぶっているのでしょう。
 飼い猫に1匹捕まえられようが、びくともしないくらい、地中はセミの幼虫で一杯なのだと想像したら、少しだけ、自由になれた気がしました。

<2009-8-12>
 自分が死ぬ、ということがどういうことなのか、うまく想像ができません。
 だから、「このまま僕は死なないのではないか」と思うことさえあります。
 決して神に祝福されて死なないのではなく、むしろ何かの呪いで死ねないのではないかと。

<2009-8-11>
 先日の読書会のときに、ある方から「若い頃の村上春樹に顔が似ている!」と言われました。
 村上春樹はあまりメディアに登場しないので、正直、どんな顔かピンと来なかったのですが、ファンの方がそうおっしゃるのですから、まぁ、日本国民を、ざっくり10個位のグループに分けるとすれば、恐らく僕と村上春樹は同じグループに入るくらいには似ているのでしょう。
 ついでに、登山家の野口健にも似ていると言われました。基本、濃くて、目がギョロっとしている人に似ていると言われる傾向にあるので、こちらはそういう人の気持ちが解らないでもありません。
 昔、外資系の会社に勤めていた頃は、上司のアメリカ人に、「君はサイモン&ガーファンクルのポール・サイモンに似ている」と言われました。サイモン&ガーファンクルは大好きなアーティストだったので、余計に「似ている」と言われても実感が沸きませんでした。(顔ではないですが、その上司には、「Thank you.」の発音の仕方が、ミッキーマウスに似ていると言われたこともあります。ここまでくると、もう、何がなんだかさっぱり解りません)
 去年の8/31の日記でも、同じ様な話題を書きましたが、しゃべり方とか、文章とか、そういった自分の意思でいくらでも変えられる部分が「似ている」のならば理解できるのですが、顔となると、自覚がないし、全然客観的に見られないので、ただただ、不思議に思います。
 似ていると言われる対象も、ルックスで売っている人たちはほとんどいないので、喜んでいいのか悩むし、ルックスで売っていないにしろ、喜んだら喜んだで、調子に乗ってるって思われるのも怖くて、「○○に似てますね」と言われるのは、非常にリアクションに困ります。
 「全然似てませんよー」というのも相手の感性を否定している感じがするし、「ありがとうございます」というのも、もしかしたら「いや、褒めてないんだけどね」ということかもしれないし。
 「顔がフライパンに似ていますね」って言われたとき、どう返答していいのか困るのと同じような困惑を、誰かに似ていると言われるたびに感じるんです。
 唯一、自分でも似ていると思うのが、うちの姉です。
 双子みたいだと言われて育ってきて、昔は「全然似てない!」と思っていたのですが、最近、鏡で自分の顔を見ると、気持ち悪いくらい似ていると思うことがあります。
 ……と、いろんなことを書きましたが、それでも、「○○に似てるね」って言われるのは、本当はすごく嬉しいです。
 相手が誰であれ、それだけ僕のことを、関心を持って観てくれているということですから。
 今、僕が村上春樹やポール・サイモンに似ているのなら、村上春樹とポール・サイモンも似ているのかなぁと思って、googleで「ポール・サイモン 村上春樹」と検索したのですが、結構「似ている」と書いている人が多くてびっくりしました。
 やっぱり、僕の顔は、客観的に見るとこの系列なのですね。

<2009-8-10>
  

 ブルーベリーは、毎日、多いときはこれくらいとれます。ボール一杯で、だいたい500グラムくらい。
 今日は、ブルーベリーとクリームチーズのケーキを焼いてみました。
 これでもかと生地にブルーベリーの実を放り込んだのですが、全然減らず、残った実は、ミキサーでジュースにしてみました。
 ブルーベリージュースは初挑戦です。
 ときどきお土産でブルーベリージュースをもらうことがあり、それと同じ味を想像しながら飲んだら、全然違いました。
 まず、種や果肉をこしてないので、ミキサーにかけただけなのに、どろっと濃厚な感じの仕上がり。
 それでいて飲んでみると、妙にあっさりしていて、よくもらう果汁20%のブルーベリージュースの方がよっぽど味が濃い感じがしました。
 うーん、これだけ実を使った割には、ジュースは失敗かなぁ。普通に生で食べるか、ジャムにした方が、満足度は高いです。
 ケーキの方は、ブルーベリーの酸味がちょうど良く、とても美味しくできました。
 焼きたても美味しかったし、冷蔵庫で冷やして食べても、更に美味しかったです。 

<2009-8-9>
 荻窪のROKUJIGENというカフェで開催された、「村上春樹の読書会」に参加しました。
 今回の課題図書は、デビュー作の「風の歌を聴け」でした。
 以前にも書きましたが、僕はこの小説が大好きで、恐らく100回は読み返していると思います。ほとんど、暗証できるのではないかと言うくらい。
 今回、久しぶりに読み直したのですが、僕が好きなのは「この」村上春樹であって、今の祭り上げられている村上春樹ではないのだと改めて思いました。
 彼自身が、糸井重里の文章を、「読む前と読んだ後で、同じ空間しか残らない」と表現しているのですが、恐らく僕が村上春樹に求めているのは、そういうことなのだと思います。
 読む人間が、読みたいように読んで、「真っ赤なスカーフ」みたいに、「みんなその気でいればいい」と割り切れるような小説。
 「黒服の男は鼠が死んでいたことを知っていたのか?」とか、「キキを殺したのは五反田君だったのか?」とか、そんなことで悩みたくはないのです。
 そういった視点で見ると、悩まなくていい作品は、短編を除けば、「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」だけなのかもしれません。

 2次会が終わった後、残った人たちと井の頭公園へ行きました。
 夏の夜に井の頭公園を散歩していると、何だか学生の頃に戻ったみたいで、みんなみんな、生きているんだ、友達なんだ、と思いました。
 気分が良かったので、皆さんと駅でお別れした後、1時間かけて歩いて家まで帰りました。
 MP3プレーヤーで「壊れた扉から」を聴きながら歩いたのですが、このアルバムの世界観は、何だか「風の歌を聴け」の世界観と非常に似ている気がしました。
 もちろん、この小説に出逢った当時、このアルバムを良く聴いていたのでそういう印象が残っているだけなのかもしれませんが、「誰かのクラクション」に出てくる「心から愛されたことがあるかって訊かれた。一緒に捜してたものならあった気がする」という歌詞は、そのまま「僕」が抱えていた問題に重なるのではないかと思いました。

<2009-8-8>
 マグロは泳いでいないと死んでしまうらしいけれど、どうやって水族館まで運んだんだろう?

<2009-8-7>
 ブルーベリーを育て始めた頃、とにかく収穫してみたくて、まだ苗が小さいのに花を咲かせ、10粒ほどの幼果を「はやく青くならないかなぁ」と毎日眺めていました。
 そうやって気合を入れているのは僕だけではなくて、そろそろ収穫しようと思っていると、次の日には鳥に食べられてなくなっていたり、ならばと早めに収穫すると酸っぱかったりと、ブルーベリーの味が良く判らないままシーズンが終わってしまう、ということを繰り返していました。
 小さい苗に実をつけさせると、極端に成長が悪くなってしまうため、本当は心を鬼にして花は摘んでしまわないといけないのにそれができず、また当時はネットから、「ハイブッシュ系の方が大実で美味しく、しかも自家受粉する」という情報を得ていたので、暖地向きのラビットアイ系ではなく、冷涼地向けのハイブッシュ系ばかりを育てていたため、何年たっても一向に満足のいく収穫は得られませんでした。
 ようやく収穫できた一粒や二粒のブルーベリーを噛み締めながら、「いつか飽きるくらいブルーベリーを食べてみたい」というのが当時の僕の夢でした。
 その後、本格的にブルーベリーについて勉強して、ハイブッシュ系は諦め、ラビットアイ系を育てるようになり、更に小苗のうちは出来る限り花芽を摘むようにしました。
 剪定の方法も勉強し、以前はせっかくの枝を切ってしまうのはかわいそうだと思っていたのですが、大胆に風通しの悪そうなところやいらない枝を切るようになりました。
 そうするうちに、木はどんどん成長し、気がつけばかなりの量が収穫できるようになっていました。
 今年は先週から今週にかけてが最盛期なようで、毎日毎日、ボール一杯収穫できます。
 収穫ができたらできたで、他の悩みがでてきました。
 次第に食べきれなくなってきたのです。
 そこで、余った実でジャムを作るようになりました。
 ジャムを作り始めたときはそれはそれで楽しかったのですが、今度は用意していたジャムの瓶がなくなり、冷蔵庫もジャムの瓶だらけになり、そもそも僕はパンをあまり食べないので、こんなにジャムがあっても、消費しきれない気がしてきました。
 機会があれば知人にあげたりもするのですが、ブルーベリーは日持ちがしないので、郵送も出来ず、なかなか人にもあげられません。
 ブルーベリーは待ってはくれません。収穫しても収穫しても、次々と青くなります。
 「せっかくだから旬のうちは出来るだけ生食で」と思い、がんばって食べているのですが、毎日食べきれないほど食べていると、さすがに飽きます。
 スイカや桃だって食べたくなります。
 そうです。
 何が言いたいかと言うと、「いつか飽きるくらいブルーベリーを食べてみたい」という僕の夢は、気がつけば叶ってしまったわけです。しかも、お釣りがくるくらい。
 ブルーベリーの魅力は決して収穫だけではなく、苗の成長も、花も、紅葉も、挿し木で苗を増やすことも、全てが楽しいので、一時的に食べるのに飽きてきたからと言ってブルーベリーが嫌いになったわけではありません。
 ただ、夢って、夢見ていたときと叶った後では、当たり前だけど、全然同じじゃないんですよね。
 贅沢な悩みだとは解っているのですが、もう少し平均的に、1年を通して収穫できたらどれだけ楽だろうと思います。
 大江千里の「Apollo」という曲に、「届くはずない未来 いつの間にか追い越して 憧れていた未来 こんなにすぐ追い越して」という歌詞が出てきます。
 同様に、Eagles の「After The Thrill Is Gone」という曲に、「What can you do when your dreams come true And it's not quite like you planned?」という歌詞が出てきます。
 たかがブルーベリーですが、そんな歌詞が身に染みる8月の夕暮れです。

<2009-8-6>
 こちらで、ブルーベリーの苗木プレゼントをしています。
 プレゼントされる「あまつぶ星」と「おおつぶ星」は、どちらも日本生まれの品種で、ハイブッシュ系と呼ばれるブルーベリーです。
 ハイブッシュ系は暑さに弱いので、東京より南での栽培は少し難しいかもしれませんが、ご興味のある方、チャレンジしてみてはいかがでしょうか。

<2009-8-5>
 僕は東京生まれですが、都電に乗ったことも、ちゃんと浅草を観光したこともありません。
 いつか行こうと思ってはいたのですが、そんな機会もなく、今まで過ごしてきました。
 機会って、よっこらしょ、という感じで作らないと、向こうから歩いてきてはくれませんね。
 ということで、年内には両方行ってこようと思います。

<2009-8-4>
 マロンを撫でると、ときどきゴロンと体を倒して「おなか触って〜」と言わんばかりに愛嬌を振りまくことがあります。
 猫は自分がかわいいことを、知っているのかなぁ。 

<2009-8-3>
 常識にとらわれてはいけないと思うことがあります。
 常識にとらわれないところに、新しいアイデア、誰も気がつかなかったアイデアがうまれるように思うからです。
 一方、常識と言うのは、全てではないかもしれませんが、歴史の波に洗われて残ったものですから、それなりに合理的です。
 ガチガチの常識にとらわれていた方が、大当たりはなくても、失敗は減るのかもしれないですね。
 日本人はそもそも、常識とか礼儀とかを重んじる国民なので、余計に「常識にとらわれない柔軟な発想」に憧れてしまうのかもしれません。
 僕は万に一つの大発見をする人よりも、コツコツと与えられた仕事をこなせる人の方に惹かれることが多いです。

<2009-8-2>
 天気が悪いせいもあるのでしょうが、夜道を歩いていると、あまりにも涼しくて、何だか秋みたいでした。
 以前、松ちゃんがラジオで、「1年の半分くらいは寒い!」と言っていたのを、歩きながら思い出しました。
 初めてそれを聴いたときは、そんなことはないと思ったのですが、冷静に計算すると、確かにそうかもしれません。
 11月から3月まで、暖かい日もあるけれど、基本は寒いですよね。これでもう5ヶ月。
 4月だってめちゃくちゃ寒い日があるし、10月後半は、そろそろ暖房を入れたくなりますから、全部合わせれば6ヶ月くらいは寒いことになります。
 感覚的に言えば、一年の半分は冬で、夏は3ヶ月、春と秋は1.5ヶ月くらいなのかもしれません。 

<2009-8-1>
 こ、き、く、くる、くれ、こ。
 言ってみただけです。

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<2009-7-31>
 こちらこちら
 同じ「ファイト」なのに、ギャップが半端ないです。
 太郎君が羨ましい、私の敵は私です。

<2009-7-30>
 どうでも良くないことは、譲ってはいけないと思います。
 だけどどうでも良いことは、例え反射的に「そうじゃない」って思っても、相手に最後まで言わせてあげて、「そうだねー」って同意してあげた方が、お互いに気持ちよく生きていけるのではないかと思います。
 もちろん自戒の意味を込めてなのですが、人間って、放っておくと否定ばかりしたがりますね。
 自尊心とか、虚栄心とかを満たしたいのかもしれないし、否定することで、原理的には相手より上の立場に立てることを、心のどこかで信じているからかもしれません。
 自分の心に「どうでも良い嘘」ならいくらついてもいいんじゃないかなぁと思います。
 「今年の夏は暑いよねー」って言われて、心の中で「いや、例年に比べればまだまだ過ごしやすい」と思ったとしても、自分の心に「どうでも良い嘘」をついて、「ほんと暑いよねー」って返してあげてもいいんじゃないかな。
 些細なことですが、これがちゃんとできる人が、愛され上手な人なのではないかと思います。

<2009-7-29>
 確か小学校4年生くらいの頃、我が家にアメリカ人の男子学生が二人、食事にやって来ました。
 ふたりともアメフトだかラグビーだかの選手で、体格がよく、身長が190センチ近くあったと思います。
 真面目な青年たちでしたが、「招待された家の子供を楽しませてあげなければいけない」とでも思ったのでしょう、食事の前に、僕に向かっておいでと手を振りました。
 僕は英語は判らなかったけれど、来いという空気を理解し、ニコニコしながら彼らの方へ歩いていきました。
 すると突然、ふたりは両側からそれぞれ僕の右手と左手を持って僕を持ち上げ、空いた手で僕のおなかをくすぐり始めたのです。
 僕はびっくりしたのとくすぐったいので、大きな声を出して笑いました。
 そしてそれを彼らは「喜んでいる」と勘違いしたのか、更に激しくくすぐってきました。
 彼らには力加減と言うものがなく、それはほとんど拷問のような苦しさでした。しばらくすれば終わるだろうと初めは我慢していましたが、一向に終わる気配がありません。
 逃げられないし、言葉は通じないし、家族の前で恥ずかしいしで、笑い声はいつの間にか、泣き声のようになっていきました。
 しばらくして学生二人も変化に気づき、慌てて僕をおろしました。
 屈辱的な思いで、僕は大声で泣きたかったのだけれど、ここで泣いたらせっかくの食事会の空気が凍りつくだろうし、食事の準備をした母も困るだろうし、だけれど溢れようとする涙をこらえることも出来ず、顔を隠し、何も言わずに走って自分の部屋に駆け込みました。そして彼らが帰るまで、そこには戻りませんでした。
 その後、家族の誰かが心配して来てくれたような気もしますし、「お客様に失礼だから一緒に食事をしなさい」と言われたような気もしますが、はっきり覚えていません。とにかく、彼らとは二度と顔を合わせられないという、恥ずかしい思いでいっぱいでした。
 最後に覚えているのは、なんとなく漂ってきた、学生二人がその状況に困惑し、両親に何度も謝っている空気と、「子供のことだから気にしないでください」と恐縮している親の姿でした。
 僕が親の立場なら、同じ様にゲストに対して「気にしないでください」と言うだろうことは、当時の僕も十分理解していました。
 ただ、ここで、「うちの子供に何をするんだ!」と、親がそのアメリカ人たちに対し、真剣に怒ってくれたら、どんなに嬉しいだろうと思った記憶があります。そして、決してうちの両親はそういうタイプではなく、波風立てないことが最優先事項なのだという事実が、僕を余計に苛立たせました。
 今、この出来事を振り返ると、多分、誰も悪くありません。むしろ善意が集まったところで起こった出来事だと思います。
 微妙なボタンの掛け違いの結果だろうし、もしかしたら、僕がもっと強い子供で、そうやってかまってくれることを、キャッキャと喜ぶことが出来れば、何の問題もない、平和な食事会になっていたのかもしれない。
 でも僕はそんなに強くなくて、結局はボタンの掛け違いの原因を作ってしまったし、その結果の大部分をひとりで引き受けてしまったのかもしれない。
 この出来事がトラウマで、アメリカ人が怖いとか、親が信じられなくなったとかはもちろんないのですが、しばらくはこの出来事が頭から離れなかったし、何でもなかった出来事として、ゆっくり記憶から消えることも、ついにありませんでした。
 そしてそれ以来、「悪意のない仕打ち」というのはあるのだなぁと、漠然と思うようになりました。
 「悪意のない仕打ち」って、「悪意のある仕打ち」よりもずっと性質が悪いです。
 誰のせいでもないのに苦しい。誰のせいでもないからその場に居合わせた自分を責めてしまう。
 嫌な記憶が消えないのは、そこから学ぶことがまだあるからだと思います。
 同じことが起こったときに、どう対処すれば良いのか、まだ答が見つかっていないからかもしれないし、その準備をするためにも、嫌な出来事は忘れてはいけないのかもしれません。
 僕がこの手のアグレッシブな「冗談」に対して、周りが引くほど冷めているのは、今思えば、この出来事が原因だったのかもなぁと思います。

<2009-7-28>
 寝転んでぼんやりしていると、「あぁ、このまま浮きたいなぁ」って思うことがあります。
 同じく、本当にときどきですが、「目から赤いレーザー光線でないかなぁ」って思うことがあります。

<2009-7-27>
 皆さん、携帯電話で通話するとき、左手で持ちますか? 右手で持ちますか?
 恐らく、僕と同世代か、それ以上の年齢の方は、左手で持つのではないかと思います。
 そして、若い世代の方は、右手で持つのではないでしょうか。
 これにはちゃんと理由があって、子供の頃から携帯電話があった世代は、右手でメールを打つことに慣れているので、通話も右手で持つ傾向にあるそうです。
 反対に、子供の頃には携帯がなくて、家の電話しかなかった世代は、家の電話というのは、左手で受話器を持って右手でダイヤルするように設計されている関係上、左手で持つ傾向にあるそうです。
 右脳論、左脳論が正しいと仮定すれば、左耳の情報は右脳に伝えられますので、左手で持つ人の方が長電話の傾向があるのかもしれません。

<2009-7-26>
 「どっきり」と書いたプラカードを持った人が、あの柱の影から出てきたらなんて素敵なんだろうと、1年に3回くらい思います。

<2009-7-25>
 僕は、よく動くベースが大好きです。
 佐野元春の「I'm in Blue」のベースなんか、たまらなく好き。
 決して自己主張しすぎているわけでもなく、「解ってくれる人は解ってくれるはず」という、ちょうどいい空気感がたまりません。

<2009-7-24>
 本当に怖いのは、スコーンと入ってしまうハイキックではなく、じわじわ効いてくるローキックなのだと思う、今日この頃です。
 いや、格闘技だけじゃなく、何でもね。
 スコーン、じゃなくて、じわじわ、が怖いです。

<2009-7-23>
 さだまさしがテレビ番組でこんなことを言っていました。
 「手紙と言うのは、『書いている間、私はあなたのことをずっと想っていました』、ということ。だから手紙は、時間のプレゼントなんです」
 素敵な考え方だなぁと思いました。

<2009-7-22>
 以前、びっくりドンキーでトイレに行ったところ、便器の上に英語の張り紙がしてありました。
 「Please stand closer. Your TOMAHAWK is not so long as you wish.」
 僕は笑いをかみ殺しながら、一歩前に体を寄せました。
 相手を持ち上げ、落とし、笑わせ、そしてお願いすると言う、心理誘導としては絶妙な、そして非常に洒落た注意書きだと思いました。

<2009-7-21>
 「悪そうな奴は大体友達」
 これ以上、頭の悪そうな歌詞って、他にないと思います。
 大体て……。

<2009-7-20>
 ブルーベリーを収穫しました。
 写真の品種は、ティフブルー、パウダーブルー、バルドウィンです。
 栽培を始めた頃は、品種ごとの味の違いなど、ほとんど判らなかったのですが、最近ようやく「利きブルーベリー」ができるようになってきました。
 完熟して最高の状態では、ティフブルーが一番美味しいです。
 しかし、ティフブルーは完熟していないと酸味が残り、完熟しているかどうかの判断が難しい。
 パウダーブルーは、そこまで気を使わなくても、平均点が高い感じ。
 バルドウィンは、粒が大きいので、食べ応えがあります。
 うちではまだ小苗なのですが、今年初めて、デライトという品種を食べる機会がありました。
 デライトは大粒で、他のブルーベリーにはないような、爽やかさがあり、とても美味しかったです。
 今までは、ガーデンブルーという品種が、大粒で甘くて、平均点も高く、お気に入りの品種だったのですが、デライトはガーデンブルーを越えた気がします。
 僕は品種オタクなので、今年も懲りずに、新しくメンデイトという品種を購入しました。
 こちらはまだまだ幼苗で、食べられるまではあと2年くらいかかりそうですが、良品種な予感がしています。
 ブルーベリーは名前の通り、青い実なのですが、品種によっては黒に近い実をつけるものもあります。
 ラビットアイ系の中の、「フロリダ系」と呼ばれる品種たちが黒いのですが、ガーデンブルーもメンデイトもフロリダ系です。
 一般に、フロリダ系の黒い実は、「綺麗じゃない」という理由でマーケットの評価は低いようですが、とにかく糖度が高く、適当に収穫しても当たり外れが少ないので、僕は大好きです。
 見た目も大事だけれど、やっぱり美味しいかどうかが一番大切だと思う。
 そして、黒い実も、ブルーベリーのイメージから外れているだけで、僕はとても綺麗だと思います。 

<2009-7-19>
 夕方、ベランダに出てみると、虹が出ていました。
 こんなにしっかりした虹を見たのは久しぶりです。
 東京に住んでいても、空だけは、自然のままなんだなぁと思いました。

<2009-7-18>
 5年前に購入した iRiverプリズム というMP3プレーヤーですが、本体は問題なく動くのですが、USBケーブルが断線してしまったらしく、曲を入れることができなくなってしまいました。
 まだまだ元気に動いているし、コードだけ購入すれば再び使えるのですが、容量が 256MB しかなく、最近はMP3プレーヤーも安くなったので、思い切って買い換えることにしました。
 購入したのは、Transcend の T.sonic 850 8GB です。
 「次に買うときは iPod にしよう」と思っていたのですが、同じ容量で値段が3倍近く違うし、wma形式のファイルが再生できないので、今回は Transcend にしてみました。
 昨日届いたのですが、これ、予想以上にしっかりと作られた製品です。
 iPodを使ったことがないので、iPodでは当たり前なのかもしれませんが、まず、液晶が綺麗。表示領域が広いので、曲を選ぶのも楽です。音楽以外にも、動画プレーヤー、フォトビューア、ボイスレコーダー、FMラジオとしても使えます。これが6,000円弱で買えるなんて、本当に技術の進歩には驚かされます。
 今回、機種を選ぶにあたり、唯一条件があって、それは曲中レジュームができることでした。
 ラジオ番組を聴くにはこの機能は必須なのですが、安いMP3プレーヤーにはこれができないものが多いのです。調べてはいたものの、実際に問題なくレジュームするのを確認してホッとしました。
 ちなみに、MP860という新型も発売されています。
 こちらは更に液晶が大きく、変換せずともいろいろな動画を再生でき、スピーカー内臓、そしてMicroSDカードスロットがついており、カード内のファイルを再生することも可能です。
 初めはこちらにしようと思っていたのですが、サイズが一回り大きいことと、よくよく考えれば、動画はそんなに観ないし、スピーカーもカードスロットも必要ないので、旧型にしました。
 この二日間、自分の好きな音楽をすべて持ち歩けて、聴きたいときにすぐに聴けるというのは、すごいことだなぁと感動しながら、懐かしい曲をたくさん聴いています。 

<2009-7-17>
 恋をしている人を観ていると、二種類の人がいることに気がつきます。
 相手のことが好きな人と、恋をしている自分が好きな人です。
 100%の憶測で物を言いますが、男性は前者が多く、女性は後者が多いように思います。
 憶測なので、反論されても困ります。(^^;;

<2009-7-16>
 皆さんは、嘘をつくことと、約束を破ることでは、どちらが罪が重い行為だと思いますか?
 もしかしたら、嘘をつく方がずっと悪くて、約束を破ることは仕方のない場合もある、と思っていらっしゃるのではないでしょうか?
 現実的に、嘘をつかれると、嘘をついた側の予想を遥かに超えて相手は傷つきますが、約束が破られたときは、そういった種類の傷つき方ではなく、どこかに不可抗力というか、諦めに似た感情があるように思います。よって、嘘の方が罪が思いと感じるのだと思います。
 「子供のための哲学対話」(永井均著 講談社)に、以下のようなやりとりが掲載されていました。少し長いですが、引用してみます。

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ぼく:うそをついたり約束をやぶったりすることは、やっぱりいけないことだよね?

ペネトレ:いいや、うそと約束はちがうよ。ぼくらは、概して人はうそをつかないって前提のもとで幕らしているけど、自分からすすんで「わたしはうそをつきません」って約束した人なんかいない。それに対して、約束をした人は、その約束をわざわざ自分でしたんだ。しないこともできたのにだよ。だから、うそをつくことが約束をやぶることとおなじことになるのは、法廷で音一誓したような場合だけなんだ。

ぼく:でも、約束だってやぶらなくちゃならないことがあるだろ? もっと急を要する重大なことが起こったりして。

ペネトレ:そりゃあ、もちろんさ。でもね、いったんした約束にはね、約束をした時点にはなかったような重大さがつけ加わってくるんだよ。たとえば、A君とBさんが三時半に駅の改札口で会う約束をしたとするよ。約束した時点では、時刻は四時でもかまわなかったし、場所は駅のホームでもよかったんだ。会う理由自体も、たいしたものじゃなかった。でも、その約束をしたあとでは、A君とBさんはその約束があることを前提としてすべての予定を立てなくてはならなくなるんだ。だから、どんなにくだらない用件だったとしても、すでにしてしまった約束というのは、そのことで重みを持ってくるんだよ。もし自分ひとりなら、もっと重要な用事ができたら、すぐに予定を変えればいいんだけど、人との約束がある場合はそうはいかなくなるんだ。相手のほうはもうすでに、自分のもっとだいじな用件よりもその約束のほうを優先してくれているかもしれないんだからね。

ぼく:じゃあ、よほどのことがないかぎり、約束をやぶってはいけないんだね?

ペネトレ:約束をやぶること自体が目的の場合は別だけどね。ぼくらはいろんなことについて自分から約束をするけど、約束は守るという約束なんて、自分からすすんでは、したことがないからね。そこまでくると、うその場合とおなじになるね。

ぼく:???
-----

 知らず知らずのうちに、人間は相手に対して、多くの「こうあるべきだ」というのを押し付けあっているように思います。
 友達だったらこうしてくれるはずだ、とか、家族なのだからこうしてくれるのは当たり前だ、とか、相手の了承もなく、それを求めるし、それを相手が叶えてくれないと、「ひどい!」となってしまう。
 だけれども、基本的に、相手が約束してくれたこと以外は、何も期待するべきではないと僕は思います。
 自分は自分のために生きるし、相手は相手のために生きる。利害が一致すれば、一緒に何かすることもあるかもしれませんし、一致しないのであれば、我慢する必要はない。
 冷たく響くかもしれませんが、これが人間関係の大原則で、それを理解している人同士の間にしか、心地よい人間関係は生まれないと思います。
 約束というのは、利害が一致した上でのことですから、それを破ってしまうと、相手に与えるがっかり感は、取り返しのつかないものになると思います。

<2009-7-15>
 実家のノートパソコンを起動しようとしたら、HDDを認識しておらず、立ち上がらなくなっていました。
 耳をすますと、「カラカラカラ」という不吉な音が聴こえています。完全にHDDが壊れたらしい。
 新しいHDDと交換することになったのですが、せっかく交換するのだからと、HDDではなく、最近安くなったSSDにすることにしました。
 IDE接続のSSDで、そこそこ速く、手ごろな値段の製品を探したところ、CFDの「CSSD-PM32NL」という製品を見つけ、早速購入し、OSをインストールしました。
 噂どおり、SSDは高速で、今までの遅さが何だったのかと思うほど、あっという間に起動します。
 起動後も、すべての動きがキビキビしており、「一度SSDを使ったらHDDには戻れない」という言葉の意味を、ひしひしと実感しました。
 今まで色々なパソコンで、CPU交換、HDD交換、メモリ増設、ビデオカード交換等のチューンアップをしてきましたが、ここまで圧倒的に体感速度が変化したのは初めてです。
 ベンチマークを取るまでもなく、唖然とする変化です。SSDの費用対効果の高さは異常です。
 動作が高速なのもさることながら、アクセス音が全くしないのも、予想以上に心地が良いです。CPUの負荷が低く、FANが止まっているときは、全くの無音になります。
 SSDはまだまだ、発展途上の製品ですので、これから更に高速に、そして大容量になっていくことでしょう。
 僕のノートのHDDもSSDにしちゃおうかな。 

<2009-7-13>
 以前、「形容矛盾」について書いたことがありますが、似たような概念に「二重形容」というのがあります。
 ネットを検索していたら、形容矛盾に勝るとも劣らず、面白い二重形容続出だったのでご紹介します。

「ラッシュアワー時」 二重形容って英語が混ざっている確率が高いと思います
「幼少からの幼馴染」
「今年入った新人刑事」
「確定的に明らか」
「ネオ・ニューミュージック」
「マネー資本主義」
「入梅突入」 これ、結構ツボでした
「新しいニューモデル」 「昨年のニューモデル」という形容矛盾とセットでどうぞ!
「間際でドタキャン」
「ダントツで一位」
「別人の人物」
「一番最低」 頭の悪さが滲み出ていて大好きです
「無駄に浪費」
「古い老木」
「NPO団体」
「松坂牛の牛タン」
「強く強か」
「輪をかけて最悪」 じゃあ最初の状態は最悪じゃないですね
「幻のレアカード」
「一般的なパンピー」 パンが二つ入っちゃった
「あとで後悔」
「変な違和感」
「CDディスク」
「真のリアルファイト」
「もう一度再インストール」 ってことは、2回目? 3回目?
「ある意図を持った主張」
「年寄りの老婆心」
「その場で付け焼刃」
「巧妙でトリッキーな裏技」
「不安感を感じる」 「頭痛が痛い」式の二重形容ですね

 形容矛盾は「一生懸命努力した結果のアホさ加減」が面白いですが、二重形容は「持って生まれたアホさ加減」が面白いですね。
 ところで、雪男のオスって、やはり二重形容なんですかね。

<2009-7-12>
 MXTVで放送している「松嶋X町山 未公開映画を観るTV」で、以前、「スーパー・ハイ・ミー」という映画を放送していました。
 この映画は、マクドナルドの商品だけを食べ続けたらどうなるかを実験したドキュメンタリー映画「スーパーサイズミー」のマリファナ版で、マリファナを30日間吸い続けたらどうなるかを実験したドキュメンタリー映画です。
 映画の内容はさておき、自ら実験台となったダグは、定期的に医師の診断を受け、マリファナの影響を記録するのですが、そのなかで、精神的な影響がでていないか、カウンセリングを受けるシーンが出てきます。
 カウンセリングを受けた後のダグが、こんなことを言います。

「だからカウンセリングは嫌いなんだ。
 "セッションの前に一服したいのかな?"とかさ。
 それに言い方がまわりくどい。
 "私がハイになる時は君にもなって欲しいと君が思ってることに気づいてほしいのかな"
 ワケわかんないよ」

 僕はこのシーンを観て、思わず笑ってしまいました。
 エリクソンの影響なのかどうかは解りませんが、何でもかんでも許容語で話さなければいけないという風潮が、もしかしたらアメリカのセラピストの間ではあるのかもしれませんね。
 ……と言いつつ、全然僕も人のことは言えなくて、↑この文章も、「もしかしたら」「かもしれない」と、逃げまくりなわけです。(^^;;
 翻訳物の文献を読むと、"私がハイになる時は君にもなって欲しいと君が思ってることに気づいてほしいのかな"的な訳文がたくさん出てきて、翻訳が悪いのか、それとも原文を読んだアメリカ人も同じ違和感を覚えるのか、ダグの言っている通り、言い方の回りくどさが尋常ではありません。
 抵抗を回避するための許容語が、逆に「あんたいったい何が言いたいんだよ!」と相手を苛立たせてしまったら、本末転倒です。

 なんでこんなことを書いたかと言うと、先日、ある方に、「あなたのしゃべり方はフワフワしている!」と指摘されたからです。
 そのときは「フワフワしていたらまずいのかな?」と心の中で思ったりもしたのですが、冷静に考えると、僕も知らないうちに、まわりくどい「セラピスト語」を話すようになってしまったのかもしれません。(あ、また「かもしれません」って言っちゃった)

 まぁ、僕が「セラピスト語」を話す理由は、エリクソンの影響もありますが、それだけではなく、心のどこかで、人は理解しあえない、と認めているからだと思います。(もう、面倒なのでツッコミません・笑)
 理解しあえなくても、相手がそう思っていること自体は尊重したいし、否定したくない。
 同じく、自分の意見も、理解してくれなくていいから、そのままで許して欲しい。
 そうなってくると、許容語を多用するしかなくなるわけです。

 「太陽が地球の周りを回っているのだ!」と主張する人に出会ったら、何が何でも地球の方が回っていることを理解させたいとは、僕は思いません。
 同じ信念体系を相手が持っているのなら、説明して理解してもらえる可能性もありますが、そうでない場合は、どんな武器を持ってしても、相手の考えを変えることなどできないからです。もちろん、もっと生死に関わるような、重大な意見の相違でしたら、出来る限り説明しようとするかもしれませんが、太陽と地球のどちらが回っていようと、その人との関係で何かが変わるわけではないし、自分の信じていることを、ひとつひとつ科学的に証明しろと言われたら、その場ではほとんどできないのではないかと思う。
 ですから、そこで相手の意見を正すよりは、「ふうん、あなたは太陽が地球を回っているって思っているんだね」と、それを真実だと認めないまでも否定しない、このようなしゃべり方をするしかないのではないかと思うのです。

 などと書きながらも、僕のことを知っている人は、「そうでもねぇよ」って思ってるかもしれない。
 以前、「ゲシュタルトの祈り」について書いたことがありますが、できるだけそんな風に、そのままの相手を尊重したいという意思はあって、それが中途半端にでてきて、時々フワフワして見える、というのが本当のところでしょうか。

 「直喩と暗喩」で書いたように、あえてズバッと言うこともあるのですが、この辺りのバランス感覚は難しいですね。
 もちろん、相手との信頼関係が進んでいって、小さな違いなんて何でもないとお互いが感じられる状態だったり、心底共感している場合などは、セラピスト語なんて不要です。

 僕は、人と人とが解り合うことよりも、解り合えないままで楽しくやっていける事の方が、ずっと大切だと思っています。

 あれ、もしかして、こういった文章自体がフワフワしているのかな?

<2009-7-11>
 「家族や友人たちと 並木道を歩くように 曲がり角を曲るように 僕らは何処へ行くのだろうかと 何度も口に出してみたり 熱心に考え 深夜に恋人のことを思って 誰かのために祈るような そんな気にもなるのか なんて考えたりするけど
 鳥肌が止まりません……。

<2009-7-10>
 今年の下半期は、椿鬼奴がプチブレイクするような予感がします。

<2009-7-9>
 野球用語(なのかな?)で「置きに行く」というのがありますが、最近はお笑いでもこの表現を使いますね。
 本来の「置きに行く」は、ストライクゾーンに入れることだけを考えて球威のない球を投げることを指すようですが、お笑いでは、大爆笑を狙ってすべるよりも、確実に中笑いを狙うことを指すようです。
 この「置きに行く」という概念、僕は結構好きです。
 野球やお笑いだけでなく、仕事や恋愛、趣味の世界においても、絶えず「置きに行く」ような生き方の人もいれば、フォアボールを恐れずに全力投球の人もいますね。
 僕は接客業をしているからかもしれませんが、自分が接客される場合、「あぁ、この人は置きに行っているな」と感じることがたまにあります。
 もちろん、無愛想な接客をされるよりは、置きに行った接客をされる方が良いですが、それでも無難な接客は、つまらないなぁと思う。
 何となくですが、あと10年くらいすると、この「置きに行く」は、口語として定着するような気がします。
 「修学旅行が奈良・京都って、置きに行ってるよねー」とか、「いくら彼にふられたからって、○○君とつきあうのは置きに行きすぎじゃない?」なんていう会話が、中学校の教室から聞こえてくる日も、遠くないのかもしれません。

<2009-7-3>
 「ビジネスシーンで使いたい『新世紀エヴァンゲリオン』の名ゼリフランキング」一位は、「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」だそうです。
 僕が好きなのは、「冬月先生、後を頼みます」です。

<2009-7-1>
 オフコースに「老人のつぶやき」という曲があります。
 心が震えるような曲はたくさんありますが、これほど切なく、人生を考えてしまう曲はないのではないかと思います。
 初めて聴いたのは中学の頃なのですが、僕も死ぬ頃には、こんな風に人生を振り返るのだろうか、といつも思っていました。
 昔の知人とも離れ離れになって、連絡先も判らず、「もう死んでしまったかしら」なんて思うのかしら。
 老人になっても、「あの人に私の愛が伝えられなかった」ことを心残りに思うのかしら。
 もし僕が死んだら、お葬式にはこの曲を流して欲しいなぁと、中学の頃からずっと思っています。

<< ひとりごと目次

<2009-6-29>
 何だか最近、アクセス数が多いなぁと思ったら、以前書いた「マイケルジャクソンの木登り」というエッセイが、yahooで「マイケルジャクソン 特番」と検索すると上位に表示されるからみたいです。
 特番の情報を期待していらした皆様、ごめんなさい。

<2009-6-28>
 こんな名前をつけられたら、もう太刀打ちできないなぁって感じることがあって、それを一番強く感じたのは、「メリル・ストリープ」です。
 メリル・ストリープ。
 彼女の外見とか、女優としての才能とかはともかく、これほど甘い名前って、他にありますか?
 メリル・ストリープと聞いて、何ともいえない、甘さを感じるのは、恐らく無意識的に喚起される、「メープルシロップ」の影響だと勝手に思っています。
 「小池栄子」って言われて、甘さは微塵も感じないもの。

<2009-6-27>
  

 江ノ電に乗って、鎌倉と江ノ島に行ってきました。
 紫陽花の季節だからか、土曜日だからか判りませんが、江ノ電も江ノ島も鎌倉も、観光客で溢れていました。
 海では、海開き前だと言うのに、すでに大勢の人たちが日焼けをしたり、子供たちが水遊びをしたりしていました。
 僕も足だけ海に入ってみましたが、思ったより海水は温かく、とても気持ちが良かったです。
 海に行ったの、何年ぶりだろう? もしかしたら、10年ぶりくらいかもしれません。

<2009-6-25>
 今まで宣伝していませんでしたが、来月より、催眠研究会の参加者をこちらのページでも募集することにしました。
 催眠研究会(Derren Brown研究会)は、毎月1回、当カウンセリングルームにてひっそりと開催しております。
 お茶を飲みながら、プロジェクターでDerrenの動画や、催眠関連の動画を観て、ここでは何が行なわれているのか、皆さんでお話しする、気楽な会です。
 次回は7月26日(日)です。
 どなたの参加も大歓迎! ご興味のある方はお気軽にご参加ください。
 詳しくは、こちらのページをご覧下さい。

<2009-6-22>
 先日、カウンセリングルームで「交渉人」という映画を数人の方と一緒に観ました。
 同僚の警官に、殺人と横領の濡れ衣を着せられ、無実を証明するために人質をとって立てこもった主人公のダニーが、面識のない交渉人のクリスに向かって言った台詞が、とても印象的でした。

 「仲間に裏切られたら、信用できるのは他人だけだ」

 苦しくて辛いときに、信用できる他人が近くにいたら、本当に救われるでしょうね。
 同じ中にいる人間には決して理解されないことも、何のしがらみもないが故、すっと理解し、共感し、時には力になってくれる……。
 友達になることは素敵なことですが、友達じゃないことも、同じ様に素敵なことだと思います。 

<2009-6-20>
 納豆と豆腐は、名前が逆の方が良かったのじゃないかと思います。
 納豆は豆が腐っているし、豆腐は箱に納まった豆なのですから。
 関係ないけど、これを書きながら「豆」という文字を何度も見つめていたら、ゲシュタルト崩壊して、ハングルに見えてきました。

<2009-6-18>
 以前ご紹介したとおり、ゆず(雑種猫・1歳・メス)には、「猫マフラー」という得意技があります。
 写真のように、持ち上げて首の周りに巻きつけると、そのままダラーンとマフラーのように体重をあずけてくれます。
 マロンに同じ事をしたら、体を緊張させたまま降りようとモゾモゾするので、どの猫でもできる技じゃないと勝手に思っているのですが、猫を飼っていらっしゃる皆様、いかがでしょうか。
 ゆずは脱力系猫で、抱っこしていても、膝の上でも、力の抜き方が半端なく、すごく重たく感じます。
 安心して力を抜いているかと思えば、何もしていないのに逃げ惑うこともあり、未だに僕のことを飼い主として認識しているのか、判らなくなるときがあります。

<2009-6-17>
 「すると川上の方から、大きな桃が、ドンブラコ、ドンブラコと流れてきました」
 桃太郎の中で、何の説明もなく「ドンブラコ」という言葉が使われていますが、この「ドンブラコ」、桃太郎以外で聞いたことがありません。
 この物語のためだけに、擬声語とはいえ、単語が存在していると言うのは、非常に贅沢な気がします。
 いや、それとも、僕らはもっと率先して、この「ドンブラコ」を日常生活に使っていくべきなのかもしれません。
 問題は、死ぬまでに一度でも、川上から大きな物体が流れてくるという状況に直面するかどうか、ですね。
 僕はいつか、誰かに「手遅れだよ」って言われたときに、佐野元春の「SOMEDAY」のように、口笛で答えてやろうと狙っているのですが、なかなかそういう状況は訪れません。
 口笛とドンブラコ……。
 ふたつの宿題を背負って、今日も生きています。 

<2009-6-6>
 先日、サンドイッチを食べながらホットコーヒーを飲んでいて、「あれ? これ、何か知ってる!」と思いました。
 僕は普段、コーヒーをあまり飲まないし、特に食事中に飲むことはないのですが、この組み合わせに、不思議な懐かしさを感じたのです。
 何でこんな懐かしい気持ちがするのかなぁと思ったら、子供の頃に読んだ、「サンタおじさんのいねむり」という絵本に、サンタおじさんがコーヒーを飲み、サンドイッチを食べるシーンが出てきたからだと気がつきました。
 僕はこの絵本が大好きで、子供の頃は何度も何度も読み返しました。
 Amazon で検索したら、今でも売っていたので、買って読み直してみたのですが、何であんなに好きだったのか、理由が判った気がします。
 この絵本は、非常にうまく子供の欲望を刺激しているのです。
 まずは色とりどりに包装されたプレゼントの山。
 美味しそうなサンドイッチ。
 寒い中で湯気を立てているコーヒー。
 そして雪。
 森の動物たち。
 クリスマスの夜……。
 「あなたはおなかがいっぱいになると、ねむくなるから、まちにつくまで サンドイッチ はたべてはだめですよ」というおくさんの忠告を、大人のサンタおじさんが破ってしまうというのも、子供心にスリリングでした。
 絵本って、だいたいは道徳的で、悪いことは悪役しかしないのだけれど、この絵本では主人公が、ついつい誘惑に負けてしまうところも人間的だったし、それが大惨事に繋がるわけでもなく、動物たちの優しさで全てがうまく行くのも、たまらなく好きだったのだと思います。
 村上春樹の「中国行きのスロウ・ボート」という短編集に、「午後の最後の芝生」という作品があります。
 主人公は、夏の暑い中、芝刈りのアルバイトをしているのだけれど、仕事に行くときに、ポットにアイスコーヒーを入れて持っていくんです。
 暑い日にポットの中の冷たいコーヒーを飲むのと、寒い雪の中でポットの温かいコーヒーを飲むのは、真逆ですが、もしかしたらこれは、村上春樹流の「サンタおじさんのいねむり」に対するオマージュなのかもしれない、なんて思いました。
 いや、そんなわけないんだけど。

<2009-6-3>
 使っていた電動歯ブラシが壊れてしまったので、新型に買い換えました。
 今回購入したのは、東レの超音波歯ブラシ「ウルティマUT-600」です。
 前回もウルティマの超音波歯ブラシを使っていたのですが、このシリーズを使うと、もう他の歯ブラシは使えません。
 電動歯ブラシにありがちな、力で磨くタイプの歯ブラシではなく、メインは超音波ですので、磨きすぎる心配もなく、それでいてしっかり歯垢が分解されて、歯がツルツルになります。
 この歯ブラシを使い始めてから、歯医者の検診でも、「よく磨けていますね」といつも褒められます。
 こちらの動画をご覧下さい。きっと東レに洗脳されるはずです。(^^)
 残念なことに、東レは現在発売されている商品を最後に、この業界から撤退するらしく、大手メーカーでは東レの他に超音波歯ブラシを作っているメーカーはないので(ライオンも出しているようですが、恐らく東レのOEMです)、今回購入した歯ブラシが壊れたら、残りの人生、どうやって歯を守っていけば良いのだろうと、今、真剣に悩んでいます。
 同じ様に、今後の歯ブラシライフに不安を抱えている人が、現在進行形で日本に何人いるかは判りませんが、ウルティマユーザーが東レの撤退を知ったら、僕のように衝撃を受ける人は多いと思います。
 とりあえず、ヨドバシカメラで交換用の替えブラシを、在庫ありったけ買ってきました。(^^;;

<2009-6-2>

 今年もラズベリーが赤くなり始めました。
 最近、雨が多かったせいか、生で食べると味はいまひとつだったので、ジャムにしてみました。程よい酸味でとても美味しかったです。
 ラズベリーは、前の年の春から成長した木に実をつけ、収穫した年の秋にかけて枯れていきます。
 よって、毎年春には地面から竹の子のように新しい木が生えてきます。
 世話はほとんど必要なく、唯一の作業が、収穫後の木を根元からばっさり切ることです。
 しばらくはラズベリー漬けの日々になりそう。
 もう一枚は、ブルーベリーの幼果です。これはバルドウィンという品種です。
 ブルーベリーは収穫まで、あと2ヶ月くらいはかかりそうです。はやく食べたい!

<< ひとりごと目次

<2009-5-31>
 「リーズナブル」という言葉は激しく誤解されている、という話を以前書きましたが、同じ様に誤解されている言葉に、「ナイーブ」があると思います。
 日本語では、「傷つきやすくて繊細」みたいな意味で使われることが多いですが、本来の英語の Naive は、「単純で信じやすくて考えが甘くて世間知らずで騙されやすい」みたいな意味があります。
 僕はこの、「ナイーブ」という概念が大好きで、「こういった考え方はナイーブ過ぎるかもしれませんが……」などと会話の中でも使ってしまいます。そして大抵の相手は、ナイーブを「傷つきやすくて繊細」という意味でとらえるので、僕がそう言うと、理解しかねる、というような表情を一瞬浮かべます。
 だったら最初から「こういった考え方は単純すぎるかもしれませんが」とか、「甘い考えかもしれませんが」と言えば良いのだけれど、率先して、本来的な意味で「ナイーブ」を使い続ければ、いつか正確なナイーブさを、日本人も理解するのではないかと期待して、ついつい使ってしまうのは、僕がナイーブだからでしょうか。(^^;
 「ナイーブ」と同じ様に、「ビリーフシステム」という概念も好きです。日本語に訳すと、「信念体系」。
 どんな風に考えているか、感じているか、といったピンポイントの視点ではなく、どんなビリーフシステムを持っているのかという視点に立つと、細かい違いはどうでもよくなって、「仕方がないよね、ビリーフシステムが違うのだから」と、理解しあえないまでも許しあえるのではないかと期待しているのもまた、僕がナイーブだからかもしれません。(^^;;

<2009-5-29>
 毎月、月末に開催している、Derren Brown研究会の準備のため、彼の動画を見直しています。
 パフォーマンスのひとつ、「Chocolate Rolls」をずっと見ているのですが、まったく理屈が解りません。(^^;;
 恐らくこれは心理誘導とは関係なく、完全なマジックで、素人の僕がちょろっと見て、トリックが解るはずもないのですが、それにしても不思議です。
 Derren の主張通り、本当にサクラがいないのであれば、前回の研究会で見た、あの「SYSTEM」を使っているのでしょうか?
 一箇所、不自然だなぁと思ったのは、最初のチョコレートロールを取るシーンです。
 ひとり目は、左から2番目をとっています。その後、アングルが変わって誰がどれを取っているのか見えなくなるのですが、最後の人が取るシーンで、何故かないはずの左から2番目を取っているように見えるのです。しかも、場所が微妙に下にずれています。
 参加者が取っていくうちにずれていったことも考えられますが、最初の二人の取り方を見ると、それほどずれるとは思えません。トリックがあったとしたら、ここでしょうか。
 ただ、Derrenはこんなこともして見せているのですから、これくらいのことは何でもないのかもしれませんね。

 もし、Derren Brown研究会に参加してみたい!、という方がいらっしゃいましたら、「お問い合わせ」より、その旨、ご連絡下さい。
 研究会では、僕が通訳しますので、英語が苦手でも大丈夫です。
 催眠に興味のある方、初めての方、初心者の方、大歓迎です!

日 時 : 2009年5月31日(日)
時 間 : 13:30〜19:00 (開場 13:00)
場 所 : 当カウンセリングルーム
参加費 : 1,000円

 お申し込みは、31日の朝10時くらいまでならOKです!

<2009-5-26>
 今週末、「催眠体験会」を開催します。
 ゆったり、人工的なお昼寝をしにいらしてください。

<2009-5-18>
 「幸せなら態度で示そうよ」って、脅迫めいていてちょっと怖いです。
 自然に態度に出てこないのなら、幸せじゃないか、それとも、そういうタイプの人間ではないのですから、そっとしておいてあげて下さい。

<2009-5-14>
 調布の「千年ラーメン」に行ってきました。
 以前、近くに住んでいたときは、結構な頻度で行っていたのですが、引っ越してからは足が遠のき、それでも半年に一度くらいは行っています。
 有名店というわけでもなく、店内はいつもガラガラ。
 ネットの口コミ情報では、「不味い」という人が続出していますが、僕はここのラーメン、大好きです。
 店内に「3回食べてみてください。クセになります」みたいなことが書いてあって、僕も初めて食べたときは美味しいとは思わなかったのですが、確かに3回目くらいから美味しさが解ってきて、しばらくは中毒のように通っていました。
 一風堂や博多天神のような、極細めんの豚骨ラーメンで、ラーメン500円、替え玉50円、ニンニク20円。
 ニンニクを入れると、途端に味がまろやかになります。
 10年くらい前までは、ラーメンはそんなに好きではなくて、ラーメン通の人の話を聞いたり、ラーメンの特番を観たりしても、いまいちピンとこなかったのですが、ここのラーメンに出逢ってから、ラーメンが好きになりました。
 ネットで調べたりして、いろいろなお店に行き、いろいろなタイプのラーメンを食べましたが、最近思ったのは、他のラーメンと、豚骨ラーメンは別物だということです。それこそ、ラーメンと蕎麦くらい、違う食べ物のような気がします。
 そして、僕はラーメンが好きなのではなく、豚骨ラーメンが好きなのだと思います。

<2009-5-3>
 僕はデフラグが大好きです。
 Vistaのデフラグは、進行状況がグラフィカルに表示されないので好きではないのですが、Defraggler というフリーソフトを見つけてからは、必要以上にデフラグしています。
 このソフトは、断片化しているファイルだけを高速でデフラグできるし、空き容量の断片化を実行するとHDDの中もきれいになるので、とても気持ちが良いです。
 デフラグが好きっていう人、意外に多い気がします。
 多分、テトリスが好きな人は、デフラグが好きなんじゃないかな。

<< ひとりごと目次
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